7章 白虎と黒豹
「B区間(Bob)で鼠を一匹捕捉。また大物ですよ。イースさんたち、行けます?」
「ああ」
「行きます!」
オペレーターからの無線を待っていたとばかりに、二人が同時に答える。その意気揚々とした声に、「本当に二人で出るんですかぁ?」とリッキーが嘆いた。
鼠は一匹。ド派手なオレンジ色のマクラーレン。600馬力オーバー。そいつをイースさんより先に捕まえる。
愛車の運転席で、緊張した面持ちのハルキがバックミラーを見つめている。自分の心臓と同期するかのように脈打っているGT-Rの機械音が、僕の興奮を宥めてくれる。
左耳に嵌めた無線器から、二車線向こうで待機しているイースの声が聞こえた。
「もじゃもじゃ頭くんが先に捕まえたら、鼠は君の好きにしたらいい。その代わり、僕が先に捕まえたら、僕の自由にさせてもらうよ」
「はい。約束します」
ハルキはシフトノブを握り直して、静かに答えた。
「それから、君が接触事故を起こしたりでもしたら、そのバッジは返却してもらう。いいね?」
ハルキは、よれよれのパーカーの腕にあるマウサーのバッジを見やる。まだ新品同様の猫型のそれは、太陽光を反射させ眩しいくらい光を放っている。
「わかりました」
これは、僕の誇りをかけた戦いだ。最高のドライバーとしての誇り。
「鼠を逃したら、どっちが始末書を書くんですか?」
空気の読めないリッキーが、無線から茶々を入れる。傍観者の彼は、この状況を楽しんでいる。苛立った様子のイースが、「それはないから安心しろ」と言い捨てた。
窓を開け、ハルキは遠くから迫りくる鼠の音に耳を澄ませる。
車線を一つ跨いだ向こう側でも、イースが窓を開けた。彼は自慢の金髪を風に靡かせながら、余裕の表情でこちらを見ている。その自信に満ちた笑顔は、惚れぼれするほど男前だ。
微かに聞こえるチューバの唸り声を、二人同時に捉えた。スタートまでのカウントダウンが始まる。
ハルキはアクセルを踏みならす。その強弱に合わせて、愛車が吠える。久しぶりに檻から出された真っ白の虎は、その開放感に喜びの雄叫びを上げる。
その隣で、イースの黒豹が呼応する。長い間この場所を縄張りとしてきた王獣としてのプライドを誇示するように、大きな咆哮を轟かせる。
徐々に大きくなるチューバの音色。バックミラー越しに、どんどん大きくなるオレンジ色の車体。鼠は、白虎と黒豹の間を猛スピードで駆け抜けようと、さらに速度を上げている。
ここにいるすべての人間が、車を愛している。
全貌を現した鼠が、僕のすぐ隣を走り抜ける。その一瞬が、スローモーションに見えた。
全身の血液が逆流したように熱くなる。ハルキは焦る気持ちを宥めすかして、左足で踏んでいたクラッチをゆっくりと離す。獰猛な獣の首輪を外すように、優しく解き放つ。
――いいか、ハルキ。耳を澄ますんだ。音を聞くんだよ。
兄の声が聞こえる。誰よりも車を愛していた彼が、僕に教えてくれたこと。
GT-Rのトロンボーンのような音色が、変わった。がっちりと噛み合わさったギアが、白虎を野へ放ったのがわかった。
「赤色灯、忘れるなよ」
最後の忠告をしたイースは、僕より少し早いタイミングで発進した。
瞬く間に、鼠の姿が小さくなっていく。最高速度で走っている鼠の後ろを、黒豹と白虎がフル加速で追いかける。唸り声に比例して、速度計が右に振りきれる。鼠のお尻は豆粒サイズのところで、小さくなるのを止めた。
「僕に言わせれば、あなたたちも充分、イカれてますよ」
リッキーが、無線器の向こうでぼやいているのが聞こえた。
前方を走っているイースの車の赤色灯が目に入り、ハルキもハンドル脇のボタンを押す。マウサーだけに許された、速度無制限のカーチェイスだ。
「まもなく鼠は、D区間(David)へ突入します」
次第に辺りに木々が茂り始める。それと同時に、鼠のお尻が今度は大きくなる。山道に入るためには、減速を余儀なくされるのだ。
しかし、前方を走るイースは速度を緩める気配がない。彼はギリギリで曲がりきれる速度を、知りつくしている。
「リッキー、反対側は?」
「まだ通行禁止ですよ。ダニーさんが、穀物掃除に駆り出されてます。彼の筋肉はそのためにあるんじゃないって、ミッシェルがご立腹でしたけど」
死のD区間(Death David)は片道一車線。だが今なら、反対車線を使える。
ハルキは遅れを取るまいと、イースと同じ速度で駆け抜ける。焦っている僕を嘲笑うかのように、木々に留まった観客のカラスたちが喚いている。
「オタク(Geek Boy)くん、俺のカマを掘るのだけは止めてくれよ? 俺にそんな趣味はないんだ」
無線から聞こえるイースの冗談に、リッキーがヒヒッと気味悪く笑った。
そんなことするもんか。僕はこのバッジを返す気はない。
先にイースがD区間へと入った。そのすぐ後ろをハルキが追いかける。イースの無駄のない走りを、ハルキが懸命に追いかける。鼠はいそいそと、曲がりくねる道を逃げ続ける。それまであった鼠との距離は、じわりじわりと詰められていく。
鼠がカーブを曲がるたびに、タイヤがアスファルトを擦る音が響き、そこに新たな痕を刻む。鶏を絞め殺したような悲鳴と一緒に、後輪からは白い煙が昇っている。
その後ろを、イースが追いかける。同じ道を走っているとは思えないほど、彼の足取りは静かだ。最小の減速、最大の加速。どこでどう動けば良いのか、イースには完全に見えていた。
ハルキは必死に白虎を操りながら、黒豹の動きを右斜め後ろで見つめ続けた。どうしたら彼の前に出られる? どうしたら彼より先に鼠を捕えることができる?
