2-2
「くだらない」
食らいつく寸前の矢を、〈闇色の残滓〉はドロルの手でつかみ取った。まさに人間並みでない動体視力。
「不意打ちを狙っている者の存在は悟っていた。なあ、フィン」
誰かまで気づいている。
「私の術に
〈闇色の残滓〉が投げ捨てた矢は、アンリのすぐそばに突き刺さった。アンリは驚いたのか腰を落としてしまった。
「水を差してくれたな、メス。しかし座興として相手をしてやろう。バルグの不甲斐ない態度に腹が立っていたところだからな。このような人間に攻撃できないとは」
にやりとした〈闇色の残滓〉は、再びアンリへ近づいていく。
「〈闇色の残滓〉……っ!」
フィンはクロスボウを捨て、〈熊の爪〉を引き抜き、草むらから駆け出した。このままではアンリが危ない。
「馬鹿野郎ども! とっとと逃げろ!」
バルグが怒鳴ったが、フィンは従わずに〈闇色の残滓〉へ向かっていった。
「俺が逃げたら、お前はなぶり殺しにされても戦わないままだろ! そんなの許さない!」
〈闇色の残滓〉は少しでも戦い方を知っている者の方が楽しめると考えたのか、フィンへ視線を移す。
「フィンよ。己のあるべき姿を追って生き、そして死ぬか。それこそ生ある者の本懐」
フィンは、足手まといのドロルを優先して狙おうとまで思っていない。しかし、勢い余ってドロルを殺してしまってもやむを得ないとは考えている。嫌な人物でも人間なので殺めたくないが、バルグが死んでしまうよりはいい。
〈熊の爪〉で〈闇色の残滓〉の頭を繰り返し狙う。〈闇色の残滓〉もそう来ると読んでいたようで、ナイフとドロルの左手でフィンの攻撃を受け流していく。
「こいつ……うわっ!」
フィンは足をすくわれて転んだ。ドロルの体に足払いをかけられたのではない。その程度は警戒していた。〈闇色の残滓〉はドロルに溶け込ませていた手をドロルの足から伸ばし、フィンの足にまとわりつかせたのだ。ナイフを掲げたドロルが、フィンにおおいかぶさろうとする。
「本領たる私の爪でないことを詫びる。人間の脆弱な刃で死ぬなど、半人前であろうと不名誉――ッ!」
〈闇色の残滓〉は声を出せなくなった。フィンをまたぎ、ドロルへすがりつくように近づいたアンリが、矢を〈闇色の残滓〉の口にねじ込んだからだ。
座り込んでいたアンリはそばにあった矢を地から抜き、〈闇色の残滓〉の注意がフィンへ集まる瞬間を待っていたようだ。〈闇色の残滓〉もおびえたアンリがそのようなことをすると思っていなかったのだろう。雑魚扱いなどせず、囮になった度胸を見て警戒しておくべきだった。
「よくも、バルグさんにひどいことを……!」
アンリが矢を押し込んでいくなか、〈闇色の残滓〉は一度下がったドロルの右腕を上げた。ナイフが日の光を反射する。小さな刃であろうと頚動脈に穴を開けるくらいは楽なもの。
「させるか!」
身を起こしたフィンはアンリを突き飛ばし、〈熊の爪〉でナイフを受け止めた。
矢を抜いた〈闇色の残滓〉は、自らの口もとから血をこぼしつつドロルの足でフィンを蹴飛ばした。フィンがよろめいたところでナイフを掲げたが、それ以上はドロルの腕を動かせなかった。いらだちを映す。
「先程の矢で、制御が……くだらない真似を! この程度、はねのけてくれる!」
「つまり、俺には隙を晒してくれるってわけか」
起き上がっていたバルグが指を鳴らすと、草むらから紙片が飛び出した。〈闇色の残滓〉の額に貼り付き、スパークを生じさせる。
呪符だ。バルグもまた、罠を仕掛けて〈闇色の残滓〉の不意を突こうと考えていたようだ。
ドロルの手からナイフが落ちた。その身も倒れる。〈闇色の残滓〉がドロルの操作力を完全に失ったからだ。
「私の邪魔を……!」
髑髏のような頭が浮き上がり、ドロルに溶け込んでいた〈闇色の残滓〉の体が現れた。
〈闇色の残滓〉は両手に爪を出したが、身構える前にその腹部で爆発が起きた。伏せた体勢だったドロルに影響はなかったが、〈闇色の残滓〉はそうもいかない。ドロルから離れたところまで吹き飛ばされ、煙を上げつつ転げ回る。
「フィン、アンリ、ありがとよ」
バルグが頬の血をぬぐいながら勝ち気な笑みを浮かべた。先程の爆発は、投じた呪符によるもの。
「〈闇色の残滓〉、そっちこそくだらねえことをしてくれたな。お前にも思うところがあるんだろうが、俺に許すつもりはねえ」
懐から呪符を取り出し、再び放つ。〈闇色の残滓〉はかわそうとしたが、呪符の発動の方が速かった。光の帯がその四肢を絡め取る。
「まだ私は、死ぬことなどできない!」
鋭い口調で告げた〈闇色の残滓〉にバルグは詰め寄り、大斧を上段に構えた。
「お別れだ!」
一気に下す。顔面から胴まで一直線。傷と言えるほどなまやさしいものではない。谷と呼ぶ方が的確な深さ。
技の威力に呪符も耐えられず、弾け飛んだ。〈闇色の残滓〉自身はおびただしい血を辺りにまき散らしながら薙ぎ倒された。〈闇色の残滓〉が今まで生きて来られたのは、バルグと戦わず逃げ回っていたから――フィンの判断は正しかった。
〈闇色の残滓〉は
そうだとしても、肉体への傷は深い。顔面の傷は頭部の前半分を割り、胴の傷は内臓をこぼれさせている。それでも〈闇色の残滓〉はゆらゆらと起き上がってくる。
「ぐ……おのれ……」
とはいえ、足取りは子どもから突き飛ばされただけで転んでしまいそうなほどぐらついていた。戦えないことはもう明らか。
「私は、〈命蝕〉らしい生き方を……」
「黙りな」
いらだった様子の〈闇色の残滓〉に、バルグはにやついてみせる。本当は友人たちが危険な目に遭ったことで頭に血が上っていると、フィンは察していた。師は、心の動きを露にすれば隙も露になることを知っている。
「こう見えても俺はな、お前のことが嫌いじゃなかったんだ。強い力を持っていながら逃げるばかりで、滅多に人を殺さなかったからな。それなのに、こんなことをしやがって」
バルグは追撃をかけるべく〈闇色の残滓〉に大斧を掲げた。次で止めを刺すつもりだ。
「人間など、私たち〈命蝕〉には食料でしかない!」
叫んだ〈闇色の残滓〉が大斧に断ち割られ――散った黒バラとなる。〈闇色の残滓〉は身代わりを残して高く飛び上がっていた。深い傷を受けているのにバルグから離れたところへ降り立つ。
「ん……何かあったのか?」
そこには、寝ぼけた目を擦りつつ起き上がろうとしているドロル。間近に迫った〈闇色の残滓〉が爪を振り上げたところで、ようやく状況を理解したようだ。短くうめいて身をすくめる。急だったので、フィンとアンリは反応できない。
フィンは不思議に感じていた。普段の〈闇色の残滓〉は危なくなれば逃げるのに、今日は負傷しながら攻撃に出た。しかも、狙った相手は戦っていたバルグではない。
(どうしてドロルを? 誰でもいいから殺らないと腹の虫が治まらないのか?)
そうしているうちに爪がドロルに突き出されたが、途中で止められた。唯一行動できたバルグが駆け寄り、自分の腕を盾にしたからだ。血が迸る。
「馬鹿め」
〈闇色の残滓〉がこぼし――罠にはめたと喜ぶのではなく、本当に呆れた声だった――刺さった部分から黒い靄のごときものがあふれた。バルグから血が勢いよく吹き出している状態にも似ているが、これは〈闇色の残滓〉が爪から出している〈淵源〉。バルグは珍しく顔色を変えた。
「呪いだと……? まだ回数を残してやがったか!」
「私の生涯にて、行なう……最後の呪いだ」
靄はバルグに絡みつき、渦を巻きながら染み込んでいった。バルグはふらつくようにひざを落とす。〈闇色の残滓〉もまたよろけていたが、どうにかバルグから離れた。
「強き者が、弱き者の犠牲になるなど……!」
今までに比べれば遅すぎるが人間に比べれば速い、といった勢いで森に飛び込む。湖畔にはおびただしい血が残された。
「バルグ!」
フィンは師の名を呼んだ。バルグは十六年前にも呪いをかけられている。再び呪われたら。
「お前ら、全員無事か……」
バルグはフィンたちに問いかけたものの、その場に崩れ落ちた。
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