3章 イースと黒豹
「はい、免許証見せてね。いい子だ。従順な鼠は好きだよ」
運転席の窓をコンコンと叩き、イースは捕えた鼠の取り調べを始めた。あれ以来、ハルキは彼の車の助手席に乗せられ、研修という名の見学をさせられている。そのせいで、かれこれ2週間以上、僕の愛車は本部の車庫でお留守番だ。
避難帯に停車させられた鼠は、しぶしぶドアを開けて彼の命令に従う。イースは免許証の写真と、本人の顔を交互に見比べ照合している。
「うん、とってもいい写真だ」
そう言ってからかう彼の手から、鼠は免許証を奪い取るように受け取った。自分と変わらない年齢の彼は、捕獲されてしまったことに不貞腐れているのか挙動が乱暴だった。
「その馬力でマウサーに挑んだ度胸だけは買ってあげよう」
イースは笑いながら、手元の機械で青い切符を切る。チキチキ、と吐き出された紙に記された数字。5千ドル。それが彼に科せられた罰則金だ。
鼠は、その額面を見て目を見開いた後、険しい顔で悪態をついた。
「速度違反なんて、俺だけじゃねぇだろ。もっとオーバーしている奴はごまんといる」
こういう往生際の悪い鼠は少なくない。これはマウサーの仕事を見学してわかったことの一つだ。いやむしろ、これまで僕が出会った鼠は例外なくこんな態度だった。
ハルキは鼠のナンバープレートの数字をメモしながら、彼らのやり取りを横目で眺める。仕事用に与えられたタブレットで鼠のナンバーを検索すると、過去にも罰則金を支払っていた記録が残っていた。懲りない奴め。
「ああ、そうだね。君の言うとおりだ」
イースの飄々と答える姿に、ハルキは感心した。さすがに毎日のように彼らの相手をしているからか、その対応も手慣れている。容赦なく浴びせられる暴言や罵倒にも彼は動じることなく、これまで一度も声を荒げているのを見たことがない。
「だったら、そっちを捕まえろよ! 俺なんてたったの20キロオーバーだぞ!」
「そうだな。君はたったの20キロだ」
そう答えてすぐに、鼠の剣幕さに堪え切れなくなったのか、イースが吹き出した。口元に手を当て綺麗な金髪を揺らしながら、ククッと震えるように笑っている。その異様さに、鼠の苛立ちが募っていくのがわかった。
「たったの240キロしか出せないから、捕まるんじゃないか。君は馬鹿だなぁ」
鼠は小さく舌打ちし、驚くほど大人しくなった。
「あの、イースさん。その、もっと、何かないのですか?」
本部へと戻る道中、痺れを切らしたハルキがとうとう口を開いた。一日に3匹の鼠を捕獲したポルシェ918スパイダーのエンジン音は、狭い車内からでも御機嫌に聞こえた。
「何か、とはなんだ?」
ハンドルを握っているイースは、表情を少しも変えずに質問を返した。言うべきか言うまいか、あれこれ悩んだ末に意を決して尋ねた僕のことなど、彼が知る由もない。前だけを見つめる青い瞳が、何を考えているのか想像してみても答えは出なかった。
「鼠に対する態度のことです」
「俺の態度がなんだって?」
「その、言い方とか、もっと良いやり方があるのではないかと思うんです。彼らが同じことを繰り返さないように」
「やり方、ねぇ……」
イースはしばらく黙っていた。シフトノブを動かす小気味良い音が車内に響く。外ではカラスの群れが、この車を囃し立てるように鳴いているのが聞こえる。
彼の運転は賞賛に値すると思う。鼠を捕えるまでの無駄のない走りは、完璧だと言っても過言ではない。それに何より、彼はドライブを心底楽しんでいる。隣に座ると、そのことがよくわかった。だが唯一、鼠を余計に煽るような彼の態度には、賛同しかねた。
赤信号で停車すると、イースは右手で金髪をゆっくりと掻き上げ、諭すように話し出した。
「俺たちが何か言ったところでどうなる?」
今度はハルキが口を閉ざす番だった。
「君は彼らが変わるとでも思っているのか? もしそうだとしたら、それは驕りだな。ルールを守る奴はいつだって守る。守らない奴は、死んだって守らない。そういうもんさ」
イースはそう言って、こちらを一瞥した。その揚々とした態度は、彼の性格だけでなく積み重ねて来た経験がそうさせているのだと思った。
彼の主張は、もっともだ。制限速度や罰則金がいくらであろうと、それを気にも留めないドライバーは存在する。彼らは、自分だけは特別だと過信しているのだ。事故に遭うことも、捕まることも、自分には起こり得ない事象なのだと。
「そもそも、速度を誇示する奴には、速度で負かすのが一番効くんだよ」
軽口を叩くようにイースは言ったが、それこそが彼の本音なのではないかと思った。
「イースさんはなぜマウサーになったんですか?」
純粋な気持ちで尋ねたハルキを、イースが鼻で笑った。
「愚問だな。マウサーは好きな車に乗れる。どんなスーパーカーだって選び放題だ。それに、合法的に速度無制限のカーチェイスができるのは、世界中探したってこの仕事だけだ」
ハルキはイースの快活な声を聞きながら、リッキーの台詞を思い出していた。最高のドライバーとしての誇り。きっと彼を動かす原動力は、それなのだろう。
「それに、鼠が一匹残らずいなくなったら、俺たちは職を失うことになる」
それが冗談だとはわかっていても、ハルキには笑えなかった。
「それでも僕は構いませんよ」
「お前は良くても、俺は困る」
信号が変わり、発進したポルシェが緩やかなカーブを曲がる。回転したハンドルが戻るのを待って、イースは再び口を開いた。
「そこまで言うならこっちも聞くさ。お前はなんでマウサーになったんだ?」
僕はその質問の答えを、未だに見つけられずにいた。どうしてマウサーなんかに。両親の問いかけにも、結局何も答えずに家を出て来てしまった。
きまりが悪くなってしまったハルキは、フロントガラスに反射する胸元のサボテンを見つめる。黙りこくっている僕を見兼ねて、イースは呆れた顔をした。
「まだしばらく、君の愛車は車庫でおねんねだな」
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