5章 アタランテに愛された男
「へぇ、あんたが逆走9号車の新人くん?」
本部の食堂で昼食のベーグルサンドに噛り付いていた僕に、赤髪の女性が声をかけてきた。彼女の視線は、パーカーの腕に付けた猫型のバッジに向けられている。彼女の胸元から、ぶらりと垂れ下がってきたチェーンには、同じバッジがペンダントのように結ばれていた。
「あたしはミッシェル。4号車。よろしく」
「……ど、どうも」
戸惑うハルキに小柄な彼女は歯を見せて笑い、向かいの席にドカッと座り込んだ。そのトレーには、大皿のマカロニグラタンが乗っている。チーズの良い匂いだ。
「ミッシェル、ここにいたのか」
今度は急に手元が暗くなったと思えば、すぐそばにスキンヘッドの筋肉男が立っていた。モスグリーンのTシャツには筋肉の形が浮き出ており、袖のところなんてパツンパツンだ。その衝撃と恐怖で血の気が引いた。慌てふためいて、思わず舌を噛みそうになる。
「ダニー、見て! このもじゃもじゃ頭が例の新人くんですって」
「おい、失礼だぞ」
「で、こっちのつるつる頭がダニー。5号車よ」
ハルキが呆気に取られている内に互いの紹介が完了し、ダニーはミッシェルに言われるがまま、無理やり隣に座らされた。
逃げられなくなった状況に、ハルキはじわりと汗をかく。口に入れたベーグルサンドをオレンジジュースで無理やり飲み込むと、ゴクリと喉が鳴った。
「私たちは市街地担当だから、なかなか君に会えなくってね。やっと見つけたよ。君は、イースと同じクロウ・ストラーダ担当でしょ?」
ミッシェルと名乗った女性は、大きなスプーンでグラタンをすくう。その隣では、筋肉男が鯖味噌定食を食べている。なんだか箸や茶碗が小さく見える気がする。
「クロウ・ストラーダ? アタランテではなくて、ですか?」
ハルキは猫背のまま、サイドセットのポテトを摘み、しぶしぶ会話に参加する。
「アタランテ・ストラーダは通称なのよ。正式にはクロウ・ストラーダ。ほら、あそこカラスがたくさんいるでしょう?」
「クロウってのは、カラスのことだ」
大きな手で器用に箸を使いこなし鯖を解(ほぐ)しているダニーが、ミッシェルの説明を補足した。
「アタランテは足の速い女神の名前ね。鼠が良く出るから、あそこはアタランテ・ストラーダってわけ。彼女に愛された者はスピードを自由自在に操ることができるって言われてるのよ」
僕の故郷で言うところの韋駄天だな、と思った。
「君は知ってる? アタランテに愛された男。無敗のレーサー」
「ミッシェル、またその話か」
「いいじゃない。話したいのよ。オタクは知識を自慢したいの」
僕の答えも待たず、ミッシェルは一方的に話を始める。ダニーは、好きにしろとでも言いたげな顔で味噌汁を飲んでいる。
「よく目にしたのは十年くらい前だけど。彼はとってもハンサムなレーサーでね、出場したレースでは負けたことが一度もないの。私が知る限り、一度も、よ」
スプーンの上の海老が冷めるのを待ってから、彼女は口に運んだ。
「彼は言うの。僕は何もしてない。愛車が僕を表彰台まで運んでくれたんだ、って」
口から引き抜いたスプーンで、再びグラタンをすくう。彼女は小柄だが、食欲旺盛だ。
「うっかり信じそうになるくらい、彼のドライブは素晴らしくて、車が生きているみたいに走るの。私も一度でいいから、そんなふうに走りたいと思ったわ」
アタランテに愛された男。その呼び名は、僕にも聞き覚えがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます