第二章

1-1

 フィンがアグロ村に来て一週間が過ぎた。〈命蝕〉エネルゲイアは何度も村を襲いに来ていたが、毎回返り討ちにされていた。ほとんどバルグ一人の手柄で、フィンは補佐をする程度だ。

 バルグはこちらから攻撃するために〈命蝕〉の隠れ家を探したが、全く発見できなかった。〈命蝕〉は人間の多い町で気配を断ちながらひそかに生活できるほど隠れるのがうまいのだから、自然の中に潜んだのならそうそう見つけられない。

〈命蝕〉をわざと撃ち漏らし、逃がしてから後をつけて隠れ家を調べることもできない。バルグに殺されなかった〈命蝕〉は逃げたりせず、自ら命を絶つ。帰ると〈命砕く魔手〉にむごい罰を与えられるからではないかとフィンは考えていた。

 そういう状況なので、守りに徹するしかない。その日もフィンは、昼の日ざしを浴びながら村の見回りを行っていた。村長家から出発し、今は民家のある場所を歩いている。バルグは〈命蝕〉の〈淵源〉デュナミスを感知できるが、万が一見逃した場合が怖い。そのため、フィンが一日に何回もこうすることになっていた。ただし「決まった時間」に「決まったルート」でやるわけではない。周期を読まれでもすれば逆に隙を突かれやすくなる。

 村に怪しげな存在がいそうな雰囲気はなく、どこもかしこも静かだった。バルグが〈命蝕〉の群れを村のすぐ外で血祭りに上げているとは思えない。

「おいおい、まだ昼間なのに酒かよ」

「いいじゃねえか!」

 風に乗ってフィンへ届いたのは、バルグと村人の声。バルグが明るいうちから酒を飲んで誰かに怒られているのかとフィンは考え、慌てて周囲に目を動かした。

 民家の窓に壮年の男とバルグの姿が見えた。バルグはくつろいでいるように見えても感知能力で警戒中だとフィンは知っているものの、他人に迷惑をかけさせてはいけない。止めるべく足を向けたが、そうしなくてもいいとすぐに気づいた。

「俺のおごりだ。お前は昔からこれが好きだっただろ」

 村人の方が、バルグにコップを渡して酒瓶を傾けていたからだ。

「村を守ってくれてるんだし、このくらいはさせろ!」

「じゃあ、たっぷり飲ませてもらうぞ!」

「やっぱりお前は調子がいいな!」

「そんなに褒めるなよ!」

「褒めてねえぞ、この野郎!」

 十六年も離れ離れだった者たちの空気とは思えない。家の中にいた子どももバルグにじゃれついていく。

 バルグは村人たちに受け入れられつつあった。何度も村を守って戦ったために信頼感が生まれ、バルグ自身がなれなれしいと思えるほど明け透けな接し方をするので、村人たちも仲間と認める気になったようだ。完全によそ者のフィンも、バルグの仲間ということで親切にしてもらえている。年若いせいで酒の席には呼ばれないが。

「元気そうね」

 声がして振り返ると、アンリがいた。その横には三十代半ば辺りの女。アンリの母親だ。いずれも飼い葉入りの籠を背負っている。クロードが雑貨屋として町の商人と取り引きをしているので、荷を運ぶ馬のために準備せねばならない。

「……母さん、フィンと少しだけ話していってもいい?」

「ええ」

 アンリがためらうような口調で言うと、その母親は小さくうなずいた。フィンに会釈してから、自宅のある方向へ歩いていく。

 ただし、何度か振り返っていた。娘が同年代の異性へ近づくことに抵抗があるのかもしれないとフィンは思い当たり、考えを更に広げた。

(純朴な村娘が外から来た旅人に惚れる、なんて話もある……まさかアンリが俺に? 二回も俺が危機に居合わせて、しかも二回目は実際に助け出したしな)

 フィンに異性を受け入れる気はない。今は〈命蝕狩り〉エネルディカを目指すことで精一杯だからだ。もっとも、年頃の少年として「旅の中でのロマンスも息抜き程度にはいいかもしれない」くらいは考えてしまう。アンリは母親の姿が見えなくなってから再び話しかけてきた。

