第13話 かたわれの思い出

 川滝翼かわたきつばさは人間ではない。北海道の湿地で生まれた一羽のタンチョウである。大正の終わりごろから人間に化けて、住処を転々としながら暮らしていた。名前も何度か変えていて、そのたびに少し顔のつくりをいじるので、怪しまれたことは一度もない。

 人付き合いは必要最低限にとどめ、目立たないようにひっそりと暮らしている。同じように人に化けた妖怪の友と、人間の仕事仲間と、人間の友人が少し……と、あともう一人。人間の関係者にはもちろん自分の正体を明かしてはいない。翼は人間を好ましく思っているが、正体を明かしてからもこれまでと同じような生活が送れると思うほど楽天的ではなかったし、相手も自分に隠していることなどいくらでもあるだろうからいいだろうと思っていた。

 翼のその考え方と、実際の人付き合いには一つだけ齟齬がある。人間の友人が少しと、もう一人。そのもう一人が現在の翼の最大の懸念事項だった。


「そろそろ一緒に住まない?」

 穏やかでいつも通りの食事時、切り出された言葉に箸を取り落としかける。狼狽える翼を、男は静かに見つめた。短い黒髪に穏やかな印象を与える下がり眉、中肉中背の体つき。どこにでもいそうな、これと言って目立ったところのない男。

 これが、翼の懸念するもう一人である。田村理久たむらりく。一年と半年前に駅の階段で足を滑らせて大怪我するところだったのを、間一髪で助けてくれた翼の恩人だ。お礼に食事でも、というそれだけの付き合いのはずがずるずると引き延ばされて、伸ばされた手を振りほどけず、二人はとうとう恋人になった。……翼の正体を知らないまま。

 不誠実である。少なくとも、翼にとっては大事なことだ。自分が人の形をしている人ではない生き物ということは。それを伝えないまま、今日まで来てしまった。妙齢の男女が一緒に暮らして、その後に考えていることなど明白である。この日が来ることを翼はうっすらと予期していて、それなのになにもしなかったのは、ただ変化を恐れ、この縁が切れることを惜しんだ、それだけが理由だった。

「……考えさせてほしい」

 暗い声に返ってきたのは、「わかった」と、気遣うような優しさを含んだ頷きだった。優しいから翼は困っている。この心を洗うような優しさを、手放すことが惜しいのだ。正体を明かせば、きっと別れを告げられる。でも、隠したまま共に暮らすことなどできない。どうしたら、と自問して、それでも答えは返ってこない。


「どうしましょう」

「どうしましょう、と言われてもな……」

 深山樹みやまいつきは困惑もあらわに来たばかりのステーキを小さく切り分ける。こうした方が冷めやすいんだと語る深山の正体は化け猫で、今は三十代半ばの身綺麗な男性の姿をしている。

「同棲してみればいいんじゃあねえの? 好きなんだろ、カレシのこと」

「んっ……いや、そうですけど、そうしたら正体言った方がいいじゃないですか。でも言えなくて」

「そういうもんか? 人間と付き合ってる知り合い、数こそ多くねえけど隠してるやつも多いみたいだぞ」

「でも……一緒に住むってなると、いい加減黙ってるわけにもいかなくて」

 ぼそぼそと言葉を返し、翼は拗ねたように黙り込む。深山はそんな翼を見て、悩ましげに頷いた。

「まあ、お前の言いたいことも分かるよ。嘘ついてるみたいで嫌なんだろ」

 消沈した様子でオムライスを崩す翼は、顔を上げてこくこくと首を縦に振った。

「で、俺にどうしてほしいんだ?」

「どういうタイミングで話したらいいか、一緒に考えてほしいんです」

 タイミング、と繰り返し、深山はしばし考え込む。

「まず、二人きりがいいだろう。カフェなんかはやめときな。誰が聞き耳立ててるか分からない。場所は……どこでもいいさ、どっかの個室をとっても、お前たちどっちかの部屋でも」

