第9話カラクリ忍者ウツロ
赤と黒の自転車が、斜面を滑るように駆け下りる。望月(もちづき)輝(ひかる)はアパートの自転車置き場、細い隙間に差し込むように留めると、籠の中の手提げ鞄を持って階段を元気よく駆け上がる。インターフォンを鳴らし、待ちきれないとでも言いたげに足踏みしていると、しばらくして眠たげな声が響く。
『はぁ、い……』
「みっちゃん、おはよー」
『輝ぅ? 今開けるからちょっと待ってて』
のんびりとした足音の後に、扉が開けられる。従兄の山岡(やまおか)満(みつる)が目をこすりながら顔を出し、ふにゃりと微笑んだ。
「おはよう……朝から元気だねえ。ほら、あがってって」
「うん。はいこれ、みっちゃんの好きな煮豆も入ってるよ」
輝が鞄を持ち上げると、満は申し訳なさそうに頭を下げる。右の頬の絆創膏が気になるのか、鞄を受け取った手の甲で軽くこすった。
「いつもありがとね。ただでさえ普段からお世話になってるのに、輝までお使いさせちゃって」
「僕のことは別にいいよ。お母さんも気にしないでって言ってたよ。今起きたとこ?」
「うん……ちょっと夜更かししちゃってさ」
苦笑してあくびをかみ殺す満に、輝はしゅんと眉を下げた。
「怪我してるんだから、ちゃんと休んだ方がいいよ」
満は先日の事故で折れた右腕を吊っている。山登り中に滑落し、気を失っているところを他の登山者に発見されたのだ。頬の絆創膏は少し前まで真っ白なガーゼだった。
「分かってるよ。陽(ひなた)さんには内緒にしといてね、夜更かし」
申し訳なさそうにねだられ、輝は「しょうがないなあ」と苦笑いする。靴を脱いで上がり、部屋の中をきょろきょろと見回す。
「思ったより片付いてるね」
「偉いでしょ? ……まあ、月子さんが手伝ってくれなきゃこうはならないけどね」
苦笑する満に、輝は中西(なかにし)月子(つきこ)の飄々とした態度を思い出す。甘えてばっかじゃ駄目だとは思うんだけどねえ、などとぼやきつつ、満は冷蔵庫の取っ手に手をかけた。
「何飲む? まあ、麦茶ぐらいしかないんだけど」
「なんでもいいよ」
満は年の離れた従弟に麦茶を注いでやる。自分でやるのに、と唇を尖らせた輝を座らせ、何気なく尋ねた。
「昼ご飯はどうしろって?」
「お母さんもお父さんもいないから、適当に買って食べなさいって」
「ならうちで食べていきなよ。一人で食べるのも寂しいし」
満の誘いに輝は素直に頷く。これといってすることもなく、輝は床に手をついて立ち上がった。
「みっちゃんの部屋の漫画読んでいい?」
「いいよ……あ、いや、ちょっと待った!」
急な制止に輝はびくっと体を震わせる。
「寝室は今ちょっとさ……すごい汚いから! 足の踏み場もないくらいだからさ、ほら、漫画なら俺が取ってくるし」
そうまくしたてながらばたばたと立ち上がった満を、輝は目を丸くして見つめた。
「……みっちゃん、どうしたの?」
「えっ? どうもしてないけど?」
輝に背を向けて応える満だったが、その声は妙に上ずっている。
「片付けしたんじゃなかったの?」
「寝室はねーちょっと! まだ!」
「夜更かしって何を……」
「えー? ちょっと聞こえないかも! 何読みたいんだって?」
「『超人戦記ザーダ』だけど……みっちゃん、ちゃんと聞いてよ」
輝は立ち上がると満を追って寝室へと向かう。ちょうど漫画を手に戻ってきた満がぎょっと目を見開いた。
「駄目だよ、輝!」
焦った声をあげる満の制止を振り切り、輝はドアの向こうを覗き込んだ。ベッドに横たわる影に輝は目を細め、息を飲んだ。
「に……人形?」
「見つかっちゃった……」
「みっちゃん、これ、どういうこと?」
「実はね……昨日の夜、ベランダに落ちてたんだ」
輝は神妙な言葉の続きを待ったが、満が何も言わないのを見ると目を瞬いた。
「それだけ?」
「うん、それだけ。これが何なのかも、どうしてここにあるのかも分かってない」
「ええ……?」
そのままドアの近くでじっとしていた輝だったが、好奇心を抑えきれずに足を踏み入れた。
「近くで見てもいい?」
「俺に聞くことでもないと思うけど……」
二人で黒い布に覆われた頭部を覗き込む。布の隙間から見えるのは細い鉄格子。見た事もない意匠に二人は顔を見合わせ、そのままベッドの横に腰を下ろす。
「警察とかに連絡しなくていいの?」
「しようと思ったんだけど、夜も遅かったし……この腕だから、部屋の中に入れるのだけで疲れちゃって。すごい時間かかっちゃったし」
夜更かしの原因はそれか、と輝が納得すると、満は額に手を当てる。
「遺失物……ってことでいいんだよな? でもベランダに落ちてたし……そもそも、どうやって運び出そうか?」
年下の従弟に訊ねてみても、不思議そうに首を傾げるばかりでいい案は思い浮かばない。どうしたものかな、と呟いた満が、何かに気付いたように視線を向ける。
「輝、今何か言った?」
「何も言ってないけど」
首を横に振る輝に、満は気のせいかなと頬を掻いたが、ひゅうと空気が鳴ったのにさっと視線を走らせる。
「……を……」
木と木がこすれる音と共に、奇妙な音が――いや、意志を持った声が聞こえる。聞こえた? と目配せしあって、輝と満は音のした方向――ベッドの人形を見つめた。
「目を、返していただきたく……」
「え!? しゃべっ……!」
驚きに声を上げた輝を、満が咄嗟に引き寄せる。庇うように自分の後ろに立たせると、慎重に問いかけた。
「目って……どういうことだい?」
満が静かに問いかけると、人形は木でできた指でそっと部屋の隅を指し示した。二人がそこに目を向けると、透き通った青緑色の球体があった。
「みっちゃん、あれは?」
「俺が山で怪我した時、いつの間にか荷物に入ってた物だよ。何か分からなかった」
満はごくりと唾を飲み込み、その球体を――目を、手に取った。恐る恐る手を伸ばし、細い指に握らせると、人形は顔を覆っていた黒い布をするりと解いた。現れたのは凹凸のない黒塗りの木だった。顔の上半分、目の辺りは金属の格子が嵌まっていて、その奥に一つ、青緑の光が反射した。
「かたじけない」
そう古めかしい礼を述べると、人形は滑らかな動きで格子を外した。かちりとはめ込まれた球が、格子の中の暗闇で電灯を反射して輝く。満は半ば呆然として問いかけた。
「君は……一体、何者だ?」
「しがない絡繰にございます。ウツロ、とお呼びいただければ」
流暢に答える人形――ウツロを見つめて、満は再び口を開く。
「しかし……どうして俺の鞄に君の目が? いや、そもそもどうしてベランダに?」
ウツロは奇妙な――まるで考え込んでいるかのような――間を開けて、その問いに答えた。
「主を探すためにございます」
あるじ、と目を丸くする二人に、ウツロは小さく頷く。
「主からお暇をいただき山へと片付けられてから、どれほど経ったのかは分かりませぬ。ですがある日、拙者の埋められていた穴に人が落ちてきたのです」
「穴に? ……もしかしてそれって、俺?」
訝しげな満の声を受けて、ウツロがかくりと頷く。
「でも、みっちゃんが見つかったのは山道の途中じゃなかったっけ」
「それはそうなんだけど……」
「あなたが落ちてこられた拍子に、拙者は目を覚ましたのです」
戸惑う二人を置き去りにして、ウツロは説明を続ける。
「あなたを放っておくわけにもいかず、拙者は穴から出ました。とはいえ人に姿を見られてはまずい。人目に付きそうな場所を探しました」
「それで置いて行ってくれたと。その後は?」
「暇を出されたとはいえ、この身は主の持ち物。再びお仕えせんと山を下りようとしたのですが……里の様子が、あまりに私の知るものと違いましたゆえ、しばらく身を潜め様子を窺わなくてはと考えたのです」
「なるほどね……」
「そのため、あなたの荷物に片目を紛れ込ませて人々の生活を見ました。機を見て片目を回収し、再び身を隠そうとしたのですが……取り戻す前に、力尽きてしまったようで。御迷惑をおかけしました」
「そういう事情があったのか……」
半ば呆然と頷いた満に向かってウツロは深々と首を垂れる。ベッドの上なのでがくんと姿勢を崩しかけたが、二人が手を差し伸べる前に立て直していた。ベランダの方へ首を向けるウツロにつられたように輝も窓の外に目を向けた。
「近頃の夜は、とても明るいのですね。身を隠すには不便なものです」
ぽつりと呟いたウツロに、輝は首を傾げている。
「夜は明るくないと思うけど……」
「まあ、昔と比べたら明るいだろうね。それで、ご主人を探してみてどうだった?」
満の問いにウツロは首を横に振った。
「痕跡一つ、家紋一つ、見つかりませなんだ。きっと、あの家は絶えたのでしょう」
淡々と述べるウツロに満は無理もないと首を横に振った。
「それはまた……ご愁傷様です、でいいのかな」
「痛み入ります」
「あの……」
口を挟めずにいた輝が、満の袖をそっと引いた。
「ウツロって、忍者なの?」
「…………」
沈黙。満は一瞬笑みを強張らせてウツロを見た。今までの滑らかな動作が嘘のようなぎこちなさで、ウツロは首を横に振る。
「違います。拙者はしがない料理人」
「いや無理がある! その格好でそれは無理がある!」
つい大声でそう言ってしまってから、満は輝を引き寄せて耳打ちした。
「忍者は忍者ってバレたらマズいんだよ。隠れるのが仕事なんだから」
「そうなの?」
目を丸くする輝に、満はそりゃそうだよ、と言いかけて口ごもる。輝にとって忍者とはアニメや漫画にいるキャラクターたちで、大概正体を隠してないのだ。そう言えばザーダにも主人公の友人で、忍者の末裔という設定のやつがいたような。今のウツロはまさしくそれらしい忍者装束。まあ聞いちゃうよね、と満は言い聞かせるのを諦めた。
完全に固まってしまったウツロを見て、満はひらひらと目の前で手を振ってみせる。
「別に無理に隠さなくてもいいよ。忍者だからって君に何かするつもりもないし。最近……でもないけど、忍者ってすごい有名なんだ」
「しかし、こうも簡単に見破られてしまうとは……やはり劣化でどこか壊れている……?」
「別に君が悪いんじゃないと思うけどなあ」
忍者の登場する娯楽作品について思いを馳せていた満だったが、ウツロを質問攻めにして困らせている輝に気付いて慌ててひっぺがす。
「困らせちゃだめだって」
「でも、気になるんだもん」
「起きたばっかで混乱してるみたいだし、もうちょっとだけ待ってあげてよ」
