第8話旅の果て


 陽気なようでいてどこか薄暗い目をした男に生き甲斐を与えられながら、どうにかその日その日をやり過ごすように生きていた。動物、道具、様々の化生がはびこるこの時代、人間は種としてはそれほど強い部類ではなく、子供なら尚更誰かの助けが必要だった。運がいいのか悪いのか、傷つけることに対してだけやたらと器用なおれを見て、その男は穏やかに「いずれ自分以外の誰かと連れ添って歩く日が来るかもしれない。きっとその手に感謝する日が来る」と言った。別に今だってこの手に困らされたことなんてなかったし、そもそもおれの手は俺の考えるとおりにしか動かないんだから感謝も何もあったものではない。そう言うと男はそれもそうだなと頷いて、あとは特に何も言わなかった。

 男の名前はトギリと言った。おしゃべりで気のいい男であるように振舞っていたが、時折ひどく冷めた表情を見せる、常に一緒にいたおれにとっても謎の多いやつだった。何故か面倒見だけはよかったので、どこで生まれたかも分からない身の上ではあったが幼い時分から食うに困らずに済んでいた。

 ある日、行き倒れたらしい商人の荷物を漁っていると、包みの中から濁った声がした。声の主は武骨ながら磨き上げられた、美しい――武器に対して美しいなんて思ったのはこれが最初で最後だ――拳銃だった。やたらと口の悪いその銃は、コレクションになるのはごめんだなどと言って、新しい持ち主を求めた。静かな部屋で大人しくしてるのにはもうあきた、と言う割には一秒だって黙りやしなかったが、トギリは面白がってそいつを仲間に加えた。ディムと名付けられたそいつは驚くほどおれの手に馴染み、また意外なほど気が合った。

 トギリはおれを育てる親であり、食い扶持を稼ぐ術を教える師であり……唯一心を許せる人間であった。ディムはって? 人間じゃないからカウントしてないだけで、こいつに隠し事はできないし、しようとも思わない。

 おれたちなら大抵のことならどうにかなると思っていたし、実際今まではどうにかなっていた。これからもずっと、おれが何か見当違いなことを言って、ディムがそれをからかってトギリがそれを笑ってたしなめるような、穏やかでたまに刺激的な旅が続くと思っていたのだ。

 鮮やかな血しぶきと、隣にいた男がただの肉塊に変わる瞬間を見るまでは。

「避けろ!」

 今まで聞いたことがないほど切羽詰まっただみ声を聞く前から、本能はためらわず逃亡を選択していた。身を隠していた茂みを突っ切り、急斜面へと身を投げる。十分な距離があるはずなのに、後ろから迫る、殺意。冷たい枝葉が頬を切り、服を裂き、どこをぶつけたのか分からないまま斜面を転がり落ちて、それでもディムだけは抱え込んで手放さなかった。倒木にぶつかって体が止まると、足を踏ん張って立ち上がり駆け出す。体中が痛かったが、今頃冷たくなり始めているだろうトギリよりはよっぽどマシな状態なのだ、と考えてどうにか走った。息が切れて、眩暈がして、それでも無心で走り続けた。

「おい、おい! ニック!」

 手の中からした警告を聞こうとした瞬間、足がもつれて転んだ。ばしゃんと浅い川に落ちて、肺の空気を全て吐き出して止まる。

「もう、追われてねえよ。とりあえず落ち着け」

「げほっ……ああ、うん」

 起き上がって呼吸を整える。濡れた体は風に冷やされ、思い出したように体が痛みはじめた。痛みに小さく呻いてから、握りしめたままのディムに問いかける。

「トギリは、死ぬのかな」

「助かりはしねえだろう。傷は深かったし、とどめを刺されてる可能性の方が高い」

「うん」

 相棒の淡々とした宣告はすとんと胸に落ちて、じわじわと広い穴を開けていくようだった。傷というには穏やかな喪失感こそ感じていたが、そのまま座り込むだけになってしまうほどではなかった。

「立てるか?」

「少し休憩すれば」

「歩けるか」

「立てればどうにかなる」

 水に濡れてしまったディムは、「そうかい」と少しばかり安堵したような声で言った。続いた問いは普段だったら挑発的な色がふんだんに乗せられていただろうが、今回ばかりはひどく真剣だった。

「立ってからはどうする? この様子じゃ追いかけられはしないだろう、気をつければ逃げることは簡単だ」

 その問いは、目先の選択だけに目を向けさせるものではなかった。拠り所を失ったおれたちがどうするべきか――どう、生きていくか。おれは額に張り付いた髪をかき上げ、「そうだな」と呟いた。


 久し振りの物騒な仕事だった。トギリは受けるのを嫌がったが、依頼者が旧知の仲だということで結局押し切られてしまったらしい。男と女の二人連れの、男の方を殺してほしいというのだ。理由を聞けば仇討だそうで、依頼者は話をする間ずっと何かを気にして視線を泳がせていた。

「多分嘘だぜ」

 依頼者と別れてから、そうトギリは言った。今はそういう気分じゃないのに、とぼやきながらも、武器の手入れだけはいつも以上に丹念に行っていた。

「まあ、断れなかった俺も大概だな。悪かったよ、巻き込んじまって」

「別に。おれたちチームだろ」

「そうそう。それにこんなの初めてじゃないだろ」

「チームだからこそ、こういう嘘の臭いがするのは嫌なんだ」

 トギリは申し訳なさそうだったが、おれはそれほど気にしてなかった。報酬は相場より高かったし、似たような仕事は何度もやってきた。今回も上手くやれると思っていたのだ。

 ああ、トギリ。きっとおれが馬鹿だったんだ。あなたが嫌だといったなら、おれが一緒になって反対すればよかった。こんな仕事を受けなければ、おれたちどんなふうにでも生きていけたのに。

 鮮やかな赤が脳裏によみがえる。トギリは、最後になんと言っただろう。胸をよぎる感傷を拭って、目の前のことに集中する。音もなく、先を急ぐ男と女を追いかける。心臓が一度、大きく跳ねた。男に慎重に銃口を向け――、風が、吹いた。

 引き金を引く前に、白刃の冷たい輝きが視界の隅で煌くのが見えた。薄く黒ずんだ薄氷の色をした瞳と視線がかち合った。

「死体一つでは忠告にならなかったか」

 脇腹に、重い衝撃。しかしおれの体は真っ二つになることは無く、刃は服の下に隠していた袋を破り、重ねて着こんだ革のベストに当たって止まっていた。表情がなかった男の顔に浮かぶ動揺に、賭けに勝ったことを知る。東の洞窟に棲む巨大蝦蟇の油が入った袋を切りつけた刃は、どろりとぬめる鉄の棒と化していた。わざと吹き飛ばされて転がり、起き上がってすぐさま銃口を向ける。

「忠告? もちろんなったさ。オマエを殺すには普段通りじゃダメだって」

 ディムが皮肉っぽく嗤った。その口が素早く火を噴いて、男の額に穴が開く。一瞬の空白の後、頭部が膨らみ、破裂する。ディムが以前言っていた、「滅多に使う機会がない」高火力の一発だろう。人に向けるには強すぎる、人ならざる者に向ける弾。反動にびりびりと手が震えている

「……えらい威力だな」

「念には念を、だ。……これぐらいはやらせろよ」

 頭が半分吹き飛んだ男の肩を蹴飛ばして、動かないかどうかを確認する。この手の人から外れたやつは、どこ吹き飛ばしても死んだとは限らないのだ。

「死んでる、な」

「ああ。お疲れさん」

 ディムの小さな労いに、ため息で答える。男について歩いていた女は、へたりこんで震えながらもおれたちを気丈に睨んでいた。忘れていた。ディムはおれが何を見ているのか気付いたらしく、少しだけ困ったような声で言った。

「依頼人が来ねえと話にならん。どうする」

 考え込んで、女の方に歩み寄る。びくりと震えてあとずさりされたので、適度に距離を保って足を止める。

「今から人を呼ぶ。そんなに安全な人間じゃないから……隠れていた方が、いいかも」

 女は死体を見て、それからおれの顔を驚いたように見つめて、それからすぐに駆け出した。その頼りない背中が木立の奥に消えるまで見送って、回収してきた荷物から小さな筒を取り出す。事前に渡されていた発煙筒だ。仕事が終わり次第、これに火をつけて依頼人に知らせる。地べたに座り込んで煙が上っていくのをぼんやりと眺めながら、ただ依頼人が来るのを待った。


 現れた依頼者の男はやけににこやかに挨拶すると、ぐるりと辺りを見回して端的に尋ねた。

「トギリは?」

「死んだよ」

 ディムが短く吐き捨てると、男は驚いた様子もなく頷き、頭の破裂した遺体に近づいていった。

「確かに死んでるな。……ご苦労さん、こいつが報酬だ。これの連れの女はどうした?」

「分からん。気付いたら逃げてたよ。オレたちコイツの相手で精いっぱいだったから」

 ディムがそう言うと、男は忌々しげに舌打ちした。

「ン? オレたちの仕事はこの男の始末だよな? あのワケアリな女は一体なんだ?」

「余計な詮索はするな」

 ぴしゃりと撥ねつけられ、ディムは仕方なさそうに苦笑した。隠し事をしているのだ、この男たちは。渡された報酬の入った袋の中身をきちんと確かめて、鞄に仕舞う。

「しかしお前、トギリがいなくなってこれからどうすんだ? まあ腕はいいし、俺たちのところに来ても……」

 伸ばされた手を払いのける。驚いた顔をする男から距離を取り、低く問う。

「知って、いたんだろう。この男の危険性を。おれたちが死ぬ可能性があること、分かっていたんだろう」

 依頼者たちから笑いが消える。確信すると共に心が冷えていく。

「『嘘をつく相手と仕事はするな』……トギリの、言っていたことだ」

 低く囁き、一番前の男に銃口を向ける。たじろぐ男たちを睨む銃口が、忌々しげな声を発する。

「オマエたち、最近怪しいやつらとつるんでたそうだな? 答えなくて結構! 目的は金か? オレたちを使えば自分たちは楽できるとでも思ったのか」

 苛立たしさを隠さないディムに、男たちがピリピリした緊張感を帯びていく。おれも威嚇するように歯をむき出して、刺々しく詰問した。

「お前たちは情報を隠した。それがトギリを死に追いやり、おれたちを危険にさらした。故意に、やったことだろう」

「オマエたちが時々仕事の邪魔してたのを気付いてないアイツじゃなかったはずだ。どれだけアイツに損であろうと、オマエたちとの縁を切ることはしなかった」

 それが何故か、などとは考えるまでもなかった。利に聡く、正義や優しさを嘲笑いながらどうしても非道になりきれなかったあの男。自分で思っているよりずっと不器用で、おれたちを見る目が優しかったのはきっと無意識だったんだ。

 すう、と大きく息を吸って、緩やかに吐き出す。覚悟はとっくに決まっている。

「トギリが死んだ今、おまえたちと組む理由はない。おれたちはこれからおまえたちの知らない地で生きることにしよう」

「そして、オレたちはアイツの言ったことは守るようにしてる。この意味が分かるか」

 ディムが力を溜めていくのを全身で感じる。安全装置を外すと、高らかな笑い声があがった。

「『何事も後腐れがないように』、おまえたちとの禍根はここで絶とう」

「『自分の感情に正直に』、だ。オレたちの怒り、思い知れ!」

 おれたちは同時にそう言い放った。不思議に思ったおれはうん? と手元を見下ろす。ディムもわずかに気まずそうにこちらに意識を向けている。

「トギリ、そんなこと言ってたっけ」

「言ってたよ! どうせ結果は同じなんだ、さっさとやるぞ!」

 ふてくされたような声に頷くより早く、突き出された短剣を屈んで避ける。ディムが撃ちだした弾丸が柄ごと手首を砕き、悲鳴を打ち消すように銃声が鳴り響く。伸ばされた腕を振り払うと、肩に痛みが走った。ナイフ、と認識した瞬間、肉片が飛び散った。ディムが引き金を引かせたのだ。いいぞ、相棒!

