第12話 その山にいきるもの


 朝は早く起きて洗濯、軽く掃除をしてから朝食の支度。出来上がれば家族に声をかけて回り、米をよそって出してやる。自分が食事に箸をつけるのは味噌汁もすっかり冷めてしまってからで、広い食卓の隅で一人で食べた。すぐに食べて、買い物に行く必要があった。そうして昼食の支度、短い自由時間の後は夕飯の支度。そのサイクルを繰り返して何日だろうと、数えるのはだいぶ前にやめてしまった。

 高校を卒業し、家の外に出る機会は極端に減った。家族以外の誰かと顔を合わせることはほとんどなく、家を出た姉からの連絡がたまに来るくらいしか、外とのつながりはない。

「お前はそれでいいんだ。家のために働いてくれればそれでいい」

 はい、お父さん。私はそれで充分です。本当にそれでいいのか、という問いを頭の隅に追いやって、私はまた同じ時間に部屋の電気を消すのだ。


 そんな日常に変化が訪れたのは、父が連れてきた青年に会ってからのことだった。整った顔立ちのその人は、無表情にこちらを見下ろして短く訊ねてきた。

「名前は?」

「芦矢……理緒です」

 呼ばれることも名乗ることもなくて、ここ最近ほとんど口にしてなかった名前だ。りお、と名前を口の中で転がすように呼ばれて、少しくすぐったいような気持になる。

「沢渡だ。これからよろしく頼む」

 父はろくな説明もなしに出て行ってしまったし、沢渡さんとやらも特に何をするでもなく私と話すだけだった。

 沢渡さんの話は面白かった。あまり聞かないような古い言い回しが多くてちょっと困ったけれど、聞けばわかりやすい言葉に直してくれた。ふと、言葉が途切れたタイミングで、沢渡さんがじっと私を見つめていたことに気づいた。綺麗な顔だ、と感慨もなく思う。私の視線をどう受け止めたのか、沢渡さんはぎこちなく微笑んだ。

「家に尽くし、親に尽くす。今それができる者がどれだけいるだろう。君はえらいな」

「……ありがとう、ございます」

 その言葉には脈絡がなかったけれど、褒められたみたいで後からくすぐったい気持ちになった。嬉しいってこういうことだったな、と懐かしく思い出す。

 その日から、沢渡さんは気まぐれに家に来ては、家事をする私に少しちょっかいをかけたり休憩中に話したりするようになった。親以外の人と会うのがそもそも新鮮で、きっと私は浮かれていたんだと思う。


 昼ご飯の汁物が冷めていたとかで母に叱られたのを、呼んでも来なかったじゃないかと反論したら頬をひっぱたかれた。だからあんたは駄目なのよ、という捨て台詞は、もう何度言われたのか分からない。しばらく放っておいたが熱が引かないので小さな保冷剤をハンカチにくるんであてる。縁側でふてくされていると、沢渡さんがいつの間にか来ていた。

「その顔はどうした」

「……母に。私が悪いんだそうで」

 むくれつつそう答えると、沢渡さんはのそのそ近寄ってきて隣に腰かけた。何も言われないのがかえって気まずく、つい弱気な声が漏れた。

「私が、あの人の子供じゃないから、こんなこと言われるのかな」

「血の繋がりがないのに叱るからこそ、そこに愛があるのではないのか」

 至極真面目な顔でそんなことを言う。綺麗な顔で愛だの恋だの言われると、なんだか気恥しいような気持になる。目をそらしてうつむくと、乱暴な手つきで頭を撫でられた。

「あまり拗ねるな。素直になれば母親も分かってくれるだろう」

「はい……」

 そのあとは、二人で何を話すでもなくぼんやりとしていた。見慣れた景色の中に飛ぶ鳥を見つけてしまい、うんざりした気分で目を閉じる。鳥は、苦手だ。どこにでもいるし、大きいのは怖いし、小さいのは何もしないのにすぐ逃げるから。

 痛みも引いたので立ち上がり、沢渡さんに一つ会釈をして部屋に戻る。保冷剤を冷凍庫に戻し、二階の掃除をしようと掃除機を取りに行く。


 代り映えしないこの町にも、気まぐれに変化はやってくる。今日は不思議な人が来たらしい。車の中から貴重そうな古道具や、何でもなさそうな小さな雑貨を売りに来たという人。役所できちんと許可をもらってきたので怪しい人ではないみたい、という噂がようやく私の耳に入ったのは、その人が実際に家を訪れて、一度帰ってからの話だった。

 夕飯の世話を細々と焼きながら、私をいないものとして扱う人たちの会話を聞く。なんでも芸能人みたいにきれいな顔立ちをしているが、野暮ったい眼鏡が妙に似合わないだとか、身綺麗にしているが手に大きな傷があって、本当はやくざ者なんじゃないかとか好き勝手に言っている。

 私はあの人のメガネ、不思議な愛嬌があってよかったと思うけどな。遠くからちらと見えた姿を思い出す。手の傷のことは確認していないので分からない。胸に浮かんだ感想を口に出す機会はない。私の意見など求められていないからだ。黙って手を動かし、息をひそめる。


 翌日にもその人は来た。親からは紹介してもらえなかったので、心の中で骨董屋さんと呼ぶことにする。今日は小さな置物を持ってきて、畳の上にまるで行進のように並べている。愛嬌のある猫の置物を遠くからちらちら見ていると、ふいにぱちりと目が合った。

「お嬢様がいらっしゃるのですね。よろしければ何か見ていかれますか」

 声をかけられて、一瞬自分のことだと気づくことができなかった。お嬢さま、なんて言われたこと今までなかったからだ。答えられないまま戸惑っていると、父が素っ気なく言った。

「これはいいのです。おい、早く茶でも淹れてこい」

「はい」

 父の声に頷き、台所へ下がる。父と母、骨董屋さんの分のお茶をいれる。そのまま空気のように無視され、頭を下げて部屋を出た。家にくるお客さんとは、基本的には話させてもらえない。例外は沢渡さんくらいのものだが、今日は来ないみたいだ。

 骨董屋さんが広げるお店も気になったが、やることが終わらなくなるので仕方なく諦める。縁側の掃除をしていると、小さな鳴き声が聞こえた。誘われるように外へ出ると、見覚えのある毛並みが視界の端に映った。

「タロウ! 久しぶり……会いに来てくれたの?」

 尻尾を振って喜んでくれる隣家の飼い犬、タロウ。高校生の時はちいちゃな子犬だったのに、今は立派な体格の成犬だ。思わず駆け寄ると、昔みたいに飛びついてきて、支えきれずにしりもちをついてしまう。どうにか倒れないようにしながらじゃれあっていると、ぎし、と床板が軋む音がした。

「タロウ、ですか。かわいいですね、彼。それにいい名前だ」

 穏やかな声に顔を上げると、骨董屋さんがいつの間にか縁側でくつろいでいた。スーツの上着を脱いで腕にかけ、しゃつの袖を肘までまくっている。近寄ってきたタロウに手のにおいを嗅がせながら、骨董屋さんは眼鏡の奥の目を柔らかく細めた。……手の甲に、大きな傷跡。噂がちらりと頭をかすめたが、穏やかな表情にそんなまさかな、と打ち消した。

「この子と仲が良いのですね」

「はい。タロウが隣のうちに来たばかりのころは、よく会いに行っていたので……最近は、あまり会えないけど」

「それは、どうして?」

「私が、買い物以外であまり家から出ないので」

 久しぶりに触れ合えるのが嬉しくて、つい笑みがこぼれる。柔らかな毛と、そこから伝わる体温に、懐かしさがこみあげる。だから、骨董屋さんが私を見つめるその視線が真剣みを帯びたことに気づくのが遅れてしまった。

「出ない、ではなく、出られないのでは?」

 背中に氷柱をつっこまれたような衝撃。はじかれたように骨董屋さんを見上げると、いつの間にか庭に降りてきていて同じ高さで目が合った。その得体の知れない視線に戸惑う。絶句した私から一度目をそらし、骨董屋さんは鞄の中から何かを取り出した。

