3-1
二人を照らす太陽が一瞬だけ陰った。空から下りてきた者はまさに異形と言っていい姿で、フィンは反射的に立ち上がった。
「〈命砕く魔手〉の残党か!」
大きさは身を丸くした大人ほど。しわだらけの黒いボールのような体で、地面すれすれの高さで浮いている。不気味な目と口は前面に一つずつ。長い爪のある腕は両側面に一本ずつ。元はどのような生き物だったか分からない姿の〈命蝕〉だ。
「お前は
フィンは答えなかった。ずっと持っていたテンガロンハットを木の根もとへ投げ、アンリをかばうようにしながら〈熊の爪〉を抜く。それを見た
「お前たちのせいで〈命砕く魔手〉様が死んで、生き残ったやつも散り散り……俺以外はどっか行っちまった! 面白くねえ!」
フィンからすれば、それは筋違いの言い分。
「お前たちが村に攻めてきたからだろ!」
「俺たちの食料が生意気なことを抜かすな!」
〈命蝕〉は余程怒っているようで、額にある〈緋核〉を示して誇ることすらしない。
「アンリ、逃げろ!」
フィンは動揺して座り込んだままのアンリに叫んだ。もう〈命蝕〉はフィンへ砲弾のように飛んでこようとしている。
向かってくる〈命蝕〉にフィンは〈熊の爪〉の突きを繰り出した。しかし〈命蝕〉は錐を弾き、体当りを成功させる。
フィンは背中から地面に倒れ込んだ。遅れて立ったアンリが心配そうにしていると気づき、痛みと焦りを振り払う。
「俺は大丈夫だ! お前は急げ!」
アンリが手を差し出す前に起き上がった。〈命蝕〉は空で旋回し、再び飛びかかってくる。
「ほれ、どうした!」
横薙ぎの一撃。フィンは受け流そうとしたものの、〈命蝕〉の動きが速すぎてついていけなかった。今度は倒されずに済んだが、痛いのは同じだ。
「ただの人間が、俺たち〈命蝕〉様に勝ててたまるか!」
「……絶対に勝ってやる!」
フィンは胸のポケットから呪符を取り出した。襲いくる〈命蝕〉へ突きつける。
爆発が生じた。しかし〈命蝕〉は空中で止まり、腕を一振りしただけで爆炎と爆風を散らせた。
「効かねえなぁ!」
〈命蝕〉は差を確信したようで、にやつき始めた。フィンはその様子に動揺しながらも、右の〈熊の爪〉を突き出した。〈命蝕〉はそれすらも錐の部分をつかんで止める。
「こんなもんが役に立つか!」
腕に力を込める。右手の錐が音を立てて砕けた。金属であり、〈淵源〉で強化されているのに。
「貧弱な武器だ!」
〈命蝕〉が勝ち誇るように笑い、爪を向けてくる。フィンは歯ぎしりしながら左の〈熊の爪〉で受け流そうとしたが、さばききれなかった。〈命蝕〉の爪はフィンの服を切り裂き、腹に傷を刻み込む。内臓が飛び出すほどのものではないが、血がしぶいた。〈命蝕〉は爪にこびりついた血をうまそうになめる。
「せっかく生き残ったのがこんな雑魚じゃなぁ!」
「雑魚で悪かったな!」
フィンは痛みを堪え、左の〈熊の爪〉で攻撃した。しかしそちらの錐も、〈命蝕〉が爪を振り動かしただけで根野菜に包丁を当てたような輪切りとなった。鋭さが違いすぎる。
「こっちまで……!」
「くだらねえ」
〈命蝕〉はフィンが動揺している間に勢いよく空へ上がった。宙返りし、体当りをかけてくる。フィンはもろに受けてしまい、腹の傷を広げられながら倒れた。
「なんてやつなの……!」
アンリがフィンに駆け寄ると、〈命蝕〉は下品な声で笑った。
「逃げねえとは、肝の据わったメスだ。お陰でいいことを思いついた」
なぶるような視線が、アンリの全身をなめ回す。
「なぁ、雑魚。そのメスを差し出せ。そうしたらお前は後回しにしてやる」
「ふざけるな!」
フィンは、ふらつきながらも立ち上がった。
体中のいろいろなところが痛み、愛用の武器が使い物にならなくなったショックも大きい。バルグからもらったものなので尚更だ。それでも、アンリを差し出すなどという話は受け入れられない。バルグの忘れ形見だということだけではなく、先程思ったことが頭の中に返ってきている。
(アンリは、自分の弱いところをぶちまけてくれた。そういう人を助けていれば――)