 体の痛みも傷も気にならなかった。坂を転がり落ちた時の怪我も、わざと受けた大刀の一撃も、乱闘であちこちにつけられていく傷も、全部、今はどうでもいいことだった。おれはディムと一つになって、共に風を受けて足を踏み出す。はは、と笑ったのはおれなのか、それともディムなのか。どっちでもよかった。生きているという実感がある。向けられた殺意、その一つ一つが手に取るようにわかる。全員殺さなければ、死ぬのはおれたちなんだから。

 立っているやつが一人、また一人と減っていく。逃げたやつを追いかけることまではできなかった。ああ、トギリがここにいればなあ! あの男がいてこそのおれたちだったのに、あの男がおれたちをこうして育てたのに! 喪失を改めて実感させられてしまい、奥歯を強くかみしめる。それでも動きを鈍らせることは無く、ただ、踊るように復讐を続ける。

 軽やかなステップを止めて、最後の一人、足から血を流してもがく男を見下ろした。

「たっ……助けてくれ、たすけて……」

「……トギリは、そんなこと言う暇さえなかったんだ」

 最後の一発は、呆れるほど軽い音がした。正確に眉間を撃ち抜いたから死んでいるはずだが、明らかに威力が落ちている。

「疲れたのか、ディム」

「ああ、勿論。けどオマエの方こそ――」

 突然、ディムの声が遠くなり、きんと耳の奥で高音がした。あれ? と思った時には膝から崩れ落ちている。脈打つ鼓動が聞こえるたび、締め付けられるように頭が痛む。身を起こすことも出来ないまま、まずいな、とだけ思った。おれはディムがいなきゃちょっと乱暴なただのクソガキで、おれがいなきゃディムはやたらと口が悪いだけのただの凶器だ。おれが倒れてしまっては、ディムはどこにも行けやしない。だってもうトギリはいないんだから――。

「……ちくしょう」

 意識を失う前にこぼれたのは、もういない男の名前でも、返り血一つ浴びてない相棒の名前でもなかった。無力な自分と、不条理な世界を呪う声。意識さえあればいくらでも吐き出してやりたかった言葉ごと、真っ暗に塗りつぶされていく。

 いや、でもおれ、また、何か忘れて――……。


 まるきり普段と同じように目が覚めたことに落胆するのは初めてだった。おれはいまいち自分の感情の機微を掴むのが下手で、瞬間的に浮かんだ感情はいつの間にか流れ去ってしまって、表明する間もなく自分がどう思っていたか、どう表現するべきだったかがあいまいになる。ディムはこういうことに興味を示さなかったし、トギリは「無理に直す必要もないさ」と言うだけだった。まあ、そう簡単に治るとも思ってなかったけれど。……せめて、育ての親が死んだ時ぐらいは、もう少し動揺してもいいんじゃないのか、なんて。つらつらと考えて強張った体をほぐそうとした。

「動かないで!」

 寝起きの頭に上ずった声を叩きつけられ、ぱっと意識が覚醒する。布団を跳ね上げて身構えると、体のあちこちに痛みが走った。声のした方向には小柄な人影、そしてよーく見知った――でも向けられたことは無い――銃口。

「……ディム?」

「わりぃな、ニック! オレっていくら勘がよくて頭が切れるって言ってもしがない一丁の拳銃でしかなくてよォ、握られたら一つの方向しか向けねえのよ――」

「動かないで、って言ったでしょ! あなたもうるさい!」

 全く悪びれていないディムの言葉を、震える声がぴしゃりと遮った。ふんわりとした赤毛をどこかで見た気がして記憶をさらうと、案外簡単に思い出せた。トギリを殺した男の連れだ。

 そうだ、この子のことを忘れてたのだ。意味が分からず瞬きしていると、女の子は口を開いた。

「撃たれたくなかったら、私の言うことを聞いて。……お願いだから」

 声に緊張をみなぎらせて、その子がおれを脅す。腰が引けている。引き金に指がかかっていない。荒事に慣れていないことが明らかな、隙だらけの立ち姿だ。ディムを取り戻すことは簡単だが、それより前に気になることがあった。

「……安全装置が外れてないから、そのままだと撃てないけど」

「えっ!」

 女の子の驚く声と同時に、濁った笑い声が弾けた。ディムの意地悪だろう。見た目はいいのに性格が悪いのだ。普段通りのやかましい笑い声に肩の力が抜けて、つい素の呆れた声が出る。

「あんまりいじめるなよ」

「いや、こうもからかい甲斐のあるコは久し振りなもんでな。ふはは、いやいや、悪いなお嬢さん!」

 赤毛の子がディムの安全装置を外そうと躍起になっているのを見ると、流石に少し不憫になってきた。

「こういうのに慣れてないなら、下手にいじらない方がいい。こいつ、少し複雑だから。性格も悪いし」

 そう言ってベッドから起き上がり、ディムを握りこんだ手を下ろさせると、ブラウンの瞳がじわりとうるんだ。ぽろぽろとこぼれる透明な滴が涙だと気づくまで数秒。気付いてから、どっと汗が噴き出した。

「あーあ。ニック、オンナノコ泣かしてやんの」

「う、いや、そんなつもりじゃ……大体おまえだってからかってたのに!」

 どうにかその子をなだめて、いろいろと事情を聞くことにした。素性や旅の目的、俺が倒れている間どうしていたか、などなど。ディムが茶々を入れるのに段々と慣れてきたのを見て、順応性は意外と高いのかもしれないな、と思った。

 女の子はロアといって、自分の故郷から遠く離れた地にあるものを運ぶ役目を持っているのだそうだ。それが何なのかは教えてくれなかったが、別にそれほど重要なことではなかった。

「感謝しろよニック。ロアはよ、ぶっ倒れたオマエとオレをこの宿まで引っ張ってきて、一日中面倒見ててくれたんだぞ。オレとおしゃべりしながらだったけど」

「それでおまえがあることないこと吹き込んで、おれを脅迫するように仕向けたんだな? このいたずら好きめ」

「いやいや、まさか拳銃一つの言うことをうのみにするとは思わねえだろう!」

 いたたまれなさそうなロアを見てディムはからからと笑い、何気ない風を装って尋ねた。

「それで? 体は動くのかよ」

「ああ。ところどころまだ痛むけど、大体のところは平気だ」

 ……それなりに、心配させていたようだ。体の筋を伸ばして調子を確認していると、ロアは意を決したようにこちらを見つめた。

「私一人じゃ目的地まで辿り着けない。協力してほしいの」

「本気か? あんたの護衛を殺したのはおれなのに」

「……本気じゃなきゃ、もうとっくに逃げ出してる」

 悲痛な覚悟の滲む言葉に、思わずディムを見下ろした。元々、おれたちに選択肢なんてあってないようなものだ。

「私にできることならなんでもするから、だから……」

「わかった。いいよ」

「えっ」

 自分で頼んでおきながら何を驚いているのか。首を傾げつつ荷物を軽く叩く。

「おれたち、なるべく早くここを離れなきゃいけないんだ。でも、どこにも行くあてがない」

「もののついでだ。ロア、アンタの旅路についていこう。退屈させてくれるなよ?」

 あっけらかんとした言葉にロアは拍子抜けした様子だったが、ついでどこか遠慮がちに尋ねてきた。

「私の方こそ、いいの?」

 一瞬、何のことを聞いているのか分からなかった。消え入るような声で、「あなたの、お兄さんのこと……」と言われ、一瞬遅れてトギリのことだと気付く。「兄……では、ないんだけれど」と言うと、きょとんと目が丸くなった。

「……いつでも起こりえたことが実際に起きた。それだけのことだ」

「そうとも。明日は我が身ってな」

 そう言うと、ロアはまた泣きそうな顔をした。泣くか、と身構えたけど、ロアは少しうつむいて顔をこすると、か細い声で「そう」とだけ言った。

「出発はどうするんだ? 今から?」

「せっかちだぜ、相棒。少なくとも今日は休み」

 ベッドの脇に放り出されたディムが、たしなめるようにおれに言う。

「ぶっ倒れて起きたらすぐ出発、なんてのは無謀だぜ。そのくらいの理屈は分かるよな?」

「ああ、わかった」

 まるでトギリみたいなことを言う。その一言が喉に引っかかって出なかったのは、きっと疲れのせいだろう。そう思うことにした。


 翌日、宿の近くの医者で少し傷を見てもらってから出発した。彼女の目的地は遠く遠く、それなりに旅慣れてる俺でも全く知らない地に向かうようだ。でも彼女は旅に出たことがないというものだから不思議……というより、危険である。

 ロアは、最初は俺たちを警戒してかいまいち口数が少なかったが、打ち解けてくると気立ての良い、明るい娘だということが分かってきた。もっぱらディムがちょっかいを出すのに困ったり怒ったりするところばかり見ているが、言葉遣いやちょっとした仕草でなんとなく分かるのだ。