「お嬢さん、これをどうぞ」

 ちりめんの小さな布袋を手渡された。ふわりと甘い香りが漂う。手触りのいい布地は桃色で、淡い花柄模様もかわいらしい。首を傾げる私に、骨董屋さんは簡単に教えてくれた。

「香袋といって、鞄や服に香りをつけるものだそうですよ。ご存知でした?」

「いえ、知りませんでした……でも、いただけません、こんな……父に叱られてしまいます」

「言わなければばれませんよ。男の私が持っていても仕方がないものですから」

 骨董商の眼鏡の奥の瞳は真剣だ。ごくりとつばを飲み込み、断ろうと口を開きかけたところにさらに骨董屋さんの言葉が重なる。

「逃げるのであればこれくらいの秘密は守れなくてはどうにもなりませんよ」

 逃げる、と聞いて、一瞬頭がフリーズした。逃げる? 何から? 逃げて、どうするのだ。この狭い町、冷たい家以外に行くところなどどこにもないのに。

「骨董屋さん、それは、どういう……」

「それを、肌身離さず持っていてください。持っていられない時は、近くに置いておくように」

 何を聞きたいのかもわからないままの問いかけには答えてもらえず、不安が募る。それが顔に出てしまったのか、骨董屋さんの視線が愁いを帯びた。

「あなたの現状を変えたいと思っている人がいる。今言えるのはそれだけです」

 父が骨董屋さんを呼ぶ声が聞こえる。先ほどの真剣さが嘘のように朗らかに、はいただいま、と返事をして、骨董屋さんは小さな声でこう言い残して去っていった。

「あなたは、環境が変わるとしたらどのように変えたいか、考えなくてはいけない」

 考える。考えることなんて、放棄して久しい。私は父の言うことを聞いていればよかった。血の繋がらない母の叱責を黙って聞いていればよかった。それしか、選択肢を与えられてこなかったのに。自分で考えることなどできるのか。庭に取り残されて、背中に嫌な汗が流れている。

 置いていかれたタロウが私を見上げて小さく鳴いた。濡れた鼻先をしきりに右手に押し付けてくるので何かと思ったら、骨董屋さんがくれた香袋が気になるみたいだ。ひとますポケットにしまって、タロウを隣の柳さんの家に帰さなきゃ、とふらふら歩きだす。掃除を放って勝手に家を出たことを知れば母が黙ってないだろうけど、そんなことは頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。


 家に戻ると、骨董屋さんは床の間の掛け軸を眺めて難しい顔をしていた。手を洗ってから戻ってみると全く動かないでそのままだったので、少し気になって声をかける。

「あの、それが何か……?」

「……ああ、失礼。ちょっと気になっただけです」

 ぱっと手を下ろして骨董屋さんが笑う。心なしか少し早口に、短い問いを投げられる。

「これは、いつごろから家にあるものですか?」

 少し日焼けしているけど、そんなに古いものという感じもしないそれを指さして骨董屋さんは私の答えを待っていた。

「私が三歳くらいの時に、父が持ってきたものだと聞きました」

「となると、十年以上前からあるものですか。どこから持ってきたものかわかりますか」

 静かな声だったが、わずかな緊張をはらんだ問いだった。多少気圧されながらも首を横に振る。

「分かりません……父に聞けば、分かると思うんですが」

「いえ。貰い物で出どころも分からない、と言っていました。……これのことで、何か思い出したことがあったらすぐ教えてください」

 骨董屋さんは早口で私にささやくと、そそくさと立ち去って行った。私はよくわからないまま、掛け軸を見やる。

 これを初めて見た人は、大抵何と言ったものかわからない、と言いたげな困った顔をする。私だってこのセンスはわからない。ただ父が何を言われても頑なに飾ったままにしているその掛け軸は、ただ二つの手形が並んだだけのシンプルなものだ。ちょうどさっき骨董屋さんがしていたみたいに、自分の手を片方の手形に並べた。私の手より一回り大きな、成人男性くらいの手。そしてもう片方は、子供のように小さな、不自然に歪んだ手形。実は価値のあるものだったりするのかな、と思って、すぐにどうでもよくなった。私には関係のない話だ。


 骨董屋さんに話しかけられたその日から、家の外について考えることが増えた。家事をしているとき、布団の中で眠りに落ちるまでの短い間。大学へ進学したという友人たちを思う。卒業してから一度も会っていないみんなは、私のことを覚えてくれているだろうか。家を飛び出すようにして出て行ったお姉ちゃんは、今何をしているんだろう。……私は今、何をしているんだろう?

 もやもやとした疑問は頭の中を好き放題駆け回り、動かすことをやめていた頭をちくちく刺激した。何もしていなかった時間に考え事をすれば、あっという間に時間が過ぎる。ぼうっとしすぎて怒られることもあったけど、それはあまり気にならなかった。だって、私に何の落ち度がなくても怒るような人たちだ、今更どうということはない。

 考えても答えが出てくれることはなく、私は少し途方に暮れた。分からなくなった時って、どうすればよかったんだっけ。

 それほど長いこと悩まないうちに、答えに辿り着いた。分からないなら、分かる人に聞けばいいのだ。直接的な答えじゃなくても、何かヒントのようなことが聞ければいいんだ。


 翌日。骨董屋さんは今日も朝から家にいた。商品の由来などを説明した後、父が品定めをしている間は、骨董屋さんは暇になる。時折ちらちらと掛け軸に目をやりながら、手持無沙汰にしているその袖を、小さく引いた。

「骨董屋さん」

「どうしました」

 他の人に気づかれないよう声を潜めてくれた骨董屋さんに頭を下げつつ、小さな声で尋ねる。

「少し、お話しできませんか」

 軽くあたりを見回し、骨董屋さんは頷く。

「構いませんよ。……ご家族には聞かれないようにした方が?」

 こくりと頷き、家の隅、私の部屋の前に連れて行く。

「骨董屋さんは、どうしてこのお仕事をしてるんですか」

 急な質問にちょっと意外そうな顔をして、骨董屋さんは首筋に手をやった。長い指がシャツの襟をひっかいて、はっとしたように引っ込められる。

「そうですね、俺は……じゃなくて、私は、この仕事はまだまだ見習いですから。いろいろなことに手を出しているんです。今ここにいるのもそのうちの一つです。そういうことをする動機としては、多くのことを知りたい、というのが、根底にはあるんだと思います」

 丁寧な答えを飲み込むのに、少し時間がかかった。物腰の柔らかなこの人が、実は好奇心旺盛なタイプだということなのだろうか。うまくイメージがつかめない。

「こういうお仕事って、大変じゃないですか」

「それはもちろん。いろんなトラブルがありますよ、人間関係も、金銭のことも」

 あまり詳しくは言えませんが、と苦笑する骨董屋さんだが、それほど嫌そうな顔はしていない。

「幸い、多才な知り合いが多いので分からないことを聞く相手には困りません。日々勉強することばかりです」

 そう言う骨董屋さんは、楽しそうだった。いいな、うらやましいな、と素直に思った。黙り込んでしまった私に、骨董屋さんが穏やかに問う。

「理緒さんは、将来の夢はなんでした?」

「……なんでしたっけ」

 口元が強張るのが分かった。私の夢、私は何になりたかったのか。明確な目標とかは、たぶん持っていなかった。ただ漠然と、ちゃんとした大人になれた方がいいと思っていた。けど、今はどうだろう。ちゃんとした大人なんて程遠く、夢どころか自分の意志さえ……。

「わからない、です。ごめんなさい」

「謝る必要なんてありませんよ。世の中には物事が多すぎますからね」

 多すぎる、とオウム返しに呟くと、骨董屋さんは深く首肯する。

「夢の定義は広い。何者になりたいか、だけじゃない。行きたい場所、会いたい人、見てみたい物……そういう、すぐ近くの未来にかなえられることだって夢になる。多すぎて決められなくなってもしょうがないことです」

 諭すような声に目を瞬く。夢ってもっとあいまいで、自分の立つ位置から遠いところにあるものだと思ってた。布団の中でぼんやりと天井を見ているのを、優しく起こされたみたいな、目が開かされるような感覚だった。……あきらめなくてもいいことを、夢にしてもいいんだろうか。

「私なりに、考えてみようと思います」

 私の言葉に、骨董屋さんは柔らかく笑って頷いた。

「そうそう、考える材料としては、人の話を聞いてみるのもいいのではないでしょうか。あなたと違う生活をしている人が、何をして何を考えているのか。きっといい刺激になりますよ」

