第2話筆談のすゝめ

 可愛らしい水色のシャーペンとシンプルな黒のボールペンが、薄青の罫線が引かれた白いルーズリーフの上で向かい合っていた。

さらさら、と流れるように、シャーペンが文字を書きつける。

『髪、切りました?』

 ルーズリーフが回転する。

黒いボールペンが、白い手の中で一回転し、短い文章を書きこんだ。

『昨日な』

 ルーズリーフが回転する。

 間髪入れずにシャーペンが、次の言葉を書きこんだ。シャーペンを握る小さな手に、くっ、と力がこもる。

『似合ってます、すごく』

 ルーズリーフが回転する。

 数瞬、黒いボールペンを持った手が止まる。白い手は何を書こうか決めかねているようにふらふらと白い紙の上をさまよい、やがてゆっくりと、一言だけ書きこんだ。

『ありがとう』

 ルーズリーフが回転する。

 黒いボールペンが逃げるように筆箱に仕舞われ、白い手は即座に傍らに置かれていたハードカバーを開いた。

『どういたしまして!』

 小さな手はそう力強く書きしるすと、ハードカバーに向かってルーズリーフを掲げた。ハードカバーの向こう側、日に焼けていない無表情が小さく頷く。

小さな手は満足そうに、ルーズリーフを折りたたんだ。水色のシャーペンは場所を変え、今度は数学のノートの上で踊りだした。

今日の彼と彼女の『会話』は、ひとまずこれで終了。後はお互い素知らぬ顔で、読書と勉強に打ち込みだした。

これは、実に不器用な二人の不可思議なコミュニケーション手段の記録。とある高校の、静かな図書室で交わされる、声なき会話の話。

白い不健康そうな手は、二年六組の空気じみた男子、水谷の手。

小さく可愛らしい手は、一年三組の癒し系女子、八木の手。

二人の会話――筆談は、人気のない図書室でひっそりと、静かに行われている。

季節は、寒風に落葉樹の葉が振り落とされそうになる時季、本格的な冬の入り口。彼と彼女の関係の転機は、意外と簡単にやってきたのだ。

「ところでさ、水谷って八木さんと仲良いの?」

 珍しく帰宅時間が被った同級生の桐山と、場の空気に流され駅まで歩いていたら、ごく最近の、わりとデリケートな問題を遠慮なくぶつけられた。こいつなら不躾な質問など来ないだろうと思っていたのが、とんだ勘違いだったらしい。つい先程まで放課後に図書室に行けて羨ましいなどとほざいていた本好きの同級生の横顔を唖然としながら眺めた。

 不意を突かれて間抜けに開いた口を、気まずい思いで慌てて閉じる。

「その前に聞く、お前にとって仲が良いということの基準はなんだ」

「え? いやほらそれはほら、仲が良いってのはほら……えっと……えーっと……」

 内心の動揺を見透かされないために極めて平静な様子を装って尋ね返せば、ひとのいい桐山は実に真剣に考えだしてくれた。

「だからその……仲が良いっていうのは……」

 誤魔化されているとも知らずに延々と悩むのを見て、こいつ、将来絶対詐欺に引っ掛かるな、とか考えた俺は、もしかしたら相当薄情かもしれない。

 溜め息を一つこぼして、疲れた声で独り言のように呟く。

「別に仲が良いわけじゃない」

 当然、件の八木女史の話だ。

「そうなの?」

 心底意外だと言いたげに、桐山は顔をあげて素っ頓狂な声を出した。人一倍考えていることが顔に出やすいこいつは、どうやら俺の返事に納得できないらしく、「ほんとにそうなのー?」と疑る視線を向けてくる。その視線を煩わしく思いながらも、ふと湧いた疑問をぶつけた。