 ……だからこそ、彼女があんな物騒な男と旅をしていた理由が一層謎めいてくるのだが。旅の理由に関してはロアは頑なに口を開かなかった。彼女を狙う怪しげな宗教団のことも、詳しいことは分からないままだ。分からないことだらけだが、目的地ははっきりとしている。ロアはただそこを目指し、おれたちはそれを守ればよかった。

 ……まあ、言うほど簡単ではなかったのだけど。それはもういろんなやつらが彼女を欲しがった。その度おれたちは火花を振り払うように敵を蹴散らして、時に身を潜めてやり過ごした。傷は治ったそばから増えていったが、おれとしてはロアの方が痛そうな顔をするのが心底不思議で、どこか怪我しているのを隠しているんじゃないかと疑ったくらいだった。

「自分が痛いのよりも、他の誰かが痛い方が気になるやつもいるのさ」

 ディムはまるで知っていることのように言っていたが、それがトギリの思い出話のうち一つの中でぼそりと呟いていたことだったのは指摘しないでおいた。多分その通りだとも思っていたからな。


「大丈夫か、ロア」

 場所は閉店して長らく放置されていたダンスホール。雨風がしのげるということで一晩間借りしようとしたのだが、いざ眠ろうとしたところで襲われた。なぜかやたらと頑丈な衣装ケースの鍵を打ち壊して、強引にロアを詰め込んで蓋を閉めたのだ。ドレスに埋もれていたロアに手を差し伸べる。

「私は大丈夫。ニックとディムは?」

「無傷じゃねえが大したことねえさ」

 ディムのため息交じりの言葉に頷く。どれもこれもかすり傷だ。立ち上がったロアは辺りの惨状を見回して苦笑した。砕け散った家具の破片が山を作り、壁は穴だらけ。唯一無事なのは天井くらいのものだ。

「また派手にやったね」

「このやり方しか知らないんだ」

 同じ仮面をつけた襲撃者たちは気絶させて縛り上げて化粧室に押し込んである。

「ロア、その服は?」

 衣装ケースからはみ出したドレスが、ロアの足に絡まってしまっている。何だろう、と呟いたロアがそっと解くと、ふよふよと動いてまた足に絡みつく。驚くロアに、ディムが納得したように呟いた。

「ああ、なるほどね。大事にされすぎて化生になっちまったわけだ」

 だから衣装ケースなのにやたらと頑丈そうな造りをしてたのか。確かに動き回るドレスなど商売では使えないだろう。一目で相当古いデザインのものだと分かるドレスは、縋るようにロアに袖を絡ませているがどうも動きに力がない。寿命が近いんだ、とディムがぼやく。

「あんまり邪険にしないでやってくれよ。使うやつがいなくなった道具なんて哀れなもんだ」

 ディムのしんみりとした言葉にロアは助けを求めるようにこちらを見た。期待と不安の混じったような視線。少し考えて、ふわふわと揺れるドレスを指さす。

「……ロアがいやじゃなければ着てやったら?」

「いいのかな、勝手に着ちゃっても」

 慎重にドレスを持ち上げて、ロアが不安げに言う。ディムは「持ち主もいねえのに誰に許可取れってんだ?」と苦笑いしている。喜ぶように揺れるドレスに顔を近づけて、微笑んだ。

「少しだけ。少しだけなら平気だよね」

 そう囁いた瞬間、衣装ケースの蓋がばがんと内側から持ち上げられた。ぎょっとする暇さえなく、鮮やかな色の洪水にロアが悲鳴を残して飲み込まれる。嘘だろ、と絶句してから、ぶるぶると銃身を震わせているディムに慌てて視線を向ける。

「おまえ、こうなること分かってたな!」

「わははは! ほら、狙われてるのはオジョウサマだけじゃあねえぞ!」

 え、と疑問に思う前に、黒い影に足を掬われる。よろけた背中を支えたのは、艶のある生地の燕尾服。小さな小さな囁きが聞こえる。あれが似合う、いいやこっちだ、それじゃないあれだ――どうやら、何を着せるかの相談らしい。されるがままにしていたらあれよあれよといううちに着替えさせられ髪を整えられて、しまいに背中を押される。ディムが収まっているホルスターも豪奢なものに変わっていて、あまりの凝りように驚きを通り越して呆れていると、遅れてロアが押し出されてきた。

「ロア……」

 名前を呼ぶので精一杯だった。息を、飲む。梳かれてまとめられた髪には明るい色の花飾り、纏うのはクリームホワイトのドレス。旅装では隠れてしまう体のラインが露わになり、その華奢さにごくりと喉が鳴った。恥ずかしげに身を縮ませるロアが、小さく首を傾げた。

「……どうかな」

「似合ってる、と、思う。素敵だ」

「いいね、ここが廃墟だってことをつい忘れそうになっちまうよ」

「ありがと。二人の衣装も素敵」

 顔を赤らめてはにかむロアと飽きずに見つめあっていると、どこからか音楽が流れだした。音源は、先ほど大立ち回りを繰り広げた大広間。

「退廃の地、人々の夢の跡。最後の一曲に付き合ってほしいみたいだぜ、こいつら」

「でもおれ、踊りなんて分からないし……」

 ロアは? と目で尋ねると、頼りない表情で首を横に振られる。しかしディムは低く笑って、「知らなくてもいいんだよ」と言った。タン! と高く靴音が鳴る。艶のある革靴が、白く輝くハイヒールが、そわそわとおれたち二人が了承するのを待っていた。ロアと顔を見合わせて、恐る恐る腕を取る。靴がおれたちを先導して、広間に躍り出た。

 ぎこちない動きで、靴にも服にも助けられながらの踊りは子供の遊戯みたいに幼くて滑稽だった。それでもロアは楽しそうで、おれも自然と笑っていた。こんな気持ちは久し振りだ。曲調が何度も変わって、その度二人して転びそうになりながら声をあげて笑った。この時だけは何もかも忘れて、音楽に合わせてくるくると回った。

 随分と長く踊っていたように思う。ディムが「そろそろか」と呟くと、ロアがぱっと腕を離した。二人ともあっという間に引き離されて、洋服の洪水にまた溺れる。解放されたときには二人とも(もちろんディムのホルスターまで)いつも通りの旅装になっていて、灯りも消えてしまっていた。まるで最初から何もなかったかのように……。力尽きたように床に散らばる色とりどりの洋服たちだけが、さっきの出来事が幻でないことを主張していた。

「すごかった、ね」

 半ばぼんやりとしたままの呟きに、呆然と頷く。

「うん、すごかった」

 うっとりと微笑むロアに、ふらりと歩み寄る。無言のまま見つめあったおれたちは、そのままもう一度手を取って……。

 がたん! と物音がして勢いよく振り返る。しまった、襲撃者たちが目を覚ましたのか?

「ちょっと見てくる」

「うん」

 化粧室の扉を開くと、一人、また一人と目を覚まして拘束を解こうともがいていた。おれは無言で一人ずつ殴って大人しくさせ、扉に棒をつっかけて内側から開けられないようにする。しばらく……そうだな、二日くらいはそうしてろ。露骨に不機嫌になったおれを見て「おおこわ」とのたまったディムは、残念そうに呟いた。人間の体であったなら、きっと肩を落としていただろう。

「……ここ、居心地は悪くなかったんだけどなあ。流石に襲われた場所で敵と寝るほどの度胸はねえな」

「うん。ロアにもすぐ出られるよう支度させよう」

 広間に戻ると、ロアはドレスを抱えて右往左往していた。

「何してんだ?」

「衣装ケースに仕舞わないと、って思って……」

 そう言いながらもフリルやレースがふんだんにあしらわれたドレスは持ち運ぶのにも苦労するくらいで、ロア一人では夜が明けるまでやっても終わらないだろう。

「……手伝うよ」

「そういやニック、トギリの知り合いに古物商がいたろ? そいつにここを教えたらうまいこと利用してもらえるかもしれんな」

「そうかもね。手紙でも書こうか」

 そんな相談をしながら片づけをしていると、さっき袖を通した燕尾服を見つけた。

「……今日はありがとう。すごく楽しかった」

 そう言っても、もう服たちは答えてはくれない。衣装ケースに丁寧に仕舞いこんで、ロアを外に出るように促す。月明かりの下のダンスホールは、ディム曰く「満足そう」であったらしく、おれたちも楽しかったしよかったな、と思ったのだった。


 ロアがどんな人生を過ごしてきたのかを、道中で途切れ途切れに聞いた。穏やかで、なんの後ろ暗いところもない暮らし。何気なさが美しいささやかな思い出。おれはよく分からないけど、きっと普通の女の子なら誰しもそういう思い出を持っているのだろう。相槌を打ちながら、おれにはきっと縁がないものだと思って聞いていた。

 ロアは時折思いがけない強さを見せることがあった。例えば、おれが怪我を押して旅を続けようとすると、必ず強い口調で引き留めた。割ときちんと物を言う方なのだと遅まきながら気付く。彼女の元々の気質なのか旅の途中で身に着けたものなのかは分からなかったけど……。おれは流されやすい質なうえに自分の都合の悪いときは速やかに暴力に訴えるので、そういうのはなんだか新鮮で、見習いたくもあった。


「ロア、少し寄りたいところがあるんだけど」

 旅の荷物を買い足したおれは、地図を難しい顔で睨むロアにそう声をかけた。

「別に構わないけど……どのくらいかかる?」

「ここから三時間くらいだ。知り合いがいるんだけど、この辺りを通るなら挨拶していこうかと思って」

「……こんなところに住んでいるの?」

 おれが地図で示したのは、町から遠く離れた谷川の真ん中だ。町から町の間、ロアが示した道の途中。ディムがもしかして、と声をあげる。

「あの爺さんか。そうだな、確かに挨拶していくべきだ。なんせ命の恩人だからな」

「そういうこと。家から遠かったからあまり会えなかったけど、いろいろ報告しなくちゃいけないこともあるし……まあ、ロアは怖がるかもしれないけど、見た目ほど怖くはないから」

 少ししんみりとしたおれたちの会話を聞いて、ロアは「分かった」と頷いてくれた。


「ひゃあ!」

 洞窟に反響する悲鳴に、ぱっと振り返る。足を滑らせたロアが、壁からせり出した岩にしがみついて呼吸を整えていた。何度も転びそうになったせいで、足だけと言わず全身濡れてしまっている。ディムがぽつりと呟く。