 私と違う生活をしている人。真っ先に思い浮かぶのは、一番身近なあの人だ。ぺこりと頭を下げると、骨董屋さんは小さくうなずいてぐっと親指を立てた。グッドラック。そのサインをよくやっていた友達が高校にいたな、と思い出してつい笑ってしまったのを見て、骨董屋さんはちょっと不思議そうな顔をしていた。


 その日の夜。布団の中で声を潜めて、お姉ちゃんに電話をかけた。安いイヤホンを片耳だけつけて、親が来ないように気を張る。一応事前にかけてもいい時間帯を聞いていたが、少し疲れた様子にまた今度にしようかと尋ねたら今で大丈夫と早口に言われた。何の用かと聞かれたので、仕事はどんなことをしているのかを聞いた。専門用語も多く、企業秘密とか、個人情報だとかでほとんど分からなかったけど、愚痴交じりに語られるお姉ちゃんの生活は、この家で過ごす私の何倍もの速さで流れていくみたいだった。笑ったり驚いたり、なんだかすごく楽しくて。この時間がもっと続けばいいのに、と思った。

 話がひと段落して、ほんの少し長めの沈黙が流れる。居心地の悪くならない沈黙なんて本当に久しぶりだ。

『理緒』

「なあに、お姉ちゃん」

『……ううん、何でもない。こんな話しちゃってごめん』

「そんなことないよ、話してくれてうれしかった。また聞かせて」

 一言二言交わして電話を切り、暗くなった画面をじっと見つめる。もしも、もしもできるならば。私も、この家だけじゃなくて、もっといろいろな場所で。夢うつつに、そんなささやかな願いを抱く。

 それが叶う可能性が限りなく低いことは、悲しいことに理解してしまっていたけれど。私はきっと明日も、同じ時間に目を覚ます。


 骨董屋さんは町のいろんな場所を訪問しつつ、数少ない飲食店のインテリアの相談に乗ったり、家具の買取をしたりといろいろ忙しいそうだ。私も家からあまり出してもらえないので分からないが、骨董屋さんの車があちこちに移動しているのが窓から見えた。家に来てくれる頻度は減ったが、生活リズムが被るのか出先で会うことがよくあった。

 遠くから手を振るだけだったり、少しだけ立ち話をしたり。ほんのちょっとの触れ合いは新鮮で、なんだか楽しかった。相変わらず、家では口も利かないことが多いけど、骨董屋さんといるときは、自分でも意外なほどよくしゃべった。


 川沿いをのんびり歩いていくと、この短い間にすっかり見慣れてしまった車に気づく。東京のナンバーの、四角くて大きな車が道端に停められていた。缶コーヒー片手にスマホを見ていた骨董屋さんが、私に気づいて小さく手を振る。

「芦矢さんのところのお嬢さん」

「骨董屋さん。どうしたんですか?」

「移動中なんですが、次の約束まで時間が余ってしまって。お嬢さんは買い物帰りですか?」

「いえ、私もちょっと休憩中なんです。久しぶりに散歩でもしようかなって」

 散歩をしようなんて思ったのは久しぶりだった。高校の時使っていたスケッチブックを見つけ出して、空いてるページがあったから絵でも描こうと思ったのだ。描いてみたのは風景画で、ブランクがある割にはうまく描けたと思う。

「次の約束って、どこで何をするんですか?」

「公民館の資料室の整理をお手伝いすることになったんです。一日で終わるようなものでもないでしょうから、今日はほとんど下見みたいなものですけど」

「そうなんですか。何か貴重なものがあったとか?」

「それは詳しく見てみないと分かりませんね。ないと断言はできませんけど、まあ、半分はボランティアみたいなものです」

 仕事で来ているのに慈善事業させられるなんて難儀な商売だな、と思う。ただこの人の気性から断り切れなかっただけかもしれないけど。そんな風に同情していると、骨董屋さんは表情を明るくして話題を変えてきた。

「そういえば、今日はいい買い物をしたんですよ。よければ見ていきませんか」

「いいんですか?」

 快く頷いてくれた骨董屋さんに促されて、荷台の後ろに回る。雑多な荷物の中でひときわ大きな何かにかかった布が取り払われ、黒ずんだ木が露わになる。

「これです」

「臼……?」

 骨董屋さんがにこやかに頷く。いや、そんな自信満々に頷かれましても。やけに古いし、おまけに持ち運びも大変そうな、利便性とは程遠い代物。どこがいい買い物なのかわからず、首を傾げる。

「でも、こんな大きいのどうするんです? 買ってくれる人、いるんですか?」

「いや、買い手がないならないで構わないんです。ゲン担ぎのようなものですから」

 よくわからないことを言う骨董屋さんだったが、特にそれ以上説明してくれるわけではないみたいだった。ふと腕時計に視線をやって驚く。そろそろ戻らなければ夕飯の支度に遅れてしまう。

「ごめんなさい、私もう行かなくちゃ」

「ああ、もうそんな時間ですか。引き留めてしまったのはこちらですし、送っていきますよ」

 一瞬ためらったけど、お言葉に甘えることにした。少し離れたところで降ろしてもらい、家へと戻る。引き戸を開けて小さくため息をつくと、父でも母でもない声が聞こえてハッとした。

「どこへ行っていた」

「……ちょっと、散歩へ」

 沢渡さんの聞いたことないような険しい声に鼻白む。厳しい視線に顔をそらせば、顎をつかんで強引に前を向かされる。

「勝手なことをするな。お前の親に迷惑をかけるんじゃない」

「……ごめんなさい」

 謝りながらも、少し釈然としない気分になった。私が少し出かけたくらいで、どんな迷惑になるというのだ。心配なんてしていないのに。ただ、夕飯を作る時間がちょっと遅れるくらいのことで。沢渡さんには関係ないことじゃないか。

 私が抱いた不満は、沢渡さんの変化とともに不信感へと変わっていく。


 その次の日から、沢渡さんが家に来る機会が増えた。今までは私が忙しくない時間にしか来なかったのに、家事をしている最中でも私を見張るようについているようになった。居心地が悪い。非常識な時間の訪問にも、父と母は何も言わなかった。ただ、私がいつもしているように、嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに息をひそめるばかり。

 それに、沢渡さんは同じ話を繰り返し話すようになった。気づいているのかいないのか、私はどうも指摘できずにぎこちなく笑うことしかできない。何かがおかしいと、隙を見てお姉ちゃんにメールを送ると変に刺激しないようにと返信があった。なるべくいつも通りに、でも行動には注意するように、と。事情を詳しく知らないお姉ちゃんもおかしいと思ったようで、再三気を付けるようにと言われた。

 骨董屋さんやお姉ちゃん……つまるところ、家の外にいる人との会話が増えてから、気づいたことがある。優しくて物知りだと思っていたこの人が、実は案外視野が狭く、自信過剰なことだ。優しさだと思っていたは自分が優位に立っているがための優越感と驕りで、それが偶然私にとって都合のいいふるまい方ばかりだったというだけのことだったんだ。学生の時もこういう人はいて、その人とは距離を置いていたことを思い出した。どうして気づけなかったんだろ、とちょっとショックを受けた。

 そんな不信感を抱いても、家に来られては逃げようがない。よそよそしい私に大層機嫌を損ねた沢渡さんは、部屋の隅に私を追い詰めて低く問う。

「どうして逃げる? 俺はお前に親切だっただろう、お前には俺しか味方がいないんだろう、違うのか?」

「どうして、って……」

 その剣幕に怯み、後ろに下がろうとする。詰め寄られて後ろに下がると、壁に背中をぶつけてしまう。もしかして今、非常事態なのか。押しのけようとして伸ばした手を、逆につかまれる。

 手首をつかむ力が強い。痛みに悲鳴を上げても力は緩まず、そのままぐいぐいと引っ張られた。

「そうか、そうか、あのヨソモノだな! 余計なことを、吹き込まれたか!」

 恐怖に足が震える。怒鳴られるのは、怖い。押さえつけられている、と強く感じる。何かしようとする意思を、丁寧に折られて踏みにじられていく感覚。はなしてという声が出ない、出たところで役に立ちはしないのに、そこまで頭が回らない。抵抗しようと力を込めても、振りほどくことなどできやしない。私がもがくのを鼻で笑って、綺麗な顔が大きく歪む。

