第11話 そして二人はきっと

「諌本(いさもと)?」

 聞き覚えのあるようなないような怪訝な声に少女、諌本文(あや)香(か)が顔を上げると、コンビニの袋を提げたクラスメイトが立っていた。黒いレザーの手袋に、こげ茶の暖かそうなジャケットを羽織り、花壇のへりに腰かける文香を不思議そうに見下ろす少年は、文香の近くに誰もいないのを見て首を傾げた。

「楽山(らくやま)、くん?」

 そう問い返すように名前を呼べば、少年――楽山誠(まこと)はちょっとだけ目を丸くして「名前、憶えてたのか」と呟いた。クラスメイトなんだから分かるけど、と怪訝に思った文香だったが、次に投げかけられた問いに僅かに表情を曇らせた。

「こんなとこで何してんの。冷えるだろ」

 季節は冬もいいところ、時刻だって日付が変わりそうな頃合いだ。家が近いわけではなかったと思うが、と訝しむ誠から、文香は気まずそうに視線を逸らした。

「終電の時間、間違えちゃって。帰れなくなっちゃった」

 誠は駅のある方へちらと視線をやって、座り込んだままの文香に再び問う。

「……それは、見ればなんとなくわかるけど。こんな時間まで何してたんだ」

「お別れ会、してたんだ。大分前に解散したんだけど……なんか、帰るのも惜しいなって思って」

 もう最後だから、と小さな声で付け足した文香に、誠は一瞬口ごもる。クラスメイト達が文香に会えるのは今日が最後だ。彼女は家の都合で遠くに引っ越してしまう。別れを惜しむクラスメイトは引き留めたのだろうし、彼女も断らなかった。

 誠はその輪には加わらなかったが、横目にその様子を見つめていた。まさかこのようなことになっているとは、と困惑気味に問いかける。

「どうやって帰るの」

「……分かんない」

「タクシーは」

「酔うから嫌なんだ」

「そんなこと言ってる場合じゃ……」

 もどかしげに言う誠に、文香は苦笑してみせる。

「大丈夫だよ、始発まで適当に時間潰すから。楽山くん、家近くなんだよね? 買い物終わってるなら早く帰った方がよくない?」

 笑顔の裏にやんわりと拒絶の意思を感じ取り、誠は唇をへの字に歪めた。

「いいや、今から出かけるところ」

 低くてぶっきらぼうな声だった。きょとんとする文香に、誠はレジ袋の中にあった缶コーヒーを押し付けて、白い息を吐く。咄嗟に受け取ってしまい「あつっ」と小さく声をあげる文香に構わず、誠はすいと首を巡らせた。

「行先決めてなかったから、ちょうどいいや。送ってく」

「送ってく、って……私、車は……」

 そもそも免許を取れる年齢ではないんじゃ、と言いかけた文香に、誠は財布の中から取り出した物を見せた。一枚の免許証。むすりと口を引き結んだ顔写真と、マフラーを口元まで引き上げた同級生をまじまじと見比べる。

「車じゃない。バイク」

 平淡な声でそう答えたその顔を見つめると、ふいと視線を逸らされる。すたすたと歩きだしてしまうその背中を文香は慌てて追いかけた。


「スカートはマズいな。ヘルメットも借りなきゃだし、早く行こう」

 横に並んだ文香の格好に素早く視線を走らせてそう言った誠に、文香は慌てて声をかけた。

「ちょっと待ってよ、私、別に……」

「こんな時間に制服でいるのは、あんまりいいことじゃないと思うけど」

 うぐ、と言葉に詰まって、文香は目を逸らした。制服にうすっぺらなコートを羽織っただけの格好では、どこかに入るというにも肩身が狭い。というか下手しなくても補導である。寝ずに待てばなんとかなるかしらとどこまでも楽観的に構えていたが、指先はすっかりかじかんでしまっていた。

「……親に迎えに来てもらうか、友達に連絡取って、泊めてもらうなりなんなりしてくれるんなら、別にこんなお節介しねえけど」

 親か友達に、連絡。でも、それをするなら最初からそうしているはずで、答えたくない文香と聞くに聞けない誠の間に気まずい沈黙が下りた。文香のスマホは一時間以上前に電源を切られて沈黙している。