「だから待ってた方がいいんじゃないかって言っただろ」

「だって、洞窟のすごい奥にいるっていうし、一人と一丁じゃ怪我して動けなくなった時助けを呼べにいけないから」

「このままだとニックがお前を背負っていく羽目になりそうだがなあ」

 呆れたようなディムの声にロアがうつむく。その恥ずかしげな横顔が不憫で、少し躊躇した後に手を差し出す。

「とりあえず、転ばないように手を繋いでいこう」

 手元の頼りない灯りを頼りに、慎重に伸ばされた手をそっと握る。小さな手は濡れて冷たく、日の入らない洞窟の寒さに震えていた。あまり長居しない方がいいかもしれない。

「少し、急ごうか」

 そう言うと、ロアは小さく頷いた。歩くペースが安定してくると、しゃべる余裕ができたのかロアが灯りを指さして尋ねた。光るキノコを集めてどうにか足元を照らせるくらいの光源を確保している。

「その灯り、初めて見た。ランタンではだめなの?」

「ここのヌシは火が苦手なんだ。訪ねる時はいつもこの灯りを使うように言われてる」

「そうなんだ……」

「前にここに来た時は、おれも慣れなくてよく転んだよ。ヌシに会う時にはすっかり傷だらけだった」

「……オレはその時まだいなかったな。オマエが思い出話をするなんて珍しい」

 ディムの意外そうな声に、そうだったっけとぼんやり返す。そう、経験以外の過去なんて必要なかった。生きるために感傷なんて感じた先から切り捨ててきた……捨てたと、思っていた。意外と近くに落ちていたそれを拾い上げる気になったのは、多分、この旅慣れていない同行者がいるからだろうな、と根拠もなく思った。


「……着いた」

「ほお」

 灯りに照らされる、岩肌に近い色をしたぬめる肌。見上げるような巨体に、つるりとした異質な目。東の洞窟の奥の奥、名を捨ててひっそりと生きることを選択した蝦蟇の化生である。大きな口が言葉を発するために開かれて、ロアは小さく息を飲んだ。

「久しいな、トギリの子。無事成長しているようで何よりだ」

「お久し振りです、ヌシ様」

「そのように改まる必要はない。お前の親がこの地の子供であるように、我もまたこの地より出でた命なれば」

 親、という一言が、胸に引っかかる。流してしまおうとして、やはりできず、つい口を挟んでしまう。

「……トギリは、確かにおれを育てましたが……おれは、捨て子でしたので。子と呼ばれるのは、少し違和感があります」

「お前がそう言うならば、もう言うまい。して、当のトギリは……」

 つるりとした目が洞窟内を見回す。おれは僅かに項垂れて、できる限り簡潔に述べた。

「死にました。人を殺そうとして、返り討ちに」

「……そうか」

 ごう、と風が吹きつけた。頼りない灯りに照らされるヌシの巨大な目は虚空を見ていた。思い出しているのはきっとおれと同じで、妙に口数の多いあの男のことだ。

「命はいつか絶えるもの、とはいえ……数少ない話し相手がもういないというのは、やはり寂しいものだ。お前の前でいうことではないかもしれないが」

 厳かな声の調子が、少しだけ沈んだ。おれは黙って首を横に振る。

「そんなことはなかろうよ。悲しみなんかそれを抱く個体のものだ。誰かと比較するものでもない」

 今まで黙っていたディムが口を開くと、ヌシは興味深そうな息を漏らした。

「ほう、道具の化生か。話は聞いている。随分と若いようだが……お前がこれからの親代わりか」

「ま、そんなところ」

「馬鹿言え、おまえに育てられる気はない。……おれも危ないところでしたが、あなたのくれた油で危機を脱しました。今日は、そのお礼をしなくてはと思って」

「おお、そうだったか。この老いぼれの荷物がそのような役に立つとは」

 お礼の品である酒を口の前にそっと置くと、大きくて長い舌が器用に巻き取り、奥の穴に仕舞いこんだ。声の調子が柔らかくなり、懐かしむような声が響く。

「トギリが好きな酒であったな。この地を遠く離れても、これだけを目当てにやってくることもあった」

「……おれは、ここに行くときはあなたに会いに行くのだと聞いておりました」

 感情の読み取りにくい目に驚きが走り、それからゆっくりと哀愁が浮かぶ。もっと早くここに来て、あの素直じゃない男の本心を教えてやればよかった。胸に後悔が押し寄せて、目を伏せる。

「そうか。それで、ニックよ。お前はこれからどうするのだ。導くもの亡き今、お前はどこを目指すのだ」

「ひとまずは、彼女について旅をしようと考えています」

「ほう……ほう、これはこれは」

 ヌシの興味深そうな視線を受けて、ロアはびくりと体を強張らせた。

「この娘を見つけたのは偶然か? ニック、お前は何を知っている」

「彼女について、ですか。頼まれて、何かを運んでいる、とだけ」

 ごろごろと、笑い声が轟いた。下を向いて黙りこくっているロアの顔は、灯りの外にあって見えない。

「運び屋。そうだ、その娘は、長い長い時間続いてきた運び屋の家系の者だ。この世界の力の流れを整えるため、定められた道を通って力を神に返す。そのための力の入れ物であり、道を辿る脚である。その中の力を求め、様々な者共がやってきたのではないか?」

 驚きのあまり口をきけずにいると、ヌシは「本当に知らなかったのか」と呟いて、いろいろなことを教えてくれた。ヌシが生まれる前から運び屋の活動はあったこと。その力は化生には簡単に嗅ぎ取れるということ。初めて聞く話に慌ててディムに尋ねる。

「そうなのか?」

「まあ、気付いちゃいたがどうでもよかったな。ほら、オレはオレが強くなるより持ち主に上手に使ってほしいから」

 そううそぶくディムに、おまえはそういうやつだよとため息をつく。

「もし、ロアがそいつらに捕まったらどうなりますか」

「力の取り出し方は、恐らく神以外誰も知らぬ。運び屋の娘も知らされておらぬだろう、秘匿は徹底されておる。神秘の孤島、その最奥にて行われる儀式の内容を、安易に力を求める者が知っているとは思うほど、我は敬意を失っているわけではない……だが、正式な取り出し方を知らずとも、こじ開けて手に入れてやろうとする愚か者は必ずいる」

 伸ばされた舌が岩壁を砕く。ロアを庇って伏せたおれは、ヌシの巨体を見上げて息を飲む。かの蝦蟇が積み重ねた時間の重み。その圧倒的な存在感に肌が粟立つ。一気に緊張感を高めるおれたちを見下ろし、ヌシはつまらなさそうに続けた。

「開きにされるか、丸呑みにでもされるか……とにかく無事で済むとは思えんな」

 ひ、と小さく悲鳴を漏らしたロアの手をぎゅうと握る。

「しかし、噂では神のしもべを護衛につけているという話だったが……」

 不思議そうな呟きに、さっと目を逸らす。おれたちが殺した男がきっとそうだ。トギリ、おれたちとんでもないやつの相手を押し付けられてたみたいだ。もう済んだことだけど。

「そいつがトギリを殺したから、オレたちがそいつを殺した。それだけのことだ」

 ディムが淡々と言ったのを、ヌシは静かに聞いていた。そっと吐き出された息は、呆れと感心が混ざったような複雑なものだった。

「仇の仲間と旅をしているのか。全くお前たちの考えは、常に我の考えの外にある」

 そしてヌシは改まった様子でロアに尋ねた。

「娘。名は何という」

「……ロア。ロア・ガーデナーと申します」

「ロア。お前が背負うのは、人の身に余る大役であろう。数多の苦難が待ち受ける。しもべが死んだのは、きっと神さえ分かりえなかったこと。己しか信用できない旅……その苦悩、推し量るには我は少々俗世より離れすぎた」

 荘厳な言葉が、ロアに向けられる。おれたちは息をひそめてじっとそれを聞いていた。

「しかしその偉業、到底一人では成し得まい。寄る辺のない者同士、共に立つには歩み寄りも必要ではないのか?」

「……その通りです」

 穏やかに諭され、ロアは今にも消え入りそうな声で答えた。ヌシは小さく頷くと、長い舌で出口を指し示した。

「お前たちは旅人の身。ならば長く引き留めるは不親切というもの。日が沈む前にここを出るべきだろう」

「ええ。旅が無事に終わった時、また来ます」

 そう約束すると、ヌシはまたごろごろと上機嫌に笑い、石を削って作った小さな入れ物に油を満たしたものを、おれとディム、ロアの分と言って三つも分けてくれた。旅が終わったら、この近くに住むのもありかもしれないな、と思った。


「怒ってる?」

「何が」

「私が何のために旅してるか言わなかったこと」

 ヌシに言われたことを気にしているらしい。夕日に赤く染まったロアの憂い顔は、なんだかひどく疲れていた。

「別に気にしてねえよ。オレたちが元々聞こうとしなかっただけだろう」

「そうだよ。それに、目的が何であれ、最初におれたちが君についていくって決めたんだ」

 慰めるようにそう言っても、ロアの表情は晴れなかった。

「……ヌシ様が言っていたでしょう、私と一緒に来ていた人、神様のしもべって。あの人ね、すっごく不愛想で、私が遅れるとすぐに文句言って、怒らないけどすごく睨んでくるの」

 突然始まった話に口を挟めずにいると、ロアは申し訳なさそうに眉を八の字にして続けた。

「最初はただ怖い人なのかなって思ってたんだけど、段々違うなって思えてきて。きっとこの人、私が物にしか見えてないんだなって。そう思うと、この旅がすごい怖くなった。きっと私が運び屋じゃなければ、この人はあっという間に私を見捨てるんだろうって分かっちゃったから」

 視線は緩やかに下に落ち、声は震えて小さくなった。こらえきれずにこぼれた涙を見ても、おれはもう驚かなかった。おれが想像できないくらいに痛みに敏感な女の子。唇をきつく引き結んで、泣くまいと一生懸命に言葉を選び続けている。

「トギリさんが私の目の前で死んだ時、あの人は放っておけと言ったの。でも、トギリさんは、あなたたちの名前を、呼んで、逃げろって……」

 掠れた声が脳髄に突き刺さるようだった。ああ、彼女はトギリを看取ったのか。おれたちができなかったことを……。言葉を失うおれに代わり、ディムが口を開く。

「他には何か言ってなかったか。あいつはおしゃべりだったからな、死ぬまでしゃべり続けるもんだと思っていた」

「心配する私のこと、変な子だって笑ってた。それから、怖がらせて悪かったって。頼まれたのはあの人を殺すことだけで、私は関係ないって。あの人の言う通り、早く逃げた方がいいとも言ったけど」

