第6話 小さな太陽
どうしたの、と問われ、エオルゼは訝しげにセインへ視線をやった。
獣脂の臭いがつんと鼻を突く。馴染みは深いが、なかなか慣れない独特の匂いだ。
普段から貴人の滞在が少ないガレン城砦には、高価な蜜蝋製の蝋燭の備蓄は数少ない。礼拝堂やスペイギールに回す分で精一杯だ。
黒く燃え残った灯芯を呑みこむように炎が大きく揺れる。「何?」と逆に問いかけながら、エオルゼは灯芯を切った。
「浮かない顔をしてる。何かあった?」
セインが自分の眉間を指でつつく。その動作で、自分が眉根を寄せていたとエオルゼは知る。
「何も無いわ。……少し緊張してるのかも」
「姉さんも緊張するんだ?」
「するわよ。こんなこと初めてだもの」
淡く微笑んでから、エオルゼは寝台に腰を下ろした。敷布の下で、キシキシと麦わらが擦れる音がする。
バルナベがアストルクスからの返答をもたらしてからは、すべてが一瞬の出来事だった。
予想外の展開に修道院には衝撃が走った。
カールステット侯爵もエングラー大司教も、そして四晶家も動揺したが、スペイギールだけは諸手を挙げて喜んだ。
こちらの要求をすべて承諾すると言うのなら、いまさら撥ねのける道理は無い。それこそ戦を招いてしまう。
王都と会談の日程を詰めるかたわら、スペイギールは和平案に反対していた支援者たちに今一度連絡を取り、今回の件を報告した。
やはり抵抗や反撥を覚える者が多かったが、死罪にならず日々の生活も保障されるならばと、渋々肯んずる者もいた。
夏至祭以来、一連の騒動に不安を抱いていたゲルツハルト村の人々にも、スペイギールから国王との和平が成立することを伝えた。
興奮するスペイギールに比べて、彼らの反応はあまり芳しくなかった。
やはり、ヘリオスの膝元で生活を支えてきた村人からすれば、易々とは受け入れがたい現実だ。スペイギールたちは国外へ追放されるが命は奪われないし、領主や修道院長が変わっても生活が変わるわけではないと説明すると、彼らの憂えた表情はようやく晴れ始めたのだった。
離れて暮らすアルトゥールや、エオルゼの母の元にも報せは遣った。
あと残された役目は、明日の調印式に出席することだけだ。
(何もかも順調なはずなのに。どうして胸がざわつくの……)
きっと、順調すぎるせい。いいことばかり続いているせい。
そう自分自身に言い聞かせる。
何も怯えることはない。もう人を殺さなくても、命を狙われなくてもいいのだ。
故郷は離れなければならないが、国境を越えれば平穏な生活が待っている。スペイギールや、セインだって、これから明るい未来が約束される。
――ならば、エルーの家名を捨てることに罪悪感を覚えているのだろうか?
ちがう、とは言えなかった。
女神からその生を授けられ、数千年に渡り連綿と繋いできた血統を、エオルゼで終わらせるのだ。罪と呼べるかもしれない。
けれども、正統な継承者から地位を奪っただけでなく、血統を根絶しようと企てたエウル=ヘリオスに従属する方がよほど重罪だ。ダライアスの権威に色を添えるための犬に成り下がるなんて、考えたくもない。
「セイン」
明日の支度をしていたセインが振り返る。
彼もスペイギールの従者として出席する予定だ。
「あなたは、エルーの名を捨てることに抵抗はない?」
エオルゼと同じ色をした瞳が丸くなる。
セインは灯火に赤さを増した髪をぐしゃぐしゃと掻いてから、エオルゼの隣に腰を下ろした。
「姉さん。おれはいいって言っただろ」
「聞いたわ。けれど、わたしが勝手に決めたようなものだもの。本来はあなたが継ぐべき家なのに」
「姉さん」
はぁ、と呆れたようにセインはため息を吐いた。
「嫌なら嫌って言うよ。そこまで遠慮してない」
「……それならいいの」
うなずいたものの、エオルゼの顔から憂いは消えない。
セインは左右に首を傾げながら唸ると、さらに言葉をつけたした。
