3-3

「うあ……っ!」

 全ての毛穴から腐った汚水が入ってくるようでもある。しかもそれが体内を満たし、よりどす黒くどろりとしたものへ変わっていく。あまりのおぞましさに何もかも放り出したくなったが、もう儀式は始まっている。後戻りはできない。指は力をゆるめようとしても言うことを聞かないはず。

 血が凍りついたかのように、右手から感覚が消えていく。肉体が人と異なるものに置き換えられつつあるのだ。そのくせ嫌悪感だけはあり、恐怖を禁じえない。しかし動揺するわけにはいかない。心の不安定は失敗につながると聞いたことがある。まぶたをぎゅっと閉じ、自らの揺らぎを堪える。

 そんななか、一つだけ温かいものがあった。濁った川を孤独に泳ぐ魚の幻が、フィンの頭に浮かぶ。

(バルグがくれた水晶球の力だ!)

 頭から尾までは大きめのフナくらいか。元気よく泳ぎ、その鱗に触れた汚水は清水となってきらめく。澄んだ水に意識を集めると、フィンの心は軽くなった。

(魚が水をきれいにしてくれるまで耐えられるか、ってことか)

 しかし〈命砕く魔手〉は強い〈命蝕〉エネルゲイアだった。生半可でない汚水の量としてそれが示されている。魚は普通の〈緋核〉カルディアが相手ならとっくに汚水の全てを清めているのかもしれないが、今はいくら清水を作ろうと混ぜられてしまう。しかも激しい濁流が巻き起こり、魚は呑み込まれた。フィンの視界から消える。

(あの魚を見逃したら駄目だ!)

 フィンはそう念じ、魚を懸命に探した。

 やがて見つかったが、メダカくらいの大きさに縮んでいた。しかも泳ぎ方を衰えさせ、汚水に押し流されかけている。〈命砕く魔手〉の力は魚を瞬く間に弱めていた。

 フィンは自分がうずくまっていることに気づいた。ひざと地面の間に石ころを挟んでいるようだったので痛いはずだが、少しも感じられない。〈命砕く魔手〉の力は、フィンの体を覆いつくしている。

「頑張って、フィン!」

 アンリの声が聞こえ、フィンは交わしたばかりの約束を思い出した。ここで負けてしまったら、それを違えることになる。また守れないことになる。

 動きを止めて沈もうとしていた魚が、少しだけ元気を取り戻した。汚水の流れに再び逆らい始める。まるでアンリの言葉が栄養剤になったかのよう。

 しかし、アンリの声も次第に聞こえなくなってきた。皮膚が触覚を失ったことと同じように、耳も聴覚をなくし始めたのだ。一方、汚水の流れは速まって魚の体力をじりじりと削る。このまま魚が激流に消えれば、救いの手を失ったフィンも〈命蝕〉へ堕ちる。

(――このまま、負けられない)

 フィンは、すさまじい苦しみの中で考えた。これからは困難なことがあっても自分で道を切り開かねばならないと気づいたばかりだ。この状況も乗り越えねばならない。

 同時に、魚の大きさが増してきた。泳ぎの力強さも上がり、激しい流れをかき分けていく。どうして変化したのか、フィンは気づいた。

(魚は水晶球そのものだと思ったけど、違う。水晶球に投影された俺自身だ!)

 だからこそ、励まされることで活力を得た。水晶球はフィンが〈緋核〉の力へ抗うことをイメージしやすくする道具だった。

 ならばと、フィンは頭の中で懸命に描いた。〈命蝕狩り〉エネルディカとして活躍する自分を。バルグのように強く、バルグのように好かれ、バルグのように人を救う――これからは自分がそれを行うのだと。

英雄エネルディカに憧れる時間は終わった! 頼ってくる人を俺自身が守り、俺自身が英雄にならないといけない!)

 魚の姿は再び変わった。大海さえ引き裂くシャチのように大きくなる。汚水はどんどん清いものになり、フィンの体では五感が戻り始めた。ひざに食い込む石ころが痛い。

「フィン、しっかり!」

 アンリの声が聞こえた。ずっと呼びかけてくれていたのだろう。そして。

「俺を無視しやがって! 許さねえ!」

 いらだった声も聞こえた。〈草枯れの瞳〉が空で叫んでいる。うずくまっているフィンには、どれだけ離れているのか分からない。とはいえここまでの怒気であれば、もはや〈草枯れの瞳〉がそう離れていないことは場の空気として伝わってくる。

