第一章
1-1
近づいてくる。闇の中、雨が上がったばかりで湿った石畳の上を、ひたひたと足音を立てるものが動いている。
――やつが来た。フィンは街路樹の陰に身を潜めたまま、ずっと右手の中に入れているものを握りしめた。怪物や山賊とやり合いつつさすらう生活の中で鍛えてはいるが、まだ十四歳の体は伸びきっていない。そのため、隠れる場所は最小限で済む。後はどれだけ平常心を保ち、相手から気取られないようにできるかの勝負。
ここはまっ昼間ならところ狭しと露店が並び、たくさんの買い物客でごった返すが、今は夜陰と静けさに支配されている。空に上がった月も、「それ」の存在から己が身を遠ざけるかのごとく黒雲の後ろに隠れていた。しかし無慈悲な風が雲を押し、おぼろげな月光が夜の街へ降り注ぐ。
照らし出された「それ」は、骨に真っ黒な皮が直接張りついているような姿だった。眼窩も鼻腔も髑髏そのもので、口には濁った黄色の歯が並んでいる。ほっそりとした胴に衣服はなく、男女の別を示すものは見つけられない。背を丸め、歩調をやたら左右にぶれさせ、地獄からさまよい出た亡者のようでもある。
大抵の人間は、見ただけで卒倒するか悲鳴を上げるかのどちらかだろう。しかしフィンはおびえたりせず、怪物から目を離さない。いつでも駆け出せるよう、足は靴越しに石畳をつかんでいる。
(もっとこっちに来い……今日こそ片づけてやる!)
ばきり、と乾いた音が響いた。
フィンが落ちていた枯れ枝を踏んだせいだ。昼なら雑踏にかき消されるが、今は大きすぎる。怪物も、眼窩の奥でぎらつく目玉を動かした。フィンが隠れている場所へ。
「ちっ……〈闇色の残滓〉、覚悟!」
もう隠れていても意味がない。フィンは怪物の通り名を叫んで木陰から飛び出した。
「フィン。望む道を追うため、生あるものの定めたる眠りすら拒むか」
怪物が発した潤いのない声は、よろけるような歩き方と異なる整然とした口調だった。フィンにとっては聞き慣れたもの。
この〈闇色の残滓〉は慎重だが決して臆病ではないと、フィンはよく知っている。まして現われた相手が自分より弱い存在と分かるのなら尚更。想像したとおり、〈闇色の残滓〉は両手の先から鋼の爪を伸ばす。
あの爪には大木すら両断する威力があり、人の胴を輪切りにするくらい楽なもの。フィンはわいてきた恐怖をねじ伏せ、手にしていたいくつもの紙片を〈闇色の残滓〉の周囲にばらまいた。いずれも特殊な文字が描かれている。
紙片は空中で止まり、一枚一枚から光の帯が飛び出した。〈闇色の残滓〉の細い胴や手足に絡みつき、動きを止める。
「呪符で抑えられたら、お前みたいな逃げ足の速い
〈命蝕〉。動植物構わず異形の姿に変えることで仲間を増やす怪物。元が小さな虫だろうと美しい花だろうと、〈命蝕〉にされてしまえば人間以上の力を扱うようになる。不幸中の幸いは、一生涯の中で仲間を作ることのできる回数が限られていること。〈闇色の残滓〉も先日まで多くの下僕を引き連れていたが、今は一人きり。やるなら今しかない。
「この程度で私を拘束したつもりとはな」
〈闇色の残滓〉は完全に自由を奪われたわけではなかった。唯一動かせる左手で光の帯を斬り裂き、嗜虐的な笑みを浮かべながら爪を構える。フィンはその余裕ある姿に歯ぎしりした。
「待て!」
フィンたちの上から低い声が降ってきた。二階建ての屋根で、月を背に叫んだ者がいる。
テンガロンハットをかぶった男。見た目の年齢は二十代半ばで、顎には無精髭。体格はフィンよりずっと筋骨隆々としていて背も高い。何より特徴的なのは持っている大斧で、大人の男二、三人がかりでなければ運べそうにないほど大きい。それなのにこの男は鉄製の長い柄を右手だけで握り、肩にかけている。
男が屋根から飛び下りた。重いものを持っており、高いところにいたので、普通に考えれば着地が危うい。しかし男は重さも高さも問題としなかった。大斧の柄を両手でつかみ、自らの腕力と体重と落下の勢い全てを乗せて振り下ろす。
