第7話 講和(1)
高秋の空に、甲高い鳥の鳴き声が響く。
真白の天幕に、黒い十字の影が落ちた。両翼を広げた鳶の影は天幕から城砦の広場へ滑るように移り、堅牢な城壁を軽々と越えていった。
秋は木々の枝先から宿り、草葉を黄や赤に染め、森を錦に織りあげる。作物の収穫も終わり、果実酒を仕込んで家畜を屠れば冬はもう目前だ。鳶も来る寒気に備えて南へ渡る準備をしているころだろう。
ガレン城砦の広場には大天幕が張られており、その周囲をカールステット侯爵の兵が守っていた。中ではスペイギールや四晶家の各家長、そしてスペイギールの付き人としてセインとイグナーツが顔を並べている。
櫓からは、アストルクスからの行列が平原を這い進んでくる様子が望めた。
長い隊列は蛇のようにうねりながら丘を越え、クレンマー伯爵領との地境へ至る。
やがて巨大な蛇の頭が、城砦の跳ね橋へと差しかかった。
開け放たれた城門を、銀の鎧に身を固めた騎馬兵が威高げにくぐり抜ける。
露払いの騎馬隊のあとは旗持ちの歩兵が続き、そのうしろを二頭牽きの豪奢な馬車が騎馬兵に守られながら進む。
天幕の目の前まで寄せられると、馬車はゆっくりと止まった。
外で待機していた兵がスペイギールに到着を報告する。
軽くうなずくと、スペイギールはぴんと背を伸ばした。
天幕の入り口に垂らされた布が持ちあげられる。
侯爵に先導されて、二人の男が幕内へ足を踏み入れた。
従者を伴って現れた男の片方は、純白の法衣の上に、スペイギールやエオルゼたちと同じ群青色のローブをまとっていた。ただし、彼のローブは金糸で刺繍が施されていて、首からは金の鎖に吊した手のひら大の星護符を提げている。
名乗りをあげられなくても、この居丈高で敵愾心に満ちた男がダライアス・エウル=ヘリオスだと、エオルゼには一目でわかった。
相手も、四晶家を左右に従える少年がスペイギールだと理解したのだろう。頭の先からつま先まで、舐めるような視線で検分してくる。
一方、真紅のローブに身を包んだ男は、スペイギールを一瞥しただけで特に興味を惹かれた様子ではなかった。
切れ長の双眸は氷柱のようにひやりとして鋭く、眉間から高く聳える鼻梁と薄いくちびる、尖ったおとがいと、冷徹で残忍な印象を抱かせる。この男がジャン=ジャック国王であるのは間違いなかった。
ふたりともカールステット侯爵と同じ、五十代と思われた。
その中でジャン=ジャック王がもっとも高圧的な存在感を放っているのは、やはりその地位ゆえだろうか。
国王と総大司教のあとに続いた近衛兵は、胸にル・マヌンの国章が刻まれた胴鎧とマントで正装していた。
調印式のための礼装だと知っていても、鎧った近衛兵が十人近く並べば物騒がしい。
近衛兵のひとりが前に進み出て、国王と総大司教の名乗りを上げた。
スペイギールの隣に並んだカールステット侯爵がそれに応じる。
「今日の佳き日を迎えられたことを、
スペイギールは事前に教えられたあいさつを、昂然とした口ぶりで述べた。
机を挟んで向かいあったダライアスは、一転して愛想よく微笑む。
「我々こそ感謝申しあげる、スペイギール殿。この日を迎えられたのも、貴公の英断あってこそ。今日は歴史に残る佳き一日となることでしょう」
国王は総大司教の言葉に軽くうなずいただけだった。その氷のような表情を溶かす兆しはない。
ダライアスも機嫌よく笑っているように見えて、弧を描いた目の奥は冷めている。勇んでいるのはスペイギールだけのようだ。
かたわらで進行を見守るエオルゼの胸に、不意に黒い不安が去来した。
諸手を挙げて喜べとは言わないが、自分たちから持ちこんだ講和が無事結ばれようとしているのに、彼らの反応は芳しくない。
ヘリオス側が掴めていない事情で渋々と和平に至るしかなかったのか、それともただ単に表面には出していないだけなのか。
国王が片手を振って背後の近衛兵へ合図すると、ひとりの兵が象嵌の箱を手に進み出た。真鍮に金銀の箔で蔦花紋様を描いた美しい品だ。
蓋を開けると、中には一枚の羊皮紙が収められていた。