「おれはギール様の考えは正しいと思ってるよ。和平が結ばれるのはいいことだし、そのために家名を捨てて国を出ないとならないことにも抵抗ない。元々おれは村育ちだし、家のことは全部姉さんに押しつけてたから、あんまり四晶家の一員だって自覚もないしさ。元の生活に戻るだけなんだから、何も問題ないよ」
物憂げな姉を気遣ってくれているのだろう。弟の心遣いがうれしくて、エオルゼは目を細める。
「そうね。わたしも、ギール様の選択は正しいと思ってる。ほかの誰にもできない決断だわ」
「ギール様もおれと一緒で、あんまりヘリオスって感じじゃないからね。だいぶ板についてきたけど、やっぱり野良仕事をしてる方が似合ってるよ」
こら、と窘めたものの、エオルゼも同意見だ。スペイギールは田畑を耕していた方がずっと輝いている。
「水をもらってくるわ。ほかに欲しいものはない?」
腰を上げ、机の上のすっかり軽くなった水差しを取る。するとセインが近づいてきて、エオルゼの手から水差しを奪おうとした。
「おれが行くよ。姉さんは明日の支度をしていて」
「わたしはもう終わったわ。それに外の空気を吸いたいの。すぐ戻るわ」
先に寝支度をしているように言いつけて、エオルゼは部屋を出た。
居住棟の上層にある部屋から水を汲みに降りるのはなかなか手間がかかるが、気分を変えるにはちょうどいい。
暗灰色の石壁はひやりと冷たく、
エオルゼが通ると直立していた炎が陽炎のように揺れる。
下層へ続く階段は薄闇へ続いていて、セインのおかげで消えかけた不安が誘われるように頭をもたげる。
セインは家名を捨ててもいいと言った。
ラズウェーンやダシュナやバルクもアストルクスへは向かわず、スペイギールの供をする。
四晶家の意志は王都へ伝えられ、了承の返事も得ている。
明日、スペイギールが文書に署名すれば、すべてが終わる。
何も不安がる要素は無い。なのに、心臓をそうっと逆撫でられているような気味の悪さが拭いきれない。
エオルゼは階段の途中で足を止め、琥珀色に揺らめく瞳で暗闇を凝視した。
夜の影は濃厚で、壁龕に置かれた蝋燭では払いのけることはできない。ともすれば、小さな灯火は闇に呑みこまれてしまいそうだった。
それでも、その頼りない火灯りでも、無ければエオルゼは歩けない。
一歩一歩を踏み外さないように慎重に階段を下りていく。
厨房の水甕から水を汲み、同じ道を引き返す。
階段へ戻ったところで、廊下の奥から声が漏れ聞こえてきた。
おそらく不寝番の兵だろう。
しかし、よく耳を澄ますと、なにやら言い争いをしている。しかも聞き慣れた声だ。
壁に反響する怒声を頼りに進むと、最奥にある物置部屋の前で、二つの影が口論をしていた。
すでに寝静まろうとしている時刻に物置へ寄る人もおらず、ぐずぐずに溶けた蝋の上で灯りが弱々しく灯芯を焦がしているだけで、離れた場所からでは顔も確かめられない。
近づくにつれて明らかになったのは、壁を背にするスペイギールと、彼を糾弾するイグナーツの姿だった。
「何をしているの」
エオルゼの叱責がイグナーツの背を打った。驚いた少年が振り向く。
突然現れた第三者の存在に、彼らはそれぞれ正反対の表情を描いた。エオルゼが二人の間に割って入れば、スペイギールは安堵に息を吐き、イグナーツは苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
「スペイギール様を指差して、いったい何をしていたの?」
イグナーツの利発な顔がますます崩れていく。
白を切るのは無理だと判断したのだろう、彼はキッと目を吊りあげて、エオルゼに尋ねた。
「エオルゼ様はスペイギール様とともに国を出ると聞きましたが、本当にそれでよいのですか」
瞋恚に燃える双眸に睨めつけられる。
常に折り目正しいイグナーツが、エルー家の長であるエオルゼに反論するのは初めてだったが、驚きは胸の内に収めて冷静に応じた。
「ええ、わたしに異論はありません。スペイギール様のご英断に従うわ」
エオルゼの淡泊な反応に呼応するように、イグナーツの憤懣は膨れあがっていく。
「ご英断――だなんて、心からそう思っているのですか?