不満げにしていた輝が一応引き下がったのに安堵して、満はウツロに向き直った。
「君の主がどうなったか、調べることもできるけど……どうする?」
「そのようなことが可能なのですか」
「まあ、名前さえ教えてもらえれば……」
そう満が言うと、ウツロはゆるゆると首を横に振った。
「主の名を明かすことはできませぬ。してはいけない、ではなく、できないのです」
首を傾げる二人に、ウツロは喉元をこつこつと叩いた。
「主に関するあらゆる情報を口に出せないように、呪いがかけられております」
「呪い?」
「はい。そもそも、拙者のような絡繰は、組み立ててからその体に呪を注いで初めて動くようになるのです。そのために、主に不都合はないよう制限が課されるのです」
「な、なるほど……?」
満は開いていたノートパソコンを閉じて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「そう言う仕組みじゃ手詰まりだ。ごめんね」
「いえ。原因は拙者にあります故。お気遣いいただきありがとうございます」
ウツロの手を観察していた輝が、話に区切りがついたとみて顔を上げた。
「ウツロはこれからどうするの?」
「これから、ですか。はて……」
「やりたいこととかないの?」
「そのような欲求は持ち合わせない仕組みとなっています」
ウツロの堅苦しい言い回しに輝はきょとんとする。ああ、と溜息のような声を漏らした満の袖を引いて問いかける。
「どういうこと?」
「やりたいことはないし、見つけるのも難しいだろうって」
無欲、というのは好奇心旺盛な輝には理解しがたいことでもあった。満の袖を掴む指先に僅かに力がこもる。
「みっちゃん、なんとかできない?」
「なんとかって言われてもなあ……」
輝に見つめられ困った顔をする満は、ウツロの全身をじろじろと見まわす。
「することはないから山に戻れなんてのはかわいそうだよ」
「かわいそうって簡単に言うけどね、じゃあどうしろっていうのさ? 輝の家は無理だろ、ご両親がいるんだし。ここは二人暮らしには狭いしさ」
「でも……」
二人のやり取りをじっと見つめていたウツロが、かくりと首を傾げる。
「ここで雇っていただけるのですか」
「まだそうとは言ってないでしょ! 雇うって言っても君……」
すぐさま断ろうとした満だったが、顔をしかめて黙り込んでしまう。
「ここに住めなかったらどうするつもりなんだい?」
「どうする、ですか。誰にも邪魔にならない場所で、朽ちていくのを待つ以外にありましょうか」
あまりにも淡々とした返事に、満は小さく唸る。なんだかんだ言って、満自身、この寄る辺のない人形を追い出すのには抵抗があるのだ。
「食事とかって必要?」
「いいえ」
「確かに必要そうには見えないけど、じゃあ何で動いてるんだ……ベッドが一つしかないから、寝る場所が用意できないんだけど」
「横たわらずとも休むことは可能です」
「……人が来ることもあるから、その時いられると困るんだけど」
「身を隠す術は持ち合わせております。外にいろと仰るのであればその通りに致します」
丁寧に答えていくウツロに、満は言葉を詰まらせる。それを好機と見た輝が、ウツロの袖をついと引いた。
「できることをアピールしていかなきゃだめだよ。スポーツが得意、とか」
「あぴーる、ですか」
「こういうことができるよって……自分で言うんだ」
部屋の中を見回したウツロが、満の腕に目を止めた。
「傷病人の世話なら多少の心得があります」
「むむ」
「一度教えられたことは忘れません。道具の扱い方も、」
「そりゃすごいなあ」
「諜報と暗殺には腕に覚えがあります」
「それはいらないかな……」
「ねえみっちゃん、だめ?」
従弟にじっと見つめられ、満は小さくため息をつく。
「……元々は、俺の不注意のせいで起きちゃったことだし。ずっとは無理かもしれないけど、しばらくならいいかな」
そう満が言うと、輝はぱっと顔を輝かせた。
「ありがたく存じます」
「ありがとみっちゃん!」
「月子さんには内緒にしてよね。忍者と同居始めたなんて言ったらなんていわれるか……」
深々と頭を下げるウツロと、無邪気に喜ぶ輝を見て満は苦笑する。
「じゃあ、早速だけど着替えてもらおうかな。その服すごい埃っぽいよ。俺の服で悪いけど」
「みっちゃんの服貸すの? ちょっと大きすぎない?」
立ち上がったウツロの身長は満の肩ほどまでしかなく、輝は首を傾げる。
「今日のところはそれで勘弁してほしいなあ。給料日前だし、病院代も馬鹿にならんし」
吊った腕をさすってふっとため息をつく満に輝は口を噤む。一人暮らし社会人も大変なのだ。
「身を隠す必要がなければ、服も必要はないのですが……」
言われるがまま装束を脱ぐウツロに二人は一瞬ぎょっとしたが、木組みの体が現れて肩の力を抜く。耳を近づけると、絡繰が複雑に動く音まで聞こえてきそうだ。輝がまじまじとその仕掛けを見つめる。
「ここのお腹のところ、不思議な形をしているね」
「ああ、これは……」
胴からぱちん、と軽い音がして、ウツロの腹部が動いた。胴体に巻きついていた二本の腕が背中を起点に持ち上がり、しなやかに体に沿って下ろされる。
「使う機会が多いものではないですが、何かと使い勝手がよいのです」
「すごい!」
「これは……確かに、格好いいなあ」
輝は無邪気に目を輝かせ、満はごくりと唾を飲み込む。思いがけず二人の興味を引いた腕を自在に操ってみせ、ウツロは全く意図しない喝采を浴びた。
握手をねだる輝に応えたのちに、ウツロは胴の腕を元通りにし、渡されたTシャツを着こんだ。
「うん……似合う、のかなあ?」
「僕はいいと思うけど」
「お二人が不愉快にならないのであれば構いません」
素っ気ないともまた違う淡々とした答えに、満は僅かばかり困ったように苦笑した。
「装束が黒っぽい色だから、暗い色の方が落ち着いたりするのかな。とりあえず、しばらくは俺ので我慢してね」
「ありがたく存じます」
満は深々と頭を下げるウツロにひらひらと手を振る。その時ぐうと小さな音がして、満は輝と目を見合わせた。
「お腹空いた?」
「うん」
「ちょっと早いけど、そろそろお昼にしようか。物の使い方を覚えてもらうのはそれからにしよう」
「今日のお昼ご飯なに?」
「冷蔵庫に何あったかな。もらったおかず、日持ちするやつは取っておきたいから……げ、パンとハムしかない。サンドイッチとかでいいかい。悪いけど、買い物頼まれてくれるかな」
「いいよ」
財布を持たされた輝が出ていくと、満は笑みを消して訝しむような視線をウツロに向けた。
「……言っておくけど、何かしたらすぐ追い出すからね」
「何か、とは」
「例えば……人殺しとか、暴力沙汰とか。盗みも駄目だ」
「それでは拙者は何の役にも立てませぬ」
「何もしなくていいんだよ。だって忍者はもういないんだ」
小さくため息をついた満は、黙り込んでしまったウツロを見て言い過ぎたかと眉を八の字にした。
「……まあ、何か趣味でも見つけてみたら? やらなきゃいけないこともないわけだし」
「趣味、ですか」
そのまま考え込むように沈黙したウツロを、満は少しばかり警戒していたが、いつまでたっても少しも動こうとしないまま輝が帰ってきてしまった。
置物のように動かないウツロを見て輝は首を傾げたが、レタスとマヨネーズを渡すと置いてあった漫画に手を伸ばした。
簡単に昼食を済ませ、思い思いに過ごしていると、夕方になって満の携帯に電話がかかってきた。
「輝、今から陽さんが迎えに来てくれるからもうちょっと待ってて」
「ママが? ……別に、一人でも帰れるのに」
「まあそう言わずに……ちょっとでも長く輝と一緒にいられるようにってことじゃない」
宥めるような満の言葉につんと背を向けて、輝は落書き帳に何か書いている。三十分もしないうちに陽がやってきて、玄関先で輝を呼んだ。
「そう言えば満君、小学校から不審者情報が来たんだけどね……」
「本当ですか? どういう……」
輝が帰る支度をする間、二人がわずかばかり強張った声で話すのを聞きながら、ウツロは小さく輝に囁いた。
「お忘れ物のなさいませんよう」
「うん、ありがとう。またね」
ひらひらと手を振る輝にウツロは頷いただけで、特に何も言わなかった。陽と連れ立って帰ってゆく輝を、ウツロはベランダから眺めていた。
「ウツロ、今の暮らしにはもう慣れた?」
洗濯物をたたむウツロに輝が問いかけると、手を止めないまま顔を上げた。
「慣れかどうかは分かりませんが、満殿を質問攻めにすることはなくなりました」
「ならよかった」
ふにゃと笑みくずれる輝だったが、その後に続けられた言葉には目を丸くした。
「ただ、まだ字が読めないのには難儀しています」
「なんぎ?」
「困っている、ということです」
「字、読めないの?」
すらすらと話しているし当然読めているものと思っていた輝は目を丸くする。読み書きはできていたのですが、と言うウツロは、床に放られていた文庫をテーブルの上に置いて、指でそっと表紙を撫でた。
「拙者の後に作られたものであれば楷書も知っているのでしょうが、拙者自身は崩し字と暗号用の字体しか記憶しておりませぬ」
「じゃあ、今までずっと読めてなかったの……?」
かくんと頷くウツロに、輝は眉をしゅんと下げる。
「それ、みっちゃんにも言った?」
「いいえ。お忙しいようでしたので」
ウツロは輝の疑問に答える間に、洗濯物を全てたたみ終えていた。
「じゃあ、教えてあげる。ちょっと待ってて」
そう言って輝はランドセルの中を探って、ノートと筆箱を取り出した。筆箱を開けて、鉛筆を一本ウツロに渡し、自分の分の鉛筆と消しゴムをテーブルに置く。
「これは」
「鉛筆だよ。これで字を書くんだ」
「なるほど。それであのような細い線になるのですね」
ウツロは珍しそうに鉛筆を矯めつ眇めつする。
「ウツロは何で書いたりしてた? 筆とか?」
「読み書きはできましたが、基本的に拙者が書くことは有りませんでしたな。文を運ぶことの方が多かったので」
「そうなんだ。今度書いて見せてよ」
「仰せのままに」
輝は新しい自由帳を開いて、声に出しながらひらがなを書きつける。子供の字だ、角ばっていて、大きくて、一文字一文字のバランスも悪い。それでもそれを書く輝は楽しげで、ウツロはただ黙ってその声を聞き、増えていく字を青緑の目で追っていた。
「……輝殿は、どなたに字を教わったのですか」
