東京の夜

@nakariva

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東京の夜は苦い。

中学生のとき、大人に憧れて飲んだあのブラックコーヒーより、もっとずっと。



この道を通る人は1日で何人いるのだろう。何千、何万人。

昼間の顔は例えるならオレンジ色で、そこに闇はない。ピンク色の靴を履いた学生には、まだ人生の波を感ずる余裕もないだろう。

それとは一転、夜の顔は紫か、藍か、どれにせよ寒色というか、やはりそこに闇を感じる。きらびやかなネオン街には人の欲が、閑静な住宅街には静かな哀しみがある。

私は今、その東京の、この道を歩いて、東京に思いを馳せている。




バスが1日に2本くらいしか通らないローカルな土地から1人、大学のために上京した。あのときは東京が美しく、華やかで、人がたくさんいて、その人たちはきっと夢に溢れていると、そう思っていた。

大学もとうに卒業して、それほど給料がいいわけでも、ブラック企業でもない、平凡な会社に就職した。この闇を抜けると、私は24になる。

24歳にはもう両親は結婚していて、今の私がいる未来をつくっていた。私は、東京に飲み込まれている。どこでどうしてこうなったのだろうか。



風が冷たい。人も冷たい。

すれ違う人たちみんなが何か目的を持っているのに、私はその目的を探すという目的しかなかった。それはとても哀しく、面白く、それでいて寂しいことだった。

iPhoneの電源を入れた。人と関わることに嫌気がさして、今日は朝から一度も確認していなかった。

LINEの通知が何件かと、不在着信一件。母親からだった。上京して以来年末年始にしか家に帰っていない。そろそろまた家に戻らないといけない時期だった。

赤く光る通知が私を急かしているような、そんな気がして、またiPhoneをポケットに入れた。

片手で操作できる軽い精密機器は、その重さで私の歩みを止めた。



もうあと数分で明日が訪れる、そんな時間にようやく自宅の扉を開けた。

ガチャリと音がして開いた扉に身を隠して、小さな声でただいまと呟いた。

履いていたブーツを脱ぎ、コートをハンガーに掛け、あと1分で明日になるというところでプルタブを開けた。

冷蔵庫で冷やされた、缶の味が鋭く刺さる酒を煽った。今日になった。

それと同時にポケットに入れていたiPhoneが低く唸った。確認してみると、地元の友達から、誕生日を祝うメッセージが届いた。

それによってさらに重みを増したiPhoneを投げ捨て、既読をつけることなくまた缶を傾けた。飲み終えたところで立ち上がり、またコートを着て、ブーツを履いて、電気を消して、玄関を開けた。外は雪だった。



粉のような雪が肩に落ちた。それはとても甘美で魅力的だった。

そのまま近くの公園に入り、ベンチに座った。暗く、寂しかった。

その寂しさを埋めるツールは家に戻らないと手に入らない。それは私を少し安心させた。

ポケットにはiPhoneの代わりに小さな薄い財布が入っていた。一昨年の誕生日に貰ったものだ。俗に言う元カレから。

元カレというか元同居人というか、元私が愛した人というか。

私が東京に飲み込まれたのは、もしかしたら、その人が東京に負けてしまったからかもしれない。


ちょうどこのくらいの季節に私が告白をして、またちょうどこのくらいの季節に同居を始めた。しばらくは落ち着いた幸せな暮らしで、そこに暗さとか苦さはなかった。チョコレートのように私を魅了させた。

それがある日、突然終わりを告げた。それもちょうどこのくらいの季節だったかもしれない。


私はこの公園の横を通り過ぎていた。家に帰るために。愛する人が待っている家。

そんな時、着信音がなった。彼だった。応答すると、なぜか耳元に風が刺さった。

何も言わず、何も言えない雰囲気に私は気圧された。何秒か、何分か。時間が過ぎて、すると彼は一言だけ呟いた。



「ごめん」



そこで通話は途切れた。慌てて家に帰った。鍵は空いていた。

なぜかカーテンが揺れていた。そこに彼はいなかった。テーブルの上にメモが置いてあった。そこには小さな細い文字で、電話で呟いた言葉と同じことが書かれていた。紙は濡れて、文字は震えていた。


音が止まった。色が消えた。


私はゆっくり立ち上がり、ベランダに出た。窓は空いていた。もう気がついていた。ここは五階。彼はここにいない。残されたメモ。電話の時に聞こえた涙の音。風。

ベランダの柵にはまだぬくもりが残っているような気がした。そこに手を置いて、身を乗り出した。下に彼はいた。存在した。でも、そこに彼はいなかった。下の通りで悲鳴が聞こえた。私はベランダにしゃがみこんだ。そのまま悲鳴を聞いていた。彼を想った。想っても彼は戻ってこなかった。



ここまで回想にふけり、はっと現実に戻った。頬が冷たかった。ここは公園、そのなかの茶色いベンチ。私は今、誕生日。彼はもう、ここにいない。



東京の夜は寒い。

その寒さを和らげてくれる彼もいない。私はまた家に帰った。ブーツを脱ぎ、コートをハンガーに掛け、電気はつけずにベランダに出た。

彼は何を思っていたのだろう。私も彼のあとを追った。追いたかった。私には勇気がなかった。哀しかった。それでいて、涙は出なかった。

彼もいない。友達もいない。頼る人がいない。東京の夜は暗い。苦い。寒い。それでも私は生きていた。星が見えない。曇った空は私よりも明るかった。





東京の夜は、苦い。

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