「ばかものめ、貴様のようなおんなに何ができる! 無知で、愚鈍で、臆病者だ!」

 侮られている、とすぐに分かった。かっと頭に血が上る。その久しぶりの感覚に、自分の心が動き出すのが分かる。傷つくことを恐れて、ずっと潜めていたものだ。人の言うことを聞くだけじゃダメだ。誰かの思い通りになるだけじゃダメだ。体の震えを抑え込んで、声を張り上げる。

「無知でも、鈍くても、怖がりでも……!」

 変わることは、できる。今ならそう信じられる。ぎりっと歯を食いしばり、目の前の男を強くにらんだ。私だって少し前まで、この家の外で、普通の人みたいに過ごせていたんだ。だから、まだ私だって変わることはできる。人の言うことを聞くだけじゃない私に、きっと戻ることはできる。

 声の強さに意表を突かれたのか、沢渡さんは一瞬黙り込んだ。その隙に手を振り払って、脇をすり抜けて逃げようとした時だった。

「余計な知恵をつけたか、ならば」

 恐ろしく冷たい声。ぶわ、とその体が膨らむ。薄茶の毛、赤い肌。ずらりと並ぶ尖った歯。黒目がぐわりと広がり、私を見下ろした。何の変哲もない畳敷きの部屋が、異空間へと変わる。恐怖に息が詰まる。そんな、これは、何が起きて……!

「ならば、もう、いいな?」

 その言葉を疑問に思う前に、大きな手が迫ってきた。物のように掴まれて、体が浮き上がる。重力にひかれてみし、と体が軋んだ。

 ああもう死ぬ、とあっさり思って、でも未練があるわけじゃない。死にたくないと思えないのが少し悲しいな、と思うのと同時に、意識が暗転した。


 体の下から伝わる振動で目が覚めた。鳥の鳴き声、風の音、草葉の鳴る音。静かなのに音が多い。肌に刺さる固い毛に、違和感を覚えてふらふらと顔を上げる。

『目が覚めたか』

 不思議な響きの声が聞こえた。空気を震わす音じゃなくて、頭に直接響いてくるような声だ。あたりを見回してようやく、体の下で何かが動いている……というより、何か動くものに担がれていることに気づく。

『痛むか? すまんな、力加減が分からんでな、ついこうなってしまうのだ』

 頭に響く声が、気を失う直前まで聞いていた声だと気づいて血の気が引く。労わるような声が返って恐ろしい。手首のあざは不自然に太く、太陽の光は木々に遮られている。

「ここは……?」

『驚くことはない、お前の家からもそう離れておらん』

 どこからどう見たって山の中だ。家の裏手の山の中だろうか。標高がどのくらいなのかは分からない。

「どうして、こんなところに」

 混乱して、頭の中の疑問がそのまま口からこぼれた。体の下で揺れる体を見下ろすと、気を失う前に見たままの生き物がいた。茶色い毛、赤い肌……尋常ではない大きさの、猿だ。

『おまえはおれの、嫁になるんだ。ともに暮らし、子を成し、育てる』

 言われたことの意味が分からなかった。だってこんな猿と、嫁って、そもそも山で暮らすなんて。思考が乱れて言葉が出ない。

『お前の家に、娘は二人いたはずだが。いつの間にやらお前だけになっていたな。逃げたのか、もう一人は』

 お姉ちゃんのことを言っているんだ、と気づいて背筋が冷えた。お姉ちゃんが家を出たのはもう何年も前の話だ。じゃあ、いつからこの大猿は私たちのことを知っていた? 人に化けて私に近づき、山へと連れ去るのが目的だったとして、それは一体いつから計画されていたことなのか? いや……今は、それよりも!

「離して……私、帰る!」

『帰る? 帰ってどうするのだ、今まで通り家事だけをして生きていくと? いずれ親は死ぬだろう、そうしたらお前はどうする? 一人で生きるすべも知らないお前が』

「いやぁ!」

 じたばたと暴れる私が煩わしいのか、猿が何でもないように体をゆすった。それだけで体が浮き上がり、一瞬呼吸が止まる。

『人の世は煩わしかろう。山はいいぞ、静かで、大きく、あるがままの姿だ』

 楽しげな様子から一転、『それとも』と低い声。背負われているので猿の顔は見えないけれど、大猿の意識はすべてこちらに向いている。逃がすまいと、私を見ている。

『親の庇護なしに生きられないお前は、あの家で一生を過ごすのか?』

 ああ、と絶望的な気分になった。あの暗い家で死ぬまで飼われるか、山で猿と暮らすか。どちらがいいのか分からない。

 こんなことなら希望なんて見なければよかった。家の外などという甘い夢なんて……。

『む?』

 大猿が不意に足を止めた。そのまま耳を澄ませるようにあたりを見回す。私は訳が分からず息をひそめる。あたりは変わらず、枝葉の擦れる音しか……と不意に気づく。何か、聞こえる!

 犬が吠えている。最初はどこから聞こえているかもわからないくらい遠かったのに、いつの間にか近くから聞こえる。草むらを割って現れたのは、低い唸り声をあげるタロウとヘルメットをかぶった細身の男性だった。露出の少ない、荷物を下ろした登山家のような服装で、それだけならよく見る格好なのだが、だからこそその異質なヘルメットが浮いている。ばう、と吠えるタロウの前に立ち、木刀をその手に握りしめた。

「今時人に恩着せて嫁探しか、猿」

 その人は足元の枝をばきりと踏み折った。べたべたとお札を張った黒のヘルメットから聞こえる声はこもっていて聞き取りづらい。

「親に蔑ろにされた娘ならば、邪魔されずに攫えると思ったか。小賢しい」

 忌々しげに吐き捨てるその人は、吠え立てるタロウを撫でて下がらせる。大猿は私を支える手に力を込めて、脅すように鋭く言った。

『契約によそ者が口を出すな』

「関係者の代行で来たんだ。文句は言わせん」

 木刀をまっすぐに突き付けて、男の人はそう言った。猿が怪訝そうに唸り、私は少し前のことを思い出す。

――あなたの現状を変えたいと思っている人がいる。今言えるのはそれだけです。

 関係者、って、まさか。私の予感は根拠のない些細なものだったが、それを裏付けるかのように男の人はうなずいた。

『関係者……?』

「ここまで言えば予想がつきそうなもんだが、まあ分からんか」

 つまらなさそうにヘルメットの人がぼやいて、私の方をまっすぐに見た。手袋をした手は木刀の先を油断なく猿へと向けている。

「お嬢さん、聞こえているか?」

「は、はい!」

「ならよし。しっかり口を閉じて、歯を食いしばっておくんだ。危ないからな。そのままで俺の話を聞いてほしい」

 こくりと頷くと、ヘルメットの奥の目が微笑んだような気配。流暢な語りは山の奥にしみこむように響いていく。

「猿の化物が娘を攫って嫁にする……そう言った話はこの国には数多く残っている。今回お嬢さんが巻き込まれた件は俗にいう『猿婿入り』に類似しているが、違う点がいくつかあるな。猿婿入りの猿は人間に化けたりしない。『蛇婿入り』の蛇は人に化けるが、猿はその姿のまま、娘を山へと連れて行く」

 そう、慌てていて気付かなかったが、この状況はまるで昔話のようだ。学校で聞かされたものと、途中からの展開がよく似ている。

「しかし、そいつの手段はずいぶんと回りくどい。人に化けて君と信頼関係を築こうとした。ずいぶんと気長で、周到だ。そいつ一匹で思いついたとは思えない、つまり誰かが入れ知恵したと考えられる。……それが誰かは、後回しにしよう」

 言葉尻に憂いが一瞬滲んで、すぐに消える。

「従来の猿婿入りは、まず父親が猿に手助けされ、代わりに娘を差し出すことを約束してしまう。一番目と二番目の娘はそれを断るが、三人目の娘は承諾。一度は猿についていくが、最終的には猿を殺し、家へと戻る……というのが、大体の筋書きだ。地域によって細かいところは変わってくるが、それは今はいい」

 そこで一度言葉を切り、男の人はまっすぐに私を見た。

「今の君は、状況だけ見れば三番目の娘と同じだ。君はこの後、どうしたい? 俺としては連れて帰りたいが、君の意思を尊重する」

 硬い声での問いに、一瞬言葉に詰まる。私がどうしたいか。最近ずっと考え続けて、それでも答えの出なかった問いだ。答えられない私を抱えなおし、猿は耳障りな笑い声をあげた。