 フラれたときのことを考えればお前の部屋がいいかもしれんな、と深山は思ったが言わなかった。単なる仮定で落ち込まれると話が進まなくなるからだ。

「緊張しすぎないで、いつも通りに何でもない話をする。仕事の話とかな……タイミングを見計らって、『大事な話がある』」

「大事な、話」

 二人とも料理をつつく手を止めている。

「そう、大事な話だ。後は何を言えばいいか分かるだろ?」

「うん……」

 煮え切らない返事をして、翼はうつむく。視線がテーブルの上をふらふらとさまよって、眉間に深くしわを寄せた。

「言える気がしない」

「お前なぁ」

 真顔で情けないことを言う翼に、深山は盛大にため息をついた。

「言うしかないって思ってるんだろ?」

「うん」

「黙ってることもできないんだろ?」

「うん」

「なら、言うしかないだろ、自分から」

 叱るような口調から勢いが消える。深山がこうした相談を受けるのは、多くはないが初めてでもなかった。思いつめた様子で相談に来て、意を決した表情で別れ、次に会ったときには涙にぬれていたなんて、悲しいくらいによくある話だったのだ。

「だがな、無暗に引き延ばしてもどうにもならないんだよ」

 自然、なだめるような、言い聞かせるような口調になる。答えられずにうつむいた翼を気の毒に思い、深山は話題をそらした。

「ヒトと付き合ったのは、初めてだったか」

「ヒトというか、付き合うのがそもそも……」

 もごもごと語尾を濁した返事に、深山は目を丸くする。深山が翼の面倒を見ることになったのは彼女が人の姿をするようになってから。言われてみればその手の相談を受けるようになったのは今の相手、理久が初めてだ。しかし、その前にも番う経験がないとなると――ヒトの感覚でする恋愛にタンチョウの経験が役立つかは甚だ疑問だが――本当に全くの、すべてが未知の経験なのだ。

「化ける前も浮いた話なんかなかったのか」

「うん。一羽でふらふらしてたら、子供作らないんなら餌の無駄だから湿地からは出ろって」

 苦笑してそう答えた翼に、深山はしまったという顔をした。化け猫である深山に、タンチョウの事情は分からない。気まずそうに視線を泳がせる深山に、翼はひらりと手を振った。

「変なことまで話しちゃった。でも、やっぱりちゃんと言うことにします」

「ああ、それがいいだろうよ」

 深山は空になった皿を脇にどけて、手を伸ばした翼から一瞬早く伝票をかすめ取った。ちょっと、と声を上げた翼に、尖った歯を見せて笑う。

「こういう時は年長者の顔を立てるんだよ」

「いつもそう言って払わせてくれないじゃないですか」

 唇をへの字にする翼に深山は「また今度な」と適当にはぐらかす。別れ際、深山はぽつりと「あんまり考えすぎるなよ」と心配そうに言った。

「なんかあったら、また連絡しろよ。今はそんな忙しくしてねえから」

「うん。ありがと、樹さん」

 翼は丸まった背中に力を入れて、深く頭を下げる。

「やっぱりお前はそうやってしゃんとしてた方がいいよ。背筋がこう、ぴんと伸びててさ」

 深山がそう言って笑うと、翼は照れくさそうにはにかんだ。


 腹を決めて、翼は理久に連絡を入れた。理久の休日に合わせて映画のチケットを取り、行く店の下調べも念入りにして、準備は万全である。

「ごめん、待った?」

「ううん、今来たところ」

 大嘘だった。本当は三十分以上前からいる。理久が来たのが約束の十分前なので、約束の四十分前からいる。緊張のあまり翼は手のひらに汗をかいていて、そっと伸ばされた理久の手を拒むように身を引いてしまった。

「ごめん、今……手汗がひどくて」

「そっか」

 じゃあ行こう、と歩き出した理久を横目に、こういう時、不満げな顔の一つでもしてくれれば、と翼は思ってしまう。怒ってくれれば、無理にでも直すしかなくなる。怒ってくれないならば、このまま甘えてしまうばかりだ。