「漢字は学校で勉強することが多いかな。ひらがなとかカタカナとかは、幼稚園で習ったけど」
がっこう、と繰り返すウツロに輝は「子供が集まって勉強を教えてもらうところ」と説明した。
「藩校のようなものでしょうか」
「ハンコ……? 分かんないけど、月曜から金曜まで行ってるよ。ギムキョーイクって言うんだって」
「義務、ですか」
小さく繰り返したウツロは、輝の横顔に視線をやると、僅かに首を傾けた。
「……子供に、義務が課せられているのですか」
ぽつりとこぼされた言葉の意味を掴みかねて、輝はきょとんとウツロを見つめかえす。ウツロはノートに視線を走らせて、文字を一つ指さした。
「輝殿、この字はなんと読むのです」
「これはね、『も』だよ。上から順に、まみむめも」
「なるほど」
そこへ満がやってきて、ノートを覗き込むとのんびり尋ねた。
「輝、ウツロに宿題見てもらってるの?」
「違うよ! 僕がウツロに字教えてるの」
むっつりと頬を膨らませる輝に、満は目を丸くしてウツロを見た。ウツロがかくんと頷く。
「もしかして、使ってた字が違うとかそういう話?」
「はい」
もう一つ頷くウツロに、満はしまったという顔をする。
「マジかあ……早く言ってくれればよかったのに」
「しかし、特に必要ないとも思うのです。今のところ読み書きが必要な仕事を命じられているわけではありませんし、分からないことは聞けは済むことばかりでしたので」
「家事押し付けちゃってごめんね……まあ、今必要ってわけじゃなくても知っておくだけでもいいと思うよ。それにほら、ここにある本とかも読めたら暇つぶしになるし。何もしてないのも退屈でしょ」
「退屈、というのはよく分かりません」
「そっかあ。難しいなあ……こういう本を読むのも勉強になると思うけどな」
「勉強、ですか」
満は頷き、テーブルの文庫本を拾い上げて広げてみせる。
「ウツロがこういう娯楽にあんまり関心ないのは知ってるし、無理に勧めようとは思わないけど……興味ないことも、知ってみれば面白いかもしれないでしょ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものですよ。ほら、それに輝が読んでる漫画とかも一緒に読めるようになるし」
「そっか、ウツロもザーダ読めるようになるんだ」
ぱっと体を起こした輝が、興奮気味にウツロの袖を引いた。
「すっごい面白いんだよ。ウツロも読んだ方がいいよ」
「そうなのですか。拙者にも理解できるでしょうか」
「分かんないところあったら教えてあげるから平気だよ! ねえみっちゃん」
「そうだね。普段は俺に聞いてくれればいいし、輝も教えてくれるだろうし」
教えてくれるよね、と尋ねられた輝が、「任せて!」と胸を張る。ウツロはしばらく交互に二人に視線をやって、かくんと頷いた。
「……ええ。では、よろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げるウツロに、二人は笑って頷いた。
「字を覚えたら辞書の引き方を教えた方がいいかなあ」
「ここ、辞書ってあるの? 僕の持ってこようか?」
「辞書くらいあるさ! どこにあるか分かんないだけで、多分ある」
そう言って楽しそうにする輝と満を眺めていたウツロは、幼い字で五十音が書かれたノートを撫でて辞書を探そうと立ち上がったのだった。
ある日曜日、輝が満の家を訪ねると、出迎えたのは満ではなく彼の恋人の中西月子であった。
「よう、輝くん。久し振り」
「月子お姉ちゃん! お久しぶりです」
「そんな改まった挨拶しなくていいのに。満なら今昼寝してるから、ちょっと静かにね」
口を両手で押さえて頷く輝を招き入れ、月子は静かに鍵をかけた。廊下で立ち止まってきょろきょろと辺りを見回す輝を月子は不思議そうに見つめていたが、「ああ」と納得したように頷いた。
「忍者くんならベランダにいるって聞いたよ」
「え? ……ええっ!?」
驚きに裏返った声をあげる輝に、月子は「驚きすぎ」と笑う。
「お姉ちゃん、どうして知ってるの!?」
「ふふふ、なんでだと思う?」
「え? うーんと……お姉ちゃんがエスパーだから?」
恐る恐る輝が尋ねると、月子はきょとんと目を丸くした。
「あはは、まさかぁ!」
弾ける笑い声に輝は一層分からないという顔をして首を傾げる。「普通に教えてもらっただけだよ」と笑いすぎて滲んだ涙を拭い、月子は誇らしげに胸を張った。
「最初は隠そうとしてたみたいだったけど。まあ、満が嘘ついても私にはすぐわかるからね」
何でもないことのように言う月子に、輝は驚きを隠せない。
「そういうのってどうやってわかるの?」
「これでも長い付き合いだし、嘘ついた時の癖とか、仕草にも出るからねえ。相手のことをよく見てれば意外と分かるもんだよ。輝くんにも今嘘ついたなーって分かる人、周りにいない?」
「……いる、かも」
「そういうことだよ」
氷がグラスにぶつかる軽い音がして、輝は冷えた麦茶を受け取った。
「私が忍者くんに会ったのは一昨日だよ。満の態度が変だなーと思って軽く聞いてみたら、誤魔化したのでちょっと怒った。そしたらすぐ教えてくれたよ」
「みっちゃん、自分で言わないでねって言ってたのに」
むっつりと唇を尖らせる輝に、月子はころころと笑う。
「その辺はほら、私のがちょっとずるいから。隠し事しにくいなーって思わせるような聞き方しただけなんだよ。だから怒らないであげてほしいかな」
宥めるような言葉に輝は小さく頷いて、上目遣いに月子を見上げた。
「お姉ちゃんは、ウツロのこと内緒にしてくれるの?」
「まあ、頭まで下げられちゃったらね……輝くんとも仲がいいって聞いたし、私が口挟むのも悪いかなって思って」
自分の分の麦茶をグラスに注ぎながら、月子はテーブルを挟んで輝の向かいに座った。
「とりあえず、服は私の弟のお古でも用意しようかなって話はしたんだ。忍者くんはなんでもいいって言ってたから、輝くんが好きなの選んでよ」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
ようやく笑顔になった輝を見て、月子もつられたように微笑んだ。
「お姉ちゃんはさ……ウツロのこと、どう思う?」
「どう? そうだなあ……」
こめかみに手を当てて唸る月子は、悩ましげに言葉を選んでいるようだった。手持無沙汰にクッションをぽてぽて叩く輝に、月子はゆっくりと答えた。
「なんか、ちょっと戸惑ってる感じがするよね。よそよそしいというか」
「やっぱり……?」
輝は不安げに表情を曇らせる。
「生きてる……で、いいのかな、とにかく時代が違うから、そういうのにまだついていけてない、って感じ」
月子の言葉にこくりと頷く。
「何をしたらいいのか分からないって言ってた」
「言われてみればそうだよね。話を聞く限り、ご主人に言われたことだけやってきたって感じみたいだし。いきなりやりたいことって言われても、思いつかないのも無理ないかも」
「……今そんなこと言ってもしょうがないじゃん。ウツロのご主人はもういないんだから」
拗ねたようにそう呟く輝に、月子は「そりゃそうだ」と笑う。輝がベランダに視線を向けても、そこからは物音一つしなかった。
「輝くんはさ、忍者くん……ウツロくんにどうしてもらいたいの?」
「どう……って?」
「ウツロくんは今、することがなくて悩んでる……というか、ぼーっとしてるわけでしょ? で、やりたいことも見つからない」
「見つけられないんだって。何がしたいとか、考えられないって言ってた」
俯く輝の沈痛な面持ちを見て、月子は静かに先を促す。
「僕は……多分、友達になってほしい、って思ってる。僕は、ウツロといるのは楽しいから、ウツロにもそう思って欲しい……」
「そう」
月子は優しく破顔して、小さな頭をくしゃりと撫でた。
「きっと大変だよ。体のつくりも、考え方も、忍者くんは私や満や輝くんとは全然違うから」
「……じゃあ、無理なのかな」
「やる前から諦めちゃ分かんないよ。無責任にできるよとは言えないけど」
少し考え込むように首を傾げて、月子はゆっくりと言葉を選んだ。
「もし友達になれなくても、一緒にいることはできるから。関係性に無理に名前を付ける必要なんてないんだよ」
「……えーっと」
「ちょっと難しかった? ……まあ、輝くんがウツロくんのこと嫌いにならなければ大体のことは大丈夫だよ」
「嫌いになんてならないし!」
からからと笑う月子の表情は、あっけらかんとしているのに穏やかで優しげだ。
「そろそろ満のこと起こそうか。家主なのにいつまで寝てる気なんだろね」
「ぼくも起こす。ザーダも読みたいし」
「正直だねえ。まあ、こっちは私に任せてさ、ベランダで置物みたいになってる子呼んできてよ。皆でやれるゲーム持ってきたから、一緒にやろう」
ひらひらと手を振って寝室へ向かう月子の背中を見送って、輝はベランダに通じる窓を開けた。日の当たらない場所で体を縮めて座っているウツロの肩をこんこんと叩く。
「ウツロ、こっちおいでよ」
きりきりと仕掛けが動く音がして、首ががくんと起き上がった。
「輝殿。何か御用ですか」
「ここにいたら暑くなっちゃうよ。部屋に入りなよ」
考え込むような間が開いて、ウツロは結局座ったまま立ち上がることをしなかった。輝を見つめて、問いかける。
「しかし、よいのですか。拙者はお邪魔ではないのでしょうか」
「何でよ。月子さんが平気っていってたし、大丈夫だよ」
そう促す輝をウツロはじっと見つめていたが、やがて途方に暮れるように言葉をこぼした。
「拙者は、無粋な絡繰人形であります故。お誘いいただくことがなかったのです」
「……ぶすいって何?」
格子の奥で青緑の目が動く。
「粋でない、ということらしいのですが、そもそも『粋』が分かりませぬ。貴様がいては興ざめ、とだけ」
「遊びに入れてもらえなかったってこと? つまらなくなかった?」
「そのように思考するようにはできておりませぬ」
「ふうん……?」
輝は首を傾げたが、ウツロが動かないのを見てその腕を引っ張った。
「でも今はこっちにおいでよ。ゲームやらせてくれるって」
「げーむ、ですか」
「やったことないでしょ。俺も初めて見るやつだから、一緒に教えてもらおうよ」
「であれば、仰せの通りに」
砂をはらって部屋に入ってきたウツロを、寝起きの満と箱から筐体を取り出す月子が迎える。
「お姉ちゃん、ぶすいってどういう意味?」