『このおんなに、決めることなどできるものか。親の言いなりになり続けただけのおんなぞ』

「黙れ猿。お前の意見は聞いてない」

 あざ笑う猿に男性はまるで動じない。歯をむき出して威嚇する猿に、涼しい顔の……いや、顔はヘルメットで見えないけど、平然としている男の人。見ているこっちがハラハラしてしまう。

「じゃあ、お嬢さんが考えている間に別の話でもしていようか。ところで、ニホンザルの生態は知っているか?」

 じり、と大猿との距離を詰めながら、緊張感を感じさせない声で男の人が言う。首を横に振る私に軽くうなずいて、簡単な説明をしてくれた。

「群れは成体のオスとメス、それと子供で構成される。オスは群れを離れて一匹で行動することもあり、そういうやつは繁殖期に群れに近づくと言われているな」

 よくわからないなりに頷く。猿は男の人の言動を図りかねているのか、距離を取ったまま黙っている。

「ここで謎が一つ。嫁を欲しがるのは何のためか? 普通は、自分の子供を残すためだ。では何故わざわざ人を追い込み、攫うのか? 種族として近くはあるが、それなりの隔たりがある人間を選ぶのは? 俺は、猿としての生の中で伴侶を一度も得られなかった個体がそのような行動に及ぶのだと推測している」

 仮説でしかないし、事例が少なすぎて証明のしようもないけど。そうぼやく男の人は吐息に嘲りを混ぜて吐き出した。

「猿の美醜までは俺にはわからんが、器量や生活能力でそいつは同族の誰にも選ばれなかったのさ。大したことないんだよ」

 馬鹿にしきった口調で笑い飛ばしたその人にむけて、猿は拳を叩きつけた。紙一重でその打撃をかわし、男の人は更に声を張り上げる。

「そして謎はもう一つ。なぜ君を攫うほどの力をつけた? なぜ人間に化けることなんてできた?」

 私に聞こえるような大声で言いながら、男の人は猿の蹴りを木の後ろに隠れてやり過ごした。一瞬私たちの視界から消えて、声だけが朗々と響く。

「逆なんだ。力があるから攫うんじゃない。攫うからこそ力がつく」

 木の陰からするりと現れて、木刀で猿の腕を払いのける。なんだろう、この違和感。猿の腕の大きさの割に、男の人は軽々その一撃をさばいている。何かが、おかしい。見ているものが信じられなくなるような、そんな錯覚に陥る。

「昔ならいざ知らず、今の怪異は多かれ少なかれ記録と記憶から影響を受ける。例外がないとは言わないが、少なくともこいつはこの町にもある猿婿入りの逸話から力を得ている」

 混乱する頭に容赦なく男の人の説明が入り込んでくる。聞き逃しちゃいけない、という漠然とした予感に突き動かされ、身を乗り出す。

「それは俺たちの認識のせいだ。俺たちの恐怖のせいだ。俺たちは怪異をそうあるだろうと思い込み、怪異は俺たちにそうあるのだと思い込ませる。俺たちの、人間の恐怖が、怪異の存在を確かにする」

 動揺のあまりうまく理解できないが、つまりそれは、私たちの思い込みからきているということなのだろうか?

「そんな……じゃあ、どうすれば」

「よく見るんだ。そして考える。分からないからって怖がるだけじゃだめだ。そいつが本当に俺たちに害を及ぼせるのかどうか。ヒトを強引に従わせるだけの力は、本当にそこにあるのか?」

 怖がるだけじゃ、だめだ。考えなくちゃ。それは私がずっと放棄させられて……いや、放棄してきたことだ。こんな化物にはかなわない? いいや、そんなことはない。だって三人目の娘は、ちゃんと家に帰ったのだ。なんとかできないことはない、はず!

「ここまで聞いて、またさっきの質問に戻ろう。君はどうしたい、芦矢理緒さん」

 私がどうしたいか。真摯な声に、力強く頷く。

「どうしたいかは、まだ……わからないですけど! でも! 私まだ、やってないことが、いっぱいあるから……」

 だから、戻れるのなら戻らなくちゃ。猿の腕に力がこもり、呼吸もままならなくなるほど締め付けられる。それでも目線だけは男の人に向けたまま、どうにか声を絞り出した。

「お願いします……私を、助けて!」

「ああ。それで十分。ならば今は、ただこう信じるんだ」

 足場が悪いのをまるで感じさせない足取りで猿の攻撃をかわす男の人は、一瞬の隙をついて懐に潜り込んだ。木刀を軽々取り回し、反撃へ転じる。

「君は猿の嫁にはならない!」

 狙い打ったのは毛むくじゃらの肩。鈍い衝撃に背中から放り出されて宙を舞う。

「うわっ」

 転がり落ちた私を男の人が受け止めた。拾い上げようと細長い手を伸ばした猿を、タロウが唸り声をあげて牽制する。でももうその手は私を持ち上げられるようには見えない。細い骨と皮と肉ばかりの、獣の手でしかなかった。

『うぐっ!?』

 木刀が猿の顎をとらえる。キィ、と鋭い鳴き声に目を瞬く。明瞭な意思を持って聞こえた猿の声が、意味を失ってキンキン響いた。

「どうして……?」

「猿が人間の言葉を話すわけないのさ、それが分かっただろ?」

 この調子だ、と低くつぶやいた男の人が私をそっと地面におろしてくれた。膝が笑うのを何とかこらえ、地面を踏みしめて立つ。

 軽く息を切らした男の人が、私を庇うように前に立った。そのまま一撃、一回り小さくなった猿を殴り飛ばす。追撃にもう一発。くずおれて動かなくなった獣に油断なく目を光らせながら、軽い調子で問いかけてきた。ヘルメットのせいで蒸れるのか、首筋をさすっている。

「どうする? 好き勝手やられた腹いせに君がとどめを刺すか? いろんなやり方が伝わってる。まあできないなら俺がやるけど……」

「に……逃がしたりは、しないんですか」

 こわごわ尋ねる私に男の人はすぐさま首を横に振った。

「いいや。惨いようだがこいつを逃がすことはできない。こいつは人の理の中では生きられず、本来の生き方からも外れてしまった。同じことを繰り返させるわけにはいかない」

 表情はヘルメットに隠されて分からなかったけど、声の調子が少し沈んでるように思えた。木刀で押さえつけられた、獣からも外れてしまった何かを見下ろす。ごくりとつばを飲み込んで、深呼吸。

「自分で、どうにかします。これ以上は、迷惑かけられないので」

「……うん、そうか。手伝いが必要なら言ってくれ」

 ぐったりと弛緩した体を引き上げる。硬い毛が肌に刺さって不快だ。見栄を張ったのはいいが、これ、自分だけで運べるだろうか。そんな不安がちらりと頭をかすめると、「大丈夫だよ」と背中から声をかけられた。

「そいつが縮んだのを見ただろう。普通の物理法則が当てはまる存在じゃない。だから自分を信じることだ」

 男の人の言葉に頷いて、力の抜けたぬるい温度の体を支える。意外と軽い……というより、私がそう思っているから、軽いのだろうか。よくわからないまま「この後は、どうすれば」と尋ねた。周囲を見回した男の人が「こっちだ」と示す方向についていくと、タロウが堂々としんがりを務めてくれた。

 しかし、落ち着いてみると、この人の声をどこかで聞いたことあるような。うんうん唸りながらついていくと、突然立ち止まって下を指さした。

「よし、ここから落とすんだ」

 男の人はもたつく私の肩を支えると、ぐいと猿の体を引き起こして軽く押し出した。あっけなく落ちていくその体に小さく息を呑む。

 水音が一つ、そして、風が枝葉を揺らす音。それらに交じって何かが聞こえた気がしたが、ほんの一瞬だけだったのでよく分からなかった。声、だったような気もする。

「今、何か聞こえませんでしたか」

「……いいや。分からなかったな」

 男の人には聞こえていなかったらしい。聞き間違いかな、と首を傾げていると、タロウが一声吠えた。勇敢な彼のことを今思い出して、その体をゆるりと撫でる。

「タロウ、ありがとね。早くおうちに帰してあげるから」

 忙しない呼吸。頬をなめられて、こわばっていた体の力が抜ける。ただの飼い犬、しかもよそのうちの子なのに迷惑かけちゃったな、と申し訳ない気分になる。怪我がないのが唯一の救いだ。