「何観るの?」

「えっとね、これ」

 夢中になって肝心の用事を忘れてしまわないように、一番ではなく二番目に見たいと思っていた映画にした。最近上映が始まったばかりの洋ホラー。

「もう席とってあるからね」

「大丈夫? これ結構怖いって聞いたけど」

「大丈夫! この監督の作品、他にも観たことあるから」

 強がりでも何でもなく本心である。映画の趣味も似通っているし、話の種にもなるのだから、我ながら良いチョイスなんじゃないかと。翼はひそかに自画自賛していた。


 結論から言うと、翼は自分で思っているほど大丈夫ではなかった。具体的にどこが大丈夫じゃなかったかと言うと、陰惨な事件と生贄として首を切られた鳩に感情移入してしまった結果、上映が終わってもしばらく座り込んだまま呆然としてるくらいには駄目だった。

 理久は抜け殻のようになってしまった翼からどうにか次の目的地を聞き出し、連れてきて椅子を引いてやるなど甲斐甲斐しく世話を焼いている。

「大丈夫?」

「なんとか……」

 アイスココアを頼んでようやく人心地ついた翼に、理久はお疲れ、と微笑んだ。

「理久はどうだった? 映画」

「面白かったと思うよ?」

 主人公の死が偽装されてて燃え盛る火を背に歩いてきたところとか、と笑顔で語る理久を見てようやく、翼の頬に血の色が戻る。

「私はちょっと……鳥が首を切られるところとかが駄目で」

「ああ、あそこ。確かにあれはやりすぎな感じあったよね」

 今更ながら、デートにスプラッタホラーを選ぶのもどうなのだ、と翼はぼんやりする頭で思った。こういう映画を二人で見るのは初めてではないので、本当に今更だ。意外とスリルがある娯楽を楽しめるところが共通した二人ではあるが、今回の映画は翼の生存本能にストレスをかけてきた。恐怖の質もさまざまである。

「でも、すごく……なんというか、リアリティがあって」

「うん」

「だから疲れちゃったんだけど、でもすごく引き込まれた」

「二回目も行く?」

「もう行かない!」

 断固として拒否した翼に、理久は声をあげて笑う。翼もつられてころころ笑い、次にどんな映画を見たいかという話になった。

 食事は入りそうにもなかったので飲み物だけで店を出て、理久と別れてから家に着いて鍵を取り出してようやく、大事な話をしていなかったことに気づいたのだ。


 翼からの連絡を受けて待ち合わせ場所へとやってきた深山は、成果を問う前に露骨に落ち込んだ翼の表情ですべてを察する。

「言えなかった……」

「うん……ほらその、あんま気を落とすなよ」

 気づかわしげな深山の慰めが、翼には痛かった。自分以外には何の落ち度もないので、責められた方がかえって気が楽だ。

「返事も、先延ばしにしちゃって……」

 半べその翼に深山は黙ってメニューを差し出す。無言でカフェラテを指さして突っ伏す翼の代わりに店員を呼んでやり、注文までして、深山は言葉もなく天を仰いだ。

 空振りに終わった告白に、二人の間の空気は今までにないほどに重く沈んでいる。

「というかそもそも、深山さんはどう思います?」

「何が?」

「人間と妖怪が、添い遂げること」

 力ない翼の問いかけに、深山は一瞬黙り込む。思いつめた表情の翼に目を細めて、ふっと小さく息を吐いた。

「考えすぎだ。ちょっと毒されてるぜ」

「何にですか」

「考え方がヒトに寄りすぎてるってことだよ。まあ、こういう暮らししてるなら無理ないことだが」

 いまいち呑み込めていない様子の翼に、深山は物憂げな顔で補足する。

「いいか、人間は線を引きたがる生き物だ。だがその線は人間のものであって、俺のでもお前のでもない」

「でも、人間社会で生きていくならルールは守らないと」

「法律は守ってる。戸籍もあるし、保険にも入ってる。それができない人間がいるのに、守ってる俺らが勝手に肩身の狭い思いする必要があるか? 明文化されてないルールまで、律儀に守ってられねえよ」