「くたばれ、〈闇色の残滓〉!」
フィンへ攻撃しようとしていた〈闇色の残滓〉に大きな刃が食い込んだ。前傾姿勢だったので、背中から腹へ斬って上半身と下半身に分ける。下にあった石畳まで砕け、激しい音と共に深い谷ができた。
〈闇色の残滓〉は断面から血と内臓をこぼしつつ倒れた。しかし、仕留めた男は舌打ちする。
「身代わりか」
無残な姿になった〈闇色の残滓〉が血の池と共に消え、後に残ったものは散った黒い花――バラ。きざな印象も感じられるが、男は構わない。自分たちから離れた街路の隅に視線を動かす。
そこには無傷の〈闇色の残滓〉がいた。自分と偽物をすり替えてフィンたちから離れたのだろう。
「バルグ……!」
〈闇色の残滓〉はいらだった様子で男の名を口にし、街路を走り始めた。先程のよろけた足取りとは大違いの勢いで離れていく。
「逃がしてたまるか!」
フィンは〈闇色の残滓〉の後を追った。バルグと呼ばれた男も同じだが、重い大斧を担いだままでフィンを追い越す。しかも息一つ乱れない。二人は〈闇色の残滓〉の取り巻きを一体一体つぶし、この町に隠れたところをようやく追いつめたのだ。見失うわけにはいかない。
しかし基本的な運動能力ではあちらがずっと上だった。距離は次第に開き、町の内外を区切る高い壁まで来たところで決定的となった。城壁ほどの高さがあるそれを〈闇色の残滓〉は軽く飛び越え、向こう側へ行ってしまった。
「ここまでだな」
立ち止まったバルグは懐から紙巻き煙草を取り出し、マッチで火をつけた。取り逃がした割りに涼しげな様子で紫煙を吹く。
「気配が離れていく。俺たちじゃあ、この壁を一気に越えるなんてできねえ。抜け道も見当たらねえしな。相変わらず一筋縄じゃいかねえやつだ」
「畜生!」
一方、フィンは落ち着いてなどいられなかった。〈闇色の残滓〉が消えた壁を拳で殴る。無論、その程度では傷一つ入らない。
「あいつ、一人でいたってことは手下を作れる回数が切れてるんだろ? せっかくのチャンスが……あそこで俺が気づかれなければ、もっとうまく抑えられたのに!」
「そうカッカするな。大体、あいつを追ってるのはお前じゃなくて俺だろ」
バルグは大声で笑った。夜中なのでよく響く。先程石畳を派手に壊したこともあって、家々の中では何人も目を覚ましたに違いない。
「どうしてそんなに落ち着いてられるんだ! 足止めの呪符だって、お前が何日もかけて作ったものだろ!」
フィンは怒鳴り、バルグの馬鹿笑いを止めた。ああいう道具の作製は、
「あいつを殺さないと、お前は死ぬんだぞ! かけられた呪いのせいで!」
「確かに俺は寿命を縮められたけどよ、今日明日にも死ぬわけじゃねえ」
バルグは灰を落としてから肩をすくめた。
「ギリギリになったら分かると、いつも言ってるだろ。お前、そうなったやつを見たの忘れたか?」
「見たからこそ心配してるんだ!」
「だから待てって。今本当に心配すべきことが他にあるんだ」
煙草をくわえ、勿体をつけるように煙を味わう。
「呪符の作製費のせいで金がなくなった。明日払う予定だった宿代もねえ」
「な……!」
フィンは背筋が寒くなった。あの紙一枚、インク一滴だけでも数日分の食費が飛ぶと思い返す。
「まだいくらか残ってる……とか言ってなかったか?」
「あれは嘘だ」
「どうするんだよ! 〈闇色の残滓〉を追うために、ここを出ないといけないんだぞ!」
「ついてるのは、今がまだ夜だってことだな」
バルグがにやりと笑う。フィンは何を言われたのか気づいて頭を抱えた。
「また逃げるのかよ……」
「ほれ急げ。荷物を取りに行くぞ」
既にバルグは宿へ向けて駆け出していた。フィンは言葉を失ったが、支払う金を稼ぐために立ち止まっていれば〈闇色の残滓〉に引き離されてしまうことも分かっている。結局、バルグを追って走り出した。
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