呪いの英雄

大葉よしはる

序章

 フィンは、疾走する馬車の御者台にいた。

 隣で手綱を握っているのは、フィンの父親。幌のない荷台には、昨日行った町で仕入れた品々。住んでいる町までこれらを運べば、都会へ行くという行事が終わって日常に戻れるはずだった。店で売る品のためにこの街道を行き来すること自体も、定期的にやっている行為のはずだった。

 しかし今、フィンはそういった穏やかなものが夢だったのではないかと思えるほどの災厄に呑み込まれている。父親にすがりつくことしかできない。今まで生きてきた九年間でこれほどの動揺に包まれたのは、三年前に母親が事故死したときくらいだった。

「大丈夫だからな。絶対に、大丈夫だからな」

 父親は手綱をしきりに鳴らし、二頭の馬を急がせる。あふれる恐怖を顔に出すまいとしているようだが、この状況では無理なことだ。

「待てよぉ! 逃げるだけ無駄だってのに!」

 下品そうな声が馬車の後ろから聞こえた。フィンが振り返ると乱暴な運転のせいで荷物が随分減っており、追ってきている者の姿がよく見えた。

 シルエットだけを見れば人間と同じだが、髪はざんばら。口は耳まで裂けて鋭い牙をさらけ出させている。唾液の滴る舌はミミズのような形。衣服はぼろ布程度のもので、爪は獣のごとくとがっている。

「まさか、〈命蝕〉エネルゲイアが出るなんて。あいつらは、人を食う化け物で……」

 フィンは心を絶望に染められながらうめいた。自分はここで死ぬのか、まだやりたいことがあったのに、といくつも考える。

 そんなフィンに、父親は笑みを向けてみせた。かなり引きつっていたが。

「心配、するな。こっちには、ビッキーとウェンリィがいるんだ。こいつらが本気で走ったらどれだけ速いか、知らないだろ? なぁ?」

 父親が言った名は、いずれも走っている馬のもの。二頭とも年寄りなのでとっくに疲れ果てており、人外の怪物と張り合うことはできない。何せフィンが〈命蝕〉と呼んだ怪物は、二本の足で走って馬車についてきているのだ。

「無駄だって言ってんだろ!」

〈命蝕〉は怒鳴り、跳躍した。フィンたちの真上を越え、馬車の進行方向に下り立つ。

 父親は、馬車へ身を向けた〈命蝕〉と目が合って驚いたことだろう。手綱を操って馬車の進行方向を変えようとも考えたに違いないが、間に合わなかった。

〈命蝕〉は自ら馬車へ駆け、両手の爪を一振りずつしてから垂直に高く跳んだ。馬車が〈命蝕〉の下を潜る形になり、フィンはその姿を見上げ――顔を正面に戻すなり人間離れした動きを見たこと以上の戦慄を押しつけられた。

 ビッキーとウェンリィの首がなくなっていた。〈命蝕〉が一瞬で跳ね飛ばしたからだ。

 馬たちが倒れ、骸にぶつかった馬車は横転した。残っていた荷物をばらまきながらフィンたちを振り落とす。

 もしかすると、フィンは落ちた瞬間だけ気を失っていたのかもしれない。気が付くと街道の隅に倒れており、体中のいろいろなところが痛かった。悠然と近づいてくる足音が聞こえ、顔を上げる。

「逃げるからこういう目に遭うんだ。大人しく食われりゃいいのによぉ」

 馬車を追っていた〈命蝕〉だった。身をすくめたフィンに余裕のまなざしを浴びせ、自らの胸もとを立てた親指で示す。

 そこでは赤い石が輝いていた。縦向きの楕円形で、体に直接はめ込まれているように見える。

「知ってるか? これが俺たち〈命蝕〉の誇りであり心臓部だ。あの世へ行っても、この美しさくれえは覚えておけ」

「やれるものならやってみろ」と言わんばかりに、自らの急所たる石を見せつける。フィンも〈命蝕〉にそうやって勝ち誇る習性があると聞いたことがあった。

〈命蝕〉の思惑どおり、フィンにはどうしようもない。腰が抜けてしまい、はって逃げることすらできそうにない。飛びかかってあの石に傷を付ければどうにかなるかも、という考えは霞のごとく消える。そうする前に両手の爪で馬たちと同じ目に遭わされるとしか思えない。