 バカバカしい、とばかりに鼻を鳴らすが、深山自身は人間とそうでないものの違いを厳密に見定めているところがあった。深山がなぜ人とごく近い距離で生きているのか、なぜ自分のような人間社会に溶け込もうとしている妖怪の手助けをしているのか、聞いたことは一度もない。

 黒い目の奥にうっすら瞬く黄色は、静かに翼を見つめていた。

「もう少し単純なところから考え始めてみろよ。社会がどうとか、周りがどうとかじゃなしにさ」

 諭すような声に、翼はこくりと頷く。

「会ったこと自体は楽しかったんだろ?」

「それは……はい」

 気恥ずかしげな翼に、深山は少し嬉しそうな顔をした。

「だったら、まずそれを大事にしろよ。後のことはそれからだ」

 そう、噛んで含めるように言い、最後にきまり悪そうに小さく付け足す。

「……まあ、何を言ったところで、当事者が嫌って言ったら終わりなんだけどな」

「うう……」

 話題が振出しに戻ってきた。翼は理久の穏やかな笑みを思い出す。未だ――そう、百年近く人のように生活していても、人の身であることに慣れていないように感じるときがある。その時つい出てしまうおかしな癖も、咎めることなくやんわり指摘してくれるのがありがたかった。優しいところも、意外とあどけない表情をするところも、知れば知るほど離れがたく感じている。時間が許す限り一緒にいたいと思った。こんな気持ちは初めてで、思い通りにならない心に翻弄されて生きている。

 決断の時は迫っている。だから、それまでにきちんと伝えなくては。


 しかし運命と言うのは時に残酷で、相談相手と駅で別れるタイミングで、当の本人と出くわすなどしてしまう、なんてこともある。

「翼?」

 聞き覚えのある声に即座に振り向いた翼は、分かりやすく顔をこわばらせた。

「え……理久?」

 スーツ姿で、明らかに仕事帰りといった様子の理久は、怪訝そうな視線を二人に向けた。

「こんなところで何してるの? そっちの人は……お友達?」

 はくはくと口を動かして、言葉は何も出てこなかった。深山は翼がパニックになっていることを察知して、理久が疑いを持つ前に先手を打つ。

「初めまして。俺は深山樹。川滝の母さんの友人みたいなもんです」

「翼の、お母さんの……?」

 首を傾げる理久に、我に返った翼がかくかくと首を縦に振る。しかし続く言葉が見つからないようで、深山と理久を交互に見ておろおろするばかりだ。理久もどうしたものか分かりかねて困惑している。

「まあ、こんなところで立ち話もなんだ。ちょっと場所を移しましょうぜ、お兄さんも」

 翼も理久も、ほんの少し不安そうに深山についていく。


 建物の隙間に無理やり押し込まれたような小さなビルに連れてこられ、狭いエレベーターにあれよあれよと詰め込まれた。目的の階に着くと深山はさっさと行ってしまい、二人は慌てて追いかける。

「おい、今日は予約入ってたっけか」

「いや、もう済んだよ。飛び込みのお客さんでも来た?」

「まあ、そんなところか? 違うか。ちょっと奥に行っててもらえるか」

 ひょいと顔を出した同僚に声をかけてから、深山は二人を手招きした。小綺麗なオフィスのような場所だが、どうしてこんなところに、と理久は困惑する。

「ここは一体……」

「ちょっと特殊な職業相談所みたいなところさ。川滝は来たことあったか?」

「移転する前に何回か。結構綺麗になったね」

「そりゃここが応接室だからさ。奥なんかひどいもんだぜ」

 適当にくつろいでてくれ、お茶淹れてくるからな、と去っていった深山を引き留めかねて口をつぐむ翼に、理久は穏やかに尋ねた。

「深山さん、だっけ。お母さんのお友達なの?」

「うん……元々母と仲が良くて。私がこっちで暮らすことになった時に、いろいろお世話してくれたの」

 見た目こそ少し年が離れている程度に見える深山と翼だが、深山は江戸時代の生まれである。翼の母の紹介なのは事実で嘘は言っていない。一羽と一匹が人間ではないことを言っていないだけだ。