 ふらりと視線を泳がせ口を開かない文香を、誠は辛抱強く待った。

「……どうする」

 握らされた温かな缶に視線を下ろし、文香は観念したように項垂れる。

「お願い、します……」

 ぎこちなく頭を下げる文香に、誠は「ん」と小さく頷いて、ほんの少し目元を緩めた。


 ついてきて、とだけ言った誠に、文香は問を投げかける。

「どこ行くの?」

「知り合いのバイク乗りの家。ヘルメット貸してもらう。あとは上着とかも」

「コートあるよ?」

 裾をつまんでみせる文香に、誠は眉間に深く皺を寄せた。

「それが防寒になると思ってんなら別にいいけど」

 突き放すような言い方に文香は顔をしかめ、しかして吹き付けた北風に肩を震わせた。短く折ったスカートも、なんだかひどく頼りない。誠は反論を諦めて黙り込む文香に時折視線をやって、しかし何も言わなかった。

 気まずい空気のまま、誠はあるアパートの一室のインターホンを鳴らした。長いこと待って、「いねえのかな」とぼやく誠に文香は不安そうに扉を見つめたが、ほどなく気だるげな足音がして、のんびりと鍵が開けられた。くわえ煙草に襟がくたくたになったスウェットの男性は、誠を見て目を丸くした。

「優(ゆう)さん、こんばんは」

「こ、こんばんは……? どうしたんだよこんな時間に」

「ちょっと、借りたいものがあって」

 説明するのが億劫とばかりに文香を前に立たせると、優さんと呼ばれた男は慌てて煙草を灰皿に押し付けた。その隙にねじ込むように、誠は端的に頼む。

「この人に服貸して。ズボンと適当な上着。なんかあるでしょ」

「ええっ?」

 ぎょっとする文香を無視して、誠は「あとヘルメットも」と付け加えた。急な話であったが優は迷惑そうな顔一つせず、ただ軽く首を傾げた。

「服? あるっちゃあるけども……そもそも誰だ、この子? 同じ学校の子だよな、もしかしてかの」

「クラスメイト」

 最後まで聞かないうちにすっぱりとそう言い切り、迷うのない足取りで部屋へと入る誠。文香は居心地悪そうに玄関口に立ち尽くしていたが、事情を呑み込めていない様子の優に手招きされておずおずとローファーを脱いだ。

「終電逃したって言うから送ってくだけ」

「そうだったんか? 災難だったなあ」

 特に追及するでもなく、気の毒そうにそう言った優は、片手鍋にたっぷりと牛乳を注いだ。鍋を火にかけ、小さなヒーターの前のスペースを空ける。

「時間かかるから、その辺座って待ってて」

 顔も見ないでそう言いつけられ、文香は差し出されたクッションに腰を下ろして体を縮こまらせた。

「えーと、初めまして。俺、栗(くり)川(かわ)優です。誠の兄貴と同級なんだ」

「い、諌本文香です。えっと、急に来ちゃってごめんなさい」

「いやいや、誠が急に来るのは割とよくあるし」

 散らかった室内を見回し、居心地悪そうにしている文香に優は衣装ケースの一段を引っ張り出してドカンと置いた。

「元カノので悪いけども。趣味が合うやつあれば適当に持ってってくれよ」

 文香が服を選んでいる間、誠は部屋のあちこちをひっくり返してヘルメットを取り出し、消臭剤を噴きつけた。

「この服、使い終わったらどうすれば……」

「申し訳ねえんだが捨ててもらえんか。持っててもどうしようもねえし」

 苦笑する優に戸惑いながら頷いて、差し出されたマグカップを受け取る。

「しかし、『クラスメイト』ね。……失礼だけど、本当にアイツとは何でもないの?」

 声を潜めて尋ねてくる優に、文香は首を縦に振る。

「正直、クラスでもあんまり話したことなくて。バイクに乗れるのなんて初めて知りました」

「そっか。たまに会ってもバイトの愚痴ばっかで学校のことなんかちっとも話しやがらないもんだから、なんかしら聞けないかと思ったんだが……」

「バイトしてるんですか、楽山君」

「ありゃ、それも知らなかったのか」

 目を丸くする優にこくりと頷く。ますます分かんねえ、とぼやく優に、文香も首を傾げる。

「私も全然分からないんです。どうしてこんな親切にしてくれるのか」

「……まあ、あいつがよく分からないのは今に始まったことじゃないし、よく分からなくても害があったことはないから大丈夫だと思う」

 全く根拠のない言葉に文香は胡乱な表情をするが、優は至って大真面目だ。ポケットに手を突っ込んで煙草を取り出そうとしたが、文香を見て考え直すように元に戻した。

「あいつ、三人兄弟の末っ子で、一番上のお姉さんが結構厳しいらしくてさ。だから年上には礼儀正しいし、よく気がつくし。俺はほら、ちゃらんぽらんだから丁寧にされるのに慣れなくて、だいぶ戸惑ったもんだよ」