「くたばれ!」

〈草枯れの瞳〉が吠え、アンリが息を呑む。フィンは閉じていた両目を開け、空へ動かした。

 人の頭より大きな氷塊が落ちてくる。〈草枯れの瞳〉が〈淵源〉デュナミスで作ったに違いない。フィンは結界の中にいるので平気だろうが、アンリとレベッカは違う。

「こんなもの……!」

 フィンは、立ち上がりつつ右腕を二度振り払った。

 一度目は、結界を軽く引き裂いた。〈命砕く魔手〉の力はレベッカの予想以上に大きい。

 二度目は、氷塊を弾き飛ばした。誰もいない空で白い花火のように破裂させる。

 普通の人間なら、このようなことをできるわけがない。結界に閉じ込められたままでいるしかなく、〈命蝕〉の放った氷塊に触れれば氷像と化すしかない。

 今のフィンは、もはや普通の人間ではなかった。右手で握っていたはずの〈緋核〉と水晶球は消えている。腹にあった傷も、置き換えられたときに治癒していた。

「成功したのね」

「フィン、よかった!」

 嬉しそうにしてくれている二人へ、フィンはうなずく。

「お前、〈淵源〉を……生意気だ!」

〈草枯れの瞳〉が儀式の終了に怒りを強め、フィンに体当りをかけてくる。レベッカの道具は効果時間を切れさせていた。

 フィンは腕を体の前で立て、身を守った。それだけでどうにかなるという確信があったわけではない。ただ、そうしようと思っただけだ。

 それで十分だった。先程のように倒されたりせず、〈草枯れの瞳〉を跳ね返すことができた。何度ぶつかってこられようと、どれだけ速度を上げられようと、持ちこたえられる。

 しかもフィンは高速で飛び回る〈草枯れの瞳〉を目で追っていた。防御を解いて次の攻撃を紙一重でかわし、すれ違いざまに〈草枯れの瞳〉の腕をつかんだ。振り回してから放り投げる。〈草枯れの瞳〉は弾みながら転がった。

「この猿がああああっ!」

 それで〈草枯れの瞳〉は怒りを頂点に到達させたようだ。赤く変色しそうだと思えるほどの憤怒に染まり、高い空へ上がる。逃げるつもり、ではないだろう。誇りにかかわる。

「それなら、こうしてやる!」

 最大限に息を吸い込むと、口の中に氷塊が発生した。先程跳ね返したものよりも大きく膨らんでいき、〈草枯れの瞳〉の口からはみ出る。

「逃げてえなら、逃げてもいいぞ」

〈草枯れの瞳〉の声がした。どうしてあの状態でしゃべることができるのかは不明だが。

「それとも、堪えてみるか? お前は耐えられたとしても、後ろの二人はどうだ」

 両手の指から光の帯を何本も発する。フィンたちへ突き刺さるのではなく、枝分かれしながら地面に食い込んだ。長い筒のような檻となってフィンたちを囲む。

「空間的に孤立させる術でもあるみたいね。これじゃ転移の呪符が使えないわ」

「あいつ、あたしたちを人質に!」

 レベッカは事もなげに言いつつ、アンリは怒りと恐れが混じった声を上げつつ、〈草枯れの瞳〉を見上げる。

 フィンは、脱出が難しいことに歯ぎしりした。檻に穴を作って飛び出そうにも、アンリたちを通す前に檻は新しく補充されてしまうかもしれない。そうなる前に脱出できたとしても、着弾した氷塊がどのような影響を及ぼすか分からない。爆風は凍結の嵐となり、アンリたちはちょっとやそっと走っても広々とした効果範囲から逃れられず、心臓を永遠に止められるのかもしれない。

(攻撃用の呪符で術を中断させるか? でも、俺が持ってるのは一般人でも扱える程度のやつだ。〈草枯れの瞳〉がいる場所は高すぎるから、それじゃ届きそうにない。防御用の呪符でも同じようなものだ)

 生半可な守りではこれから繰り出される攻撃を防げないように思える。〈命蝕狩り〉が使う高威力の呪符は村長家に置いたままだ。レベッカなら持っているだろうが、〈草枯れの瞳〉は受け渡しをする前に氷塊を吐き出しそう。

「こういうのはどうだ。俺が檻に穴を開けて、空間の孤立化が解けた隙に転移の呪符を」

「使うのがもったいないわ。あんたがどうにかしなさい」

 レベッカは、またキセルをふかしていた。焦りは見えず、いつの間にか拾っていたものをフィンに投げ渡す。

 フィンがここまで持ってきてしまった、バルグのテンガロンハット。

「難しいことじゃないわ。バルグがやってたことを思い出しなさい。あいつはあんたにとって最高の師だったはず」

 フィンは、稲妻に打たれたような気分でテンガロンハットを見下ろした。

 バルグは強い男だった。いつも飄々としており、〈命蝕〉が何十体来ようと故郷を守るために立ち向かい――

「……そうだ!」

「凍れ!」

〈草枯れの瞳〉が氷塊を放った。かなりの大きさだ。〈命蝕狩り〉となった身であろうと、まともに食らえば氷の中へ閉じ込められてしまうのだろう。

 フィンは迷いを消していた。師のテンガロンハットを頭にかぶり、煙草臭いことは気にせず氷塊を見上げる。


「バルグの魂は、俺が受け継ぐ!」


 氷塊は、フィンにもアンリたちにもたどりつけなかった。フィンの声を浴びるなり、砕け散ったからだ。〈草枯れの瞳〉が単眼を見開く。

「何だと……!」

「あんたの放った〈淵源〉が、〈草枯れの瞳〉の氷を構成する〈淵源〉に勝ったのよ」

 レベッカは、悠々と煙を吹く。

「今のあんたは自由よ。考えがそのまま力になる。〈淵源〉っていうのはそういうものよ」

 先程のフィンも、諦めたくない一心で雄叫びを上げていた。

「呪符だって、〈命蝕狩り〉が考えた力を閉じ込めておくもの。言ってみれば覚え書きね。本当は紙切れ以外でもいいのよ」

 バルグがいばらを頻繁に使っていたのは、〈淵源〉を込めやすい物体だから。そのことも、フィンは「いばらがバルグにとって書き込みやすいものだった」と考えることで楽にイメージできた。