「そうなんだ」

 少しほっとしたような理久に、翼はいたたまれなくなってうつむいた。

「ごめんね」

「何が?」

 心底謝られる心当たりがないという顔をする理久に、翼は顔を上げられないまま続ける。

「私、最近変だったでしょ」

「んん……なんか、困ってることでもあるのかなって」

 言葉を選ぶ理久に、翼は目に涙をにじませた。

「言わなくちゃいけないことがあって、なのに、ずっと言えなくて……だから、一緒に……って話にも、返事、できなくて」

 たどたどしい言葉を、理久は黙って聞いている。一瞬翼の頭に伸ばされた手が、遠慮がちに引っ込められた。

「……いいんだよ。こういうのってお互いの意思が大事なわけだし」

 いつもと変わらない優しいような声に聞こえたが、翼は違和感の正体を正確に探り当てた。同棲を断りたいけど言い出せないと勘違いされている。そうじゃないのだ。そうじゃないのに、言葉は口から出てくれなくて、翼はうつむいた。重たい沈黙。

「はいはい、おまちどう。ちょいとぬるいかもしれんが勘弁してくれな」

 お茶を運んできた深山は、少し冷まして淹れたお茶で舌を湿らせると、理久に目をやって穏やかに問いかけた。

「さて。お兄さん、田村くんで合ってるよな? 川滝の彼氏ってことで間違いはないな?」

「……はい」

 しっかりと頷く理久に深山は、苦笑してひらひらと手を振った。

「そんな緊張するなって。大事な話ではあるが、本題はまだだ」

 シャツの襟を軽く寛げ、ぐうと伸びをする。

「早速で悪いが、湯飲みは置いてくれるか? そう、落とすといけないからな。で、もっと深く座ってくれ。背もたれにがっつり体重かけてくれるのが一番いいな」

 理久は不思議がりながらも深山の言う通りにしている。深山は二人の湯飲みをテーブルの中央に寄せて、窓のブラインドを閉める。

「何するつもりなんです?」

「段階を踏んでるんだよ。お前も心の準備しとけ」

 詳しく言おうとしない深山に、翼はなんとなく察して頷いた。

「驚くなよ……というのは、ちょっと難しいかもしれんが、大声は控えてくれよ。近所で変な噂になるのも困るから」

 手首をぐりぐりと回し、深く息を吸う。翼は一瞬迷って、理久の膝にそうっと手をのせた。

「むッ」

 ぽん、と間抜けな音がして、その奥で人一人分の影が消える。え、と目を丸くする理久に素早く「静かに」とだけ言い、翼は煙が晴れるのを待った。

 すとん、と床に落ちた服を煩わしげに振り落としてテーブルに足をかけたのは、どっしりとした体つきの猫。白と黒の毛並みはきちんと整えられ、胸元の白に蝶タイのように黒い丸が並んでいる。目を丸くする理久の前で止まり、猫はぐうと伸びをした。黄色の目が理久をひたと見据える。小さな獣の口が、ぱかっと開いた。

