1章 いたちごっこ

「こっ、こちら監視部。鼠を二匹、確認した。繰り返す、鼠が二匹、A区間(Alice)からB区間(Bob)に向かっている。動けるマウサーは、ただちに出動せよ」

助手席に放り投げてあった無線器から、耳に障るような声が耳に飛び込んできた。この仕事はいつだって緊急性を孕んでいるのに、オペレーターのリッキーは今日も慌てている。この声を聞く度に、デスクワークのお前が慌てたところでどうなるんだ、とイースは思う。

 よっこらせ、と運転席のリクライニングを起こす。それから、濃い色のデニムを履いた長い足が、ぴったり収まるところでシートを止める。狭すぎず、広すぎず、丁度いいスペースを確保する。両足でペダルの位置を確かめてから、やっと助手席に投げ捨てていた無線のインカムマイクに手を伸ばし、右耳にかけた。

「はーい、こちら8号車。鼠の特徴はー?」

その気だるく間延びした物言いは、オペレーターを落ち着かせようとしているのか、冷やかしているのかわからない。

「イースさん! あぁ良かった、あなたが出るなら心強い。昨晩の玉突き事故のせいで、みんな出払っているんですよ」

「おい、リッキー。俺はオペレーターと世間話(おしゃべり)する趣味はないんだ。鼠の特徴は?」

「あぁ、すみません。えっと、赤と黄色です。パプリカみたいな、目の覚める色だからすぐにわかりますよ。二台とも、ものすごいスピードでそちらに向かっています。車種は……」

「あー、細かいことはいい。馬力だけ教えてくれ」

 イースは右手で絹のような金髪をゆっくりと掻き上げる。10人の女がこの場にいたとしたら、11人が素敵だと褒めてくれる自慢の髪だ。そして、湖の底のように澄んだ碧眼をバックミラーに映す。数え切れないほどの女に、「見つめられたら、動けなくなってしまう」と言われる瞳。聡明な眼差しが鏡越しに向けられている。美しく整った自分の顔に思わず見惚れる。完璧だ。

最高の車に乗る、最高の男だ。

車外から自分の姿を眺めることができたら、どんなにいいだろう。これは俺の人生において、唯一の不幸なことだ。どんなにいい車の運転席に座っても、その走っている勇姿を自分で見ることはできない。自分の顔を、自分で見ることができないのと同じように。

「正確にはわかりませんが……制限速度を余裕で超えているので、おそらく500はあるかと」

「そいつはとんでもない鼠だな」

 まるで隣に座っているリッキーをからかうように、無線器に答えた。

それから、エンジンをかけたまま緊急非難帯に停車している愛車の窓をわずかに開ける。耳を澄ますが、まだ何も聞こえてこない。

 落ち着いた手つきでシートベルトを締める。カチャリ、と乾いた音がする。シフトノブに右手を伸ばす。踏み込んでいたブレーキから足を離し、車の頭を僅かに進行方向へと向ける。

 片道二車線のまっすぐな道路。見渡す限り何もない荒野に、ただ道だけが伸びている。

ここは高速自動車道、アタランテ・ストラーダのど真ん中だ。

「リッキー、他に車両は?」

「こんな早朝から200キロオーバーのカーチェイスする馬鹿は、他にいませんよ。天気のいい日に自動車事故でペチャンコなんて、俺はまっぴらごめんです」

「それは俺もごめんだな」

 イースはおしゃべりで正直なオペレーターの台詞に笑った。

そのとき、遠くから微かに聞こえるスポーツカーの唸り声をイースの耳が拾った。予想よりだいぶ早い。気のせいか、と思ったが、その音は次第に大きく近づいてくる。

体中の血液が沸騰し始めた。さっきまでの眠気など、吹き飛ばすほどの興奮が全身を巡る。競走馬が走り始める前のファンファーレのように、その音が鼓膜から刺激してくる。

――いたちごっこの時間だ(Cat and Mouse Game)。

 冷えてしまったエンジンを暖めようと、クラッチを踏み込んだまま、右足でアクセルを蹴った。愛車がホルンのような、気持ちのいい音を轟かせる。まるで狩りを待ちきれない猛獣が、地面で爪を研いでいるみたいだ。