「ドロルがごねたときはどうなるかと思ったけど、まとまってよかったわよ」

「ああ、確かに。まったく」

 フィンはアンリの言葉に反応しきれずしどろもどろになったが、うなずいた。

 小さな村なら権力を持つ者の一言で全てが決定されることもあるため、よそ者は出ていけという話になっていたかもしれない。ドロルの人望のなさに感謝するべきか、ジャールの温厚さに感謝するべきか。村長家で子どもじみた言動を毎日見せられているフィンとしては、どのような理由があろうとドロルには感謝したくない。

「村長がまともな人でよかったよ」

「それもあるけど、一番の理由はバルグさんがいい人だってことよ」

「確かに……バルグ?」

 よく見れば、アンリの目は民家で酒を酌み交わしているバルグに定まっていた。他には一切動かない。

「ねえ、バルグさんってどういう人なの?」

「どういうって、あのとおり毎日馬鹿なことやってて」

「そうじゃなくて、ほら」

 アンリは、言葉を探すように視線をバルグから離して空でさまよわせる。

「家族はいないの? 奥さんとか」

「結婚したことがあるって話は聞いたことない……何だ、そっちか。年の差を気にしないタイプとは知らなかった。バルグは女絡みに淡泊だから、どう言うか分からないけど」

「何よ、それ」

「バルグの方に惚れたんじゃないのか?」

「どうしてそうなるのよ!」

 平手がフィンの頬に飛んできた。アンリは眉をつり上げ、地を踏み鳴らすような足取りで去っていく。

「じゃあ、何だって言うんだ」

 フィンは手形が付いているであろう頬をさすりながらアンリの後ろ姿を見送り、巡回に戻った。

 そう歩かないうちにたどりついたのは、村外れにある小さな家。屋根がはがれ、壁に穴が開き、周囲には雑草が繁茂している。

 朽ちた家そのものは珍しくない。寂れた村に嫌気が差して出ていく村人もいるからだ。しかしこの家はフィンにとって特別と言える。村へ来て三日目くらいに、どういう場所か聞いたからだ。

「ここはバルグが住んでた家のはず……何をしてるんですか?」

 家の前に数人の村人が集まっていた。彼らのそばには板や大工道具がある。

「直そうと思うんだ。そうしたら、事件が終わってもバルグはここに住めるだろ?」

 答えたのは、フィンがこの村へ来たときに畑でひそひそ話をしていたノースだった。

(そこまでバルグを受け入れてくれたのか)

 初日の乾いた態度を覚えているフィンは驚きを隠すことができなかった。ノースはフィンの表情が変わったと気づいたようで、他の村人と顔を見合わせてから照れくさそうに笑う。

「お前には腹の立つ話だろうが、十六年前の俺たちはバルグを追い出したも同然だったんだ。ひどいことをしたもんだ」

 しかし、今のノースにそのようなことをする様子はない。

「ちょっとだけ言い訳させてもらうと、普通の木こりだったやつがいきなり怪力になったから動転してしまったんだ。〈命蝕〉の仲間になったんじゃないかと怖がって」

「いきなりそんなふうになったら、誰だって驚きますよ」

「まあな。呪われたバルグがすぐに原因の〈命蝕〉を追って旅立ったから、安心したもんだ。でもバルグはいいやつだったから、後味は悪かった。今さらこんなことを言う資格があるとは思えないが、同じ村で暮らしてきたんだしな」

 バルグが村に戻ったとき、彼らはおびえていた。それは決してバルグを嫌っていたからではなく、村の仲間だと考えることができなくなっていただけ。バルグが白い目を向けられても明るく振舞い、村のために尽くすので、呪われても〈命蝕狩り〉になっても元のままだと気づいたのだ。調子がいい、などとフィンは思わなかった。バルグが正当な評価を得たと感じて嬉しかった。

「バルグは〈命蝕狩り〉を十六年もやってきたから、そっちの仕事や付き合いもあると思う。その合間に休む場所として使ってくれたっていいんだ。もちろん仲間のお前も一緒に来てほしい」