「あんまり驚かないんだな」

「いや……驚いてますけど」

 深山さんですか、と理久が尋ねると、猫ははっきりと頷いた。太くつやつやした尻尾で理久の手をぽんと撫で、何でもないことのようにぺらぺらと話し始める。

「これでも江戸時代の生まれの爺さんだ。証拠を出せと言われちまうとちと困るが、まあ今はそういうものいらないだろ」

「はあ……」

 流暢に話す猫に呆気にとられる理久に、深山はさくさく畳みかける。

「とまあ俺のごとく、この国には俗にいう妖怪が人間社会に溶け込んで暮らしていることがある。そこは分かってくれるか?」

「ええ、それは……はい」

 困惑気味に頷く理久に満足そうに尻尾をもたげ、深山は翼の肩に飛び乗って耳打ちした。

「思ってたよりマシな反応だな。拒否感あるっぽかったらまた考え直してたが、これなら今言っても問題なさそうだぞ」

 こそこそと耳打ちする深山に翼は頷いた。何度も言おうと思っていたことだ。ここで言わずにいつ言うのだ、と、意を決して、顔を上げ……

 瞬間、視線が絡み合う。何が言いたいんだと、戸惑うその目が言っている。出そうとした声が喉の奥で絡んで、詰まった。言葉よりも先に涙がでそうで、翼は何度も瞬きする。

「わ……私も、実は、そうなの」

「え?」

「私も、妖怪なの」

 消え入るような声で、それでもはっきりと言い切った翼に深山はよくやったと頷いてみせた。後は、秘密を明かされた理久の反応だが……と二人は恐る恐るうかがって、驚いた風でもない理久におや? と首を傾げた。

「……うん。知ってるよ?」

「え?」

「ニャ?」

 素っ頓狂な声を上げ、翼と深山は固まった。

「い……言ったこと、あったっけ」

「あるよ。一年くらい前だけど」

「え……?」

 そんなに前に? と固まってしまった翼に代わり、猫のままの深山が問いかけた。

「田村くん、それ、どういう時に言ってたのか思い出せるか?」

「ええっと、確かまだ付き合う前のことで……」

 特に何の気負いもなく話し始めた理久に、翼は先ほどとは違う嫌な動悸が止まらない。


 初めて二人きりで酒を飲んだ日のことだった。いつもは休日の昼に会うか、理久の仕事終わりに合わせて食事のみで済ませていた。知り合いからもっと近い距離に、ほとんど無意識で進んでいた二人は、今度はお互い手探りに距離を縮めようとしていたのだ。

 ジュースのようなカクテルを半分近く残した状態でウーロン茶を注文した翼に、理久は少し不安を覚えた。

「もしかしてお酒、苦手だった?」

 恐る恐る尋ねると、翼はウーロン茶のグラスを手にふらふらと首を横に振った。

「強くはないけど、こうやって飲みながら話すのは好きだから」

 白い肌が薄赤く火照り、口調はいつもより砕けて甘やかだ。少し変わったところがあるが、おおらかで、物腰柔らかなところを、理久は好ましく感じていた。

「好きだなあ」

 ぽろりと言葉がこぼれて、しまった、と理久は慌てた。アルコールで舌の回りがよくなった分、口を滑らせやすくなってしまっている。聞こえたか、と翼の方を見やると、目を丸くしてじっとこちらを見ている。

「えっと、あの……最近、ちょっと忙しくて。こんな風に誰かと話すのが久しぶりで、やっぱりこういうのは楽しいなって」

 下手な言い訳を絞り出した理久に、薄赤い顔の翼は微笑んで頷いただけだった。

「そうなんだ。よかった」

 何が「よかった」なのか分からずに固まる。肌が粟立つような感覚を覚えて、理久はちらと翼の方をうかがった。

「ヒトじゃない生き物をそんな目で見ちゃよくないしね」

 冗談と言うにはあまりに滑らかに聞こえた言葉に目を丸くする。言葉を失う理久を気にせず微笑みながら「やっぱりもう一杯頼もうかな」などとつぶやく翼から、どうしてか目が離せなかった。背筋が不穏に冷たくて、それでも耳を傾ける。

「聞いたことない? 鶴の恩返し。機を織っているところは決して覗いてはいけません……」

 とろんとまどろむ瞳に、歌うような声。

「昔は見るなって言われたら見なきゃいいのにって思ったんだけど、今ならわかるなあ。見ずにはいられないよ、同じ立場だったら。でも見られたらおしまいなんだぁ……」

 どこか熱っぽい口調で一方的にしゃべっていた翼が、理久と目を合わせてぱちくりと瞬きし、柔らかく笑み崩れた。

「……えっと、何の話、してたっけ?」

「水、頼んでおこうかって」

「そっか、ありがとう」

 自分で言ったことを忘れてしまったかのように料理に手を伸ばす翼は、無邪気なようでどこか得体が知れない雰囲気をまとっていた。


 それでしばらく時間がたっても頬の赤みが抜けず、受け答えも若干覚束ないのを見て不安も下心も吹き飛んだ理久は、途中まで送っていこうかと申し出た。ふにゃふにゃと笑って躱そうとする翼に理久は困った顔をして、せめてタクシーを呼ぶように言おうとしたところで、取り出した携帯ごと手を握られる。