「おや、急に不穏なこと聞くね。つまんないとか、思うけど……辞書引いてみたら?」
「みっちゃーん、辞書どこ置いてたっけ?」
「えぇ……? 部屋にあったと思うけど」
寝起きの満が本棚に探しに行く間、月子がテレビにゲームを繋いだ。
「これ何のゲーム?」
「あれ、知らない? 結構有名だと思うんだけど」
辞書を片手に戻ってきた満が、ゲームソフトを見て懐かしい、と声をあげた。
「これが出た頃って、輝はまだ幼稚園くらいじゃないの?」
「そんな前だったかな……」
首を傾げる月子はコントローラーを配り、使い方を簡単に教える。
「輝はあんまりゲームしないし、ウツロもやったことないから一回俺たちで手本見せてからやろうかって思ってるんだけど」
「いいよ。久し振りにコテンパンにしてあげるから」
「言ったな!」
辞書で「無粋」を引きながら、満の操るキャラクターが手も足も出ないままやられていくのを見ていた輝が、隣に正座するウツロに向かって言った。
「僕はウツロのこと、ぶすいなんかじゃないと思うよ」
「それは、なぜ」
「だってウツロ、分からないことはちゃんと聞いて分かろうとするから。分かんないことがいっぱいあるのは僕もだけど、そんなこと言われたことないし」
だから気にしなくていいと思う、と微笑んだ輝が、派手な音に気を取られてテレビに視線を向けてしまっても、ウツロはその横顔をじっと見つめていた。
日が暮れ、駅まで一緒に帰ることになった輝と月子。
「そういや輝くん、最近不審者が出てるって知ってる?」
「うん。ママから聞いた」
「そっか。でも出るって言っても夜中にしか出ないらしいけどね。あんまり遅くまで遊んでたら駄目だよ」
「わかった」
気を付けて帰るんだよ、と手を振る月子と別れ、輝は家に向かって歩き出す。足音もなくその小さな背中を見つめる影に気付くことはできなかった。
「今日はウツロに公衆電話の使い方を教えようと思います」
「どうしたの急に」
夕方、突然立ち上がってそう言い放った満に輝は怪訝な目を向けた。
「まあうっすら分かってたことなんだけど、ウツロの指じゃ液晶が反応してくれないんだよね」
やってみて、と満のスマホを受け取ったウツロだったが、木の指がこつこつと音を立てるばかりで画面はちっとも動かない。
「ずっと家にいるのもかわいそうだし、ここに来る前は外で過ごしてたって言うから、別に自由に外出してもいいんじゃないかなって思ってさ。それなら外にいても連絡できるようにした方がいいかなって」
「ふーん」
「そういや、輝は使ったことあるのかい? 公衆電話」
満の問いに輝は首を横に振る。
「どうせなら一緒に行こうよ。憶えといて損はないよ」
「分かった」
月子の弟の服ではなく、少し大きい満のジャージを着せる。帽子をかぶって目元を隠し、マスクを付けさせる。サングラスはやめた方がいいよね、などと言う満の横で暑そう、と顔を顰めた輝を見るウツロは不思議そうにしている。
「拙者は温度を感知しませんので。動くのにも支障はありませぬ」
「あんまり薄着だとシルエットに違和感が出ちゃうしね。さ、行こうか」
夕日の中を三人で歩く。ふんふんと鼻歌を歌いながら歩く輝に、満は穏やかに問いかけた。
「輝、なんだかご機嫌だね」
「えへへ。ウツロと出かけるのなんか初めてだから」
嬉しそうにウツロの手を引っ張り、輝は屈託のない笑みを浮かべる。
「ウツロ、どっか行きたいところあったら一緒に行こうね。出かけてもいいって言われたわけだし」
「……ええ。是非に」
穏やかに頷いたウツロを微笑ましく見やって、満が「着いたよ」と公衆電話を指さした。
「使い方は、まず受話器を取ってお金を入れる。それから番号を押すんだ。とりあえず、俺の携帯にかけてみて」
まず輝が、番号が書かれたメモを片手に公衆電話の中に入る。少し離れた位置に立って待つ満は、ほどなくして鳴りだした携帯を通話状態にすると隣のウツロに手渡した。
『もしもし』
「もしもし、輝殿? 聞こえますか?」
『聞こえるよ! ちゃんとかけられた!』
「ええ。次は拙者の番でございますね」
『簡単だったから、ウツロもすぐできるようになるよ』
短い会話の後、輝は受話器を置いてウツロと交代した。
『不思議なものですね、電話というものは』
「そうだねえ。ウツロ、電話するのは初めて?」
『はい。輝殿が遠くにいるのに、声だけ近くに聞こえる。不思議です』
「でも、便利でしょ」
『ええ、とても』
話しているうちに電話が切れて、輝は満に携帯を返した。ウツロがやってくるのを待つ横で、画面をのぞき込む満の表情が不意に険しくなったことに輝は気が付かなかった。
「ウツロ、最近の不審者情報は聞いてる?」
「ええ。新聞でここの近所の事件が取り上げられていたのを見ましたので、それについてであれば多少は」
「犯人、やたら足が速いんだってね。それに」
満は一瞬口ごもり、ウツロからそっと目を逸らした。
「まるで人間じゃないみたいだった……って、目撃者が口をそろえて言うらしいんだ」
「何を仰りたいのか分かりかねます」
そうきっぱりと言い放つウツロに、満は意を決したように顔を上げた。
「ウツロ、最近何か隠してない?」
「……いいえ」
「じゃあどうしてこんな風に黙って出ていくようなことするんだよ」
満がパソコンの画面を見せる。そこに写っていたのは、暗闇の中で音もなく窓を開け、ベランダから外へと飛び出すウツロの姿だった。
「いつの間に、このようなものを」
「つい先週くらいからだよ。君、何か隠してるみたいだったから」
画面を閉じて、満は鋭く問いかける。
「夜中に何しに行ってるの。俺は別に君に出掛けるなとは言ってない。……一体何の用があって出かけるんだ」
「…………」
沈黙を貫くウツロに、満は傷ついたような顔をする。
「俺には……俺や輝には、言えないようなことしてるってのか」
「そう、受け取っていただいて構いません」
険を帯びた満の声に、ウツロは淡々と答えた。
「単刀直入に聞く。この不審者って君のことか」
「いいえ。そればかりは違います」
満はしばらく無言でいたが、ふっと肩の力を抜いて頷いた。その表情は暗く、悲しげだ。
「その言葉、今は信じるよ。証拠もないし……あんまり、信頼できなくなるような行動はしないで。頼むよ」
「……申し訳ございません」
かくりと頭を下げるウツロに、満はぐったりと額を抑える。痛みをこらえるような表情で、弱々しく懇願する。
「年こそ大分離れているけども、俺と輝は従兄弟で、大事な友達なんだ。何かあったら困るし、悲しいんだよ」
切々と訴える満の声を、ウツロはただ黙って聞いていた。
「君と輝は友達だ。俺だってそうだと思いたいよ」
苦悶の眼差しを格子の奥の青緑が真正面から受け止めているのが分かる。分かってしまう。情に訴える手段が通じない。唇を真一文字に引き結び、満はその青緑を睨んだ。
「みっちゃん……?」
輝の小さな声に、満ははっと息を飲んだ。振り向くと立ちすくむ輝の姿がそこにはあった。
「ふたりとも、一体何の話してるの……?」
「ごめん輝、それについては聞かないで」
青白い顔で遮った満が、ふらりと立ち上がった。そのままどこかに行こうとするのを、輝が「どこ行くの」と呼び止める。
「ちょっと外出てくる。鍵は自分で閉めるから」
硬い声でそれだけ言い置いて出て行った満の背中を不安げに見送り、輝はウツロを見た。
「ウツロ、みっちゃんと喧嘩したの?」
「喧嘩ではありませぬ。ただ、拙者の落ち度でございます」
ウツロはそう答えると、近づこうとしない輝に穏やかな口調で問いかけた。
「いつから聞いていらっしゃったのですか」
「ウツロが、何か隠してるみたいだったってところから」
渋々輝が答えると、ウツロは「そうですか」と言ったきり口を噤んでしまう。
「みっちゃんに黙って出かけてるっていうのは本当なの?」
「ええ……ええ。満殿に無断で外出したことは嘘ではございませぬ」
「どうして? その理由って、僕にも言えないこと?」
「ええ。……申し訳ございません」
不安げな表情をする輝を見つめ、ウツロは一歩近づいた。輝は驚いたように肩を震わせたが、どうにかその場に踏みとどまった。
「輝殿。信じてほしいなどとは言いません。ただ、これだけは覚えていただきたいのです」
膝をついて輝と視線を合わせ、ウツロは普段と変わらぬ声音で言った。
「本来ならば目を覚ますことなく朽ちる筈であったこの身を救い、異物であるにも関わらず友と呼んでくださった。その恩に報いることが、今の拙者の存在意義なのです」
ウツロが言っている事の半分も理解できずに、輝はふらりと手を伸ばす。ウツロはその手を躊躇いがちに、しかし慎重に受け止めた。
「道具は、役に立たなければ価値がありませぬ。拙者は、ここにある以上、己の価値を作り続けなくてはならない」
きっぱりと断言するウツロに、輝は不安げに表情を歪ませた。木組みの手をにぎにぎともんで、拗ねたように問いかける。
「僕の友達でいてくれるだけじゃダメなの?」
「……道具の身には、過ぎた光栄にございます」
ウツロの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……拙者の事について心配は不要です。ただ、今だけは何も聞かないでいただきたいのです。時が来れば、必ずお話しますから」
自身を道具と言いながら、ウツロはウツロ独自の考えを持って行動している。それがどういうことなのか、輝にはまだよく分からなかったが……。
「分かったよ。待ってるから」
そう言って、弱々しい笑みを浮かべた。幼い輝には、そうすることしかできなかったのである。
ウツロと満はまだほんの少しぎくしゃくしているようで、輝は積極的にウツロを外へと連れ出すようにしていた。怪しまれても困るので人気の多いところには行けず、夕方の公園や遊歩道しか行けなかったが、あれはなんだこれはなんだと言いながら歩くのは楽しかった。
「明日はどこに行こうかな」
そう、上機嫌に習い事からの帰り道を行く輝の前に、大柄な影が立ちふさがった。
夕焼けに目を細めて、輝はじりりと後ずさりした。目の前に立ちふさがる影。見上げるような長身のシルエットはどこかアンバランスで、威圧的だ。何より、その忍装束――絡繰忍。
輝はウツロの知り合いだろうか、とも考えたが、それではこの緊張感に説明がつかなかった。金縛りにあったように声が出せない。腕を掴まれ悲鳴をあげる前に、口の中に布を詰め込まれる。肩に担ぎあげられ、低くて忌々しげな声をすぐそばで聞く。