「そういえばイースさん。今日からあなたの後輩として、新人が入るのですが……」

 リッキーの無線は、ポルシェ918スパイダーの咆哮に掻き消された。

 米粒のようだった二台の車が、少しずつ全貌を現す。赤いフェラーリに、黄色のランボルギーニ。そいつらは全く速度を落とす様子がない。それどころか、むしろ互いに競うように高速でこちらへ向かってくる。

 アタランテ・ストラーダは、こういう速度狂いたち(イカれた奴ら)がこぞってやってくるところだ。あいつらはここで、言葉通りの命懸けのレースをしやがる。そのふざけた鼠どもを取り締まるために雇われているのが俺達、マウサー(鼠捕り)なのだ。

イースはハンドルを握ったまま、後方を睨み見ている。彼の羽織っているブラウンのレザージャケットの胸元には、猫を象ったシルバーのバッジが鈍く光っている。鼠を狩るのは、猫と相場が決まっているのだ。

 トランペットの二重奏がみるみる近づいてくる。鮮やかな色のスポーツカーが、まるでスローモーションのように一瞬で目の前を通り過ぎる。ドップラー効果に浸っている暇もなく、イースはアクセルを踏み込みクラッチを離す。ホルンの音色が変わる。高速回転したモータに正しく負荷がかかった音だ。

「逃がさないよ。鼠ちゃんたち」

ダークグレーのポルシェは黒豹のように吠え、二台の後ろをフル加速で追いかける。

直線だけの道ならば、すでに最高速度で走っている彼らに追い付くことは不可能だ。でも、ここはそうじゃない。アクセルを踏み続けるだけで逃げ切れるほど甘くない。

「イースさん、点灯!」

「あっぶねぇ。忘れてた」

 叫ぶようなリッキーの大声に、やっと気が付いた。声を張り上げている彼には申し訳ないが、今は無線の音量を上げるほどの余裕はなかった。

イースはハンドル脇のボタンを押し、赤色灯を点灯した。それと同時にサイレンが鳴り出す。これのせいで愛車のかっこよさは地に落ちるが、仕事なので仕方ない。それに、これを点けなければ俺もただの暴走車になってしまう。

加速時には距離を離されるばかりだったが、すぐに彼らの後方を捕えた。そこからじわじわと間を詰めていく。さて、どこまで逃げ切れるかな。

「鼠は間もなくD区間(David)に入ります!」

 エンジンが唸り続ける車内で、その言葉はなんとか聞き取れた。

D区間。この高速道路で最も曲がりくねった道が連続する区間だ。区間の終わりには180度近いヘアピンカーブが2つ並んでおり、鼠の間では「死のD区間(Death David)」と呼ばれている。

――ここで奴らを捕えなければ、負ける。

イースはわかりきっていることを、今日も唱える。ヘアピンカーブを抜けた先のE区間には、隣国の国境までの直線が伸びている。鼠たちのレースのゴールは国境だ。そこを越えられてしまったら、我々の管轄ではなくなってしまうのだ。

「報奨金(ボーナス)か、罰則(ペナルティ)か。勝負だよ、鼠ちゃん」

 D区間が近づくにつれて、辺りに木々が茂ってくる。ここからは勾配のある山道に変わる。大きな木にとまっている真っ黒なカラスが数羽、まるで死者を待つハゲタカのように不気味に鳴いている。

 区間入口に差し掛かり、鼠たちは速度を落とした。車線が一本になるのだ。牽制し合っていた二台は、減線する直前に前後に並んだ。フェラーリが前、ランボルギーニが後ろ。そのおかげで距離がぐっと縮まり、鼠のお尻が二回りほど大きくなった。

