2-1
ここしばらくの間に〈闇色の残滓〉が進んだ道を地図で確認してみると、確かにレベッカから聞いたアグロ山へ近づこうとしているようだった。
アグロ山はかなり都会から離れているため、村の住人も少ないのだろう。
辺境の地にこもって「人間牧場」などということを考える〈命蝕〉もいるが、簡単に噂をつかまれる程度の場所ではすぐに
危険を伴ってでもやりたいことがあるのか、それだけ〈命砕く魔手〉に自信があるということなのか――フィンはいくら考えても決定的な答えを導き出せなかったのでバルグに意見を求めたが、おどけるように「さあな」と答える程度。レベッカと別れた後のバルグは調子を戻したように見えた。
アグロ山の名を聞いたときの様子もフィンは気になっていたが、それについて教えてもらえることも何一つなく、レベッカに話を聞いてから四日が過ぎた。
「おかしい……いつもに比べてバルグの足が速い」
フィンは、森の獣道を一人で歩きながらつぶやいた。
進行方向にある小高い丘の頂点を枝葉の透き間から見ると、他の土地では見ることもできなかった珍しい木が一本だけ立っている。枝が左右へ大きく伸び、色の濃い葉が大きな傘のごとき形を作っていた。
聞いた話によると、あの木になる実は体によくて味もいいらしい。旅を続ける身としては、栄養補給のために食べておきたい。そのため、フィンは夕飯のデザートにしようと探しに来た。バルグの方は昼食を終えるなりすぐ出発すると言い始めたので、無理やり休ませておいた。
「俺の計算では、あの木まで六日かかるはずだった。でも、今日はまだ四日たったところ……一・五倍の速さで来たことになる。お陰で、ここはもう目的のアグロ山だ」
首を傾げながら草をかき分けていると、目前の木陰からうなり声が聞こえてきた。
現れたものの姿は犬に近いが、眼光は殺気を帯びている。口もとからのぞく牙も、より鋭くとがっている。一匹の狼がフィンへ近づいてこようとしていた。
「何だ、狼か」
フィンは狼に構わず、そのそばを通り抜けて目標の木へ進んだ。
狼はフィンのそんな態度が気に入らなかったのかもしれない。フィンの背中に飛びかかる。
「うるさい」
フィンは狼が地を蹴った音へ即座に反応し、腰に提げた武器へ手を動かした。
籠手の先に鋭い錐が四本生えた形。籠手の中に手を滑り込ませ、グリップを握りながら引いてホルスターから抜く。
ただし右だけ。この〈熊の爪〉は左右の手に一つずつはめるものだが、今はそこまでする必要を感じていない。
振り向きざまに狼の鼻っ面を籠手の側面で打ち、犬そのものの悲鳴を上げさせて殴り飛ばす。狼はよろけながら起き上がり、痛みを散らすように首を振った。
「仲間からはぐれたのか? さっさと群れに帰れ」
フィンは〈熊の爪〉をホルスターに戻し、狼をにらんだ。ただの動物との視線勝負で負けるつもりはない。
狼は力の差を認めたのか、尾を腹につけてどこかへ行ってしまった。後ろ姿をよく見れば、随分と痩せていた。毛づくろいもうまくできておらず、毛並みの乱れが目立つ。耳にも大きな切れ目があり、張り合うべき相手と言えないほど弱っていることは間違いない。
その後は特に何ごともなく、フィンは目的の木へたどりついた。根もとに立ち、枝の間へ視線を通す。
「もう秋が終わるから、ないかもな……いや」
高いところにある枝の先で赤い実が揺れていた。リンゴのような形で、視界に入る実はそれ一つしかない。
フィンは木にしがみついた。器用に登っていき、すぐに実のある枝の付け根へ到着した。かなり太いので体重を全て預けても大丈夫と判断し、そこから先はまたがって進む。
「よし、これで――」
実へ手を伸ばしたとき、風を切る音が聞こえた。矢が飛ぶ音だ。フィンがとっさに手を引くと、実と枝をつなぐ部分が矢に断ち切られた。あの部分はかなり細く、一センチの半分もないはずだが。