「このような力無き者を主として仰ぐか。全く理解できん」
そうとだけ言って、声の主は力強く地面を蹴った。声なき悲鳴は誰にも届かず、その場に誰かがいたという痕跡さえ残さないまま、謎の絡繰忍はその場を去ったのだった。
「もしもし、陽さん? ……うん、いや……輝? 今日は来てないけど……え?」
電話を取っていた満の表情が険しくなる。
「分かった。俺も探しに行きます。はい……何かあったら連絡しますから」
「輝殿が、何か」
「……まだ、帰ってきてないんだって。学校はとっくに終わってるし、習い事だってきちんと行ったらしいんだ、なのに……」
時間は午後九時を回っている。警察にはとっくに連絡したそうだが、本人を見つけるどころか目撃情報さえ乏しいという。
「ウツロ、君の事疑っておきながらこんなことを頼むのは、図々しいことだってわかってる。でも……」
色を失った満の言葉を、ウツロは黙って聞いていた。
「輝のこと、探してきてほしい。……頼めるかな」
「断る理由がありません。あなたの疑念は当然です。むしろ、そのように思わせてしまった拙者が悪いのです」
「……ごめん。頼むよ。俺も探しに行くから、二手に分かれよう」
こくりと頷き、ウツロは自分の体を見下ろした。月子の弟のお下がりのシャツをつまみ、満に目を向けた。
「満殿。装束を出していただけますか」
「最初に着てたあれ? いいけど、かえって目立たない?」
「電灯を避ければ身を隠すことは容易です。」
満が差し出した装束を、ウツロは素早く身にまとう。頭巾をきちりと巻いて、音もなく窓を開けた。
「いやちょっと待って、そこから出るの?」
「玄関から出ては目立ちます。最近はここから出ることの方が多かったので」
それもそうか、と頷いた満に背を向けて、ウツロはぽつぽつと明かりの灯る風景を見据える。と、ベランダに落ちていた紙に気付いて無造作に拾い上げた。
青緑の目が紙切れを見つめる。そこに書かれた字はウツロのものとほとんど同じ筆跡をしていた。
「何か落ちてた?」
懐中電灯などを鞄に入れていた満が尋ねると、木でできた指が紙をぐしゃりと握りつぶした。格子の奥で青緑の目が動いて軋むような音を立てる。いつもと同じ調子の声がわずかに強張っていることには、満はもちろんウツロ本人さえ気づいていなかった。
「いいえ。……行ってまいります」
ベランダの手すりに足をかけ、木組みの体が宙を舞う。迷いのない足取りで進むウツロの視線は、ある一点だけを見つめていた。
閉鎖された遊園地。解体を待つばかりの場所で輝は目を覚ました。不思議な仮面の大男に攫われたあたりで、輝の記憶は途切れている。辺りを見回すために体を起こそうとして、手首に痛みが走った。手首にざらざらとした手触りが巻き付いている。振りほどこうともがいてみて、びくともしないのにがっくりと肩を落とした。
辺りを見回し、いつだったかウツロが言っていたことを、輝は思い出していた。
――近頃の夜は、とても明るいのですね。
きっと、今ここの夜の方がウツロの主が見ていた物に近いのだ。星も月も雲に覆われ、自分の手足さえはっきりと見ることができない。自分をさらった影は完全に闇に溶けて、近くにいるのかどうかも定かではない。
「君は誰? ウツロの知り合い?」
どこにいるのかも分からず、声を張り上げて問いかける。答える声はなく、輝は俯いた。事情も分からず連れ去られ、ひどく気疲れする。沈黙が続き、冷えた夜の空気にぶるりと体を震わせる。
「……来たか」
小さく低い囁きに、輝は俯けていた顔を上げる。
闇夜にボウと浮かび上がる、紺色の忍装束。雲の隙間から差し込んだ月明かりを鈍く反射する格子だけが、布に覆われておらず露出している。
「輝殿を返してもらおう」
温度のない声。安堵より先に、その冷ややかさに鳥肌が立つ。声、というよりは、音だった。無機質で、それなのにどうしようもなく不安を掻き立てられる警告音。輝は直感的にそう思った。輝を隠すように立った人形が、ウツロに向けて声を発した。
「思っていたより早かったな。少しばかり簡単すぎたか?」
「すぐ分かるように書いたのだろう。汝、名は」
「ウキヨ」
「覚えのない名だな。この時勢に子供を攫うような真似、あまりに軽率と言わざるを得ない。誰の命だ」
「命令? そうだな、強いて言うなら我自身だ」
「何だと……?」
平淡だった声が初めて訝しむような色を浮かべる。
「汝自身が命令を……? そのような事が」
ウツロが訝しむ理由を、輝はぼんやりと理解していた。輝を攫った男は、きっとウツロと似た立場のものなのだ。輝と満は辛抱強く対話して、時には誘導じみたことまでして、ウツロの「望み」を具体的な言葉にさせた。それなのにこの人形は何でもないことのように口にした。恐らくは、その身一つで。
ウツロは滲む危機感を飲み込んで、再び問いかける。
「……汝が考えたこととして、何が目的なのだ」
「貴様には特別に教えてやろう。旧型」
やや大仰にさえ感じられる、感情を含むその声が、輝にはひどく恐ろしかった。
「我が望むのは忍の再興。戦国乱世の再来だ」
空気がひやりと冷えた。輝は目を瞬いて、ウツロは身動き一つしない。
「目を覚ましてみれば、戦は絶えて久しいという。こんな世の中はつまらない。倦み疲れたに、言いなりになるばかりの童!」
刺々しい声に、輝は小さく息を飲む。一瞬輝の方を気にしたウツロを、ウキヨは苛立たしげに睨んだ。
「平和を謳う割には争いは絶えぬではないか。規模が少しばかり変わっただけだ。ならば、それを元に戻す」
元に、と繰り返したウツロは、今気づいたように何気なく指摘した。
「そういう汝は、実戦の経験は無いのだな」
「……何故、分かった」
「見れば分かる。劣化の仕方が拙者と違う」
青緑の視線が巨体を隅々まで見通す。敵対する絡繰の特徴を探ろうと、話し続けながらも油断なく観察を続けている。
「戻すも何も、貴様はあの時代を知らぬだろう。何故そのようなことを考える」
赤い視線がウツロを射抜く。苛立ちをにじませた声が、冷たく夜闇に響き渡る。
「知らぬからこそだ。争いを起こし、主を定め、手柄を立てる。それが我の目的だ」
「欲は内なる炎となりて、忍を内側から焼くだろう。まして絡繰に野心など……」
「黙れ! 求められ作られた貴様に何が分かる!」
ウキヨと名乗る忍者の絶叫に、ウツロは言葉を止める。
「貴様は知らんだろう、作られたにも関わらず、一度たりとも命を下されることのなかった我の境遇など! 使われぬ道具がどれだけ惨めか貴様には分かるまい!」
びりびりと空気を震わせる叫びに、ウツロは口を挟まなかった。絡繰の機構が擦り切れて、何度も交換させられたウツロと、作られた当時のままここにあるウキヨ。どうしようもない断絶が二体の間にはあって、相互理解には至れないのだ。
「このような太平の世に居場所などないのだ! 我も貴様も、この場所では無価値だ!」
そんなことない、と輝は言いたかった。言えなかったのは恐怖のせいだ。縋るように見つめたその先で、決して大柄とは言えない絡繰人形は小さく頷いた。
「ああ、ああ……その、通りだ。我らは戦なしに活きること叶わず。現に拙者はこの生活を持て余している」
淡々とした肯定に、輝は言葉を失う。満足そうに肩を揺らして、ウキヨは手を差し出した。
「ならば、共に来い。再び、忍の動く国を作るのだ」
ウツロ、と呼ぼうとした声が、実際に出たのかどうかも輝には分からなかった。差し出された手を見つめるウツロに、心臓の鼓動だけが早くなっていく。
長くはない、それでも確かにあった沈黙を、ウツロは無造作に打ち破る。伸ばされた手を払い、抑えた声で答えた。
「だが……、今あるものを壊すのは。それは我らのするべきことではない」
「何故だ! それが我らの、貴様のすべきことだったはずだ!」
「違う。確かに主は殺しを私に命じられた。城を、屋敷を焼き、時には盗みも指示した。大体のことは指示通りに行ったとも」
理解できないとばかりに地面を蹴るウキヨに、ウツロは身動き一つせず言い放つ。
「それでも……それでも、拙者を作った誰かが望んだのは、間違いなく平和だったのだ。子供が笑い、大人がそれを見守るような、そんな世の中だったのだ」
「……そこに、我らの居場所などないというに」
苦々しげなウキヨの言葉を、ウツロは否定しなかった。
「使わなくなった道具は捨てられるものだ。まして拙者は特に古い。今更自らの手で作るべき居場所などない」
淡々と決別を突き付けるウツロに、ウキヨは一度ぎしりと手の関節を軋ませた。
「ならば。聞くべきことは一つだけだ。……貴様は我を止めるか?」
「主のいない絡繰に止める理由はない。拙者に命令するものは、もういないのだからな」
突き放すような言葉とは裏腹に、ウツロの内部からは忙しなく音がしている。
「だが。幼い友を危険にさらし、争いの種をまくと汝は言う。それを見過ごすわけにはいかぬ」
腰を落とし、身構える。ウキヨはぎこちなく一歩踏み出し、どろどろと疑問を吐き出した。
「友、だと? 友が、なんだというのだ。貴様に命を下すのか? 動く理由を作るのか? そのために、我の邪魔をすると?」
「知るか。友とはそういうものだ、それしか知らぬ」
愚直にそう答えたウツロを、理解できないとばかりに見つめていたウキヨだったが、突如高らかな笑い声をあげて冷たく嘲った。
「そうか、そうか。……ならば、我が壊す、最初で最後の絡繰となれ!」
その絶叫を皮切りに、二体の絡繰忍者は駆け出した。
暗闇の中、何かがぶつかり合う音だけが聞こえる。身動きの取れない輝のすぐそばで、硬いものがぶつかり合う音がした。
「輝殿、お逃げください。ウキヨをあなたには近づけさせません」
「む、無理だよ……! 縛られて、動けないんだ」
「ならばしばしお待ちを。……これを下し、帰りましょう。満殿の元へ」
「随分な、余裕だな……! 童と、無駄話など!」
「無駄ではない。この状況から抜け出す算段をしている」
ウツロの手刀が繰り出された拳をいなす。素早く拳を引き戻し、蹴りを繰り出すウキヨが吐き捨てるように言った。
「貴様を壊し、童も殺す。我の計画はそこから始まる」
「そのような企みがうまくいくはずがない。そんなことも分からないのか」
「黙れ!」
両者ともに武器はなく、徒手空拳での戦いとなった。激しい打ち合いの応酬――実力は互角、否、ウツロがじりじりと押されている!
