4章 ハルキと白虎
オイルの匂いで充満した自動車整備場で、愛車の後部にあるエンジンルームを見つめる。シュプシュプ、トントン、ガチャガチャ。あちこちから色々な音がするここは、ハルキにとって懐かしい場所だった。
GT-Rは大きく口を開け、自分の心臓部を晒している。それはまるで動物園の虎が、慕っている飼育員に腹を見せているような無防備な姿だった。
――エンジンルームを見れば、愛されている車かどうか一目でわかる。
それは兄が僕に、教えてくれたことだ。人は、その実体を失ったとしても、誰かの記憶の中で生き続けることができる。
「新しい仕事はどうだ?」
急に背後から声がして、驚いたハルキの体が跳ねた。その嗄れ声には聞き覚えがあった。
「自動車メーカーのプログラマーに戻りたくなったか?」
振り向くと整備士のカールが悪戯顔をしていた。彼が挨拶代わりに僕をからかうのはいつものことだったが、なんだか今日は居た堪れなかった。愛車のあちこちを見られている彼には、ここしばらくまともに走っていないことなど、お見通しなのだろうと思った。
大柄な彼は、着古した作業着の腕を捲りながら、僕の返事を促した。
「……やっぱり、僕には向いていないのかもしれない」
苦し紛れに答えた僕を、カールは大口を開けて笑い飛ばした。
「何、言ってんだい。そんなの、初めからわかってたことじゃねぇか」
彼の大笑いに、ハルキは困惑した。その態度は酷く無遠慮だったが、不思議と腑に落ちてしまった。昔は見上げるほど大きかった背丈も、今では数センチの差まで縮まったが、それでも彼は大きい男だと思う。懐だとか、度量だとか、見た目ではないところが。
「安定した職を捨てて、親の反対を押し切って、それでもなりたかったのだろう?」
その通りだった。プログラマーという職業は、インドアで人見知りの激しい僕には申し分のない仕事だったし、両親を悲しませたいと思っているわけでもなかった。それなのに、気が付いたら履歴書を投函していた。
「その衝動の答えは見つかったのかよ?」
自動車を整備するときと同じ、鋭い目つきでカールさんは僕を見つめた。その試すような視線に、ハルキは咄嗟に目を逸らし俯く。GT-Rの雄々しいタイヤが視界に入る。
本部の真っ暗な車庫で毎日、僕の帰りを待ち続けている愛車。彼は少しも機嫌を損ねることなく、いつでも操縦者としての僕を歓迎してくれる。
あまりにも不甲斐ない僕の態度に、カールさんはもう一度小さく笑い、「お前がしょぼくれてちゃ、しょぼくれた走りしかできねぇよ」と言った。
「穏やかな気持ちで操縦すれば、それは穏やかな走りになる。怒っていれば怒っている走りに、悲しんでいれば悲しんでいる走りになる。お前はこいつの飼い主であり、こいつはお前自身だ」
その意味は、なんとなくわかるような気がした。イースさんの力強い走りは、彼の揺るぎない自信から来ているのだ。今の僕は、きっと彼のようにはできない。
「あのバルザミーネさんに認めてもらって入ったんだろ。しっかりしろよ」
カールさんはそう言って、僕の猫背をバンバン叩いた。彼の筋肉質な腕は想像よりも痛かったが、ごつごつした皺くちゃの手の温もりが、よれよれのパーカー越しに伝わった。
「整備点検にはもう少し時間がかかりそうだからよ、受付のレイアに言ってマンゴープリンでも食べて待ってろ」
「マンゴープリン!?」
魅惑的な単語に、ハルキは声を荒げる。それは僕の幼い頃からの大好物だ。
歳の離れた兄の愛車の整備が終わるのを、待合室で食べながら眺めた。大人用の脚の長い椅子に座らされ、自分の足をぶらぶらさせながら、オレンジ色のプリンを口に入れる。待合室のガラス戸の向こうでは、兄がカールさんと楽しげに話しながら、オイル塗れになって笑っていた。いつまでも僕はそこで、彼らの姿を見ていたいと思っていた。
「客から貰ったんだが、俺は甘いのは好きじゃねぇからな」
自動車整備場にそんなものを差し入れする客がいるもんかと思ったが、こちらに背を向けて誤魔化す彼に免じて、黙っていることにした。
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