 ノースの話を聞いたフィンは、帰る場所ができるのならありがたいと考えた。一ヶ所に留まらない生活を続けているからこそだ。つまずくことがあり、どうしてこのような暮らしをしているのだろうと暗く考えた日もあった。

(待てよ。バルグが村を出たのは〈闇色の残滓〉を倒して呪いを解くためだよな)

 フィンは気づいた。ここで〈闇色の残滓〉を討つことができれば、バルグはもう旅をしなくてもよくなる。折りよく、村の者たちと和解しつつもある。腰を落ち着けるにはいい機会かもしれない。

〈命蝕狩り〉を目指して旅を続けたいフィンは別れることになるため、寂しくないと言えば嘘になる。しかし「呪いが解けて故郷の村に戻った」という流れがきれいな終わり方だと考えれば受け入れることができる。バルグも自分の引退を機にフィンへ〈緋核〉を取り込ませるかもしれない。それならフィンにも大きな楽しみがあると言える。

「呪いさえ気にしなければ、バルグはただのいいやつだからな。ドロルとは大違いだ」

 ノースたちは笑顔で話し続けていた。

「そうそう。ドロルにはあのこともあるしな」

「あのこと……?」

 フィンが言葉の一部を拾うと、ノースたちは「口が滑った」と言わんばかりの苦い顔になった。黙っていてもフィンは他の村人に訊くと考えたのか、「俺たちが言ったってことは秘密にしてくれよ」と前置きしてから話し始める。

「お前も子どもじゃないだろうから話すけど、ドロルは村の若い娘に手を出すことがあるんだ」

「ドロルって、バルグと同い年のはず……女関係が大人しくなったりしないんですか?」

「若いうちは理解できないかもしれないが、男ってのはいくつになろうと男なんだ。おっと、ドロルのやることが正しいと言ってるんじゃないぞ。それを我慢できるのが大人ってもんだしな」

 しかしドロルは我慢しない、と言いたいのだろう。以前にアンリが口を濁していたのはこのことだとフィンは思い当たった。ノースはげんなりとしながらしゃべり続ける。

「ドロルが若いころから……バルグがいたころからとっくに始まってた悪い癖で、何人もそれでひどい目に遭って村を出ていったんだ」

「村長は何も言わないんですか?」

「言うさ。そうされればドロルもしばらくは大人しいが、そのうち元に戻る。村長も甘いところがあってな。いっそのこと勘当って手もあるが、我が子はドロルだけ。何人もの子どもが生まれてすぐ死に、その後でようやく育ったのがドロルだ。村長は奥さんもドロルが生まれたときに亡くしてるから、最後の息子が余計に大事なんだろ。俺たちはみんなドロルがしてることを知ってるんだから強く言うべきなんだが、ドロルが村長の後を継ぐことになってるんであんまり大きな態度には出られない」

 村社会なりの悩みがある、ということのようだ。

「今は何とかって〈命蝕〉が来てるが、本来ここはずっと昔から作物が育ちにくい代わりに〈命蝕〉が少ない土地なんだ。〈命蝕〉ってのは人間が好物だから、幸豊かで人の集まるところが好きなんだろ? こんな寂れた村は〈命蝕〉の方からもお断りってわけだ。そして俺たちは、追い出されたくないばっかりに黙り込んでしまう」

〈命蝕〉が出るものの愚者がいない場所で暮らすか。

 安全だが次期村長が愚者の村で暮らすか。

 ほとんどの人間は、目先に安全があればそれにすがる。痛くても痛さに気づかないでいることができれば、無事に生きていられる方がいいかもしれない。自分に火の粉が降りかからなければ、次期村長が愚かな村の方がいいかもしれない。

「村のくだらない話を聞かせて悪かったな」

 ノースは陰鬱な雰囲気をごまかすように笑った。

「次の村長がそんなやつで行き詰まってる村だからな。バルグみたいな騒がしいやつがいてくれたら、いくらか気分が変わるかもしれないだろ」

 フィンは師のことに思考を戻した。ノースの口ぶりからすると、バルグはドロルの悪癖を知っている。ドロルがそういう人間だと分かっていながら友を名乗っているのだ。フィンにとっては理解できないことだった。

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