「トギリらしいよ。女の子にはやけに親切」

「全くだ。死に際までそれを通したとは恐れ入るぜ」

 おれたちの軽口にロアは口元を緩ませる。涙がまたはらはらとこぼれて、柔らかい頬に筋を作る。

「最後に、もう一度あなたたちの名前を呼んで……そうして、亡くなったの。ずっと言えなくてごめんなさい」

「謝らないで。教えてくれて嬉しかった」

 恐る恐る手を伸ばして、頬を流れる涙を拭う。素手で触った頬はひんやりと冷たかった。よく考えれば、日はもうほとんど沈みかけて気温はどんどん下がってきている。体力的にも時間的にも、腰を落ち着けられる場所を探して野宿の支度をした方がよさそうだ。


 ちょうどいい場所を見つけて食事を済ませると、ロアが疲れて寝入ってしまい、俺とディムは寝ずに番をしていた。星のない夜である。運び屋の使命、なんて。現実味は薄かったが、彼女が狙われているのは本当だ。

「いのちはいつかたえるもの、か」

 黙って焚火を眺めていると、ディムがぼそりと呟いた。どうした急に、と視線を向けると、ディムは神妙な様子で言った。

「いや、オレもある種の命とするならば、一体いつ死ぬんだろうな、と思ってな」

「壊れるまでじゃないのか」

「まあ、そういう死に方もあるだろうよ。だが、じゃあいつまでも壊れなかったとしたら、一体どれだけ生きるんだ?」

「……難しい話だ」

 銃火器が発明されてからそれなりに時間がたっているが、それらが道具の化生になった事例というのはおれはディム以外には知らない。ディムは分からないことだらけだ――恐らく、ディム自身にとっても。考え込むおれにディムは気さくに声をかけた。

「まあつまり、どっちが先に死ぬんだろうなって話さ」

「……なるほど、縁起でもない」

 顔をしかめて吐き捨てると、ディムは抑えた声で笑った。

「オレは道具だから、持ち主であるオマエが死んでも他の持ち主の下で使われるだろうよ」

「おれは人間だから、道具であるお前が先に死んだらすぐに次を探すよ」

 お互い平淡な声でそう言い、にやりと笑って付け足した。

「でも、オレはどこに行っても『オマエほどの使い手はいなかった』って言うんだろうさ」

「おれもだよ。おまえほどおれの手に馴染むやつなんて、きっと死んでからも見つからない」

 ロアを起こしてしまわないよう、声を殺して笑う。笑い声が収まると、ディムが穏やかに問いかけてきた。

「この旅が終わったらどうしたい」

「住む場所と、仕事を探さなきゃ。あんまり寒くならない場所がいい」

「まともな仕事が見つかればいいがな。その後は?」

「その、あと」

 穏やかな問いに、言葉を詰まらせる。

「住む場所を見つけて、仕事に就いて、それからどうしたい?」

 ディムはトギリが死んでから、めっきりおれをからかうことをしなくなった。ディムはディムなりに、おれがどうなるかを心配してくれているのだ。しんみりとした慣れない空気に、目を泳がせる。

「おれ、は……おれは」

 穏やかに暮らしたい。ロアの語った優しい故郷のような、優しい人のたくさんいる場所で。そこではおれは笑っていて、隣には眩しい笑顔の誰かがいる。

 考え込むまでもなく頭に浮かんだ想像に、頭から冷水をぶっかけられたような気分になった。穏やかで優しい生活――そこに、ディムのいる余地はない。今まで生きてきて培ってきた術は通じない。今まで得てきたものが、全て無用の物となる。おれは、なにを、なんてことを考えているんだ!

 体の内からずるりと何かが引きずり出されるようだった。湿って重たく、ひどく冷え込んだ何か。吐き出してしまおうにも、それには実体がなく喉元で吐き気がぐるぐると回るばかりだ。荒い呼吸が嗚咽に変わり、どう頑張っても言葉が出ない。トギリ、おれはあなたの教えを捨てて、ただ安穏と暮らしたいなんて、あなたはもう死んだのに、おれが、おれは!

 かきむしるように顔に爪を立てると、濡れた感触があった。泣いてるのか、おれは。なんて、なんておこがましいやつだ。自己嫌悪に押しつぶされそうになり、押し殺した呻きが漏れた。

「ロア!」

「はい!? 何? 敵襲!」

 ディムが鋭い声で呼ぶと、ロアは素早く跳ね起きた。咄嗟に彼女から隠れるようにうずくまる。呼吸を整えようとすると更に吐き気がこみあげて、体を折り曲げてもがき苦しむ。その様子を見て驚くロアに、ディムが口調を和らげて言った。

「ちがーう。ニックが少し取り乱しちまってな、落ち着かせてやってほしいのよ。なんせオレってば拳銃だから、なだめるのとか無理だし」

「な、なるほど……? ニック、大丈夫?」

 寝起きのロアの体温は、薄い服越しにも分かるほど温かかった。振り払って逃げ出してしまいたいと思うのに、冷えた体はみっともなくその柔らかさに縋りついた。

「ニック、本当に大丈夫?」

「う、げほっ……大丈夫……じゃあ、ない」

 自分でも聞いたこともないくらい弱々しい声が出た。ロアは「そうみたい」と呟くと、腰を下ろしておれの頭を撫でた。

「ごめんなさい。あなただって無理してたのに、全然気づいてあげられなくて」

 おれだって全然気づかなかった。無意識の願望も、いつの間にかどうしようもなく広がっていた胸の穴も。落ち着かせるように撫でられているうちに、荒かった呼吸が徐々に緩やかになっていき、吐き気もいつの間にか消えてしまった。

「……悪かった、ニック。少しばかり気になっただけだったんだ」

「……おまえのせいじゃ、ないよ」

 悔いるようなディムの声に、どうにか強がった笑みを返す。一度落ち着くと今度はひどく眠くなってしまう。野宿だというのに、緊急時のために起きてなくちゃいけないのに……。起き上がろうとすると、細腕に柔らかく押しとどめられる。

「寝てていいよ。朝になったら起こしてあげるから」

 優しい声が働きの鈍くなった頭に甘く響いて、ついとろりと瞼が下りた。久し振りに――この、不思議な旅の中では初めて――夢も見ないような深い眠りにつくことができた。

 

 目が覚めると、目の前にロアの寝顔があった。どきりとして飛び起きる。心臓が落ち着いてから周囲を見回し、寝ている間何もなかったようで警戒を解く。瞼が熱っぽくて痛い。かゆみを感じてこすると、「やめとけよ」と眠そうな声がかけられた。ディムだ。

「おはようさん。いい夢見れたか? なんせ今日の枕は一級品だ」

「夢なんか見なかったよ」

 寝ている間ずっと寄り添っていてくれたロアのことを言っているのだと分かって顔が熱くなり、笑いを含んだ朝の挨拶にぶっきらぼうに答える。日は昇り、生き物が起き出す気配がした。軽く何か食べて出発するのがいいだろう、と言うと、ディムは静かに賛成してくれた。

「そんなことより顔洗って来いよ。ロアが見たら蜂にでも襲われたのかって驚くぞ」

「そんなにひどい? 鏡がないから分かんないんだけど」

 物心ついてからろくに泣いた記憶がなかったので、自分が今どんな顔してるのかよく分からない。川の水で顔を洗うと、瞼の熱もひいていくらかさっぱりした。ディムの元に戻ると、ロアが起き出して食事の支度をしている。携帯食料の封を切り、火であぶって温めただけの簡単なものだが、今日中には町に着くはずだからこのくらいでも問題ないはずだ。

「おはよう、ロア」

「あ、おはよう! えっと……今日は、大丈夫?」

「うん、心配かけてごめん」

 気遣わしげな問いに頷くと「よかった」と微笑まれ、また少し心臓がうるさくなった。首を傾げながらも食事を終えて、穏やかな時間が流れた谷を後にする。


 海辺にポツンと浮かぶ白塗りの小船。二人乗ったらもう満員な、まるで実用的でないように見える代物だ。オールさえ見当たらない。こんなものでは島に着くどころか行きたい方向に進むのだって難しいだろう。やたらと清潔なのがかえって不気味だ。

「これに乗って島に渡るのか? こんなちっぽけな船で? この霧の中を?」

「これで合ってるよ」

 ロアは確信したように頷く。早速乗り込もうとするロアを制止し、辺りを見回して恐る恐る進言する。

「視界も悪いし、霧が晴れてからの方が……」

「ううん、待ってても晴れないよ。器の島を人目にさらさないためにあるものだから、役目を終えて島が隠れるまでこのまま」

 ロアが何を言っているのかよく分からなかったが、とりあえず行かないという選択肢は頭になさそうだ。躊躇うおれたちにロアは平然と言った。

「二人はここで待つ? これ、漕がなくてもいいみたいだから私一人でも行けるけど」

「駄目だよ!」

「とんでもない! こんな訳分らん船に一人で乗せられるものかよ」

 慌ててロアより先に船に乗り込み、手を貸す。座った後も手を離さないでいると、ロアは不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの?」

「いや……」

 ロアの言う通り、小船は滑らかに穏やかな水面を走り出した。ごくりと唾を飲み込み、言葉を何とか吐き出す。

「その、船から落ちた時離れないようにって」

「そんなこと起きるかな……でも、ありがとう」

 ロアの手はしっとりと汗ばんで、小さく震えていた。ぴたりと身を寄せ合い、声も出さずに到着を待つ。霧で視界が悪いことに、ひどく神経をすり減らされる。それでも本当に何事もなく、唐突に視界が開けた。遠くに島が見える。

「もしかして、ここ?」

「……うん」

「なんてこった、ただの島じゃないか」

 拍子抜けしたように言うディムに、ロアは笑って尋ねる。

「どういう場所だと思ってたの?」

「どうって……こう、神殿みたいなのがあるものかと」

 砂浜と、うっそうと茂る木々。ここからではそのくらいしか見えないが、その奥には何かがあるのだろう。

「そろそろ着くみたいだ」

 ぴりぴりと警戒する声が出た。島には生き物の気配もしないのに、ひどく嫌な予感がする。悪意? 違う。害意? 違う。全く何も感じないのに、実体のない危険が本能に警鐘を鳴らさせている。この島は――一体、何だ?