「従来の猿婿入りからは、だいぶ外れてしまったが……まあ、何でも筋書き通りにはいかないのが世の中ってことか」

 よくわからないことをひとりごちる男の人をちらと見て、崖の下を覗き込む。草木が生い茂って、川の水面を見つけることさえ難しかったけど、かえってその方が良かったと思う。

 男の人は大きく息をついてヘルメットを脱いだ。ほんの少し疲れのにじんだ、見覚えのあるその顔に目を見開く。

「とりあえず一山超えたな、お嬢さん」

「……骨董屋さん?」

「あ、気づいてなかったのか? ……そりゃそうか、服も違うし、ヘルメットなんか被ってればな」

 黒ぶち眼鏡をかけて、いつもの人当たりのよさそうな笑み。眼鏡がないと印象がだいぶ違う。格好も口調も私が見ていたものとは違うけれど、むしろこっちの方が素なのかもしれない、と思った。

 いろんな疑問が頭の中でポコポコ湧いて、どれから聞いたものか少し迷った。

「どうしてここがわかったんです?」

 骨董屋さんが答える前に、タロウがポケットの中に鼻を突っ込んできた。はっとしてポケットの中から取り出したのは、骨董屋さんからもらった香袋。ちょっと貸してくれるか、と聞かれて素直に渡す。

「持ち歩いてくれててよかった。あんまり品のいいやり方じゃないけどな」

 骨董屋さんは巾着を開いて小さな機械を取り出す。後から聞けばそれは小型の発信機だったそうだ。よくわからずにきょとんと目を丸くしていると、骨董屋さんは咳ばらいを一つして機械をしまった。

「それより、その手首は大丈夫か? さっき落ちたときどこか打たなかった?」

「いえ、大丈夫です」

「そうか。でも念のためちょっと見せてくれ」

 手首のあざを慎重に触られる。痛みはもうほとんどない。お互いホッとしたようなため息が漏れて、顔を見合わせて少しだけ笑った。

「それじゃ、ひとまず下山しよう。天気が崩れたら困るしな」

 骨董屋さんがここに来るまでにつけてきたという目印を頼りに山を下りる。その間にもう一つだけ、気になったことを聞いてみた。

「どうして助けに来てくれたんですか?」

「頼まれたからだよ。それに、まだ完全に解決したわけじゃ……助かったわけじゃない」

 何かを明言することを避けるような物言いをする骨董屋さんの、端正な顔に影が差す。

「ここから先は俺には手が出せないから、君が頑張るしかないんだが……早く来てくださいよ、本当に」

 最後の言葉が誰に向けられたものだったのか、この時は知る由もなかったけど……家へと戻る私の足取りは、ひどく重かった。そう、骨董屋さんの言う通り……まだ、解決していないことがある。



 タロウを隣家に戻してから、家へと帰ってきた。玄関はしんと静まり返っている。もし、私が家から連れ去らわれたことを父か母が通報したりしていれば、こんな静かなはずがない。嫌な予感に手が震えたが、思い切って戸を引き開けた。

「お父さん、お母さん」

 硬い声で呼びかけると、慌てたような足音がして父がやってくる。青ざめた顔を険しく歪め、拳が固く握られる。

「何故だ。何故戻ってきた」

 喜んでくれるなどとは思っていなかった。けれど、この怒りはなんだろう。怯んで言葉を失う私を、父はさらに詰ってきた。

「沢渡はどうした」

「え……あ……」

 用意していた言葉が、出ない。本当は、糾弾しようと思ってたのだ。あの危険な男のことを知っていたのかと。知っていて引き合わせたのかと。

「黙ってないでなんとか言えっ!」

 怒鳴り声に、体がすくむ。沢渡、なんて偽名のくせに。名前のない大猿を、私はこの手で突き落として、でもあの時危なかったのは私で、どうしようもないことだったのに。ぐるぐる回る思考に口がついていかない。言葉が出ない私の肩を軽く支えて、骨董屋さんが低い声で言った。

「お嬢さんが無事戻ってきたことを、喜んではくれないんですね」

「黙れ! 部外者は口を出すな!」

 骨董屋さんが苦い顔で口を閉じる。それでも私を庇うように前に立ってくれた。そのことにこんな時なのに少しだけ安心してしまった。少なくとも、いつもみたいに怒鳴る父の前で一人で放り出されることはないらしい。

「よくおめおめと帰ってこれたものだな、この穀つぶしめ!」

 胸ぐらをつかまれそうになり、慌てて身を引く。表情を険しくして割り込んだ骨董屋さんの制止に、父は血走った目を向けた。

「部外者の前でこそ行動は慎むべきではないのですか。暴力をふるうようなら流石に警察を呼びます」

 冷静な声がかえって火に油を注いだのか、父が顔を真っ赤にして怒鳴る。

「お前、いつの間にこの男を誑かした!」

「誑かすもなにもありませんよ。最初から彼女の力になることが目的でしたので」

 骨董屋さんの冷静な言葉に耳を貸さず、父はただ私に向けて怒鳴り散らした。骨董屋さんが庇ってくれてるのだ、私も何か言わなくちゃ。そう思うのに、大声に体がすくむ。逆らえはしないと本能が叫ぶ。

「ご、ごめんなさ……」

「謝って済むと思うのか! このグズ!」

 謝罪さえ抑え込まれ、足が勝手に後ずさる。逃げる先などどこにもないのに、ここから出ることなどできはしないのに! 足が震えて、耳をふさいでしまいたかった。

 半ばパニックに陥りかけた思考を引き戻したのは、柔らかな呼び声だった。

「りーお」

 懐かしい声だ、と思った。耳になじんではいたけれど、記憶とは少しだけ違う声。笑う声も怒った声もすぐに思い出せる。電話越しのそれとは違う、優しくて力強い響き。

「謝る必要なんかないのよ。悪いことしたんじゃないんだし、別に許してもらう必要もないんだから」

 七年だ。メールや電話でのやり取りこそあれ、清々しい晴れの日にここを出て行ったきり、一度も会えなかった私の家族。父が顔色を変えて、その名前を叫ぶ。

「真紀乃!」

「お姉ちゃん……?」

 芦矢真紀乃。私の五つ上のお姉ちゃん。ここにいるはずないのに、どうして?

「お前、出て行ったきり連絡もしないで何を――!」

「する必要があった? 猿の嫁にならない娘なんていらないくせに」

 短い髪に真っ赤なルージュ。アイラインは濃くくっきりと引かれ、もともと意志の強そうな瞳がさらに強調されている。口ごもる父に鋭く舌打ちして、つかつかとこちらに歩み寄るお姉ちゃんを、信じられない思いで見つめる。

「お姉ちゃん……どうして?」

「あなたに会いに来たのよ。連れて行くつもりでもあるけど」

 背中を支えられて、足の震えが止まる。そっと身を引いた骨董屋さんに目礼し、お姉ちゃんはきっぱりと告げた。

「虐待する父親と、継母から引き離すために」

「虐待? 何の話だ!」

 目を剥く父の険しい視線をものともせず、鋭く言い返す。

「大学に行かせられる程度の資産はあるくせに娘の意思を無視して家に閉じ込め、周囲の人との関係を断って孤立させた。立派な虐待よ」

 力強い言葉で突き放すお姉ちゃんは、言葉の勢いのまま父に詰め寄った。

「娘を飯炊き女以下の扱いして、挙句山に追いやろうとして。失踪届でも書いて、あとは娘を失った可哀想な家族ごっこでもするつもりだった? ……そうは、させない」

 怒りに満ちた声だった。父を鋭く刺す言葉。険しい目で父を睨んでいたが、ふっと眉間の力を抜いて私を見、すぐ骨董屋さんに視線を移した。

「それで、調べた結果はどうでした?」

「……信じがたい話ですが、あなたの言った通りでした」

 骨董屋さんの言葉にお姉ちゃんは動じた様子もなく、目線だけで先を促した。骨董屋さんは苦い顔で、父の前に立つ。

「芦矢さん」

「な、何だ」

「あの猿を人間に化けさせたのは、あなたの入れ知恵ですね」

 ひどく冷たい声だった。その内容が理解できるようになるまでの数秒の沈黙が、妙に刺々しく感じられた。父の沈黙は肯定だった、お姉ちゃんの沈黙は多分怒りによるもので……私の沈黙は、納得だった。特に意外だとは思わなかった。