「スペイギール様は誇りよりも和平を選ばれたのよ。戦いよりも蒼生の命を重んじたことこそ、ヘリオスとしてあるべき姿だわ」
「私には理解できません。スペイギール様こそ正統なヘリオスの当主でいらっしゃるのに、なぜ偽者に屈しなければならないのですか。あの卑劣で野蛮な背徳者を聖なる都にのさばらせていいわけがない。主の代行者として我々が鉄槌を下すべきだ!」
スペイギールは淡々と、しかし芯の通った声で反論した。
「おれたちには、鉄槌を下せるほどの力は残っていない。これ以上ヘリオスのために戦を続けても、どんどん仲間が死んでいくだけだ。しかも勝つ保障はどこにもない。名前を捨てることで平和的に解決できるなら、家名なんて安いもんだ。いくらでもやればいい」
「あなたはその名の重さをわかっていない!」
イグナーツの発した叫びは無機質な壁に反響し、廊下の先に広がる闇へ消えていく。
「ヘリオスを名乗れるのは、この世でただひとつの家系。その当主は世界で唯一の
「ちがう。おれは神じゃない。おれはおまえと同じ、ただの人間だ」
「いいえ、あなたが我々の神だ。ヘリオスの名を戴き、日月星のそろった
スペイギールの肩がかすかに跳ねた。毅然としていた表情が凍りつくとともに、みるみると血の気が引いていく。
それが手に取るように見てとれて、反射的にエオルゼは声を張りあげた。
「黙りなさい!」
鞭のように鋭い声がイグナーツを打つ。彼が意表を突かれている隙に、エオルゼは譴責の言葉を畳みかける。
「この和議は皆がスペイギール様に賛同し、実現したものよ。もちろんあなたのお父上の同意も得ています」
「っ、ちがいます。父は――」
「何がちがうの? エングラー様はスペイギール様に従うと、みずからおっしゃったわ。大司教の息子であるあなたがその決定に従えないと言うのなら、エウル=ヘリオスのもとに下りなさい。出仕を望む者は拒まないとの条件も取りつけてあるから大丈夫よ。きっと良いようにしてくれるわ」
イグナーツがカッと上気する。歯をきつく食いしばり、全身をぶるぶるとわななかせて、怒りの炎を燃えあがらせる。
おのれを呑みこむほどの瞋恚を、それでもイグナーツは拳を握りしめてやり過ごした。喉の奥から絞り出された声が低く呻く。
「……紛い物の総大司教には膝を折りません。真の王はスペイギール様だ」
イグナーツは足早に去っていった。
うしろ姿が暗闇に消え、床を打つ足音も次第に聞こえなくなる。
やがて少年の残していった苛烈な熱が完全に冷めたころ、エオルゼはスペイギールの様子をそっとうかがった。見えなくなったイグナーツの姿をいまだ追うように闇を凝視していたスペイギールは、エオルゼの視線に気がつき、いびつに笑った。
「……あんなに一心に崇められると、少し怖い」
青ざめたこめかみに、うっすらと脂汗が浮かんでいた。スペイギールは壁に背を預けて深く息を吐く。
「おれの名誉よりあいつの命の方が軽いなんて、あるはずがない。でも、イグナーツはちがうんだな。おれの持つ女神の血の方が何倍も大事なんだ」
無意識に腕をさするスペイギールの手を、エオルゼは黙って見つめる。その下に流れる血を探るように指が滑る。
イグナーツは敬虔なエングラー大司教の一粒種なだけあって、人よりも信仰心が篤い。それゆえにスペイギールの選択を受け入れられないのだろう。
同い年の従者の発言は、スペイギールにとってあまりにも残酷だった。
(けれど、彼ほどギール様のことを崇拝している人はいない……)
エオルゼたちが立っている場所は、わずかな衝撃で粉々に崩壊してしまうほどにもろい。
イグナーツのような存在は貴重だ。今後、彼はきっとスペイギールの大切な友人になってくれる。
「信仰は容易く覆せるものではありません。神に等しいスペイギール様が主の末裔としての地位を捨てることに、なかなか納得できないのでしょう。ですが、時間をかけて話しあえば、きっとわかってくれるはずです。大丈夫ですよ」