「どうした、威勢がいいのは口だけか!」
挑発するような言葉に、ウツロは答えず一度身を引く。ばつん! と激しい音と共に、ウツロの背から装束を裂いて一対の腕が飛び出した。胴をがつんと打ち据えられ、ウキヨはたたらを踏む。追撃を受け止め、ウキヨはウツロを強く睨み据えた。
「ああ――そういう、仕組みもあったな」
赤い目がどろりと光を反射する。ウツロより一回り大きなその背中から、がちゃがちゃと音を立てて二対の腕が飛び出した。ウツロの腕をつかみ取り、がっぷりと組み合った四本の腕、その隙間を縫うようにして、二本の腕が軽々とウツロを持ち上げる。
「む!」
わずかに危機感の滲む唸りが、ウツロの口元から響く。ごしゃ、と地面に叩きつけられ、関節に砂利が入り込む。
ばきばき、と乾いた音がした。背中を起点として動いていた腕が一本、強引にもがれる。木と木がこすれる嫌な音がして、体を繋ぐ筋が切れる。左肩から伸びる腕がだらりと動かなくなる。外されたか、と知覚する前に、もがれた腕をコンクリートに投げ捨てられる。文字通り、糸の切れた人形の腕。抑えつけられたまま、その腕に手を伸ばす。
「ウツロ! 大丈夫なの!?」
見えないだろうに、輝が悲痛な声をあげる。ウツロは問いに答えず、がしりともがれた腕を掴んだ。
ウツロは諦めることを知らない。己とその同類は任務に失敗すればその場で壊されるだけだった。退くことを考えて作られなかった。こんな時代まで動き続けることができたのは、ほんの一握りの幸運のためだったのだと、ウツロは最近知った。今を生きるよき人々が教えてくれたのだ。
だからこそ、このような争いは見せたいものではなかった。聞こえない、方がいい。見られない方が勿論いい。この手が命を絶やすために振るわれた、当時の動きをそのまま繰り返している。この時代の、まだ優しいだけの小さな子供。知らなくていいものは知らないままで。もう顔も名前も記憶から消えてしまった己の作り手が、どうか関係ないひとは巻き込まないようにと、木組みの体にしみこませるように祈っていたことを、ウツロはずっと知っていた。
「まだ、動くというのか……!」
忌々しげなウキヨの声に、ウツロは体を起こすことで答えた。ばきっと乾いた音がする。どこが折れたのか確認するよりも前に、体中の関節を軋ませ、ウツロは立ち上がる。
ウツロは諦めることを知らない。止まるときは壊れた時、そして、命じられてその役目を終えさせられた時――片付けられた時、だ。腕が使えなくなることは、止まる理由にはなり得ない。
もがれた腕の内部に通された芯棒を勢いよく振り抜いて、ウキヨの関節を守る装甲の隙間に無理にねじ込んだ。内部の絡繰が壊れる音。格子の奥の青緑の視線が、憎悪に狂った忍から外されることはない。
「まだだ。まだ……壊されては、やれん」
「おのれェ……!」
ぎしぎしと軋む音が、輝から一歩ずつ遠のいていく。ウキヨの肩口を貫いたまま、ウツロは少しずつ輝から距離を取っていた。ずん、と踏み込んだウツロが、押し返されそうになりながら叫ぶ。
「輝、殿……輝殿! どうか、一度でいい! 命令を! 命令がなくては、拙者はいずれ負ける!」
「命令って……」
「あなたが拙者に望むこと、それだけでいい!」
この状況で、大事な友達に、絡繰の忍者に望むこと。輝が迷ったのはほんの一瞬、すぐさま願いを探り当て、声を絞り出す。
「負けない、で……負けないで、ウツロ! お願い!」
小さな体から迸る、切実な祈り。それを確かに聞き取ったウツロは、静かに一度頷いた。
「承知いたしました」
がきん、と力強く歯車がかみ合った。肩に突き刺したままの芯棒をねじりあげ、バランスを崩すウキヨを強く打ち据える。外された左肩の歯車が勢いよく回転し、耳障りな音を立てる。
「押し負けた、だと……! 貴様のような旧式に……!」
「余裕だな、新型。この状態で独り言など」
一足飛びに間合いを詰めたウツロが、鋭い蹴りでウキヨを弾き飛ばす。痛覚のない絡繰には効果の薄い一撃だ。ウキヨは一瞬怪訝そうにウツロを見たが、すぐにその目に敵意を燃やす。絡繰の友を案じて呼ぶ輝の声が遠くに聞こえ、ウツロは声を張り上げる。
「必ず、必ずや戻りましょう! ……しばしお待ちを!」
廃遊園地にあるアトラクションの間を、二体の絡繰がもつれあって転がる。ウキヨは五本の腕を駆使してウツロをとらえようとするが、掴んだと思った時には躱されている。牽制のように突き出された拳を受け止めると、その手を起点に投げられそうになる。
手数はウキヨの方が圧倒的に多い。それなのに、攻撃は当たらない。何故だ、と吼えるウキヨに、ウツロは粛々と答えた。
「経験の差だ。蓄積の差だ。汝が拙者にない機構を持つように、汝にない知識を拙者は持っている」
駆動領域の限界をほんの一瞬だけ広げる方法、その際に生じる隙を補うための次の一手。はるか遠くの記憶から探った記憶の全てでもって、ウツロは敵に立ち向かう。紙一重で避けた拳を抑え込み、がつんと額をぶつけ合った。経験の差に、命令という芯を得たウツロは、腕の本数や新式と旧式というハンデを埋めうるほどの実力を持っている。
「諦めろ、と言えば諦めるか」
「知らんな、そのような言葉は……!」
「ああ。愚問であった」
己のずっと後に作られた絡繰でも、使い捨ての道具であることに変わりはなかったのか。ウツロはその事実に何かを思うほど思考に没頭していたわけではなかったが、一瞬、ほんの一瞬だけ、幼い友の悲しげな表情がよぎったことに気付いていないふりをした。今は、その友の為に戦っているのだ。油断などできようはずもない。
不意打ちのように頭部の格子に伸ばされた手を、大きく距離を取ることで避ける。忌々しげな唸り声に、ウツロは警戒を強めた。
本来絡繰忍には感情はない。与えられた命令をその通りにこなすだけの、文字通り操り人形である。しかしごく稀に、怒り、悲しみ、迷いと言った負の感情を抱えた絡繰忍と対峙することがあった。それは、漫画にあるような機械に感情が芽生えるという綺麗な話ではない。
絡繰忍が動くのは、ひとえにその木組みの体に施された呪術のため。その呪術は人の感情を絡繰の動力とする。その感情が――絡繰の機構と呪術の劣化によって、忍の核(人間で言う脳のようなもの)に流れ込み、発露するのだ。本来感情を持ちえない絡繰に、人間のものである感情は多大な負荷をかける。木でできた体に流れるはずがない感情は、毒のように体を、核を腐らせ、内側から壊していく。ウツロは直接見たことはないが、酷使され続け摩耗した絡繰忍が主を手にかけ果てたことを遠い昔に聞いていた。
自分のものではない感情を抱き、それを増幅させてしまった絡繰は、もうその時点で危険なのだ。何をするか分からない――たったそれだけのことが、絡繰の何もかもを狂わせる。ましてウキヨはそれを自分のものとして扱っていた。諦めさせて、それで終わりになるとは思えない。
「最早、和解の道はない。そういうことだな」
「確認するまでもない。昔からずっとそうだったのだろう?」
「……ああ。そうだったな」
絡繰忍と敵として遭ったなら、ただ壊しあうだけだった。傷ついたとしても技師が修理をして、その後はすぐに命令に従った。それはあまりに当然のことで、今まで和解など、共存など考える必要がなかった。それは主が――人間が考え、決めるべきことだったからだ。だが、今の彼らに主はいない。
「貴様は、我が知っている絡繰忍とは少々異なっているようだ。何故だ。我と、貴様と、もういない奴らと、何が違うというのだ」
怒りと苛立ちばかりを見せていたウキヨが覗かせた小さな疑問。ウツロは考えるように間を開ける。
「蓄積の……いや、『思い出』の、差だ。今を生きる人と、道具としてではなく友として関わった。それ以外に違いなどない」
「そうか。……まるで理解できん」
穏やかな答えに、ウキヨは即座に興味をなくしたようだった。ウツロも緊張感をみなぎらせ、身構える。
先に動いたのはウキヨだった。たった一歩で距離がゼロになる。剛腕が空を切るも、その勢いを殺さず回転し、頭を狙った蹴りを放つ。もろに食らっては最悪核ごと砕かれ、そうでなくとも目玉を潰される。ウツロは地面を蹴って転がり、距離を取る。走り出したウツロを、ウキヨはすぐさま追いかけた。
「逃げるな!」
「馬鹿を言え」
絶叫への返答は風に紛れてすぐに消える。
「汝がどうかは知らぬが、少なくとも、拙者は逃げられるようには作られていない。逃げるはずもない」
回避は逃避ではなく、目的のための一手に過ぎない。メリーゴーランドの柵を乗り越え、身を隠す。
「どこだ……どこにいる」