矢はどこへともなく飛んでいき、実は草の上に落ちた。弾力があるのでつぶれることも割れることもない。フィンは木から少々離れたところにいる者へ鋭い視線を送った。
ゴーグルとバンダナで頭部を覆った人影。手には弓、背には矢筒。落ちた実へ駆け寄ろうとしている。
フィンは、高さがあるにもかかわらず枝から飛び降りた。全身のバネを使って着地し、ダメージをゼロに抑える。こうすれば相手よりもずっと速く実の近くに移動できる。
「矢を使うなんて、危ないだろ!」
怒鳴りつつ、実を拾った。相手はゴーグルを額に押し上げる。
「そう思うなら、実を置いていきなさい!」
露になった顔は、フィンと年の近い少女のものだった。体にはわずかな凹凸を帯びているが、肌は活動的な小麦色に焼けていてこちらを見据えるまなざしは男顔負け。
「ここは村の採取場所だから、それも村のものよ!」
「一個くらいなら勘弁しろよ。ここは村の中じゃないんだから、旅人に少し分けてくれてもいいだろうに」
フィンは辺りを見渡したが、民家などはない。通りすがりの木の実は旅人にとって重要な食料なのだから、食べるなと言われても引き下がれない。
「それは今年最後の一個かもしれないのよ! よそ者にはあげられないわ!」
少女の声が敵対心で満ちているので、フィンは刺激されて余計に腹を立てた。
「こういうときは早い者勝ちじゃないのか? 俺が先に取ろうとしてただろ」
「食べ物が欲しいなら、うちの村まで来て頼みなさい! あんまり豊かじゃないけど、あんたが旅の途中で食べてるやつよりずっとマシなものがあるから!」
「何だと? 俺が作った飯はうまいぞ!」
フィンが断言すると、少女は挑発の目になった。
「あんたみたいなガキっぽい顔が料理?」
「俺は十四だ! ガキじゃないぞ! お前だって大して変わらない顔だろ!」
「あたしはこないだ十五になったからあんたより上よ! 背だってあたしの方が大きいじゃないのよ、ちびっ子!」
「俺にはフィンっていう立派な名前があるんだ! 背は、お前が女にしては大きいだけじゃないのか? 男女!」
「変な呼び方しないで! あたしはアンリよ!」
子どもそのものの怒鳴り合いを続ける。論点もずれてきているが、フィンはここまで来て引き下がったりできない。
「俺は、この実が体にいいって聞いて楽しみにしてたんだ! 譲れるわけないだろ!」
「実の効き目が必要なのはあたしも同じよ!」
応酬の間にアンリと名乗った少女は頭に血が上ったのか、バンダナとゴーグルを自分からむしり取った。長い黒髪がこぼれる。
「うちの父さんが寝込んでるのよ! だからその実で元気を付けさせてあげたいの!」
「父さん?」
フィンは気の抜けた声を放った。アンリは馬鹿にされたと思ったようで、余計に頭から湯気を立てる。
「何よ、まだ親にべったりなのかって言うつもり?」
「違う。そういう事情があるならさっさと言えよ」
態度を変えたフィンは、手にしていた実をためらうことなくアンリへ投げた。アンリは呆然としながら受け止める。
「……持っていっていいの?」
「当たり前だろ。別に俺たちは病気ってわけじゃないし。ちょっと噂に聞いたから食べてみたいと思っただけで」
アンリはまだ拍子抜けしていたが、うなずく。
「ありがとう……あたしが、あんな手で取ろうとしたのに」
「いいからさっさと持っていってやれよ。待ってるんだろ」
フィンは、そこまで言ったところで妙なものを耳にした。
荒い息遣いが繰り返されている。両手は腰の〈熊の爪〉へ自然に動いた。
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