「床の間にあったのは掛け軸じゃない。あなたとあの猿の手形……つまり、あれは契約書だ。猿婿入りは基本口約束なのですが、今回は何もかもイレギュラーだ。十七年前にあの猿と何を約束したのかまでは知りませんが、あなたは娘をやると言ったのですね。書面を用意してまで」

 ぎゅう、とお姉ちゃんの手に力がこもる。私は親指でその手の甲を撫でて、ただ唇を引き結び、骨董屋さんが父を問い詰めるのを聞いていた。

「妖怪と人間の書面でのやり取りというのは、実は全くないわけではありません。河童なんかがいい例ですね。手形にしたのは、字が書けない猿にもわかりやすいようにしたんですか」

 父はただ黙って骨董屋さんを睨んでいた。先ほどまでの勢いが嘘みたいに静かにしている。

「家に通わせて彼女の信頼を得るよう言ったのもあなたでしょう。猿婿入りは、結局三番目の娘は家へと帰ります。しかし、あなたはそうさせないためのお膳立てを、自ら進んでしたのですね」

 骨董屋さんが平坦な声で問う間、お姉ちゃんは私の手をずっと握ってくれていた。……震えているのは、私だろうか。それともお姉ちゃんかな。両方かもしれない。

「……家庭内の問題は、俺が口を出すことじゃありません。あなたが何を思ったのか、俺にはわからないし、わかりたいとも思わない。しかし、その手段は悪手と言わざるを得ない」

 ずいと顔を近づけて、骨董屋さんは低い声で念を押すように告げる。

「妖怪は人の理の外に生きていながら、人の輪のすぐ傍にある。ゆめゆめ油断しないことです。今回は、あなたの方から妖怪を引き込もうとしたのですから」

「黙れ!」

 父は骨董屋さんを突き飛ばそうとしたが、細い体はびくともしないでじっと父を見下ろした。何か言いたげに口を開きかけたが、結局口を閉ざしてこちらに向き直った。

 固く唇を引き結んでうつむく骨董屋さんに、お姉ちゃんが歩み寄る。

「すみませんでした、見苦しいところをお見せしてしまって」

 そういうお姉ちゃんを骨董屋さんは目を丸くして見つめ、すぐにまたうつむいた。さっきの恐ろしいような雰囲気は霧散して、引き結んだ唇の端から悔やむような息が漏れる。

「すべての親が等しく子供を愛してるとは限らないって、頭では分かっていたんです」

 分かっていたはずなのに、すみません。吐き出すような声に、さっきのような冷たさはもうなかったけれど。骨董屋さんの顔はわずかに青ざめていて、表情は出来のいい人形じみた硬さを感じさせた。何を言えばいいのか、どうして骨董屋さんが謝るのか分からない私にちらりと視線をやって、お姉ちゃんは淡々と言った。

「気にしないでください。私たちが偶然こうだっただけの話です」

「……すみません」

 骨董屋さんの二度目の謝罪に、お姉ちゃんは軽く首を横に振っただけだった。

「さ、理緒。荷物まとめに行きましょ。車で来てるし、荷物結構積めるわよ」

「荷物……?」

「服とか靴とか、身の回りの物よ。私の家に来るの、あなたは」

「え、でも、私……」

 戸惑う私にお姉ちゃんは少し困った顔をして、諭すように声を低くした。

「……無理に連れ出すようなことは、私もしたくないけど。でも、この家に残してはおけない。分かるでしょ、このクソ親父があなたをどうしようとしたか」

 そう言われてようやく思考が動き始める。そう、最初に沢渡さんを……大猿を連れてきたのは、他ならぬ父なんだ。最初から、私を家から追い出すつもりだったんだ。このまま家に残っては……今度こそ、何をされるかわからない。少しためらったのち、私は結局お姉ちゃんの手を取った。

 うつむく私の手を引いて、お姉ちゃんは玄関の前に立つ父の前に立った。もともと背の高かったお姉ちゃんは、今日は高いヒールを履いていた。足場の悪い道では不便だろうに、しゃんと立って父親を見下ろし、低い声で威圧する。

「そこをどいて。邪魔されるいわれはないから」

「真紀乃……」

「どいて」

 強い口調でかつての家に押し入ったお姉ちゃんの背中を追う。継母とかち合ったが挨拶一つせず、遠慮なく廊下を歩き回る。骨董屋さんは後からついてきていたはずだけど、いつの間にか姿を消している。

「自分の部屋はあるの? どこ?」

「えっと、こっち」

「こっちに部屋なんかあったっけ……うわ狭い! 布団敷くスペースしかないし」

「え、お姉ちゃんが出て行ってからずっとここだけど」

 たたんで隅に寄せられた布団と、小さな机と古い箪笥。それ以外は物置のように荷物が詰め込まれている。

「これ全部理緒の私物?」

「ううん。もともとは物置だったから」

 そう言うとお姉ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔をして、「入っていい?」と聞いてきた。変なこと聞くな、と思いながら頷く。

「とりあえず着替えとかまとめておいて。銀行の通帳とかはある?」

「お父さんが、持ってる」

「分かった。私が取りに行くから。すぐ戻るからね」

 姉の足音が床を揺らす。怒ってるんだな、とぼんやり分かった。必要なもの、着替えと、ほとんど使っていない携帯、お下がりの充電器。保険証は財布の中だ。古ぼけた腕時計をつけると、間の悪いことに止まっていた。後で電池を交換しよう。

 お姉ちゃんの声が遠くから聞こえる。父と言い争っているらしいが、内容までは分からない。のろのろと服をたたみ、ろくに使い道のなかった鞄にしまう。

「大丈夫かい」

「骨董屋さん」

 ふすまの前に骨董屋さんが立っていた。お姉ちゃんが閉め忘れた隙間の高い位置から、眼鏡のフレームがちらりと見えた。

「俺も今日でここからいなくなるわけだし、忘れ物がないかの確認をしに来た。まあそれは建前で、手伝いに来たんだが……入ってもいい、かな」

「どうぞ……?」

 失礼します、なんて変にかしこまった様子の骨董屋さんは、座り込んだままの私の隣に膝立ちになって並んだ。手が止まったままの私を見て、骨董屋さんは首をかしげる。

「どうした?」

「それが、何をもっていけばいいのか分からなくて」

「財布や携帯……は、流石に持ってるよな。後は着替えに、通帳や身分証なんかもあるといいだろうな。本とかゲームとか、趣味のものがあるならそれも持ってくといい」

 趣味の、とぽつんと繰り返した私に、骨董屋さんは小さく頷く。言葉もなくふらふらと視線をさまよわせて、きょとんとした骨董屋さんにへらりと力ない笑みを向ける。

「自分の物があまりないことに、今気づいちゃって」

 苦笑する私を骨董屋さんは笑うでもなく、穏やかな声でこう言ってくれた。

「無理にここから持ち出すこともない。忘れたものがあったとして、大体の物は新しく買える。急な話だから、どうしたらいいか分からないって言うのも分かるよ」

 ゆっくり考えな、と優しく促してくれて、ふわふわと定まらなかった気持ちがほんの少し落ち着いた。

「私、歯ブラシ持ってきます」

「うん。何かやっておくことはある?」

「……えっと」

 善意で言ってくれてるのだから、何かしら頼んだ方がいいのかもしれない。けど、それにしたって物がない。雑然とした部屋を見回して、ようやく一つ思い当たるものがあった。

「スケッチブックと、ペンと、色鉛筆。出しておいてもらえますか。一番上の引き出しにありますから」

「分かった」

 骨董屋さんはうなずいただけで、スケッチブックや画材に興味を持ったようではなかった。聞かれてもうまく答えられるかわからなかったので、それだけはちょっと助かったかもしれない。部屋を出ようとして、あることに気づいて慌てて振り向く。引き出しの取っ手に手をかけていた骨董屋さんが驚いたようにこちらを見た。