「そうなんですか」

 そういうところはイメージからあんまり外れないな、と文香が頷くと、優はおかしそうに笑って続けた。

「まあ愛想がないのがどうにもなあ……小学校の時からずっとなんだよ、あのむすっとした顔! はは、何怒ってるんだ、って聞くとな、あいつの兄貴がただ眠いだけだからって言って、それであいつは眠くないしって怒ってさ……」

「それは……ふふ、なんだか分かるかもしれないです」

「だろ? あとは何年か前に一緒に遠出した時なんか……」

「聞こえてるけど」

「ひえっ?」

「うおっびっくりした」

 冷たい声が飛んできて、文香と優はびくっと体を震わせた。驚く二人を誠はやや不機嫌そうに見下ろしていたが、溜め息をつくとまた背を向けて物色を再開した。

「……まあ、あれだ。あいつがこんな日にツーリングにいくのは割とよくあるから、他意があったりするわけじゃないと思う。あんまり考えすぎないでやってくれな」

「それは……はい」

 頷いた文香に優はほっとしたような笑顔になって、あちこちひっくり返している誠に「何さがしてんだよ~」と絡みに行った。

「誠、タンデムなんかしたことあったっけ」

「姉貴となら何度か」

「そうか。事故には気をつけろよ」

 ホットミルクで体が温まったのと、ずっと外にいた疲れが出たのか、文香は膝を抱えてうとうとと舟をこぎ始めた。誠はそれに気付いて声をかけようとしたが、結局目を覚ますまでの三十分ほどは、マグカップを片手に静かに待っていたのだった。


 がくん、と頭が傾いで、文香ははっと目を覚ました。準備を終えたらしい誠は漫画を読んで時間をつぶしていたらしく、文香と目が合うとすぐに本棚に戻した。

「ごめん、寝ちゃってた」

「いや。あんまり疲れていてもよくないから。もう大丈夫なら着替えてくれ」

 男二人から見えないように隅で着替えた文香を見て、優は大きくうなずいた。ブレザーの上には一回りサイズの大きなスカジャンを羽織り、スカートの下に厚手のジャージを履いている。文香は比較的地味なものを選んだのだが、誠は眉間に皺を寄せて優の方をちらと見て、それ以降は何も言わなかった。コートは着ないでバイクのシートの収納スペースに仕舞うことになった。

「それなら防寒もばっちりだろ。気をつけてな」

「はい。ありがとうございます」

 礼儀正しく頭を下げた文香に、優は穏やかにうなずいた。

「諌本さん、握手大丈夫な人か?」

「え? 大丈夫ですけど……」

「じゃあほら、握手握手」

 よく分からないまま手を握られ、ぽかんとする文香に優は苦笑する。

「まあ誠のことだし大丈夫だと思うが、バイク事故って怖いからなあ。安全祈願みたいなもんだと思っていてくれ。ほら、誠も」

 慣れているのか特に何も言わずに、誠は差し出された手を握り返す。不思議そうに掌を見つめる文香を促して、誠は優に無言で頭を下げた。

「気をつけてな」

「もちろん」

 ひらひらと手を振る優に見送られ、二人は深夜の街へと踏み出す。


 寡黙で、地味な人だと思っていたのだ。人の輪の外側に音もなく立っていて、気が付いたらいなくなっているような人だと。だからこんな、大きなバイクを押しているのが心底意外で……重たそうなマシンを押す背中は、思いがけず広かった。

「どの辺りまで送る?」

「えっ?」

 ぼんやりとその後ろ姿を見つめていた文香は、唐突な問いに間の抜けた声をあげた。

「最寄り駅まででいい?」

「あ、えと、うん」

「どこだっけ」

「星川」

 ほ、し、か、わ、と声に出しながら、誠は慣れた手つきでナビに目的地を入力した。すっと目を細め、文香にちらと視線をやる。

「あんまり行ったことねえから、道間違えるかもしれない」

「あ、うん」

 電車通学なので道を間違えられても分からないのだけど、文香は黙っていた。誠が沈黙を当然のような顔をしてやり過ごしているものだから、文香としてもなんとなく口をききづらい。無言のままヘルメットを手渡され、もたつきながらもなんとか被る。その間にバイクにまたがった誠は、どこか気だるげに振り向いて短く言った。