「……そうかな」
「はい。きっと」
「……そうだといいな」
灯火の及ばない廊下の闇へ、スペイギールは祈るように呟いた。エオルゼも祈りをこめる。
「ギール様、お部屋へ戻りましょう。明日の準備は済みました?」
「うん。ラズウェーンが確認してくれた。……そういえば、エオルゼは何しに降りてきたんだ?」
「水をもらいに来たんです。そうしたら声が聞こえたので」
スペイギールはむっと眉を寄せて、壁から身体を起こした。
「なんでセインがやらないんだよ。あいつはエオルゼに甘えすぎだ」
「わたしが行くと言ったんです。セインは明日の支度をさせないといけないですから」
「エオルゼも甘い」
「そんなことありませんよ。さあ、戻りましょう」
拗ねてしまったスペイギールを苦笑しながら促した。
機嫌が直らないまま、スペイギールはさっとエオルゼの手から水差しを奪って先に行ってしまう。追いかけて返してくれるように頼んだものの、手が冷えると言ってスペイギールは譲らなかった。
ここでエオルゼが引かないとますます拗ねてしまうだろう。誰にも見つかる心配はないだろうと判断して甘えることにする。
礼を言うと、スペイギールはうん、と満足げにうなずいた。
先を行く少年の髪が、階段の灯りを受けて
昔、エオルゼは母と一緒に、スペイギールの髪の色や人懐こく明るい性格を指して『小さな太陽』と呼んだ。
社会から隔絶した村において、スペイギールはいとしい明かりだった。
そして今、寒村の村人に笑顔をもたらしてくれた子どもはこんなにも大きな存在になり、この国に新たな光をもたらそうとしている。
「エオルゼが一緒に来てくれるって言ってくれて、よかった」
ともすれば聞きこぼしてしまいそうな声だった。
はっ、とすると、踊り場で足を止めてスペイギールがこちらを見下ろしている。
早足で階段を昇りきり、隣に並んで確かめれば、さっきまで子どもだった表情は胸が痛むほどに大人びてエオルゼを見つめかえした。
「ギール様のおっしゃるとおりです。……わたしは父の仇には従えませんし、アストルクスへ行ってもエウルのいいように使われるだけです。きっと父も、エルーの先祖も、主も、わかってくださいます」
「……うん。おれも、父さんや兄さんはわかってくれると思う。姉さんやアルトも」
蝋燭の炎が踊り、スペイギールの顔に落ちる影も揺れた。碧い瞳が黒く沈む。
エオルゼはそっと手を伸ばして、スペイギールから水差しを受け取った。触れた指先は硬く、水のせいかひやりと冷たかった。
「……ありがとうございました。おやすみなさい、ギール様」
陽光の色をしたまつげがゆっくりと瞬く。影の中で、はにかむようにスペイギールは目を細めた。
「おやすみ、エオルゼ」
廊下の奥へ消えていくうしろ姿はエオルゼが思うよりずっと大きいのに、植えたばかりの苗木のようにも映る。
年齢としてはすでに成人だが、子どもと大人のあいだをうろうろと行き交う複雑な時期だ。ふとした拍子に幼さが顔を見せるのも、息を呑むほど成熟した面をのぞかせるのも、スペイギールが大人になろうとしているから。
大丈夫、とエオルゼはざわついていた胸に言い聞かせる。スペイギールについていけば大丈夫だ。
彼は自分の抱える不安に罅を入れて、ほのかな光を与えてくれた。
そのあたたかさはエオルゼの胸の奥に根を下ろし、背後に迫っていた死の臭いを遠のけてくれた。
そしていつかは、エオルゼにまとわりつく死臭を完全に吹き払ってくれるだろう。
何があってもスペイギールを支えることを女神に誓う。
彼はエオルゼの小さな灯火なのだから。
エオルゼは胸から提げた星護符を握り、聖句を唱えると、明日の無事の成功を祈った。
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