Mouser!

及川イオリ

序章

「初日から遅刻なんて、最悪だよなぁ……」

ハルキは愛車のハンドルを握りしめたまま、信号で停車した車内で独り言を呟く。よれよれにくたびれたグレーパーカーの胸元には、チンケなサボテンのイラストが描かれている。服装に無頓着な彼は、今日も手近にあったそれを引っ掴んで頭から被った。それでなくても寝坊したせいで、起きたときにはもうすでに家を出るはずの時間は過ぎていたのだ。

元来、短気な性格ではないが、さすがにこの状況では焦りに襲われる。目的地まであと50キロ程度。記念すべき初出勤の予定時刻までは、残り30分を切った。

どんなに幸運が舞い降りてきて、赤信号と渋滞をかわすことができたとしても、良くて遅刻だ。悪ければ大遅刻。もしくは勤務初日にしてクビ。その最悪の結末を想像して、ハルキは思わず顔をしかめる。

はぁ、と大きなため息をつく。仕方ない。やるっきゃない。

停車中も脈打っているエンジンの振動が、四肢へと伝わってくる。まるでベンチで体を暖めたまま出番を待つスポーツ選手のように、監督である僕を急き立てているようだ。

 対向車線の歩行者信号が点滅しているのが目に入る。それは何度か規則的な瞬きをしてから静かに消え、かわりに停止を示す赤いライトが点灯する。

 見渡す限りに歩行者はなし。快晴の空。見晴らし良好。行く手を阻む者は、何も無い。

心臓が高鳴る。頭上に光る赤く丸いライトを睨むように見つめる。

 左手で一速に入ったままのシフトノブを掴み直す。クラッチを踏んでいる左足の指先が痺れてきているのがわかる。右足でアクセルを踏み込む度に、トロンボーンのようなエンジン音が唸り声を上げる。僕の耳には、獰猛な獣の解放を臨む咆哮に聞こえた。

 瞬間、赤いライトが消える、それと同時に青いライトが点灯する。滞っていた血液が一気に流れ出すみたいだ。全身が熱い。一気に踏み込んだアクセルに合わせて、クラッチから左足を離す。

いいか、ハルキ。耳を澄ますんだ。音を聞くんだよ。

懐かしい声を思い出す。開けた窓から聞こえるトロンボーンの音色が変わったのがわかった。

「よし!」

 暖まったタイヤがアスファルトを噛む。窓から吹き込む風が強くなる。速度メータが秒針より早いスピードで振れる。

もう一度アクセルを蹴ると、飼いの獣が大きく咆えた。悦びの叫びだ。

「ギリギリ間に合うかも」

 加速する真っ白なGT‐Rの運転席で、ハルキが勝利を予感した。


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