「それにしても太いマフラーの鼠だな。まぁ、グラマーなのは嫌いじゃない」

 くねくねと嫌らしく曲がり、上り下りを繰り返す道を、二匹の鼠が大慌てで進んでいく。速度が落ちきっていないせいか、むしろブレーキを踏み過ぎているのか、カーブを曲がる度に後輪が滑る。太いタイヤがアスファルトを擦る音が響き、白い煙が昇る。既に引かれている無数の線の上に、新しいタイヤ痕を刻む。二匹の鼠は接触を懸念しているのか、少しずつ車間距離を広げている。

 その後ろを黒豹が驚く速さで追いかける。まるで見えない糸で引っ張られているかのようにスムーズで無駄がない。最小限の減速でドリフトするせいか、後輪から上がる煙も少ない。

 テクニックやセンスもあるが、それ以上に体に染みついているのだ。何百回と鼠を追いかけてきたイースは、どこでハンドルを切って、どのタイミングでアクセルを蹴るのか、知りつくしている。フラメンコを踊るダンサーのように、リズミカルに四肢を動かす。

イースはとうとう鼠の後ろに付き、三台が並んだ。

「すごいすごい! もう鼠を追い詰めた!」

 リッキーが無線の向こうで、はしゃいでいるのが聞こえる。

 イースはハンドル脇のボタンに手を掛け、マイクの出力を車外へと切り替える。

「あー、あー。そこの鼠二匹。ただちに減速しなさい。今、おとなしく止まれば、なんと罰金が半額。免許証(ライセンス)もなんとか無事。おまけに命も保証済みだ」

 前方を走る二台に向かい警告するが、彼らに聞く耳があるはずもない。鼠のくせに耳がないとはどういうことだ、という冗談は仲間内での常套句だ。

「厳重注意を無視、と」

 イースは車内で独り言を呟く。尾がない鼠はモルモットだが、耳がない鼠はなんというのだろう。そもそもそんな動物はいるのだろうか。

「反対側は止めているんだな?」

 今度は無線の向こうにいる人物に話しかける。

「はい! 昨晩の事故の影響で、昼過ぎまで通行禁止になっています」

「そいつはラッキーだ」

イースはペロリと上唇を舐め、ハンドルを握り直す。耳のない鼠を相手に、手加減をする気は微塵もない。

黒豹が吠える。わざと対向車線へとはみ出して、二台へ追い越しをかける。焦っているのか、後方を走る鼠が車間距離を縮めた。

「急がば回れ、だよ。ママに教わらなかったのか?」

 三台が一斉にカーブを曲がる。ギャギャギャ、と鼠のタイヤが断末魔のような声を上げた。ランボルギーニの後輪が、一回り大きく滑る。

「ほら、バランスを崩した」

 曲線をなんとか曲がり切り、再び三台が加速する。先頭をフェラーリ、その後ろをポルシェとランボルギーニが並走している。

「まもなく一つめのヘアピンカーブです」

「言われなくても、分かってるよ」

 フロントガラスには、青々と茂る森林が広がっている。目の前を延びる道は、大きく右へと反れている。内側だ。

まだだ、まだだ。自分の辛抱強さと愛車の重さ。ブレーキの能力とスピード。その全ての限界点を見極め、ギリギリで通り抜けるための遠心力を推し測る。

――今だ!