塗装の剥がれた作り物の馬の間を縫って、赤い目が爛々と輝く。そこかしこに腕をぶつけるたび、苛立たしげに唸り声をあげる。
メリーゴーランドを半周し、音もなく、その背に腕が伸びる。不格好に縮めていた背中の腕をねじり上げられ、ウキヨの足が宙に浮いた。
「ばっ……!」
ウキヨが見たのは、梁に足をかけぶら下がるウツロの目だった。巨体がぐいと持ち上げられ、ウツロの足が力強く梁を蹴った。
身動きの取れないウキヨの上半身を脚で固定し、残った腕で膝を抱え込んだ。そのまま体重で押しつぶすように落下する。衝撃が空気を揺らし――立ち上がったのは、ウツロ一人。
両膝を砕かれ崩れ落ちるウキヨを、丸い青緑が見下ろした。握っていたままの芯棒で胴を貫き、地面に縫い留める。もがく五本の腕を根本から打ち壊し、完全に自由を奪う。
「いくら自らを主人と偽ろうと、汝には命令という寄る辺がない。己を支える柱がない。それが勝敗を分けたのだ」
「馬鹿なっ……!」
「絡繰忍はそういう物だ。……汝に、良き主がいたのなら、歴史さえ動いたやも知れぬ。それほどの技量、それほどの気迫であった」
飾り気のない賞賛に、ウキヨは沈黙する。燃えるような敵意が失われたのを見て、ウツロはぼそりと呟いた。
「目を、覚まさない方がよかったのだ。拙者も、汝も」
血を流すことが戦いの主流ではなくなった世の中では、ただ命じられるまま力を振るう絡繰忍の出る幕はない。
「……そうだ。そうだな。目覚めずただ朽ちておけば、このような激情も知らずに済んだのに」
後悔の滲む言葉に、ウツロは外れた肩を元に戻そうとする手を止めて尋ねた。
「……怒りとは、どのようなものだ」
「分からぬ。ただ……激しいものだ。胸を割り、目玉を貫き、手足を焼いて、それでも留まるところを知らぬ。……人は、こんなものを抱えて、生きているというのか」
怯えを含む、掠れた声。ウツロにはその声が震える理由が分からない。ウキヨは佇むウツロに向かって吐き捨てる。
「苦しむ、ことになろうさ。道具としてではない状態で人と共に行く道を選ぶなら。我には分かるとも。用途以外に意義を見出せば、お前も、きっと……」
嘲笑うような言葉に、ウツロは頷くこともしなかった。ウキヨの声音から感情がふっと消え去る。投げやりですらない、ウツロがよく知る絡繰忍の無機質な情報伝達だ。
「さあ、壊してしまうといい。どうせ、直せる技師もいないのだ。貴様とてわざわざ見逃す必要もあるまい」
「最後に、言い残すことは有るか」
「ない。……何を残すことができるというのか。我らこそ主の持ち物であって、持っている物などないというのに」
「そうだ。……その通りだった」
横たわる人形に、足を振り下ろす。まず最初に核と目玉がある頭部を潰す。そのまま、丹念に全身を踏み砕いていく。零れ落ちた中身の歯車一つ、ぜんまい一つにまでヒビを入れ、使い物にならないようにする。
「浮世は即ち憂き世。人は、常に合理的であることはできないから……お前のような存在は、使われなくとも必要だったのだ」
そう囁く声を聞く者は、退廃の遊園地にはいなかった。東の稜線に明るい色が差して、夜闇が緩やかに去っていく。一人になった絡繰忍者は、するりと顔を覆っていた布を取り、自らの足で砕いた最後の絡繰の破片を拾い始めた。
「輝殿!」
「ウツロ!」
聞き覚えのある声に輝はぱっと顔を輝かせたが、無残に引きちぎられた背中の腕と、だらんとぶら下がる左腕を見ると泣き出しそうな顔をした。
「怪我してるの?」
「怪我ではありません、破損です」
淡々とそう答えたウツロは、がつんと音を立てて膝をつくと輝の手首を縛っていたロープを断ち切った。
「輝殿こそ、お怪我は?」
「大丈夫だよ。お尻がちょっと痛いけど」
ウツロは関節を軋ませて立ち上がり、輝に手を差し伸べる。力強く支えられ、輝は微笑んだ。
「ウツロ、ヒーローみたいだ」
「そのような、立派なものではありませぬ」
「立派じゃなくても、助けてくれたもの」
そう言って笑った輝に、ウツロはかくんと首を傾げた。
「そう言えば、輝殿」
「何?」
ウツロはしばし輝を見下ろして、ぽつりと呟いた。
「些細なことなのですが……お願い、とは……命令では、ありませんな」
「あっ……もしかして、駄目だった?」
「……いいえ。恐らく、あなたと拙者はそれでいいのです」
噛んで含めるような、ゆっくりとした語調。
「友とはそういうものなのでしょう」
その穏やかな言葉が、輝には何よりも嬉しかった。帰ろうか、と手を握った輝に頷きかけたウツロだったが、手にした包みを見下ろすと、繋いだ手を控えめな力で引いた。
「手伝ってほしいことがあるのです。今のうち、人が来る前に……よろしい、でしょうか」
何かを頼むということに慣れていないのだろう、ぎこちなく、いつもよりさらに改まった態度に、輝は笑顔で頷いた。
「もちろんいいよ。友達だもん」
二本だけになってしまった腕で持つ、さっきまで敵だったもの。満が落ち、ウツロが埋められていたという穴の近くに連れられた輝は、その隣に深い穴を掘るウツロをじっと見つめていた。
「何するの?」
「埋めます」
「まいそう、するってこと?」
「あれは人間ではありませんので違います。強いて言うなら戻すのです」
戻す、と繰り返した輝に向かって頷き、ウツロは手を止めて振り返る。
「崩して、埋めて、腐らせ、土へと戻す。戻らない部品が全くないわけではありませんが……こうして、拙者たちは、忍の役目を手放すのです」
「それは、絡繰忍者のみんながやっていたこと?」
「……いいえ。このようなことをしていたのは、拙者だけでした。恐らくは、作り手がそうさせたのでしょう」
「そっか。……優しい、人だったんだね」
「その感覚は、拙者には分かりませぬ」
地面に穴を掘りながら答えるウツロに、輝は穏やかに言った。
「これから知っていけばいいよ。ウツロなら、いつか分かると思うな」
「そう、でしょうか」
「うん」
手伝うよ、と輝が言うと、ウツロはほんの少しだけためらった。断ろうとする前に手ごろな長さの枝を持って穴を掘り始めてしまった輝を見て、ウツロは結局元に戻せなかった左腕を撫でる。空が白んで、太陽が昇り……二人が立ち去った後には、小さな留め金の前に白い花が一輪供えられていた。
山の麓まで下りると、空は白に薄い水色を刷いて地面にはまばゆい日差しが注がれている。気温も少しずつ上がって来ていて、輝はほっと肩の力を抜いた。
「ウツロ、帰り道分かる? 僕ちょっと自信なくて」
「わかり、ます。分かります、が……」
そう答えたウツロは、立ち止まって輝を見つめた。どうしたの、と尋ねる輝に、静かに言い渡す。
「輝殿。拙者のことは置いて、どうかお帰りください」
「どうして?」
驚き慌てる輝にウツロは朝日を指して言った。
「もう、朝が来てしまいました。この状態では身を隠しながら満殿の元へ行くことは難しい。拙者はこの場で夜を待ちます故、早く、お帰りください」
「でも、うつろ……」
装束はところどころ裂け、左腕はだらりとぶら下がっている。背中からはもがれた複腕の残りが飛び出して、そう言えば足も引きずるようにして歩いていた。誰にも見つからずに帰ることなんてできるはずもない。それでも輝は頷くことはできなかった。
「満殿も、大層ご心配しておられました。拙者のことはお気になさらず、早く。ご両親も、今頃あなたの無事を知りたいはずです」
「でもっ……ウツロのこと、放っておけないよ」
躊躇う輝の手を、ウツロは優しく握った。しかし、何も言わなかった。これ以上言っても駄目だ、と分かってしまった輝は、縋るように問いかけた。
「夜になったら、会えるよね?」
ウツロはその小さな問いに答えることをしなかった。ただそっと、割れた指で背中を押しただけだ。輝はぐっと唇を引き結んで、踵を返して走り去る。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
朝日に照らされて、輝は涙をこらえながら走っていた。息が切れ、転びそうになりながらも懸命に思考を巡らせる。さっきまで繋いでいた手を離してしまった。一人で歩くのはひどく心許ないが、それよりも、傷ついたウツロを置いてきてしまったことが気がかりだった。
ウツロの言う通り、家に戻るべきなのだろうか。家で、夜を待つべきなのか。でも、お父さんもお母さんもひどく心配しているだろう。夜になって満の家に行ける可能性は低い。へなへなと地面に座り込みそうになって、輝は電柱にもたれかかって息を吐いた。
何か、誰か。僕だけじゃどうにもできない。でも、助けを求めるにしたって、どうやって……?