「大体、どこからそんな話を聞いたんだ」

「華道部の子から。図書室にいつもいる二年生って言ったら、お前しかいないかなって思って」

「そうか……」

 そういえば我が校の演劇部と華道部は、何故かやたらと仲が良い。こいつは演劇部で、八木は華道部だ。その繋がりからだと聞けば納得はいく。

「で、本当に仲が良いわけじゃないのか?」

「だからそれ以前に仲が良いということの定義を答えろと言ってる」

「えっと……例えば、たまたま廊下で会ったりしたら挨拶したりとか」

「挨拶どころか廊下ですれ違うことさえないぞ」

「よくメールするとか」

「アドレスを知らない」

「……よく一緒にしゃべるとか」

「声だって滅多に聞かない」

「…………」

 完全に沈黙した同級生を置き去りにしながら、ふと考えた。もちろん、考えるのはかの八木後輩のことである。


 思い返せば特に面白いこともなかった文化祭が終わってから、一週間ほどたった頃だったか。いつも通り一人で図書室に向かおうとしていた時、偶然見知った顔を見かけた。その当時は名前すら知らなかったわけだが、それが図書委員を務めている八木だったのだ。図書委員である彼女と、図書室を頻繁に活用する俺が顔を見合わせる機会は別に少なくもないわけで。顔だけは憶えていたのだ、愛想の良い後輩図書委員として。

 彼女が華道部の顧問と話していた――と言うより、一方的に話しかけられていた――ので、その脇をすり抜けていこうとしたのだが、すれ違う前に、困り果てた彼女と目があった。

 その泣きそうに潤んだ瞳を見た時に思い出した。ちょうどその日は、図書委員の集まりがあったのだ。何のための集まりだったかなんて、覚えてるはずもなかったが、眠気と戦っていた朝のホームルームで、クラスの図書委員が呼び出されていたのをぼんやりと聞いていた。

 さて、普段だったらそんな事実気にもせずに素通りするのだが、その日はなんとなく、なんというか、そう、素通りする気分ではなかったのだ。

「斎藤先生」

 普段から滅多に口を開くことのない生徒が話しかけてくるのがそんなに珍しいのか、ぽかんと口を開いた華道部顧問に、天啓に近いひらめきで考えついた嘘をつく。

「さっき尾上先生が探していました」

 なるべく急いで、事務室に来てほしいそうです。

 注※尾上先生……教頭先生。廊下ですれ違って「今の先生誰だっけ?」と言う話題になった時に正しい名前が出てきたら奇跡。職員室でも正しく名前を読んでもらえる確率が低い。要するに影が薄い。

「あら、そうだったの?」

「はい」

 嘘です。

「それじゃあ八木さん、この話はまたあとで」

 教頭からの呼び出しとあらば、急がざるを得ないのだろう。虚偽の呼び出しとも知らずにパタパタと行ってしまった背中を無表情に見送った。教師を騙すなど学生のすべきことではないが、反抗期だと思って見逃してほしい。この言い訳が通れば未成年の犯罪が増加する可能性があるのだが、それは全国の反抗期な学生諸君の良心に期待する。犯罪ダメ、ゼッタイ。

 と、分かりやすい嘘にあっさりと引っかかってしまった顧問を唖然と見送っていた八木が、戸惑ったようにこちらを向いた。

「あの……」

 おずおずと声を上げたはいいものの、何から尋ねればよいものか。そう言いたいのが伝わってくる。別に、俺に何を聞くかで悩むのは構わないのだが。

「……君、委員会は?」

「あっ……!」

 腕時計を一瞥し、悲鳴のような声をあげて慌て始める八木。俺と時計を交互に見ながら、おろおろあたふたすること約三秒。突如、名案をひらめいたようにその表情がぱっと明るくなった。

「いつも、図書室来てくれてますよね?」

「まあ、一応」

「今日も来てくれますか?」

「そのつもりでいるけど」

「では、またあとで!」

 何が、またあとで、なのか聞く間もなく走り去っていってしまった。ぱたぱたとかけていく後ろ姿をぽかんとしながら見送る。そして、状況を理解し終えてから、ぽつりと呟いた。

「……参ったな」

 薄々感づいている人もいるのかもしれないが、俺はどうも人付き合いというものが苦手なのだ。気心知れた相手ならともかく、名前も知らぬ顔見知りと話すのなんて、正直、気が進まない。たとえ笑顔の素敵な後輩女子であってもだ。女子と話すのなんてマグロと心を通わせるより難しいに違いない。……自分で考えておきながらひどい偏見だ。

 だがまあ、だからと言ってそれが図書室に行かないという理由にはならない。いつも通り普段通り、本を読みに行こう。

 その時は、そう思ったのだ。

 