どうあってもアンリだけは生かして帰す、刺し違えてでもこの〈命蝕〉を倒す、という気迫がフィンの中にわき上がっていた。使えなくなった〈熊の爪〉を両方とも地に落とす。
「取り引きする気がねえなら、二人とも大人しくしとけ!」
〈命蝕〉が口を大きく開き、霧のようなものを地面に吐いた。フィンはとっさにアンリを突き飛ばした。
氷が発生し、フィンの足と地をつなぎとめた。フィンは力ずくで外そうとしたが、びくともしない。アンリがまた駆け寄ろうとしたので、「来るな!」と叫んで止める。
「一匹だけか。まあいい」
〈命蝕〉は舌なめずりしながらアンリを眺める。
「これで、どっちが先か決まったな。雑魚、お前はそこで順番を待ってろ」
アンリは捕食される恐怖を改めて感じ取ったようで、青ざめた。一方、フィンは服のあちこちを探っていた。この氷を砕けるのなら、爆発の呪符でも何でもいい。もしかすると足まで駄目になるかもしれないが、このままじっとしておくより数億倍マシだと思えた。
「こんなところにいたのね」
緊迫した場に、やたら澄ました声が差し込まれた。フィンとアンリだけでなく〈命蝕〉までもが目を動かす。
「フィン、あんたを探してたのよ」
黒いローブととんがり帽子を身に付けた、妙齢の女。旅商人のレベッカが、笑顔をたたえて歩いてくる。すぐそばに人食いの怪物がいるのに。
「邪魔すんじゃねえよ」
〈命蝕〉がじっとりとにらんでも、レベッカには気にした様子がない。半眼を返すだけ。
「あのねえ、あたしはフィンに用があって来たの。空気を読んでくれる?」
戦いの空気を崩した人間が言うことではない。〈命蝕〉は馬鹿にされたと思ったのか、牙が並んだ口をレベッカに開けた。
「よく分かったよ、お前が死にたくて仕方ねえってな!」
あれなら楽に人間の首や胴体を咬み千切れる。しかしレベッカは慌てず、指先大のカプセルを〈命蝕〉の口に放り込んだ。
「お前、俺に何を……っ?」
〈命蝕〉の体が膨れ上がった。打ち上げ花火のように空へ飛んでいき、見えなくなる。
「大型の獣でも持ち上げる呪法風船はおいしいでしょ? それとも、美人からのごちそうが嬉しくて舞い上がっちゃったのかしら?」
レベッカは上品に笑い、フィンの足に一枚の呪符を落とす。
氷が消え、足が解放された。解呪の呪符だ。フィンは重い雰囲気をかき消され、全身から力が抜けるようだった。緊張のあまりに忘れていた傷の痛みまで返ってきてしまい、うずくまりかけたが。
「……レベッカ、助かったよ」
「倒したわけじゃないから、そうたたずに下りてくるわよ。それはあたしの仕事じゃないもの」
アンリもレベッカの落ち着いた雰囲気を見て安堵したようだが、フィンからこぼれ続けている血を見ると焦りの表情に戻った。
「何かで止めないと……」
「お困りのようね。これを使ったら?」
レベッカは肩掛け鞄から包帯を取り出した。フィンはこの守銭奴から買えば高くつくと分かっているので、必要に迫られないかぎりは世話になりたくない。しかし何も知らないアンリは「ありがとうございます!」と礼を言いながら包帯を受け取った。
「薬もあれば……」とアンリがつぶやいたので、フィンは止血だけで十分だと遮った。レベッカならこういうときに薬を相場の十倍くらいの値で売ることもある。アンリは心配そうにしつつもフィンの上着をたくし上げ、手際よく包帯を巻いた。
「あの、フィンのお知り合いの方なんですか?」
一通り済ませたアンリは、レベッカに振り返った。このような服装をした人間はアグロ村にいないので戸惑いが残っているが、レベッカは気にせずアンリの右手を取って自分の両手と握り合わせる。
「あたしは旅商人のレベッカ。フィンやバルグといろいろ取り引きさせてもらってるの。今日もそのために来たのよ。もちろん、あなたも欲しいものがあるなら遠慮なく注文してちょうだい。安くしておくわ」
「ああ、レベッカ。バルグは……」
フィンは数日前の辛いことを話そうとした。レベッカはアンリから手を放し、軽く告げる。
「死んだんでしょ?」
「どうしてそれを」
フィンたちは言葉を失ったが、レベッカは涼しい顔で語る。