「うっひゃー。とうとう三台が並んじまった!」
まるで他人事のオペレーターが、無線の向こうではしゃいでいる。彼のおしゃべりはいつものことだ。イースはそれを黙殺し、鼠に向かって警告を始める。
「おーい、そこの鼠。ただちに止まりなさい」
その声を挑発するように、鼠はエンジンをふかして吠えた。生意気なチューバの音色が轟く。
「ほら言っただろ。こいつらに何を言っても、無駄なんだよ」
イースはそう言うと、速度を上げてこちらの車線に入ってきた。ハルキの目の前に、黒豹のグラマーなお尻が現れる。彼は次のヘアピンカーブで、鼠を追い越す気だ。
「まもなく一つ目のヘアピンカーブです」
リッキーの声を聞き終える直前、鼠のエンジンが大きく吠えた。決して抜かせはしない、とそう威嚇しているような唸り声だった。
三台の車が、同時にペアピンカーブへと突入する。三人のドライバーが、一斉に右へとハンドルを切る。マンゴーのように鮮やかなオレンジ色のマクラーレンは、車体を斜めにして上手く後輪を滑らせる。白い煙の上がるその後ろを、ダークグレーのポルシェがスマートに追い詰め、最後にハルキの真っ白なGT-Rが追いかける。
イースは追い上げる寸前のところで、鼠に先を譲ってしまった。左耳の無線器から、小さな舌打ちが聞こえる。
「次で最後のカーブですよ」
「うるさい、わかってるよ!」
リッキーの忠告に苛立っているのか、イースが怒鳴り声を上げた。彼が声を荒げるのを聞くのは初めてだ、とハルキは思った。
カーブを曲がりきった三台は、休む間もなく加速を再開する。チューバの低重音の後に、ホルンが軽やかな音を響かせ、トロンボーンが高らかに吹き鳴らす。
ハルキは額に汗を滲ませながら、混線した頭で考える。次のヘアピンカーブが、最後。次で鼠を捕えなければ、僕は負ける。ハンドル越しに伝わる絶え間ないエンジンの振動が、僕を鼓舞しているようだと思った。
――こいつは、僕自身だ。
焦っていては、焦った走りしかできない。落ち着け、落ち着くんだ。
ハルキは左車線へと変更し、イースの隣に並ぶ。目の前には鼠のセクシーなお尻が見える。
「この車間距離でカーブを曲がれるわけねぇだろう! 心中したいなら、一人でやれ!」
イースの声を無視し、ハルキは鼠との車間距離を接触ギリギリまで詰める。汗でハンドルを握る手が滑る。アクセルを踏み続けている右足が、緊張でじんじんと痺れる。
後ろから迫りくる白虎に、鼠はさらに加速した。その瞬間、イースが減速したのがわかった。
「まもなく最後のヘアピンカーブです」
カーブに突入した鼠が、左へとハンドルを切る。タイヤが断殺魔のような音を上げる。消しゴムのように道路を擦りあげるタイヤが白い煙を上げる。減速が足りないせいで、車体が大きく滑る。大周りに曲がる鼠はインコースから外れ、アウトコースの車線へと大きくはみ出た。
ハルキの目の前が、空いた。
真後ろでその一瞬を待っていた白虎が、鼠の内側を縫うようにくぐり抜ける。その後ろ脚が煙を巻きあげながら、鼠の横を通り抜ける。鼠が慌ててブレーキを蹴り、鶏が絞められるような悲鳴が響き渡る。
三台の車は、カーブを曲がりきったところで、静止した。
鼠の行く手を阻むように停車した白いGT-R。その精悍な横顔は、捕えた獲物に向けて睨みを利かせている猛獣そのものだった。
「おい、リッキー。あいつは何者だ」
停車したポルシェの運転席で、イースがオペレーターに尋ねる。そのフロントガラスの向こうでは、ハルキが鼠に赤色切符を切っているのが見えた。超過速度80キロ。罰則金は3万ドルといったところだろうか。
「どうしたんですか、彼はただのオタク(Geek Boy)ですよ」
リッキーの含みのある返事に、イースはまた舌打ちをした。
ハルキの運転技術は新人にしてはまともな方だが、マウサーとしては特別に上手いわけではない。現に、今回クラッシュを免れたのは、俺が鼠の動きを予測して減速したおかげだ。
だが、ハルキがカーブ手前で鼠の後ろにぴったり付いたあのとき、俺の想像を超える何かが彼の頭の中にはあったのだ。彼の中に眠っている才能の欠片のようなものを、確かに感じた。
「何か、知っているんだろ?」
俺の詰問に、無線の向こうにいるおしゃべりなオペレーターはやっと白状した。
「彼の兄の名前は、トールというそうです」
トール。どこかで聞いた名前だ。誰だったか。イースは、頭の引き出しをひっくり返して、片っ端から探し出す。しばらくの捜索の結果、出て来たのはテレビ中継の一場面だった。
クラッカーの弾ける音に、シャンパンシャワー。そして湧くような観客の歓声がこだまする。テレビのアナウンサーが彼の名前を、壊れたレコードのように繰り返し叫ぶ。
『優勝はトール・アレンス! スピードの女神に愛される男、トール・アレンスです』
天才とまで言われたドライバー。彼の前を走った者は、一人もいない。一度もレースで負けることなく、最後は自動車事故で呆気なく亡くなり伝説となった、無敗のレーサー。
「アタランテに愛される男。トール・アレンスは彼の兄です」
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