「大丈夫、いざとなったら飛んで帰るから」

 やけにはっきりとした声だった。たおやかな線を描く体の真ん中に、すうと固い芯が通る。涼やかな笑い声が二人の間を転がって、夏の空気に余韻だけ残して消える。頬を撫でたその手に、やわらかく、さらりとくすぐられて目を閉じる。

「あげる、これ」

 耳の上に軽い感触が乗る。その軽さを手に取ってみて、驚きがそのまま言葉になった。これは一体、と尋ねる声がかすれて、鈴が鳴るような笑いにさらわれる。

「言ったでしょ、妖怪だって」

 大きくて白い羽根。鞄から出した様子もなく、手品みたいに現れたそれだけが手に残されて、ゆらゆらと遠ざかっていく背中は夢みたいにおぼろげに見えた。そのとき何を考えていたかはさっぱり覚えていないけど、どくどくと胸を打つ鼓動が嫌にうるさかった。これが恐怖なのか別の何かなのかは、その後緩やかに理久の中で決まっていくことになる。


 ……と、自身の思い出をとうとうと語る理久に、翼は頭を抱えて声にならない悲鳴をあげ、深山は顔をひきつらせていた。

「酔ってたんだな、そのとき」

「やめてー!言わないでえ!」

 羞恥に悶える翼を、理久はきょとんと見つめている。顔を覆う翼の肩を肉球でぺんぺん叩く。

「で? 本人から聞いてみて思い出したりはしたか?」

「全く記憶にない……」

「そうだったんだ。家に着いたって連絡も来たし、てっきり全部覚えてるかと」

 けろりとしている理久に、翼は弱々しく首を横に振る。話にならんとばかりに、深山は理久に問いかける。

「しかし、そう言われただけで信じたのか?」

「いや、流石にその時は半信半疑でしたよ。でも三か月くらい前に……」

 まだあんのかよ、と顔をしかめる深山に、理久はさらりと付け加えた。

「翼の部屋の冷蔵庫でバッタが入ったタッパー見つけちゃって」

「何やってんだお前!」

「いたァッ!」

 肉球が遠慮なしに翼の白いおでこをひっぱたく。爪が出てないあたりどこまでも甘いが、前髪の隙間から赤くなった肌がちらりと覗く程度には本気であった。

「いやお前っ……本当に何やってんだマジで! というか食ってんのかそれ! その姿のままで!? 迂闊にもほどがある!」

「だって深山さんと違って元の姿に戻れる機会ほとんどないし……人の食べ物飽きたなって思うことがどうしてもあって」

 青白い顔で弁明する翼を肉球でしばきつつ、深山は顔色一つ変えない理久を理解できない異物を見る目で見つめる。

「一瞬びっくりしましたけど、ツルって雑食なんでしょ? じゃあそういうの食べることもあるかなって」

「あるかな、ってあんたなあ……」

 呆れすらも通り越した諦念のにじむ溜息を吐きだし、深山は翼を叩くのをやめた。顔を上げさせて赤くなった目を覗き込む。

「お前、今後酒は控えろよ。何しゃべるか分からねえ」

「はぁい……」

 深山の容赦ない言葉にうなだれて、翼は深い溜息を落として顔を覆う。己の迂闊さを呪う翼には気づいてないことが一つあって、深山はそれを聞いてやるべきか悩んでいた。理久も翼を気遣うばかりで、それに言及しようとしない。ため息をついて、深山は理久を見上げ訊ねた。