「あたしたち〈命蝕狩り〉向けの商人は、商売相手の居場所を特殊な道具で常に調べてるの。中には付けを踏み倒そうとするいい度胸の輩もいるから」
バルグの行き先にいつも居合わせるのは、そのお陰だったようだ。
「あたしはバルグから遠隔地発注用の飛行呪符を受け取って、ここへ移動してたのよ。あんたたちと別れてから逆方向に行ってたせいで、時間がかかったけど。その途中でバルグの反応が急に消えたから、おかしいと思ったのよ」
欲しい品の名を書いて飛ばせばレベッカのところまで行ってくれる呪符のことだ。注文した品はいばらの結界を作る道具だろうかとフィンは考え、使用者がいなくなってしまったことを悲しく思った。一方レベッカは、商人の表情になってフィンを見据え始めていた。
「あたしがここへ来た理由は、バルグが死んだことでいくらか増えたわ。バルグがあたしに抱えてた借金を片づけてもらわないといけない」
〈命蝕狩り〉は、旅をしている途中で懐具合が寂しくなることもある。そういうときはレベッカのような旅商人から金を借りる。バルグも同じだった。
「待ってください。フィンはいろいろあったばっかりで……」
アンリが割り込んだが、レベッカは立てた指を振りながら舌を鳴らす。
「〈命蝕狩り〉は生き馬の目を抜く商売なのよ。フィンも〈命蝕狩り〉を目指してるんだから、しっかりしてもらわないと困るわ」
「でも……」
「レベッカの言うとおりだ」
納得できない様子のアンリを、フィンは制した。
「それに、レベッカも悲しんでるんだ」
よく見れば、今日のレベッカにはいつもはめている宝石の指輪がない。それとなく喪に服しているのだ。レベッカにとってバルグはいい客であり、友人でもあったのだから。
「あんたが何を言ってるのか、あたしには見当も付かないわ。このレベッカさんは仕事に私情を挟まないことで有名だから。さあ、借金総額と担保の一覧を見てもらうわよ」
レベッカはいつものように宝石をなで回そうとしてしまった指でそれとなく服のほこりを払い、肩掛け鞄から書類を取り出した。それを手渡されたフィンは、書いてあることを見るなり頭の中がさあっと冷たくなった。
「……金遣いが荒いことは知ってたけど、ここまでだったのか」
〈命蝕狩り〉ならともかく一般人では到底払えない額で、横から見たアンリも引きつる。担保となっている品――ほとんどはバルグが使っていた〈淵源〉仕込みの装備品――の名もずらりと並んでいて、全てを渡さねば借金は消えない。
「何なら、今すぐ払わなくてもいいんだけどね」
フィンはレベッカの一言に絶句した。守銭奴そのものの女が発した言葉とは思えない。バルグが死んで同情的になっているとしてもだ。レベッカはフィンの態度に「失礼ね」などと言わず、平然と説明する。
「バルグはあんたを自分の後継者に指定してたのよ。あんたがそれを受け入れるなら、あたしは今までバルグとやってた取り引きをあんたに移行させるだけってわけ。だから担保を今渡すも自由、自分の稼ぎを使って後で払うも自由よ。駄目なのは踏み倒すことだけ」
レベッカが売ってくれる品の質は非常にいいが、後払いにした場合の利子は決して安くない。たまっている借金のそれも同じだ。今のうちに担保を渡してすっきりするか、それとも担保を有効利用した方がいいかと、フィンは悩んだ。同じものを新しく買うとなると、それはそれで金がかかる。
フィンが考えているうちに、レベッカはまた肩掛け鞄を探っていた。
「そんなわけで、バルグから預かってたこれもあんたのものよ」
フィンたちに見せたものは、手のひらに乗るサイズの箱だった。別の場所から取り出した鍵を使って開ける。
中には水晶球が入っていた。きらきらしていて、山の清水を丸く固めたようでもある。アンリが「きれい」とつぶやいているなか、フィンはレベッカがずっとバルグへ言っていたことを思い出した。
「レベッカがバルグから買おうとしてたのって、これか?」
「ええ。ある〈生賦型〉の傑作で、非常識な値が付くほどの高級品なのよね」
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