「乗って」

 白いヘルメット姿の後ろに恐る恐る腰かけると、「もっと前」と声が飛ぶ。

「もっと膝締めて」

「エンジンには触らないで」

「運転中は動かないで」

 いくつも飛んでくる注意にむうと唇を歪めるも、文香自身バイクのことは分からない。大人しく指示を聞く。

「手、は……」

 淀みなく続いていた指示が、困惑気味に途切れた。自分の腹を叩いて示す。

「手は、ここ」

「あ……うん」

 文香がそろそろと腰に手を回すと、ぐいと手を引かれ、へその前でしっかりと固定させられる。硬い背中に体重を預けたものか悩んでいると、ぐんと体が引っ張られる。発進したのだ、と気付いた時には景色が後ろに流れていて、その思いがけない速さに思わず体を強張らせた。

「大丈夫だから」

 メット越しでは聞こえにくかったが、それでも穏やかな声が聞こえたので、文香は小さくうなずいて、握った手に力を込めた。


 三十分ほど走り、誠はコンビニの駐車場にバイクを停めた。降りる時によろけたのを慌てたように支えられ、文香は気まずく頭を下げる。

「はー、さむ……」

 かじかんだ手をこすり合わせて、文香は指先を白い息で温める。誠はそれを見て何かないかと収納スペースをごそごそ漁る。

「軍手しかねえや。使う?」

「ありがと……」

 無いよりましとそれほど使いこまれた様子のない軍手をはめる。自分の手より一回り大きいそれを引っ張りながら、暖房の利いた店内に入る。

「なんか食う?」

「飲み物だけでいいかな」

 別々に会計を済ませ、外に出る。車止めのブロックに腰を下ろし、誠はいそいそと肉まんの包装を解いた。

 ミルクティーを冷ましながら、文香は隣の誠に何気なく訊ねた。

「よくこうやって出かけたりするの?」

「それなりに」

「そっか。旅行とか好きなの?」

「まあ、普通」

「そうなんだ……」

 会話が続かず、文香は困ったように口をつぐむ。誠はしばらく無言で宙を睨んでいたが、不意にちらりと文香に視線を向けて問いかけた。

「……引っ越し先、どこなんだっけ」

「中城町。行ったことある?」

 誠は問われて一瞬遠くに視線をやった。

「一昨年、兄貴と優さんに連れられて行ったな。楽しかったし、いいところだと思う。交通の便もいいし、店も多かった」

 表情を緩めてそう言った誠だったが、文香の表情は曇っていった。それに気付かず、湯気を立てる肉まんをほおばって誠は続ける。

「……こんな時期に引っ越しなんて大変だな。慣れたと思ったら受験始まっちゃうだろうし、クラスに慣れるのにも時間かかるし」

 ホットの緑茶で舌を湿らせ、誠は白い息を吐いた。

「まあ、諌本なら大丈夫だろ?」

「ほんとにそう思ってる?」

 刺々しい口調に、誠は目を見開いた。

「私、別に人付き合い得意な方じゃないから、って言ったら? そしたら楽山君何て言う?」

 押し黙る誠を睨みつけ、文香は溜まっていた鬱憤をどろどろと吐き出した。

「本当は人付き合いも無理してて、ただでさえ新しい環境なんてごめんだって思ってたら?」

 じっとりと睨まれ、誠はそっと視線を逸らせる。狼狽えるように視線を泳がせ、慎重に訊ねた。

「……無理してたの?」

「してないけどさあ……」

 ふいと顔を背け、苛立ちを声に滲ませたまま、文香は顔を伏せた。

「引っ越したくないのか」

「ないよ。したいわけないじゃん」

 苦い顔で即答した文香がぶつくさ言うのを、誠は神妙な顔をして聞いていた。

「仕事なんだししょうがないのなんか私だってわかってるけど、だからって文句言うなとまで言う必要なくない!? 私に選択権ないんだよ?」

 愚痴っぽく怨嗟を吐き出す文香に、誠は言葉を失う。ぶつぶつと不満を漏らしていた声が一瞬途切れ、目から怒りが薄れた。悲しげな色を帯びる大きな目は、頑として誠の方を向こうとしない。