「いい加減にしろ、クソども!」

 空では〈草枯れの瞳〉が再び氷塊を膨らませており、フィンはとっさに地面の石ころを拾った。

「何度もさせるか!」

 割れない程度に強く握り、「〈命蝕〉を倒したい」という願いを込め、高いところにいる〈草枯れの瞳〉へ思い切り投げる。

 ただの石だ。呪符ではないし、元は人間の武術家だったという〈命砕く魔手〉に合った道具でもない。〈淵源〉はすぐに抜けていってしまう。

 今はこれで十分だった。石は風を割るように飛び、〈草枯れの瞳〉の顔面に命中。〈草枯れの瞳〉は意識が途切れたのか、術を中断させた。氷塊と光の檻を消し、落ちてくる。

「見てろ、バルグ!」

 フィンは墜落する〈草枯れの瞳〉の軌道を見ながら走った。〈草枯れの瞳〉は地に衝突する寸前で我に返って上下逆になった体を戻したが、もう遅い。フィンは間近まで迫っている。

「お前のお陰で得た力を!」

〈草枯れの瞳〉のおぞましい顔へ、拳を何度もねじ込んでいく。

 フィンにとって、バルグのいばらに相当するものはフィン自身の肉体だった。〈草枯れの瞳〉は顔を変形させ、殴り飛ばされた。土をこそぎ取りながら転がっていく。

 土ぼこりが治まったとき、〈草枯れの瞳〉はぴくりとも動かなくなっていた。額の〈緋核〉は、最後の一撃が当たったことで粉々に砕けている。〈淵源〉を感知できる者がここにいたなら教えてくれただろう。〈草枯れの瞳〉は死んだ、と。

「いけるみたいね」

「すごい!」

 レベッカは煙草を味わいながらつぶやき、アンリは剣闘士の戦いを初めて見た少年のように声を上げて駆けてくる。慣れているレベッカはともかくアンリは女の反応ではないとフィンには思えた。相当熱くなったのか、すぐそばで立ち止まった姿をよく見ると握った手が白くなっていた。フィンがそれを黙っていたのは、言えば怒られそうだと感じたから。

 そして、目前に生じた結末の方が心をより強く引くから。

「これ、俺がやったのか」

 フィンは、〈草枯れの瞳〉へ恐る恐る近づきながらつぶやいた。戦っている最中はともかく、こうしてみると実感できない。

 しかし、この〈命蝕〉を倒したのは明らかに自分だ。しかも他者が作った道具によってではなくフィン自身の手で戦い、アンリを守ることができた。少しずつあふれてきた達成感と共に〈草枯れの瞳〉を眺める。

〈草枯れの瞳〉の口からこぼれているものがあった。

 目にしたことがあると思え、つまみ上げた。見た場所がどこかはすぐに気づいたが、〈命蝕〉が隠し持っているのはあまりにも不自然。

「通信用じゃない? 映像や音声を〈淵源〉に乗せて仲間とやり取りする機能のやつ」

 後から近づいてきたレベッカの言葉に、フィンは首を傾げた。

「仲間は散り散りって言ってたような」

「やっぱり、親玉が手下に配ったりするの? なくしたら怒られそうだから、変なものでも大事にしそうね」

 アンリの言うとおりだとフィンも思ったが、〈命砕く魔手〉は既に亡い。それなのにどうして持っているのかは分からない。

「そう言えば……」

「それ」を眺めていたフィンは、村へ来て間もないときのことを思い出した。

 バルグがああしていたのは、単なる挨拶ではない。だとすると、バルグに呪いをかけたのは。

 その考えが正しいのなら、バルグは事件を仕組んだ者が誰か気づいていたということ。しかし、黙っていた。そうしている間に策略を練られ、死の舞台へ送られてしまった。

 レベッカは、水晶球の入っていた箱をフィンに突き出してきた。

「これには〈淵源〉を遮断する効果があるんだけど、ご入り用かしら?」

「ありがたい!」

 フィンはすぐさま箱を受け取り、「それ」を入れた。固く蓋を閉め、懐に差し込む。

「これで、話を聞かれたりしない」

「どうしたのよ」

 苦しみが顔に出ていたようで、アンリが問いかけてきた。フィンは感情を持てあましながら告げた。

「俺とバルグの仕事は、まだ終わってない!」

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