すでに事前に交わした講和条件は記されており、あとは双方が同意の下に署名するだけになっていた。
兵が羊皮紙を箱から取り出す。
そのとき、腕を動かした拍子に揺れたマントの陰に、エオルゼは長剣の柄を見た。思わぬ事態に自分の目を疑う。
調印式への武器の携行は禁止されていた。そう約束したはずだ。
自分の勘違いであることを祈りながら、エオルゼはもう一度兵の腰のあたりを観察した。
長く垂らしたマントでうまく隠しているが、ちょうどエオルゼの位置からだと、彼が腕を動かしたときに横腹から背中をうかがうことができる。背中側に垂直に帯びて正面からは見えにくいようにしているが、たしかにあれは長剣の柄頭だ。
エオルゼの頭の中で、警鐘がけたたましく鳴らされる。まるで頭を殴られたような衝撃とともに。
「セイン」
隣で待機するセインの袖を、エオルゼは引っぱった。
緊張でぼうっとしていたセインは、我に返って姉を見下ろした。
「ゆっくり前を向いて、そのまま聞きなさい」
枯れ葉が擦れあう音ほどの、小さな声だった。しかし、いつになく張りつめた声音に、セインは指示どおりに視線を前方へ戻した。
「短剣は持っているわね。けっしてスペイギール様のおそばを離れないで。わたしがいいと言うまで、誰に止められてもギール様の近くにいなさい。返事はいいわ、わかったわね」
近衛兵が、羊皮紙に綴られた条文を読みあげる。
それが終われば、スペイギールはひとりで進み出て署名をしなければならない。
せいぜい付き添えるのは従者のセインとイグナーツ、あとはカールステット侯爵ぐらいだ。
エオルゼからスペイギールまでの距離は、目測で三、四歩。
動けば必ず相手の注目を浴びる。こっそり耳打ちするのは不可能だった。
何事も無ければいい――エオルゼの杞憂ならば。
こちらが万が一に備えて短剣を隠し持っているように、あちらも警戒しているだけならば。
国王側に気づかれないようにスペイギールやラズウェーンの様子をうかがっていると、ラズウェーンの口元が二言三言、動いたように見えた。
それにスペイギールが短く返事をする。
(ラズウェーン様も気づいた……?)
エオルゼは期待したが、そのわりにはスペイギールの昂揚が収まっていない。
やりとりの内容はエオルゼには拾えず、二人の会話もそれきりだった。
条文の読みあげが終わり、合図とともにスペイギールがセインとイグナーツを連れて机へ近づく。
従者の二人は机上に並べられた鵞ペンの具合を確認すると、セピア色のインクに浸した。ル・マヌン側の署名が終わるのをそのまま待つ。
渡された条約文の内容にカールステット侯爵といま一度目を通してから、スペイギールは差し出された鵞ペンを執った。
ペン先がためらいなく紙面に接触し、踊るように流線を描いていく。
ペンが止まるまで、ふた呼吸もしないほどの短い時間だった。
「鍵はどちらに?」
まだペンを置いてもいないというのに、ダライアス総大司教が尋ねてきた。
スペイギールはぴくりと手を止め、ダライアスを睨めつけるように睫毛を上げたが、何も答えずにペンを置いた。
「ラズウェーン」
ラズウェーンが静かに進み出る。
そして腰袋から小箱を取り出すと、恭しくスペイギールに差し出した。
渡していいのだろうか――エオルゼはスペイギールが小箱を受け取るのを凝視しながら逡巡する。
ラズウェーンは、近衛兵が長剣を隠し持っていることに気づいていないのかもしれない。
エオルゼだけが把握していて、そしてル・マヌン側が陰謀を企んでいるのなら、止められるのはエオルゼだけだ。
しかし、もしここで自分が妨害したことによって調印に支障を来したら、スペイギールの今までの苦労は水泡に帰してしまう。それだけは、エオルゼがもっともしてはならない。
木箱は、スペイギールの両手に優に収まる大きさだった。
彼はぴったりと合わさった蓋を器用にはずして、中身をあらわにした。
「これが、墓所の鍵です」
緋色の絹布にくるまれた鍵は、何十年とその役目を果たさずに隠されてきたというのに、わずかの曇りもなくその身を横たえていた。薄暗い天幕の中でも輝きを失わない金の鍵に、ダライアスも思わず感嘆の息をこぼす。