そのほんの刹那、イースはハンドルを右へと切った。滑る後輪をなんとか操る。キャキャキャ、と鳴きながら走り去る子猿のようにタイヤがアスファルトを擦る。チラリと確認したミラー越しに、並走している鼠の頭が見えた。ハンドルを切り過ぎたのか、こちらと鼠との隙間はほんの僅かしか残っていない。 

頼むから車体に傷は付けないでくれよ、と後方を振り返ったそのとき、完全にコントロールを失った車体が道の外へと放り出されていった。一瞬、無重力状態に陥ったような感覚の後、落雷のようなすさまじい音と共に、森の中へと突っ込んでいく。

あぁ、目も当てられない。だから言ったのに。

「リッキー、救急隊を急がせてくれ!」

「ばっちり向かってますよ。こんなことだろうと、すでに連絡済みです」

「ほう。仕事が早いな」

「絶対に死なせはしませんよ。速度違反の罰金と道路の修繕費を回収するまではね」

 こういうときに彼が口走る現実主義な台詞は、心底おっかないなぁと思う。デスクワークのインテリを怒らせるのは止めておこう。

「さて、残るは一匹」

 今度は左の急カーブ。こっちはアウトコース。

最後のヘアピンカーブまで再び加速して追いかけるが、さっきの鼠に気を取られていたせいで、遅れを取ってしまったのは明らかだった。

先にハンドルを切ったのは鼠だった。インコースに入られてしまった。イースは接触を避けるために、速度を落とし距離を取る。これはまずい。

キャキャキャ、と鳴り響いていたタイヤの音が止んだ。その場でイースは静かに停車した。

 白い煙の上がるアスファルト。その向こうに鼠の後姿が見える。ゴールまで続く最後の直線。

「クッソ」

目の前で鼠を一匹、取り逃がした。遠のいていくトランペットの音は、心なしか嬉々として聞こえるようだ。堪え切れずにハンドルを殴ると、反動でクラクションが小さく鳴った。

 あぁ、久しぶりの始末書か。イースはハンドルに額をつけて項垂れる。いや、一匹は捕まえたのだから、それでチャラにしてもらえたりしないだろうか。そう淡い期待を抱いてすぐに、マフィアの親分のような上官の強面が浮かんだ。無理だな……。

 大きく息を吐き、シートにもたれかかる。赤いフェラーリの次第に小さくなっていく尻を見つめる。官能的なフォルムだ。こんなところで出会わなければ、鉄の獣に魅せられた者同士、彼とは美味い酒が飲めたかもしれない。

そろそろ戻って始末書を書くとするか。俺はあれこれと頭を使う事務処理は苦手なのだ。適当な女の連絡先を餌にして、リッキーに手伝ってもらうのもありだ。そう考えてから、妙な違和感に気が付いた。

鼠の様子がおかしい。にわかには信じがたいが、減速しているように見える。錯覚か?

イースは目を凝らし、真っ青な空へと続く道路を見つめる。天へと昇っていけそうなアスファルト。空と地面との境目に、何かが見えた。なんだこいつは。

「おい、リック! 鼠が三匹なんて聞いてねぇぞ!」

「え? やだな、どうしたんですか。鼠は間違いなく二匹ですよ」

「じゃあなんだ、あれは。反対車線はいつ通行再開した? いや、あれはこっち側!?」

微かに聞こえるピアニッシモのトロンボーン。ものすごいスピードで逆走している車両。

「白いGT‐Rがこっちに向かってる!」

「だから、何度も言っているでしょう」

「何をだ?」

「新人が、今日から、来るんですって!」

「あぁ?」

 理解が追い付かないせいで、聞き返す言葉さえ出てこない。そんなこと、今初めて聞いたぞ。

「あれは新人の、ハルキ・アレンスです」

 ホワイトタイガーのようなその車は、クレッシェンドで盛大に吠えた後に、キャキャッと上品な声を上げ、道路を塞ぐように停車した。慌てた鼠が急ブレーキを踏む。

「イースさん、あなたの新しい後輩ですよ。どうやら間にあったみたいですね」

高速道路を逆走した挙句に、真ん中で停車する馬鹿なんて、聞いたことがない。イースは驚いて口を開けたまま、こちらに横顔を向ける白い獣を見つめた。

「いや、遅刻だな。点灯を忘れてやがる」

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