3-2
〈闇色の残滓〉が逃げてから一時間弱。決闘の場だった湖のほとりに戻ると、〈闇色の残滓〉がこぼした血はまだ残っていた。フィンは雨が降らなかったことを喜び、血の跡をたどり始めた。
森の中では散らばった木の葉に紛れているところもあった。しかし血の量が量。ときどきもたれかかったのか木にも血が付いていたので、見失うことはなかった。
進みながら考える。ここでバルグを死なせられない。死なせたくない。どうあっても〈闇色の残滓〉を倒し、呪いを解かねばならない。それにバルグは十六年もかけて〈闇色の残滓〉を追ってきたのだ。標的を目前にして命を落とすなど、報われない話だ。弟子がやってしまうのもどうか、バルグ自身にさせてやりたかった、とは思うが緊急事態だ。こだわりすぎて死なせてしまうよりはいい。
命を救いたい理由は他にもある。フィンにとって、五年前からバルグは絶対に負けることのない英雄だった。それが敵の手にかかって死ぬなど、あってはならない。何より、バルグはかけがえのない仲間。年は離れているが、互いに気を許し合える。今まで助けられてきたのだから、今日はこちらから助けてやりたい。また、親を亡くしたフィンにとってバルグは父親代わりでもあった。ここで再び親を失うなど御免だ。
もしバルグが死んだら村の者たちはどのような反応を見せるだろう、とも考えてしまった。あの調子ならアンリは大泣きし、ジャールはもの静かに悲しむ。他の村人たちも、せっかく打ち解けたのにと落ち込むに違いない。
バルグが一方的に友人と考えているドロルもさすがに泣くか、いやそれはないとフィンは思いついたことを打ち消した。ドロルは「無責任に途中で死ぬな!」と身勝手に怒るだけだろう。何にせよ、腹立たしい言動を見せることは間違いない。そういう意味でも、バルグには生き延びてもらわねばならない。
(……見つけた!)
フィンは足を止め、木陰に隠れた。
足音、いくらか速くなった息遣い、そして鼓動。それら全てが自分を気取らせるものとなるのではないか――不安を噛み殺し、血の跡の先をそっとのぞく。
木々の向こうに、髑髏と似た〈闇色の残滓〉の顔があった。木の根もとに座り、眠っているかのように頭を下げている。
(
今のところ、〈闇色の残滓〉はフィンに反応しない。急に顔を上げてにらみつけてきそうもない。傷が深すぎてフィンに構うどころではないのか。フィンの攻撃くらいギリギリでも黒バラとのすり替えでかわせると思っているのか。それとも、本当に気づいていないのか。
(そのままじっとしてろ!)
フィンは、アンリと共に〈闇色の残滓〉を見つけたときのごとくクロスボウを手に取った。ただし、既に弦を巻き上げた状態。〈闇色の残滓〉は術に集中しながら戦っている最中でさえフィンの不意打ちに気づいたのだから、戦っていない状態なら弦が伸びる音でさえ察知する――そう考え、移動中にこうしておいた。慎重な動作で〈淵源〉入りの矢を装着し、引き金の安全装置を外す。
(
構えてからは呼吸すら抑え、狙いを定めることに集中する。かわされて反撃されたら終わりだ。誰もフィンをかばってくれない。
〈闇色の残滓〉は強力な
(今度こそ……!)
射出。
矢がフィンと〈闇色の残滓〉の間にある空気を貫いた。〈闇色の残滓〉にかわすような動きはない。
矢尻が深い傷となった〈闇色の残滓〉の眉間に深々と突き刺さった。封じられていた
(当たった!)
フィンは心の中で歓声を上げたが、まだ安心はできない。相手は顔面と胴を割られながら走り回る化け物だ。まだ死んでいないかもしれない。
腰のホルスターから〈熊の爪〉を引き抜き、木々の間を駆け抜けて〈闇色の残滓〉へ迫る。〈闇色の残滓〉は二度も三度も不意打ちを受けてくれるほど優しくないため、後は肉弾戦で勝利をもぎ取らねばならない。間を詰め、渾身の力を込めて右の錐を突き出す。
フィンに違和感がわき上がった。ヒットする寸前で右腕を止める。
(反応がなさすぎる!)