「――それでその後、普段通りに図書室に行って、なんやかんやで毎日恒例筆談大会の始まり始まり……」

「そのなんやかんやを一番知りたいんだけど……」

「説明するのが面倒くさい」

 つれねえなぁ、などとほざく桐山を無視し、白い息を吐き出して歩きながらも、真剣に考えた。

 一年生の頃からの習慣である放課後の図書室籠りに合わせて、八木は殆ど毎日図書室にやってくるようになっていた。文化祭前にはそんなことはなかったはずなのに。

 むっつりと黙りこんだ俺をちらりと一瞥した桐山が、不意に吹き出した寒風に肩を震わせてから、人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「水谷にも春が来たんだなぁ」

「まだ冬も本番じゃないんだぞ、何言ってるんだ」

 穏やかな笑顔で放たれた爆弾発言に目を剝き、呆れた声をぶつけてやる。

「そういう意味じゃなくてさ。水谷、いい人なのに人付き合い悪いから。八木さんもいい子だし、お似合いかなーって」

 さらりと褒められ再び爆弾を投げられ、今度はこちらが沈黙を余儀なくされる。普段褒められ慣れていないために、同い年の爽やか野郎の言葉一つに動揺してしまう自分が憎らしい。その上勝手にお似合いなどと言われてしまい、きまりの悪さは許容量をぶち抜いて噴水のごとく溢れだしそうだ。

「……勝手に妄想してもらっては困る。別に、あちらもそんな風に意識している訳ではないはずだ」

 いろいろとぼかしまくって力なく反論した俺に、桐山はやんわりと言葉を返した。冬の帰路に吹く風は容赦なく冷たいが、俺の心臓は今、必要以上にしゃかりきに働いていて、不思議とあまり寒いとは感じなかった。

「悪いけど俺、水谷よりは、乙女心が理解できるつもりだよ。それに、いろいろ教えてくれる人もいるし」

 桐山は実に爽やかにそう言い放ってから、少しばかり照れくさそうに微笑む。

 桐山の言う「いろいろ教えてくれる人」とは、恐らく、桐山の彼女である元華道部の三年生だろう。そうか惚気か。今すぐ爆発してくれ。そう心の底から思ったが、それはさておき。

 まあ確かに、人付き合いが苦手でクラスメイトとの会話さえ避けるようにしている俺よりは、桐山の方が人心を理解できるという話は納得できる。それに、放課後の図書室でしか会わない俺より、部活ぐるみで頻繁に交流のある桐山の方が八木のことを知っているのも確かなのだ。

 憮然とした表情で黙った俺を諭すように、まあ聞いてよ、と柔らかな声を夜闇に放った演劇部の柱は、星一つ見えやしない空に白い息を吐き出した。

「まあ確かに、俺の推測が全部間違いで、八木さんがただの暇つぶしで筆談大会してるだけって可能性もあるよ」

 何でもないように言われた言葉が、一瞬胸の中に引っ掛かったような気もしたが、俺は黙って桐山の話の続きを待った。

「でも俺は、華道部の子から話聞いて、それから八木さんのこと見てみたら、やっぱり、水谷のこと好きなのかなって思ったんだ」

 それなのに、お前が一向に気付く気配がないから。そう言って桐山は笑ったが、俺は笑わなかった。まとまらない言葉を紡ぎ出す横顔が、本当に真剣で、それでいて大人びた優しさを湛えていたからだ。

 同級生に大きく差をつけられたような気がしたものだから、僻んだ俺は皮肉っぽく笑って言ってやった。

「……だからわざわざ部活を早退してまで、俺に文句を言いに来たと? まったくお節介な奴だ」

「あ、ばれてた? 大変だったぜ抜け出すの。普段裏方しかやってないから、即興の演技とか難易度高すぎてさ」

 考えてみればおかしな話だ。文化部なのに野球部ばりに厳しいことで有名な演劇部が、最終下校時刻の一時間以上前に閉まってしまう図書室と同じ時間帯に終わるはずがないのだ。

 あはは、と乾いた笑いを浮かべた桐山は、嬉しそうに目を細めて言った。

「まあとにかく、俺が言えるのはこのくらいかな。あとは自分で頑張ってよ」

「……言われなくても、そうさせてもらう」

 ストレートに励まされ、何となく照れ臭くなってしまった。

 久しぶりに長く話した同級生に、思いがけず背中を押された形になったわけだが、そうなると俺はこいつに一言言わなくちゃいけないことがある。

「ありがとうな、桐山」

「…………」

 素直に礼を述べれば、桐山は驚きに目を瞠り、文字通り開いた口がふさがらない状態に陥った。おいこら、確かに俺が素直に礼を言うなんてかなり珍しい事態かもしれないがな。

「……そこまで驚くのは、流石に失礼だろう」

「っえ? あ、いや、いやいやいやいや‼ そういう意味じゃなくてね! 確かに水谷にここまで素直にお礼言われるとか予想もしてなかったけどね、そういうことじゃねえの、そういうことじゃないんだ、ただ……」