「たしかに――話に聞くとおりの品です」
ダライアスはジャン=ジャック王にうなずいてみせると、スペイギールから箱を受け取り、近衛兵に預けた。
象嵌細工の箱を押し戴いた兵は礼をすると、静かに天幕を出ていく。
「それでは、スペイギール殿――」
ダライアスが三日月のように目を細める。
直後、外でわあっと喚声が上がった。それを合図に、近衛兵が一斉に外套の下から長剣を抜き、鈍色の切っ先をスペイギールへ向けた。
「セインっ!!」
エオルゼの号令にセインとイグナーツは素早く短剣をかまえ、スペイギールを背中に庇った。
イグナーツにもエオルゼの命令を伝えていたのだろう、二人の反応は誰よりも早かった。
エオルゼも短剣の鞘を払い、スペイギールの周囲を固める。
「いったい何のつもりだ!?」
ぐるりを四晶家に守られたスペイギールが怒声を発した。
すると、近衛兵を従えた総大司教の、雷のような一喝が轟いた。
「穢らわしい罪人が、頭が高い!!」
鼓膜が痺れるほどの大音声だった。怒りに顔を赤くしたスペイギールも、一瞬気圧される。
外の喚声はすでに干戈を交える音へ激化している。さきほどの喚声は、鬨の声だったのだ。
「どういうつもりだ、ダライアス。おまえたちから持ちかけた和議だろう」
ラズウェーンが地を這うような声音で問い質す。
彼の威圧的な態度にダライアスは怯みかけたが、すぐに嗜虐的な笑みを顔に描いた。
「ラズウェーン、口を慎め。おまえの面前におわすのは、ル・マヌン国王陛下と、主に愛されたエウル=ヘリオスの当主ぞ。真の主君に跪くがよい」
「貴様の名など聞いてはおらん。和議は偽りだったのか」
「言わずもがな。誰がおまえたちのような卑賤な者どもとの和議を望むものか」
ダライアスは愉快げにせせら笑う。
「愚かな四晶家よ。ヘリオスの名を騙り、主を貶めし背徳者に最後まで従うか。真実を見誤り、母なる主の御心に背くとは、なんと嘆かわしいことよ。真の末裔である我らに刃を向け国を混乱に陥れた罪は、おまえたちの血をもってしても贖えはしまい。卑しき名は罪人として語り継がれ、その汚れた肉体は獣さえ厭い、罪深き魂は未来永劫もがき苦しむだろう」
「この裏切り者! 騙したのか!」
スペイギールの罵言に、ダライアスは煩わしそうに眉根を寄せる。
「裏切る? ふん、片腹痛いわ。主に仇なす者に荷担するいわれなどない。幼稚で驕慢なスペイギールよ、せめてもの償いとして、今この場で潔く死ぬがいい」
「……っ、ふざけるな!!」
絶叫が迸る。カッと眦を決し、髪を逆立てたスペイギールが、セインを押しのけて飛び出す。
エオルゼが腕を伸ばし、セインがマントの裾を掴もうとしたが、机上に飛び乗ったスペイギールにはもう届かない。
腰に差した短剣を抜いて突進するスペイギールを、近衛兵の長剣が襲う。
「スペイギール様!」
バルクとダシュナが後を追って机に上る。
スペイギールは敵の凶刃を避けることなく、まっすぐにダライアスへ襲いかかった。
ひ、と引き攣った悲鳴を上げる男に手を伸ばし、胸ぐらを掴む。
「――誰が背徳者だ、このクソじじい」
スペイギールの短剣がダライアスの喉元へ突きつけられる。
腕を引くとともに、きらびやかな星護符の鎖がぶつりと引きちぎられた。鎖に通された真珠が雨粒のようにぱらぱらと床に散る。
「何が総大司教だ、何が真の末裔だ。おまえこそ卑しき罪人だ。女神と始祖の名を利用して、その権威を
スペイギールは奪い取った星護符を地面に叩きつけると、革靴の踵で強く踏みつけた。
満月のような黄金の護符に罅が入り、嵌めこまれた金剛石が土に輝きを失う。
女神シェリカの信者にとって、おのれの星護符は信仰の証だ。聖職者にとっては命にも等しい。
それを、仮にも聖職者の一員であるスペイギールが靴で踏んだという蛮行に、ダライアスは言葉を失った。
少年の足の下で土にまみれるおのれの星護符を呆然と見つめ――やがて
「――せ。殺せぇっ!!」
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