ずるりと力が抜けるのをこらえて、輝はどうにか顔を上げた。その時つい最近見たような影を見つけて、輝ははっと息を飲む。よろよろと走り寄って、透明な扉を急いで押し開けた。手を滑らせて受話器を取り落としてしまい、泣きそうになりながら小銭を入れて番号を押す。
『はい、どちら様?』
「もしもし? みっちゃん?」
『輝ッ? 今どこにいるんだ!』
公衆電話から満の携帯にかけると、切羽詰まった声が応えた。
「駅の近くの、公衆電話……」
どうしてそんなところに、と満は呟いたが、その声にはいくらか安堵が混じっていた。
「みっちゃんはどこにいるの?」
『月子さんの車で君を探してるところだ。とにかく、今から迎えにいくから……』
「待って!」
満の声を慌てて遮り、輝は受話器を握りしめた。ひゅうひゅうと喉が鳴るのを抑えて、ゆっくりと声を出す。
「ぼくは、ぼくはいいから……みっちゃんは、ウツロのこと、迎えに行ってあげて」
輝の涙交じりの声に満は一瞬黙り込み、口調を和らげて尋ねた。
『ウツロは一緒じゃないのかい?』
「ちがう……ウツロ、怪我してて、ぼくだけで帰るようにって。隠れながら帰れないって、手も足もぼろぼろで。ぼくは、一人で交番に行けるから、お願い、みっちゃん……」
うつろをたすけて。切れ切れに言葉を続けながら、零れ落ちる涙を一生懸命に拭う。
『でも、輝……』
ためらうような満の声が遠のいて、受話器の向こうで話声が聞こえる。誰かと話しているようだ、と輝がぼんやり思っていると、受話器から別の声が聞こえてきた。もうすっかり耳に馴染んだ、落ち着いた声。
『もしもし、輝くん?』
「つきこ、おねえちゃん」
『信号が赤だから代わってもらったんだけどね。交番の場所、ちゃんと分かるんだね?』
「うん、大丈夫」
『分からなくなったらコンビニとか入って教えてもらいな。もう明るいし、焦らなくていいからね』
「うん」
『いい返事だ。あ、信号青になった。満に代わるよ』
あっさりとした声が遠くなり、満の声が聞こえてくる。
『もう、俺の気持ちも知らずに勝手なんだから……気をつけてね。ウツロを見つけたら、すぐ会いに行くから。ウツロは今どこにいるって?』
「山の、麓……多分、林の中に、隠れてると思う」
『分かった。道が分からなくなったら、また電話してきて。お金は大丈夫?』
「うん。ちょっとだけなら……ある」
『ならよかった。ウツロのことは俺たちに任せて。気をつけてね』
普段はなんだか頼りない年の離れた従兄。それでも彼はいつだって子供な自分を気遣い、優しく接してくれたのだ、と今更ながらに輝は知った。
「うん……ありがとう。心配させちゃって、ごめんなさい」
鼻をすすりながら謝る輝に答える声は優しい。
『いいんだよ。君が無事で何よりだ』
受話器を置いて、涙を拭う。電話ボックスから出ると、輝は眩しい朝日に目を細めた。よく知っている風景のはずなのにどこか違って見える。人がいないからかな、と輝はぼんやり思った。
近くの交番で保護された輝は、一度警察署へと連れて行かれて両親を待つことになった。泣きはらした輝の顔を見て、母の陽と父の洋介は無事でよかったと涙をこぼした。緊張の糸が切れてうとうとし始めた輝を車に乗せて、一家は帰路につく。
「起きてる……まだ、起きてる、よ」
夢うつつに何かを言う輝を、両親はなだめるようにして寝かしつけた。寝言でずっと誰かを呼んでいたのだが、舌ったらずなその呼び声では、誰を呼んでいるのかを知ることはできなかった。
「輝。ウツロから大事な話があるんだって」
「話? 何の?」
輝が誘拐され、ウツロが最後の絡繰忍を打倒した日から三日、満に呼ばれて輝はアパートへとやってきていた。どこか浮かない表情で出迎えた満の言葉に、輝は首を傾げる。その問いに満は答えず、肩を竦めて輝を部屋へと招き入れた。洗ってきちんと皺を伸ばした忍装束に身を包んだウツロが待ち構えており、輝は一瞬ぎょっとする。まるで初めて会話した時のような、無機質な声で名を呼ばれる。座布団を勧められ、ウツロと向かい合い、慣れない正座でぴんと背筋を伸ばした。
ウツロの破損を完全に直すことは、残念ながらできなかった。腹部の腕は半端な位置で折り取られていたために、残った部分を取り除かなければ新しいものを取り付けることができないうえに、材料の用意も簡単ではないと言う。左腕は動くようになったものの、時々何か引っかかったように動きが鈍る。口には出さないが、足の様子も万全ではないようだ。それでも何とかしようとしたのを、ウツロが固辞したのだ。
そんな状態でも、まるで最初からその形をしていたかのように、ウツロの正座には不自然なところがない。感じたことのない居心地の悪さに、輝は落ち着きなく視線を泳がせる。輝がようやく目を合わせたタイミングで、ウツロは厳かにこう言い放った。
「この部屋を、出ようと思うのです」
静かな声での宣言に、輝は目を瞬いた。
「……どこか、他に住む場所が見つかったの?」
「いいえ。山に戻るつもりです。穴へと戻り、そこで朽ちるのを待ちます」
「待つって……どうして!?」
ようやくウツロの言っていることを飲み込んだ輝が大声をあげる。
「拙者もいずれ自らの欲に突き動かされる日が来るかもしれない。そう考えてのことです」
「そんなことないよ!」
「そんなことがあったではないですか。主もなく、太平の世に目を覚ました絡繰があなたに何をしたかもうお忘れなので?」
言葉を失う輝に、ウツロはただ静かに言葉を重ねた。
「最も新しい絡繰であったウキヨさえそうだった。可能性で言うなら拙者の方が危険なのです。分かっていただけますね」
まるでもう決まったことのように話すウツロ。実際、ウツロの言うことは正しいということも、輝は分かっていた。
だって抵抗できなかったじゃないか。僕が子供じゃなくたって、ウキヨはあっさり僕を攫うことができただろう。ウツロが、あんな風になってしまったら、きっと僕らは抵抗できない。
「や……」
正しいことだと、分かっている。分かっているけれど。
「嫌だ! 絶対やだっ!」
ウツロの胴にがっしりと腕を回し、輝はいやいやと首を横に振る。硬い胸に頬を押し付け、離れまいと力を籠める。
「な、何故……!」
「やだぁ!」
やだやだと繰り返す輝にウツロは理解できないとばかりに停止する。その様子を見ていた満は、ウツロの肩を軽く小突いて言った。
「だから言ったでしょ、納得してくれるか分かんないって」
「何故……何故です! 輝殿なら分かってくれると思っていたのに……」
ぐすぐすと鼻をすする輝の頭を撫でて、満は苦笑する。
「合理的でいることって難しいことだからね。俺はまあ、理詰めで説得されたらそうだねって言うしかなかったけど……」
やっぱり輝はこうなっちゃったか、と頬を掻く満から、すがりついてくる輝に視線を戻し、ウツロは再び説得しようとする。
「輝殿、どうか聞き入れていただきたいのです。あなたに、危害が及ばないようにと……」
「やだ……やだよ……」
全く聞き入れる気配のない輝を見下ろし、ウツロは困り果てたように手を上げ下げしている。
「満殿からもどうか、どうか説得を……」
「ええ?」
従弟の潤んだ瞳に見上げられ、満は眉を八の字にして考え込む。困ったな、と呟いて天井を見上げていたが、突然顔を覆って大仰に声を張り上げた。
「ああ困ったなあ! もしウツロが輝を説得できないまま山に行ってしまったら、輝は追いかけて山に入っちゃうかもしれないなあ!」
豹変にあっけにとられる二人をちらりと指の隙間から見て、もう一度大げさな声をあげる。
「陽さんたちに事情は説明できないから、もしかしたら一人で行っちゃうかもしれない! 僕みたいに怪我してしまったらどうしよう!」
わざとらしくそう言いながら、満は輝に目配せした。輝はハッとして、装束を掴む手に力を籠める。
「そ、そうだよ! 無理に行っちゃったりしたら、ぼく絶対追いかけるからね!」
「なんと……!」
ぎゅうぎゅうとしがみつく輝に、ウツロは絶句する。そのまま動けなくなってしまったウツロに、満は穏やかに言った。
「諦めて、ここにいることにしなよ。俺たちが危険な目に遭う理由って君以外にもたくさんあるんだよ? 俺みたいに足を滑らせて転んだりとか」
ウツロの肩に手を置き、満はさらに言葉を重ねる。
「もしも、君が誰かに害を為すようになったとしたら、できる限りのことをして止める。それでは駄目かな」
「僕も! 僕も止める!」
穏やかに諭す満と、一生懸命に主張する輝。二人を交互に見比べて、ウツロは頼りなく首を横に振った。
「……その考え方は、危険です。あまりにも、不確かだ」
「そうかもしれないよ。でもさ、俺達は結局、一度知ってしまったことを忘れることってなかなかできないんだよ。からくりの忍者と過ごした日々とかね」
でしょ? と満が輝に問いかけると、抱き着いていた腕を緩めて、輝は赤くなった目で格子の奥の青緑を見つめる。
「ウツロは、僕たちと一緒にいるのはいや?」
「……好悪を抱くようには、できておりません」
出会った時から変わらない、淡々とした答え。二人は落胆したように顔を見合わせる。
「……ですが、拙者が山へ戻ることで輝殿に危険があるのなら、ここに留まった方がよいのでしょう」
長い長い間を開けてようやく出てきた言葉に、輝と満はほっと安堵の息を吐いた。傷ついて摩耗した、木と鉄の体。青緑の目は格子の奥で輝きを取り戻し、つるりとした視線が二人を見ていた。輝は満面の笑みで、小さな手を差し出す。
「これからもよろしくね、ウツロ」
「ええ。よろしくお願いいたします」
まだ幼い柔らかな手を、木組みの手が柔らかく包む。みっちゃんも、と促され、満は照れくさそうにそこに手を重ねた。
この平穏がいつまでも続くという保障はない。それでもこの瞬間を少しでも長く憶えていたい。彼らが願うのはそれだけの、ささやかなものであった。
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