「だって、こんなの勝手だよ。わたし、受験生なのに」

「うん」

「友達だって、いっぱいできたのに」

「うん」

「こんな変な時期に引っ越ししても、新しく友達なんかできないよ」

 声が震えて、再び顔を伏せる。ジワリと瞼が熱くなり、こんなこと言うんじゃなかった、と文香は後悔した。誠は静かに目を伏せ、小さく「無神経なこと言ってごめん」と詫びた。文香は首を横に振り、無理矢理に笑う。

「私こそごめんね、こんなこと言って。楽山君に当たっても仕方ないのに」

 空になった缶をもてあそびながら、文香はぽつぽつと言葉を続けた。

「まだ、あんまり実感がわかないんだ。今日で最後だってわかってても、いまいちぴんとこなくて。それなのに皆泣いたりして、絶対連絡するからね、また会おうね……って。そう言ってくれたうちの何人が、本当に連絡くれるんだろうって思ったら、なんだか空しくなっちゃって」

 溜息をつく文香の隣で、誠は黙ってごみを片付けていたが、手を止めて独り言のように呟いた。

「……このまま行けば、何事もなく星川に着くと思う」

 文香が俯いたまま頷くと、誠はもどかしげに頭を掻いた。

「……海が、あるんだ。近道からは外れるけど、朝焼けが綺麗で」

 急にそんなことを言い出した誠に、文香がようやく顔を上げる。その目を誠はまっすぐに見つめて、「少しだけ、寄り道してから帰ろう」と言った。

「そんな顔して……帰れない、だろ」

 ひどく言いにくそうに声を絞り出す誠に、文香は再び俯いた。ハンカチで目元を拭いて、かすかに頷く。

「少し休んで、落ち着いたら帰ろう。大丈夫だから」

 何が大丈夫なんだろう、と文香は思ったけれど、読み取りにくい誠の表情がなんだか痛ましいような苦しいようなものだったので、大人しくついていくことにした。


 眠気覚ましにと口にしたガムの舌を刺すような辛さに、文香は顔をしかめ誠は眉間の皺を深くする。

「からい……」

「……これしかなくて。ごめん」

「うん……」

 運転している間、二人はずっと無言だった。後ろに乗っている文香からはカーナビの音が遠くに聞こえるくらいだ。風は冷たく、カーブの時車体が傾くのにもいちいち胆が冷える。それでも少しずつ慣れていき、強張っていた腕からは程よく緊張感が抜けていた。

 赤信号で停止している間に、文香は空を見上げた。夜闇は深く、朝はまだ遠い。

「海までどのくらいかかりそう?」

「夜明け前には着く。少し休みながら行こう」

 文香が頷くと、信号が青に変わる。それにしたって奇妙な縁だ、と文香は思った。

 本当なら今日は、お別れ会の後は名残を惜しみながらも電車に乗って帰り、引っ越しの準備でもして、今頃は布団に入っていただろうに……きっと、胸の内の不安と不満を誰にも吐き出せないまま。そう考えるとこのイレギュラーはもしかしたら自分にとってはいいことなのかもしれなくて、でも悪いことだったとしても貴重な経験だからいいのかな、などとつらつら考える。

「どうかした?」

 もぞもぞと身動きしているのが気になったのか、誠が振り向いて尋ねた。

「なんでもないの」

 なんでもないよ、と繰り返し、文香は誠の肩越しに前を見た。


 地平線の空が青色を薄くしていく。流れていく景色を眺めているだけで時間はあっという間に過ぎて、

「もう着くよ」

 そう言われる前から、文香は潮の臭いを感じ取っていた。吹き付ける風は冷たいのに、心が妙にはやってしょうがない。夏に海に行くことはあるが、こんな時期の、しかも早朝に行くのなんか初めてだ。白みはじめた空を目指し、バイクはスピードを上げた。