「オレたちが先に降りる。オマエさんは後からついてきな」

 おれの警戒を読み取ったのか、ディムがロアにそう言った。ゆるやかに船が制止し、ぴくりとも動かなくなる。どこまでも不気味な島と交通手段だ。

 立ち上がろうとすると、繋いでいた手に軽い抵抗を感じた。見下ろすと、不安げに揺れるロアの瞳。全身の毛がぞわぞわと逆立つのを隠して、ふっと力を抜けた笑みを浮かべてみせる。

「大丈夫だよ」

 きっとこの島に何があろうと、君だけはきっと大丈夫だ。運び屋の家系、役割を持つ君ならば、この島に受け入れてもらえるだろう。むしろ危険なのはオレたちの方だ。

 するりと手が離れて、それがほんの少し惜しかった。砂を踏み、息を吸い、ようやく足を踏み込んで――ばちん、と危機感が弾けた。

 本能が絶叫するままディムを抜き、その意識、銃口を向けるのは――空!

 引き金に指を掛けたと同時に衝撃が体を貫いた。走馬燈さえ見られない一瞬の、しかし圧倒的な暴力に、何かを思う暇さえなく意識が暗転した。


 誰かに呼ばれていることに最初に気付いた。全身がひどく痛い。手足は動かず、目もまともに開けられない。唯一まともに動く喉が、低い唸り声を漏らす。

「落ち着いて、お願いだから……」

 狼狽えた声が遠くに聞こえて、口を閉じる。考えるよりも前に、その名前を呼ぶ。ロア、大丈夫なのか。何が起きたんだ。疑問は掠れ声になって、自分の声なのにまるで別人みたいだった。

「私は大丈夫。それより、起きられる? 大変なの……私じゃなくて、あなたが」

 青ざめたロアに頷いて、体を起こそうとする。ぼやけた視界の先で手が空を掻いた。痛み以外に何か違和感があるのに、それの正体がつかめない。支えてもらいながらようやく起き上がり、軽く咳き込んだ。どうやら気を失った場所からそれほど離れていないようで、乗ってきた小船が見えた。

「……ロア、本当に大丈夫なのか?」

「あなたの方が大丈夫じゃないんだってば……! とにかく見て」

 引っ張られるようにして、小さな泉を覗き込む。じっと見つめていると、水面によく知った顔が映っている――しかし、その意味を理解した時、声にならない悲鳴が漏れた。そんな馬鹿な、こんなことは有り得ない……だって、だってこれは、

「トギリの、顔だ」

 顔だけではなかった。愕然としたその声だって、記憶の中のトギリのものに近くなっている。ぺたぺたと顔を触っていると、体にほとんど温度がないことに気付く。感じるのは、ひやりとした鉄のような温度――。

「ロア……一体、何が……」

 縋るようにロアに尋ねれば、彼女は蒼白な顔のまま、ゆっくりと話し出してくれた。


 天罰だ、と、ロアの前に現れたそいつは言ったそうだ。神のしもべを殺したおれたちは、弁解の余地もなく雷で撃ち抜かれてあっさり死んでしまったらしい。じゃあ今話している俺はなんなんだと聞けば、これがまたややこしい。聞けば、ロアは神(ではないらしい、近しい存在ではあると言っていたが違いなんか分からん)に対して、大胆にも交渉を持ちかけた。

 ニックとディムを生き返らせてほしい。生き返らせなければここで死に、今代の運び屋の役割を放棄する、と。

 それを神は飲み込んで、ただしそのまま生き返らせることはできないと言った。焼け焦げて潰れた体、パーツの弾けた鉄塊、魂まで燃え滓になってしまっては生命として足りないものが多すぎる。それならば、と考えだされたのが今の状態……人と化生の混じり合った、不自然なもののできあがりと。

 いやそれ交渉じゃなくて脅迫では? とは、言えなかった。話す間終始ロアは消沈していて口を挟める雰囲気ではなく、俺も体の違和感に何か言うどころではなかった。で、その体の違和感というのも、一人と一丁を強引につなぎ合わせた結果だそうだ。繋ぎ合わされた側の感想として言えば、よくもこんなデタラメが通るもんだよ、としか言いようがない。

「トギリの顔をしてんのはどういうわけだ?」

「あなたたちの荷物から、顔が分かるものを探せって言われてこれを渡したの。勝手に開けてしまってごめんなさい」

 差し出されたのは、鞄の奥底に縫い付けてあった一枚のポートレートだ。平和……とまではいかなかったが、愉快ではあった生活を思い出して胸が軋む。どうしてこうなってしまったのかな、と途方に暮れた。

「私もパニックになってて、ちゃんと説明できなかったの。本当にごめんなさい」

「……いや、いいよ。むしろこれでよかったんだ。おれたちがオレたちのまま生きて、トギリ一人を忘れていってしまうよりずっといい」

 泣き出してしまいそうなロアの髪をそっと撫でた。おれ――ニックだった頃は彼女と同じ目線で物を言っていたのに、今は見下ろしている。不思議な感覚だった。泣かないでくれよ、君が悲しむ必要なんかないんだ。

 ロアはしばらくぐすぐすと鼻を鳴らしていたが、はっと顔を上げると俺の手を握りしめて言った。

「ごめんなさい、私まだ運び屋のお役目を終えてないの。あなたが目を覚ますまで、お役目を引き延ばしてくれるよう頼んだのだけど……もう、行かなくちゃ」

「ああ、俺のために悪かったよ。どうか気をつけて」

 頷いたロアが、怪訝な顔をする。きゅうと握りこんだ手が離れないのだ……俺が離さないものだから。不思議そうに見つめられて目を逸らしてしまう。

「お役目って、どのくらいかかるんだ」

「……分からない。一日二日で終わるものじゃないみたいだから、しばらく待ってもらわなくちゃいけないけど……待てる?」

「当たり前だろう、大丈夫だ」

 そういって小さくなった手――実際は俺が大きくなっただけだが――を握りしめて、ゆっくりと手放した。「行ってきます」と、ほんのわずかに強張った笑みを向けられて頷く。森の中に隠されてしまうまで、いつまでもその背中を目で追っていた。


「仕方ねえことだ、これさえ済ませればあとは帰るだけ。なのに引き留めてどうする」

「だけど心配だ」

「もちろん分かるとも。だが心配してどうなる? オレたち……いいや、俺は、この体での戦い方もロクに分かってない」

「それはそうだけど」

「物分かりがよくて助かるよ、俺。それに考えてみろ、ロアはカミサマにしてみれば欠けたら困る歯車だ、この島の中での心配はほとんど杞憂と言っていい。ならば俺がすべきことはなんだ?」

「……この体の、俺の動かし方を知る。彼女を無事に家へ帰すために」

「そういうことだ」

 全部、独り言である。おれとオレだったときの名残だ。どうも奇妙な感じだが、口からトギリの声がするのには少しずつ慣れてきてしまった。


 一人の人間と銃の化生の混ぜ物である俺の体は、混じり合う前よりも一層訳の分からないことになっていた。ニックだった頃と腕や脚の長さが違う。ディムだった時より視界が狭い、などなど、暇だったので砂浜に延々と書き連ねていると足に水がつかるまで書き続けることになった。ニックとディムだった頃のお互いの感覚の違いが分かって面白かったが、所詮はロアが戻るまでの現実逃避である、すぐに飽きてしまった。

 特に困ったのは武器の有無だ。使い慣れていた――あるいは使われ慣れていた――状態で戦うことはできると頭では理解できるし、気合でディムによく似せた銃を作ってみることもできた。そうは言っても体の一部を変形させただけのようなもので、同じなのは見かけだけだ。

「この顔で銃がこれってのも少し違和感があるな」

「それはそうさ、トギリはディムをニックに任せたんだからな。『口が悪い銃だなんて俺の手に余るぜ』とか言って。……試してみるか」

 そう言って、落ち葉でも撃ち落としてやろうと森に向かって銃口を向けると、一瞬で霧に包まれる。足元さえ見えない深い霧。引き金から指を離して、小さく毒づく。

「火器厳禁、って?」

「大層注意深いことで」

 銃を下げると霧が晴れ、また静寂が広がる。試し撃ちは島を出てからになりそうで、舌打ちをして砂を蹴る。我ながら態度の悪いことだ、誰に似たんだか、と思って一人で笑った。


 この体になってから、食事も眠りも必要がなくなった。どうやら見た目は人間の体をしていても、中身はディムに――銃の化生に近いものであるらしい。それでも習慣的に、日が沈んだら体を休めて目を閉じることにしていた。長い、長い夜を一人で過ごした。

「こんなに寂しいのは初めてだ……いや、久し振り? ……どっちでも、いいな」

 独り言に答える声もない。空を見上げても星が輝くばかりで、ひどく空しかった。

「慣れるしかねえ、これからはずっとこうだ」

 そう自身を叱咤すると、気付きたくなかったことにとうとう気付いてしまった。ロアを待ち、彼女を送り届けてそれから――俺は、どうしたらいい? 人の身から外れ、化生にも至れない俺は、どこでなにをすればいい。

「この島から出ない限りそんな問いに意味はない!」

 そう強がって叫んで、朝が来るまで頑なに目を閉じ続けた。そうしてまた日が沈んでも、ロアは戻らなかった。最悪の想像が頭をよぎる――ロアは、俺を置いて帰ってしまったのではないか。そんなはずはないと叫ぶ一方で、そうなって当然だと諦めもして……ただ、彼女に会いたかった。彼女を守ることしか、俺にはもう残っていなかったのだ。

 日が昇ってから沈むまでがまるで永遠のような長さだった。沈んでから昇るまでは尚更長かった。どれだけの時間過ごしたのか考えるのも嫌で、倒れるまで体を動かし続けた。体力の限界はあるのか、と空を見上げてぼんやりと思う。無意識のうちに名前を呼んでいた。

「ロア……」

「呼んだ?」

 ひょい、と覗き込まれて目を瞬く。とうとう幻覚と幻聴が同時に来たのかと思って目をこすり、それでも消えないので手を差し出してみる。不思議そうに手を握られてようやく、幻覚でも幻聴でもないと気付く。