〈闇色の残滓〉の体が傾いた。横向きに力なく倒れる。
「どうなってるんだ……?」
もし不意を突く策だったなら、フィンはもう魔性の爪に貫かれている。しかし〈闇色の残滓〉はぴくりとも動かない。
流れ出た血は、黒く固まり始めていた。生臭いにおいを嗅ぎつけて集まっていた虫たちが、こそこそと逃げていく。
〈緋核〉は真っ二つにされていないものの、ひびを入れられていた。湖で見たときは、こびりついた血のせいでわかりにくくなっていたのだろう。
これが壊れた〈命蝕〉は、長く生きられない。他の〈命蝕〉に治してもらったり〈緋核〉を奪ったりして延命することはできるが、〈闇色の残滓〉は間に合わなかったようだ。〈命砕く魔手〉の幹部なら、部下の命くらいいくらでも使えるはずなのに。
(〈闇色の残滓〉は、あの一撃から〈緋核〉を守りきれてなかったのか。そのうえ、この傷だ。呪いは本当にギリギリの状態で使ったんだろうな。そんな無理をしたんだから、俺が瀕死のバルグを村へ連れて帰ったころにはもうこの状態だったのかもしれない)
フィンは、ゆっくりと現状を呑み込んでいった。
二度の呪いをかけられた者なら、二度目の呪いの主が死んでも意味はない。一度目の主が死ななければ呪いは解けないからだ。
(それなのにバルグの呪いが解けてないってことは……!)
フィンは自分が導き出した結論を信じられなかった。しかし、それしかありえない。
激しい音がフィンの思考を中断させた。聞こえた方向へ振り返る。発したものは視界の中にないが、何の音かは分かる。
「稲妻の結界……〈命蝕〉が村に来たのか!」
そうなったら嫌だと思っていたことが現実になってしまった。
「フィン!」
木々の間から小鹿のように駆けてくるものがった。アンリがフィンのそばで立ち止まり、荒い呼吸を抑えようとする。しかしなかなか静まらない。全力で走りながらフィンを探していたのかもしれない。
「あんたが村を出た後で、〈命蝕〉が見つかって……目を覚ましたバルグさんが……」
「無茶しやがる! 戦ったり結界を出したりできる体じゃないのに!」
フィンは自分の死が迫ったように苦しく感じた。アンリは汗を散らしながら首を振る。
「村長は、一人で戦いに行ったフィンが帰るまで待ったらどうかって、言ったけど……バルグさんは、今回はフィンが太刀打ちできる敵じゃない、って……」
「まさか、村に来るのは」
「相手は〈命砕く魔手〉だって、バルグさんが言ってた。ドロルも、死んでも俺たちを守れって、あおったし……」
〈命砕く魔手〉は、この山に集まった〈命蝕〉の首領。フィンは身が冷たくなった。
「ただでさえ呪いで死にかけてるのに、そんなやつと戦うなんて!」
「あんた、呪いを解きに、行ったんでしょ? 〈闇色の残滓〉とかいうやつは」
フィンは一瞬だけ身をずらし、自分の後ろにあるむごたらしいものをアンリに見せた。速かった彼女の呼吸が、痙攣したかのように止まる。討つべき相手と分かっていても、この状態を見れば驚きもするだろう。
「死んでる……? あんたがやっつけたのね?」
「……とっくに死んでたんだ」
フィンは圧迫感のような思いを味わっていた。
「十六年前のバルグに呪いをかけた〈命蝕〉は、〈闇色の残滓〉じゃなかった! きっとバルグは似たような外見の〈命蝕〉と勘違いしてたんだ! だから呪いは相変わらずバルグに食い込んだままだ!」
このままではバルグが危ない。フィンは駆け出した。
〈命砕く魔手〉の強さはかなりのもの。バルグに渡された道具でどうにか戦っているフィンが行こうと足手まといになるだけだ。それが分かっていても、じっとしていられない。捨て身で行けば、一瞬だけ敵の注意を引きつけてバルグに決定的な一撃を出させることくらいできるかもしれない。
アンリもまた、フィンの後ろを走っていた。村からここまで駆けてきたことで疲れているようなのに。
止めることなどフィンにはできなかった。少し振り返っただけでも、彼女の顔にバルグを心配する心があふれていると分かったからだ。
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