 そして――

「寒い! 何これ!」

「そりゃ海だしな」

 ごうごうと吹き付ける風を全身に受け、文香は素早く体を縮めて誠の背中に隠れる。その様子を見た誠は、水平線を一瞥すると肩を竦めた。

「日の出どころじゃないか。どうする? 帰る?」

 ふるふると首を横に振る文香に、誠は怪訝な顔をする。

「ここまで来て何もしないで帰れない!」

「あ、そう……」

 しかし、実際に寒いものは寒い。誠はしばらく考えた後、ばかんと座席を開けてレジャーシートを文香に渡した。

「風よけくらいにはなる」

 そう言って自分はコンクリートにあぐらをかいて腕を組む。一人で使え、とでも言いたげにしているが、吹き付ける海風が体にしみるようで控えめなくしゃみを一つした。文香は遠慮なくその横に腰を下ろして、レジャーシートを広げる。

「……おい」

 困惑したような声に構わず、文香はシートで自分と誠の体を覆うと、きゅうと体を小さくした。

「こっちの方があったかいし」

「……そう」

 ぶっきらぼうな声に、僅かに強張った口元。怒ってるわけじゃないんだよね、と横目で見つめ、文香は水平線に視線を移した。肩が触れ合った時お互いびくりと体を震わせたけれど、バイクの上では密着し通しだったことを思い出しふっと力を抜いた。

「意外と疲れるんだね。私なんか後ろに乗ってただけなのに」

「結構気を張るから。慣れてないなら尚更」

 気遣わしげに見つめられ、文香は微笑んだ。

「今日はありがとう。こんな親切にしてもらっちゃって」

「……いや。いろんなところに行くのが好きだから」

 ぼそぼそと会話を交わしているうちに、太陽が昇り始めた。自然と口数が減り、静かにその時を待つ。

 どちらからともなく、言葉にならない感嘆がこぼれた。温かな光が肌を撫で、冷えていた風が温度を含んで柔らかくなったように感じられる。文香が声もなくその陽に見入っていると、隣から小さく声がかけられた。

「……もう、帰れそうか」

 隣から聞こえた小さな声に、文香は隣を見やって目を丸くした。

「帰れる、よ。帰れるけど……」

 どうしてそんな顔するの、と文香が聞けば、誠は自分の顔をぺたぺたと触って、本当に分からないと言いたげに首を傾げる。

「そんな顔って、どんな顔」

 途方に暮れたような問いかけに、文香は絶句する。悲しいような諦めたような表情。そんな顔を見るのは当然初めてのことで、困惑したままどうにか答える。

「わ、分かんないけど……なんか、寂しそう?」

 自信なさそうに答えると、誠は納得したように頷いた。顔に出すつもりなかったんだけど、と憂鬱そうにぼやく。

「帰りたくないんだろうよ、単純に」

 文香の視線に気付いて顔を背ける誠は、小さな溜め息を落とすと頬を掻いた。

「こんな機会、もう二度とないだろうにって思っただけ」

 朝焼けに目を細めて、文香の緯線を避けるように遠くを見つめる。

「気づいてなかったと思うけど……というか、俺もついさっき、気づいただけなんだけど、俺、諌本のこと気になってたんだ」

 唐突な告白に、文香は目を瞬く。

「今さっき気付いた、って……どういうこと?」

「だからその……無意識に見てた……んだと、思う」

 困惑の色の濃い問いに、これまた困惑したような答え。意図を掴みかねて首を傾げる文香に、誠はぎこちなく弁明する。緊張のせいか頬にうっすらと朱を刷いて、視線はうろうろと定まらない。

「つまり……多分、顔が、好みで。それで昨日からずっと見てて、話してみて、ようやく分かったっていうか……上手く、言えないけど」

「……全然、気づかなかった」

 あっけにとられたように文香が言うと、誠は笑みというには苦みの強い表情をした。

「俺だってほとんど無意識だった。今日、初めて気づいたんだ。……馬鹿だな、今更気付いたって遅いのに」

 自嘲気味にこぼされた呟きに、文香は目を丸くしてからぎゅっと手を握りしめる。俯いてしまった誠の頬を両手で挟み、強引に視線を合わせた。

「何でそんな風に言うの?」

「え……」

 予想外の言葉に目を丸くする誠に、文香は語気荒く言葉を重ねた。

「会いに行くのなんか簡単だよ、会いに行かなくたって声くらい聴ける! だから……」

 そこまで言って、文香ははっと我に返る。勢いのまま口走った言葉を頭の中で反芻して、かっと頬が熱をもった。そのまま黙り込んでしまう文香を静かに見下ろし、誠は頷いた。

「だからその……今更とか、言わなくてもいいんじゃないかって……」

「うん……そう、だな」

 頬にあてられたままだった手をそっと下ろさせ、誠は照れくさそうに微笑む。

「バイクじゃなくてもいいもんな。電車でも、車でもいい。自転車で行くのは大変だろうけど楽しそうだ。今日みたいに、どこへだって行こう……その、本当に、会いに行ってもいいなら」