「……ロア!」

 歓喜の叫びが勝手に迸る。握られた手をぐいと引くと、勢い余って二人で砂浜に転がった。

「ど、どうしたの急に!」

「……もう、戻ってこないかと思った。長かった……」

「え、そんなに待たせてた? ごめん……」

 しゅんとするロアに「戻ってきたからいい」と言いながら起こしてやる。視線が戸惑うように泳いで、俺の顔をじっと見つめた。

「えっと……ニック? それともディム?」

「ニックでもディムでもない」

「じゃあ、なんて呼べばいい?」

 当然の疑問に口ごもる。呼ばれるべき名前。ニックでもディムでもない、まだ誰でもない俺。俺自身で考えることも、きっとできないわけではなかった。でも……。

「……そういえば、ロア、出発する前にできることならなんでもするって言ったよな」

「え? あ……言った、けども」

 頷くロアの肩に若干力が入っている。「私にできることなら……」と付け足す声がひどく小さい。

「ロアに名前を付けてほしいんだ」

「……あなたの?」

「そう。俺の」

 目を丸くするロアに笑いかけ、握ったままだった手をそっと離す。

「ニックもディムも、トギリから貰った名前だ。もう、どちらで呼んでも正しくないから」

 ニックもディムもあっけなく死んでしまった。ここにあるのは亡骸を繋いで命を吹き込まれた混ぜ物だ。でも、だからこそ、名前が欲しかった。俺だけの名前。

「名前は人からもらうものだ。ロア、どうか考えてみてくれないか」

 ロアはしばらく迷っているようだったが、俺が冗談で言っているわけではないとみてか「考えてみる」と頷いてくれた。

「……マーブル。マーブルはどうかな」

「いいな。それにしよう」

「いいの? そんなすぐに決めちゃって」

「君が一生懸命考えてくれたのに、俺が悩む必要なんかないだろ」

 きょとんとしながらそう答えると、ロアははにかんで「気に入ってくれてよかった」と呟いた。


 小船に乗って島を後にする。しばらく進むとすぐに霧に包まれ、距離感も時間の感覚も曖昧になっていく。

「お役目って具体的には何をしてたんだ?」

「私自身は特に何も。寝台みたいなところに寝かされて、それからはずっと眠っていたから」

 秘匿は徹底されている、ね。全くお疲れ様なことだ! 苦虫を嚙み潰したような表情になってしまうのを隠して、できるだけ明るい声で尋ねる。

「後は帰るだけか?」

「うん。私の中にもう力はないから、決まった道を通る必要もないよ」

 少し肩の力が抜けた様子のロアは、ぐうっと伸びをして「風が気持ちいいね」とのんきに微笑んだ。その様子は達成感に満ちていて、自然と顔がほころんだ。

「お疲れさま。ロアはよくやったよ」

 そんな言葉がつい口をついて出る。ロアはきょとんと目を丸くして、それから花が咲くように笑った。

「ありがとう。あなたたち……あなたが助けてくれなかったら、きっとここまで来られなかった」

 まっすぐな感謝がくすぐったくて、でもとても嬉しかった。よせやい、と頬を掻いて、顔を舳先へと向ける。深い霧から抜け出すまで、俺とロアは無邪気に目的の達成を喜んでいたのだった。


 船から降りて、歩く。地図をいくつか広げて話し合ったところ、ロアの故郷の村まではまっすぐ帰ったとしても相当の距離があるようだ。ロアは申し訳なさそうにしていたが、このご時世女一人旅なんぞロクな目に遭わないことが考えるまでもなく分かるので、結局このまま一緒に旅をすることにしたのだ。

「まあ、行きよりは帰りの方が楽だろ。のんびり行こう」

「そうだね」

 ロアが嬉しそうなものだから、俺もすっかり油断していたのだ。言い訳が許されるのであれば、霧の中にずっといたせいで勘が鈍っていたのだとでも言おう。

 不意を突かれた事実は、変えようがないものだけれど。

 がつん、と右目に衝撃が走った。続いて肩、腿に風穴があく。残った片目で見えたのは、この旅の最初の頃の大立ち回りで逃がしてしまった男だった。錯乱したように叫びながらめちゃくちゃに銃をぶっ放すそいつに、遅すぎる警鐘が鳴った。

「お前、一体何なんだよ!? トギリは死んだはずだ、ガキはどうしたんだ!」

「マーブル!」

 喚く男から俺を庇うように覆いかぶさるロア。男の銃口がロアに向けられているのが見えて慌てて彼女を引き寄せる。傷口からどろどろとこぼれ落ちるのは、赤黒く重たい煙。我ながら愉快な体をしている、と唇をゆがめる。

「今更何の用だ!」

「その女を、渡せ!」

 やっぱりか! こいつの近くに化生がいればロアに力がないことは分かるだろうに、闇雲に追いかけてきやがった。ロアを船の中にもう一度押し込めて、男の前に立ちふさがる。目玉をぶち抜かれてもまだ動く俺を見て、男は狂乱を加速させる。ぐぐ、と足に力を入れる。不思議と痛みはない、とにかくロアを危険にさらすな! 飛び上がった体は軽く、ひと蹴りでやすやすと男を吹き飛ばす。入念に動かした甲斐あって、思い通りに動く体は驚くほどに強靭だ。数発ぶん殴っただけで、男はすっかり大人しくなっていた。

「俺はトギリじゃないんだが、まあ幽霊みたいなものに変わりはねえな。俺もよく分からないんだ」

 そんな風に声をかけても、男は返事を寄越さなかった。今更こんな奴には何の感情もわかない。ただ必要なのは旅の脅威の排除であって、だからこいつは殺さなければ。逃がせばまた襲ってこないとも限らない。

 ぬるりと指先が銃口に変わる。発砲。外した。照準が合わない。引き金ができた。もう一発。当った、でも腕だ、致命傷じゃない。銃把を握る、引き金を引く、頬を掠めて血が迸る――畜生! 全然当らない!

「やめてくれ……許して……」

 懇願する声に目を瞬く。哀れっぽくて弱々しいその声に、ひどく……ひどく、しらけてしまう。苛立ちに熱された頭が冷えて、きちんと狙いを定めてやる。

「お前がどれだけの子供を許してこなかったかを考えな」

 とはいえ、相手をいたぶるような趣味はない。もう苦しまないようにしてやるからと緩やかに呼吸を繰り返し、狙いを定める。今度は過たず眉間に穴が開いて、男は全く動かなくなった。ふうと大きくため息をつき、震えるロアに目を向けた。

「大丈夫か? 怪我は?」

「私は平気だけど……痛くないの、それ」

「穴が開いてることは分かる」

 そう答える間にも煙は収まっていた。あれが今の俺の中身、と。血が出ないから服が汚れないのはいいな、と場違いなことを考えていると、ロアが俺に屈むように手ぶりで示した。

「傷口とか汚れないようにした方がいいかも」

 ロアはそう言うと、傷を清潔な布で縛ってくれた。柔らかな布の感触が気になってつい掻きそうになったが、途中で手を引っ込める。

「全然痛くないよ」

 そうなの? と首を傾げるロアはやっぱり痛そうな顔をしていて、そういう顔をさせてしまうのはやっぱり不本意だ、と改めて思った。


「寄っていかなくていいの?」と聞かれるのをどうにか誤魔化してヌシの洞窟を通り過ぎ、近くの町に宿を取った。ロアが寝入ったのを確認して、音もなく闇夜へと抜けだす。視界は夜なのに良好で、空を駆ける蝙蝠の目玉まで見えるくらい。便利で使い勝手のいい、どこまでも不気味な体だ。

 ロアに気付かれずにヌシに会う必要があった。急いで洞窟へと向かい、キノコ一つをとって灯りを作る。人の目の場合到底これでは足りないが、今はこれで十分だった。

「ヌシ様! 夜分にすまないが、起きているか」

「……たった今起こされたところだ、友よ」

 寝ぼけた声が聞こえて、一瞬意味が分からず口ごもる。ぎょろりとした目玉が暗闇に浮かび、見下ろされる。

「友? いや、トギリは死んだのだったな。ならば、今は夢でも見てるのか」

「俺も夢であってほしかったぐらいだ。残酷なまでに現実だよ」

 しばらく大きな目玉と見つめあう。独特な形をした瞳孔が動いて、驚きがゆったりと広がっていった。

「ニックと、ディムか。人と化生……それも道具の化生が混じった生き物とは。長く生きた身でも分からぬことは多かれど、お前はその中でも飛びぬけている。しかし……何があったのだ」

「それは今度にしてほしいんだ。朝までに戻らなくちゃいけないんだが、どうしてもあんたに聞きたいことがあって……いや、失礼、ヌシ様に」

「どのような呼び方でも構わん。少なくとも見かけよりは混乱しているようだ。ゆっくり、慌てずに話せ」

 穏やかにそう言われ、深呼吸を一つする。「単刀直入に聞くぞ」と前置きして、性急に尋ねた。

「人でも化生でもない俺は、一体どうやってこれからを生きればいい?」

「それはお前が決めることだ。お前以外の誰かに委ねていいものではない」

 思いがけず力強い声だった。はっと息を飲む俺に、ヌシは厳しい声で続ける。

「我がここを棲みかと選んだのも、人の世から離れると決めたのも、すべて己の考えよ。我が言ったからそうする、では、その生に意味を見出すことはできぬ」

 生に意味を見出す。難しい話だ、一人と一丁の時だって上手にできていたとは思えない。困った顔をする俺を見て、ヌシは僅かに口調を和らげた。

「生まれたばかりのお前の目で、耳で、肌で、探すのだ。自らの居場所を、役目を、全てだ」

「生まれたばかり? 生きてるかどうかも怪しいのに?」

「生きている。今までと少し形が違うだけだ」

 自嘲気味に疑問を呈する俺にヌシは噛んで含めるように言い聞かせる。

「ただ……恐らくその体は老いぬ。食事もせず睡眠もとらず、同じ姿で生き続けるお前は――力を持つ化生よりも受け入れがたく、遠ざけられる存在であるかもしれん」

「ああ……ああ。そうだろうよ」

 分かっていたことだ、最初から。だけど一緒にいたあの子は何ら変わらず接してくれていて、だから勘違いしてしまいそうになったのだ。

「話に付き合ってくれてありがとう。もう少し自分で考えてみるよ……選択肢は、それほど多くないだろうけど」

「だが、トギリは言っていただろう。『限られた』……」

「『限られた選択肢の中で、最も望みに近いものを』、か。うん……まあ、やってやるさ」

 大きな目とひやりとした皮膚に背を向ける。目玉が岩穴の奥へと消えて、低く優しい声だけが届いた。

「また、いつでも来るといい。静寂と暗闇が必要な時もあるだろう」

「それと適度な水気もな。……では、また」

 小さなキノコを手に、洞窟を後にする。夜が明ける気配はまだ遠かったが、今はただロアの顔が見たくて先を急いだ。


 右目を撃たれたことを除けば、帰りの旅は行きの難儀が夢だったかのように順調だった。ロアの中から力の気配がなくなったのが一番の原因だろうが、ニックは年より幼く見える顔立ちをしていたので悪い大人に狙われやすかったのだろうと思った。まあ確かに、子供と女の二人連れだったら悪党の格好の餌食だ。厄介な旅だったな、とつい最近のことなのに懐かしく思われた。