「……で、君はそれが最初からわかってて一緒に住もうなんて言ったわけだな?」

「はい」

 一瞬のためらいもない肯定に、翼はぎょっとする。

「どうして!?」

「どうしてって、何が?」

「いやだって、私、妖怪……」

 わたわたと説明しようとする翼だったが、混乱しているあまりまとまりのない言葉をぽろぽろこぼすばかりになってしまっている。理久は困った顔をして深山の方を見た。

「人間じゃないのを知っててまだ好きでいてくれる理由が分からねえんだと」

「あ、そういうことなんですか。でもどうしてって言われてもなあ……」

 好きだから、としか言いようがないな、と呟く理久に、深山はひどくいたたまれなさそうに翼を小突いた。

「逆に教えてほしいんだけど、妖怪である君と一緒に暮らすデメリットってなんだ?」

 疑問に疑問で返されて、翼は口をつぐむ。そう聞かれてしまうととっさに出てこなくて、首を傾げた。

「で、デメリット……?」

 早々に助けを求める視線をよこした翼を軽く睨み、深山はぶっきらぼうに答えた。

「隠し通せるんならそれに越したことはないが、周囲にバレた時のリスクが大きいな。そもそも妖怪の存在自体信じてない人間の方が多いんだ、どういう反応があるかわかったもんじゃない」

 そういう時はどうするつもりなんだ、と問う深山に、理久は迷いのない声で答える。

「そういう事態は、実際起きてみないと分からないじゃないですか。その時は、俺がどうにかします。説得できるならするし、無理ならそこまでです」

 きっぱりと断言するその瞳はどこまでも真剣だ。深山はきゅうと瞳孔を小さくして、理久を値踏みするように上から下まで眺めまわした。

「……まあ、そういうリスクは、君と付き合う付き合わない関係なしに発生するもんだしな」

 一年も前から知っていて、それでもなお交際を続け、同棲まで提案してきたのだ。全く何も考えていなかったというわけではないのだろう。

 もう一つ懸念があるとすれば、と深山は低い声で言った。

「……寿命差があるぞ。種によって違うし個体差もあるが、こいつは多分もう八百年は生きる」

 八百年、と呆けたようにつぶやいた理久は、翼と顔を見合わせて困ったように笑った。

「長生きだね」

「そう、だけど……」

「先に死んじゃうのは申し訳ないけど、それを別れる理由にはしたくない」

 俺のわがままだけど、といたたまれなさそうにつけ足す理久に、翼ははっと息を呑む。

「これからも、俺と一緒に生きてくれませんか」

 川滝翼は人間ではない。人付き合いも必要最低限に留めていて、人間には自分の正体を明かしたことなどなく、こんな感情をぶつけられるのは初めてだった。戸惑いと喜びにどう答えればいいのか分からず狼狽える、その手に小さな温度が乗った。自分よりもずっと長く、人と共に生きてきたあやかし。言葉もなく、その瞳が、ただ思うままを告げればいいと言っている。

「こ……これからも、よろしくお願い、します」

 消え入りそうな声に、張りつめた空気が弛緩する。翼の目尻に浮かんだ涙を優しく拭う理久を、深山はまるで普通の猫みたいに顔を洗って見ないふりをした。


 人の姿に戻ってくるからと服を咥えて別室へ行ってしまった深山を待ちながら、二人はぽつぽつと話をした。秘密を持っていたことへの謝罪と許し、冷蔵庫のバッタについて、そして、これからどうするか。控えめに指を絡めて、ぎこちなくなってしまっていた分を取り戻そうとゆっくりと話をした。

 ひょいと顔を出した深山が、寄り添う二人を見て柔らかく目を細める。送ってくぞ、と声をかけると、繋いでいた手がするりと解かれた。

「結局、最初からお前の一人相撲だったんじゃねえか」

「言われてみるとそうなんですよね……」

 苦笑する翼に深山は歯を見せて笑い、二人の肩を軽く叩いた。

「ま、これ以上の隠し事なんかそうそうないだろうからな。仲良くやれよ、二人とも」

「はい。ほんと、迷惑かけちゃって……」

「いろいろお世話になりました」

 頭を下げる二人を送り出し、遠ざかる背中を見つめて、深山はぽつりと呟いた。

「これで俺もお役御免かね」

 控えめに絡んだ指先で、二人の影が繋がっている。一抹の寂しさをため息とともに吐き出した深山が、一か月もしないうちに翼に再び泣きつかれることになるのは、また別の話。

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