 はにかむような笑みをわずかに曇らせ、伺うように付け足した誠に、文香は頬の熱もひかないまま強気に笑った。

「よくなかったらあんなこと言わないよ。来ないんだったらこっちから会いに行くから」

「……意外にアグレッシブなんだなあ」

 目を丸くする誠に、文香は「知らなかったでしょ」と得意げな顔をする。

「私も、楽山君のこと全然知らなかったしね」

「そうだな。……でも、これから知っていけるよ」

 誠の言葉に文香は頷いた。二人は朝日の下で見つめあい、いたずらっぽく笑いあった。

「そろそろ行こうか」

「うん。ありがとう」

 そうして二人は朝日を浴びて、再び走り出した。


 見慣れた景色のはずなのに違って見えるのは、バイクの後ろのシートなんていう初めての場所にいるからだろうと文香は思った。まだ人通りの少ない駅前に停車して、誠は預かっていた荷物を文香に返した。

「楽山君はこの後どうするの?」

「俺? あそこにネカフェがあったから、少し休んでから帰るよ。流石に夜通しで走るのは疲れた」

 ぐうと伸びをして肩をほぐす誠に、文香は申し訳なさそうに眉を下げた。

「気をつけて帰ってね」

「そっちこそ」

「五分もかかんないから大丈夫。……改めて、今日はありがとう」

「礼なんかいいよ。走るのは楽しいし、好きだ」

 疲労の色が差しているものの、その表情は晴れやかだ。文香は小さなあくびを一つして、手を振り帰ろうとした。

「じゃあ、また……」

「あ……いや、待ってくれ」

 そう言って踵を返そうとした文香を、誠は慌てて呼び止めた。文香が驚いて振り向くと、自分の声に驚いたかのように眉をひそめている。

「最後に……握手、してくれないか」

 小さく掠れた声での頼みに、文香はぱちくりと瞬きした。

「……優さんが、ツーリング仲間と別れて帰る時は、事故がなくてよかったなってのとまた一緒に行こうって意味を込めて握手するって……俺は、優さん以外にバイクに乗ってる知り合いもいないし……諌本は、バイクに乗れるわけじゃないけども……」

 ぼそぼそと聞き取りづらい声に文香はうんうんと頷き、にかりと笑って手を差し出した。

「いいよ。ほら」

 誠は戸惑いながらもその手を握る。しかし文香が怪訝そうに眉根を寄せたのを見て、さらに戸惑いを深くする。何かひらめいた様子の文香は、軍手を外して誠の手首をつかむとするすると手袋を脱がせてしまった。自分より幾分ひやりとした体温が伝わり、誠はぎしりと体を強張らせる。

「うん、これでよし!」

 改めて自分より一回り大きな手を握り、文香は満足そうに頷いた。手の感触を確かめるように掌を密着させ、親指で硬い手の甲を撫ぜる。手、大きいんだね、と微笑んで言うのを、誠はほとんど聞いていなかった。

「引っ越しが終わって落ち着いたら、きっと連絡するから。受験が終わったらどこに行きたいか、ちゃんと考えておいてね」

 ひらりと繋がっていた手が解かれて、文香は外してしまった手袋と軍手を返す。瞳が一瞬名残を惜しむように伏せられたが、まぶしいくらいの笑みを浮かべて前を向く。

「じゃあ、またね」

「……うん、また」

 どうにか返事をした誠に爽やかに手を振り、ぴんと背筋を伸ばして文香は去っていく。その後ろ姿が角を曲がって見えなくなり、それから更に一分経って、ようやく誠は立ち直った。未だに温もりが残っているような気がする掌を見つめる誠は、ふっと息を吐き出してぽつりとひとりごちる。

「目、覚めちゃった、なあ……」

 思い出したように手袋をして、スタンドを蹴る。

「俺、今どんな顔してるんだ」

 そう呟いてみるものの確かめる勇気はなく、誠はなるべくバイクのミラーを視界に入れないようにして重たい車体を押すのだった。

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