 燕の化生のなりかけを見つけ、携帯食料のかけらと交換に明日明後日の天気を尋ねると、不思議そうに小首を傾げた。まだ口を利くことはできないようだが、俺が天気を気にする必要がない存在なことくらいは分かるらしい。

「旅の連れが人間なんだ。できる限り快適な旅にしてやりたい」

 そう囁くと燕は天気を教えてくれた上に、小さな花をおまけしてくれた。何かが彼の琴線に触れたのだろう、俺なんかよりよっぽど粋だ。多分こうしろってことだろう、と起きて身支度をしてきたロアの長く伸びてきた髪に挿してやると、少し驚いた顔をした後にくすぐったそうに微笑む。癖のある赤毛に添えられた白が可愛らしい。花も恥じらう乙女。素敵じゃないか! 俺には全くもったいない甘やかさだ! 思考に棘が含まれてきたところでロアから目を逸らす。

「今日明日は晴れだとよ、明後日以降は少し崩れそうだが……どうする?」

「そうだなあ……あのね、さっき町の人から聞いたんだけど、明後日に昔話の劇を子供たちがやるんだって。私たちも飛び入りで観ていってもいいみたい。面白そうでしょ?」

 役目を果たした彼女は緊張が抜けて明るくやわらかな雰囲気をまとっていた。行く先々の町であっという間に人々に受け入れられている。ああいうのが人徳だよなあ、ニックにもディムにもトギリにも、そしてもちろん俺にもないものだ。いろんな話を聞かせてくれるのは助かるんだが。

「しかしよ、ロア。お前さんいつから旅してるんだ? 『おれたち』と旅するようになってからもだいぶ日が経ってる。家はまだまだ遠いぞ、早く帰らないと親が心配する」

 窘めるようにそう言うと、ロアはしゅんと俯いた。

「マーブルは、この後どうするか決めてるの?」

「……いいや? なんだ、心配しなくてもちゃんと送り届けてやるって」

「心配してるわけじゃないけど」

 ロアは苦笑すると、名残惜しそうに町の広場を振り返る。

「じゃあ、明日には出発する?」

「それがいいだろ。必要なものはこれで買っておけ」

 財布を渡すとロアはなぜかきょとんとする。

「マーブルはいかないの? 買い物」

「俺? 俺は部屋で少し休むよ。戻ったら声かけてくれ」

 そう言うとロアは頷いて、ぱっと駆け出していく。まあ、気が抜けているとはいえ彼女もそれなりに長く旅しているわけで、そうそう危険に巻き込まれることもないだろう。部屋に戻ってベットに寝そべり、目を閉じる。

 ずっと考えているのだ。この後どうするべきか。ロアとの旅路はもう折り返し地点を過ぎて、そろそろ選択を迫られる頃合い。あの子を送り届けたらどうしようかという問いは、必ずしも重く捉える必要はないのかもしれないな、と思い始めたところだ。流石に元の拠点に戻る気は起きないが……。食事も睡眠も必要ないとくれば、別に焦って仕事を探す必要もない。東の洞窟ではないが、落ち着けるところを探してそこで大人しくしてるのもいいかも……いや、でもすぐ退屈してしまいそうだ。やることがないってのも厄介だ。結局いつまで考えても具体的なことは思い浮かばず、食事を済ませて戻ってきたロアを休ませてその日は終わった。


 故郷の村が近くなってきたからか、ロアの顔見知りらしき人物とすれ違うことが時々あった。私塾の元同級生だと紹介された男からの視線が痛い。もう、見知った場所ならば、ここで別れてしまってもいいんじゃないか。そう思って足を止めるたび、ロアは目ざとく気付いて顔を覗き込んでくる。

「何か元気ない?」

「そんなことないさ。行こう」

 誤魔化すように笑って背中を押す。夜には家に着くだろうとのことで、別れの近さに愕然とした。他愛のない話でもして引き延ばそうと思ったが、何を話したらいいのか分からず口数は逆に減っていった。


「……ほら、見えた。あそこが私の家」

「ああ」

 安堵のような、深い息が漏れた。静かな夜、小さな家屋。世界の力の巡りを整える家系の住む村はあくまで質素な、でも穏やかそうな場所だった。彼女の話した思い出がそのまま形になったようだ。放心したように眺めていると、ロアが黙ったままこちらを見つめていることに気付く。

「どうした?」

「あのね、ずっと考えてたんだけど……」

 意を決したような表情をするロアから、どうしてか目がそらせない。

「マーブル、行くところがないんでしょ? だったら、私のうちに来ない?」

「は」

 不意打ち気味な言葉に声にもならない息が漏れた。答えられない俺を見て、ロアは慌てたようにまくしたてる。

「案内人がいなくなって……あなたを責めるわけじゃないけど……私たちのお役目は一層困難になると思う。あなたに手伝ってほしいの。私を助けてくれたみたいに」

 意外な展開に目を瞬く。ロアは唇を引き結んで俯き、弱々しい声で続けた。

「勝手なこと言ってるのは分かってる。けど、神様は新しい案内人の手配には時間がかかるって言ってて……私の子供の代にもし間に合わなかったらって思うと……」

 震える手を見て、ようやく頭が動き出す。最初に浮かんだのはロアに対する感嘆。健気なことだ、自分が今危険な旅から帰ってきたばかりだというのに。次に浮かぶのは怒りだ。手配に時間がかかる? 神様ってやつはどこまでも理不尽だ。この人はもう自分の子供を差し出すことに何の疑問も感じていないのに!

 俺の怒りに気付かず、ロアは真摯に語りかけてくる。

「一緒に来て。事情を話せばきっと受け入れてくれるはず」

 懇願するような視線を受けてふっと脳裏に浮かぶのは、ニックが願ったこともあったあの優しい生活だ。俺の隣にはロアがいて、ささやかな出来事に一喜一憂するような……それこそ、夢のような日々だ。俺は知っている。世の中の人間が、彼女のように甘く優しくないことを。息を吸って、吐いて、答えを出した。

「それは無理だ」

 緊張していた表情が、泣き出してしまいそうに崩れた。どうして、と聞く声が震えていて、それなのに不思議と決心は揺るがなかった。

「お前の村に人殺しのバケモノを住まわせる気か? お前やその家族が許しても、周りがきっと許さない」

「そんな……!」

「まあ聞けよ。化生と人が共存する町なんかいくらでもあるって言いたいんだろ? 旅の途中で見たものな。だが、そいつらは人に手を出すことはしないだろ。俺はどうだ? 殺した人間の数が両手でも足りないくらいなんだ」

「でも、それは襲われたから」

「今回の旅はそうだったさ。だがな、ロア、お前に会う前の『おれたち』がどんなだったか、お前は知っているのか? なんの罪もない人間を殺したことがないなんて一度でも言ったのかよ」

 語気を強めると、ロアは蒼白な顔で押し黙ってしまう。

「ニックとディムだったら、人殺しさえ隠せば……まあ、できないわけではなかったろうさ。だが今の俺は……ほら、これ見てくれよ」

 そう言って、右目を覆っていた布を取り払う。傷跡さえ残らずきれいに元通りになった眼でロアの驚いた顔を見つめると、ひどく申し訳ない気持ちになってきた。

「実はもうとっくに治ってたんだが、気味悪がられたら嫌だったものだからそのままにしてたんだ。こんな体を気味悪がらないやつはいない。無理なんだ、お前といっしょに行くのは」

 解いた布を細い手首に結んでやる。洗って返すことができないのが申し訳なかった。もう会うべきじゃないと、そう思っていたからだ。無理矢理に微笑んで、大仰に腕を広げる。いつだって俺を導いてくれた男の顔と体なんだ、本心を隠すなんて簡単にできる。

「何、そんなに悲しい顔しなくていい。普段はお前たちの前には出てこないようにするが――お前の子供がお役目をする時は、必ず力を貸そう。人ならざる者とその手先を散らす必要があるだろう」

 本来その役目をする奴を『おれたち』が殺してしまったので、その責任を取ろうというわけだ――いつかなど見当もつかない、この命が尽きるまで。

 それでもロアの表情は硬く強張っている。

「これでお前の心配事はなくなった。十分だろう、まだ気になることでもあるのか」

「なくなって、ないよ。あなたはどうするの。どこに住んで、どうやって生活するの? だって、私、あなたのことだって心配なのに」

 必死な言葉に一瞬目を丸くする。

「妙なことを言う。早々死なない体だぞ? どんな風にだって生きられる。具体的には何も決まっちゃいないが……お前が心配する必要はない」

 そうやって一つずつ懸念を潰していく。それなのにまだ悲しそうにしている理由が分からなくて、とうとう黙り込んでしまう。沈黙を破ったのは、ロアの掠れた声だった。

「……私のことは、もう助けてくれないの」

 震える唇から漏れる言葉も、潤んだ瞳から注がれる視線も、ないはずの心臓を射抜くようだ。夜闇に紛れて、唇を噛みしめる。

「……その方がお前のためだ。ニックとディムだった時から、お前の生活に俺が必要になることなんてなかった。これからも絶対にそうだ」

 自分で言っておきながら、それは胸を切り裂くような現実だった。力強く断定しながら、彼女の家へと足を向けさせる。加減を誤ったのか、ロアの表情が痛ましく歪んだ。悲痛な声が闇夜に響く。

「ねえ、待って! まだ話は終わってない!」

「俺が言うことはもうないし、お前が何を言ってもこの結論が変わることは無いよ」

 雲の隙間から漏れた月明かりが、ロアを照らし出した。とん、と肩を押して、離れていく背中に「振り返るな!」と厳しい声を叩きつけた。

「振り返れば撃つ。そのまま何か言っても撃つ。黙って、お前の家に帰るんだ」

 びくりと震えた背中は、実に素直に言いつけを守って振り向かず、温かな灯りの漏れる家へと走っていく。泣かせてしまっただろうか、と考えて、ふんと鼻を鳴らす。彼女の涙を拭う手段を、自ら永遠に手放したのだ。これで自分を嗤うなと言う方が無理な話だ。

「どうか元気で。お前の子供の元気な姿を見ることを楽しみにしているよ」

 ニックだった時のように、ぎこちないながらも満足げな笑みを浮かべて。ディムだった時のように、少し芝居がかった、含みのある調子で。親のように慕っていた男の顔と声で。俺は彼女の旅の果てに、優しい思い出を塗りつぶすように、唐突に別れを突き付けたのだ。

 彼女の子供と、その子供、そうしてまたその子供――と、俺が旅をしていくのは、また別の話。これは、俺の旅の最初の最初にして……一人と一丁の、最期の記憶である。

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