「……スケッチブックの中身は見ないでもらえると、助かります」

「了解です」

 洗面所から戻ると、通帳を持ったお姉ちゃんと鉢合わせた。不機嫌な顔が一瞬で和らいで、背中をちょいと押される。

 布団が持っていけないとなると、必要最低限ともう少し、くらいの荷物にしかならなかった。お姉ちゃんは不機嫌に「向こうに行ったら新しい服買いましょ」と言った。

「でも、いいのかな」

 少ない荷物を見て、ぽつりとこぼした最後のためらいに、お姉ちゃんは考え込むような間を空けてから、遠慮がちに私の手を握った。暖かくて柔らかな指が、荒れた手をいたわるように包み込む。

「家を出るのに許可なんかいらないのよ、病気でも何でもないんだから。仕事さえ見つかればあなた一人でも生きていける」

「一人、でも」

「しばらくは私と一緒だけどね。さすがに箱入りをすぐ一人暮らしさせるのは怖いから」

 ぽんぽんと言葉を投げられ目を白黒させる。いろいろなことが一度に起こりすぎて、当事者のはずなのに何も分かっていないような気分になる。呆然とする私をお姉ちゃんは心配そうに見つめていたが、意を決したように手を引いて、ぎゅうと抱きすくめた。

「大変だったよね、理緒」

 置いていってごめんね。と頭をなでられて、ようやく事態に感情が追いついた。驚きと喜びと、何よりずっと私は悲しかったんだということ気づいて、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。小さかった時みたいにあやされて、ゆっくりと呼吸を整える。

「おねえちゃん……」

「うん、なぁに」

「きてくれて、ありがとう」

 ずっとあいたかった、傍にいてほしかった、置いていかないでほしかった。そんな恨み言が全くないわけじゃない。けれど、今ここにいてくれることがどれだけありがたいことだろう。そんな気持ちは言葉にならず、嬉しくて悲しくて涙が出た。ごしごし涙を拭うと、「腫れるからよしな」と止められる。

 荷物を背負って家を出る私を、父と母は止めなかった。お姉ちゃんは涼しい顔をしていたけれど、二人が何か言えば倍以上の言葉で言い返しただろうし、骨董屋さんは黙ってただそこにいるだけで彫像じみて威圧的だ。そんな二人に挟まれて、おっかなびっくり玄関を出る。

 私、一人じゃなかったらこんな簡単に外に出られたんだ。そう思うと、ひどく空しかった。

「理緒、行くよ」

「……うん」

 きっともうここには戻ってこないんだろうな、と自然に思った。まだ現実味が薄く、離れる実感はまだない。夕日に染められる町に背を向けて、私はお姉ちゃんについていく。

 家にいい思い出はない。家族は実の母とお姉ちゃん以外はずっと恐ろしいままだろうし、あの大猿のことはきっと夢で見てうなされることもあるだろう。でも、私は多分、この景色を完全に嫌いになることはできない、とも思うのだ。私の生まれた場所、ここで生まれて、ここで過ごしたという事実だけがある場所。何もないのに私の全てだった場所を、私は出ていく。

 姉の車の前にもう一台、骨董屋さんが乗っていた車が停まっている。藍色の空を背負ったラフな格好の骨董屋さんが、私たちに軽く頭を下げた。

「とりあえず、一件落着ですね」

「ありがとうございました。妹を助けてくれて」

「これが仕事ですので。あなたの方も間に合ってくれてよかった。家庭の問題に、俺は口を出せませんから」

「そう、ですね。うまいこと押し切れてよかったです。ほら理緒も、ちゃんとお礼言いなさい」

「あ、ありがとうございました……」

「どういたしまして。後半は力になれなくて申し訳ない」

「そ、そんなことないです。いてもらえるだけで、ありがたかったです」

 謙遜する骨董屋さんに食い気味に答える。お姉ちゃんが来てくれなければ何もできなかったけれど、庇ってくれたのは本当にうれしかった。仕事ですから、と何でもないようにいうその姿勢が、とても頼もしく見えた。

 これからどのように生きていくのか、方向性も計画も何も決まっていない。でも、この人みたいに、優しくあることができたらと思う。

 お姉ちゃんが少しばかり眉間にしわを寄せていて、骨董屋さんはちょっと笑みを引きつらせていたんだけど、私はそれがどういう意味を持っているのかはわからなかった。


「とりあえず、理緒の仕事を何とかしなきゃね……最初はバイトとかから始める?」

 初めての高速道路、初めてのサービスエリアに戸惑う私を、お姉ちゃんはちょっと面白がっていたけれど、すぐに飽きたのか食堂のもつ煮をつつきながら小さくため息をついた。

「それなら俺、いい話知ってますよ」

 同席している骨董屋さんがうどんを軽く平らげて言った。車から降りてしばらく具合が悪そうな顔をしていたが、もう大丈夫らしい。

「知り合いが小さな喫茶店をやってて、人手を欲しがってるんです。ちょっと条件が特殊だけど、芦矢さんなら大丈夫だと思います」

「……この子、多分バイトとかも未経験なんですけど大丈夫なんです?」

 私が質問する前に、お姉ちゃんが骨董屋さんに尋ねる。

「大丈夫だと思いますよ。妹さんは口数は少ないけど、敬語はできるし。そこの店員とも少し話しますけど、このバイトが初めてってやつも多かったんで」

 その言葉を聞いてお姉ちゃんは少しほっとしたようだったけど、私はまだ少し不安だった。自分の知らない街でバイト。やっていくしかないけれど、うまくやっていけるだろうか。

「そんなビクビクすることないよ。誰だって最初はミスするんだから」

「そこの店主、そんなに厳しい人たちじゃないから心配しなくてもいいよ。俺からも言っておくから」

「はい……」

 頼りなくうなずく私の頭を撫でて、お姉ちゃんは骨董屋さんに目を向けた。

「三縞さんはこの後どうするんです?」

 聞いたことのない名前にきょとんと目を丸くする。骨董屋さんは平然とうなずいて、空になったコップのふちを指でなぞった。

「今日はひとまずこのまま解散しましょう。細かいことは後日、芦矢さんの都合がいい時に連絡してください」

 よくわからない間に、話はだいぶ進んでいたらしい。目を白黒させていると、お姉ちゃんが「どうしたの、理緒」と不思議そうに呼び掛けてくる。

「ごめんなさい、私、骨董屋さんの名前、知らなくて」

「え? ああ……ごめん。君にはまだちゃんと名乗ってなかったか」

 あと実は骨董屋でもなくて、と衝撃の発言をした後、骨董屋さん(偽)はごそごそと鞄の中を探った。

「道具の鑑定は多少できるけど、本職は違うんだ。今回売ったのもさっき言った知り合いの店の物をちょっと融通してもらったのばかりだし」

 小さな紙を渡される。それがこの人から父が受け取っていたものとは違うものだと気づいた。

 シンプルかつ情報量の少ない名刺。一番目立つところにある名前を、ゆっくり声に出してみる。

「三縞、南雲さん」

「うん、三縞南雲です。世の中のいろんなトラブル、特に専門家があんまりいないタイプのやつをなんとかする仕事をしてます」

 抽象的な説明に相槌を打ちかねていると、お姉ちゃんが横から簡単に補足してくれた。

「つまりね、今回みたいな妖怪退治とか、除霊とかしてくれるんだって」

「そんな毎回じゃないですよ。退治できるような奴が出る方が稀ですし」

 慌ててお姉ちゃんの説明を打ち消し、咳ばらいを一つ。

「今回は比較的大掛かりな仕事だったけど、普段は相談を受けて使いっ走りみたいなことばかりしてる。事務所って言っても俺しかいないけど」

「すごいですね……」

 そんなに年上には見えないのに、自立して一人で働いているんだ。尊敬のまなざしを向けると、三縞さんは少し居心地悪そうに視線をそらした。その様子を頬杖ついて眺めていたお姉ちゃんが、平淡な声で三縞さんに尋ねた。

「で、話を戻すんですけど。さっき言ってた、知り合いの喫茶店のちょっと特殊な条件って何なんです?」

「ああ、それは……」

 まるでちょっと立地が悪いんです、とでも言うような気軽さで、三縞さんはこう続けた。

「従業員に、妖怪がいるんです。だから、妖怪を見たことがある人、という条件がついてます」

 募集要項には書いていないようですけど、と付け足す三縞さんの言葉に、姉妹揃って絶句する。……どうやら私の新生活は、一筋縄ではいかなさそうだ。

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