 きっと父親も同じ考えだったはず。しかし、その行動は違った。

「フィン、に、逃げろ!」

 父親は護身用のナイフを握ってフィンと〈命蝕〉の間に割り込んだ。声も足も震えているのに、人外の怪物へ突っ込んでいく。

 それを見た〈命蝕〉は、薄ら笑いを浮かべた。

「お前が先に食われてえか」

 父親の行動は勇敢だったが、人間と怪物の差を埋めることはできなかった。〈命蝕〉は突き出された切っ先を手のひらで受け止め、貫かれるどころかかすり傷を付けられることすらない。更に、父親の右手首をつかんで背中へねじり上げる。父親は苦痛のあまりにナイフを落としてしまった。

「今はご馳走が他にあるからなぁ。お前はこうしてやる」

〈命蝕〉の手から黒い靄のようなものがあふれ出した。意思を持っているかのごとく父親にまとわりつき、その身へ染み込んでいく。

「フィン、急げ! フィン……!」

 恐ろしげなものに包まれた父親は、苦しそうにもがきながらも叫んだ。しかし長くは続かない。声も動きもだんだん静まっていく。

 フィンは、父親を見つめながら噂で聞いたことを思い出していた。これを肉親が受けるとは思っていなかった。止めたかったが、体は恐怖に凍ってしまっていて言うことを聞いてくれない。

〈命蝕〉から手を放された父親は、その場に崩れ落ちた。ぴくりとも動かなかったが、やがてゆらゆらと起き上がり始めた。

「いい、気分だ……!」

 フィンが再び見た父親の顔は、変わっていた。

 人のいい商人で、フィンを優しさと厳しさで育ててくれた親――少なくとも目鼻立ちはそのときのままだが、狂喜したような笑みを浮かばせている。〈命蝕〉は楽しそうににやついた。

「どうだ、生まれ変わった感想は」

「最高だ……こんなに気持ちのいいものとは、知らなかった!」

 父親が服をはだけさせると、胸もとに〈命蝕〉の赤い輝きができあがっていた。フィンへ向けた瞳も、自らを変貌させた者と同じく補食対象を見つけた肉食獣のまなざし。

「フィン……お前の命を、よこせ。お前は、父さんの中で生きていくんだ」

 身勝手な言葉を終えるか終えないかのところで、父親は倒れた。〈命蝕〉に殴り飛ばされたからだ。

「そいつの命は俺が食うんだ。ガキの命は最高だからなぁ……〈命蝕〉は自分を作った者に逆らえねえって、お前も分かるだろ。大人しく従え」

 言われたとおりのようで、父親は悔しげな顔で引き下がった。〈命蝕〉は気味の悪い動きで舌なめずりしながらフィンへ近づいてくる。

 突如、〈命蝕〉が真っ二つになった。断末魔も上げず、ただ血飛沫を上げながら左右に倒れていく。

「そっちは、まだ人間のままみてえだな」

 フィンが〈命蝕〉の向こうに見たものは、テンガロンハットをかぶった男。たくましい体つきで背も高く、強気そうな笑みを浮かべている。

「〈命蝕狩り〉か!」

 父親が人間だったときの知識で叫び、男へ飛びかかる。

 もはや父親も恐ろしい身体能力を手にしている。しかし男は太い腕を伸ばし、父親の頭を握ることだけで軽々と止める。

「坊主、お前の親か」

 フィンへ少しだけ振り返り、問いかけてくる。硬直していたフィンが辛うじてうなずくと、ばつの悪そうな顔になった。

「〈命蝕〉になった者がどうなるか、聞いたことはあるな?」

 怪物として作り替えられた心と体が治ることはなく、人を食う存在として生き続けるのみ――フィンが愕然としながらそのことを思い出していると、男は顔を父親へ戻した。

「俺にも〈命蝕狩り〉エネルディカとしての義務がある。恨みてえなら俺を恨め」


 それがフィンにとって最後の肉親との別れであり、この男との出会いだった。

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