「ただ……?」

 不思議そうに聞き返した俺に、桐山は瞳に諦観を滲ませて苦笑した。

「名字でちゃんと呼ばれるの、久しぶりだなって、思っただけなんだ……」

 今まで言っていなかったが、桐山は変わったあだ名がある。それは学年全体どころか学校全体に伝わっており、全く見知らぬ上級生や下級生からも突然呼びかけられることがあるそう。全くもって羨ましくない有名税だ。呼びかけられる当の本人は、あまりそれを気に入ってはいないようなので、背中を押してもらった俺の口からはそれが広がらないように、口を閉ざさせていただく。


さて、日は変わり、俺が桐山と一緒に帰った日の翌日の放課後。相変わらず外は寒いが、図書室には暖房が利いているので至って快適である。

『そう言えば今日、数Iのテストがあったんですけど』

 八木のお気に入りらしい、水色のシャーペンがさらさらとルーズリーフの上を踊っている。迷いなく動く小さな手は、よくよく見るとうっすらと赤みを帯びていた。以前の俺なら、暖房が利きすぎているのだろうと自分を誤魔化したのかもしれないが、第三者にあそこまで言われてしまえば、流石にそんな呑気なことも言っていられない。

 ルーズリーフが回転する。次は、俺が話す番だ。

『そう言えば今日、部活は?』

 黒いボールペンで話の流れを無視した質問をすれば、小さな手はびくりと震えた。しまった、流石に不自然か。どうも、昨日言われた言葉が頭をかきまわしてしまっていけない。冷静な判断力は途中ではぐれて迷子になってしまったらしかった。残るのは今までにない状況にうろたえる理性と、無責任なことばかり喚きたてる脳内の野次馬だけだ。自分の脳みそがいざという時にこれほど役に立たない代物だったとは。

 何を言われるのかと怯えるように震えた手に、凄まじく罪悪感が掻き立てられた。ひとえに俺の判断力の欠如が悪かったのである。本当に申し訳ない。

 ぎこちない動きで水色のシャーペンが書きしるした文章を見やる。

『ありません』

 敢えて、向かいに座る後輩の顔を見ないようにした。見れば、なけなしの勇気を振り絞って固めた決意がたちまち崩れ落ちてしまいそうだったからだ。

『じゃあ、よかったら』

 そこまで書いて、思わず手を止めた。昨日桐山が言った、「彼女が単なる暇つぶしで筆談大会をしている可能性」が頭をよぎったからだ。もしもこちらが本当だったなら、俺はもちろん桐山も赤っ恥である。躊躇に思わず手を止めた。止まったまま、動かすことができない。

「……よかったら、」

 向かいから小さな声が上がり、驚きながら顔を上げた。純真無垢な瞳に見据えられた瞬間、鼓動が早まり、顔に血が集まる。

「……よかったら、なんですか……?」

 不安そうな顔を見た瞬間、感じていた躊躇いがどこかへ吹っ飛んだ。よくよく考えてみれば、不安なのは俺だけではなかったのだ。

 気付かないふりをしていた俺と、気付いてほしいと願っていた(と思う)彼女。本当に申し訳ない話だ。人付き合いを面倒くさがっていた俺は、一人のいたいけな少女を蔑にしていたわけである。我ながら、全くもって愚かな。

「よかったら……一緒に、帰らないか」

 掠れた声で口にすれば、八木は一瞬、驚きに目を瞠り。それから、花が咲くような笑顔になった。

「――はい!」

 ――八木がそんな風に元気な返事をしてしまったものだから、静かに勉強なり読書なりしていた他の図書室利用者から思い切り睨まれてしまったのだが、久しく交わした生の【会話】に浮足立つ俺たちは、図々しくもその視線を、そこまで気にしなかったのである。

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文芸部その1 司田由楽 @shidaraku

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