第7話獣道の行く先
「何だって?」
「ハンター実地体験学習企画、だ」
驚きに裏返った声で聞き返したグレーは、一字一句変わらぬ文言を淡々と返されて絶句した。村長の息子であるリオは首を傾げ、詳細が書かれた紙をひらりと振ってみせる。
「詳しい説明が必要か? 組合本部で募集したハンター志望者を村で受け入れたからお前に世話してほしいってことなんだが」
「いや、それは分かる! 説明は結構! 俺が分からねえのは何故その話がもっと前に俺に伝わってこなかったかってことだ!」
慌てた声にリオは訝しげに眉根を寄せ、紙をグレーに手渡した。
「トーヤに話したら伝えておくと言っていたんだが」
「あいつに伝達係を任せるな! それで? いつから始めるって?」
「見習い生を乗せたキャラバンが三日後に到着するそうだ」
みっか、と掠れた声で呟き愕然とするグレーにリオは困ったように眉を下げた。
「お前と同じ資格を持ったハンターがこの辺りには多くないからどうしても、と言われたんだが……返事も急かされていて、お前自身に尋ねる時間がなかった。すまない……迷惑、だったか」
表情筋の硬いリオがしゅんとしているのを見て、グレーは気まずそうに頭を掻いた。
「迷惑、とまでは言わねえが……まあ、もう断ることも出来ねえだろうし……」
「そうか。異論はないな? では見習い生の受け入れについて説明するぞ」
切り替えの早さに目を丸くするグレーを放って、リオは説明を続ける。
「見習い生はサナの家に逗留する手はずになっている。期間はちょうど一年だ」
「一年? 結構あるんだな」
「あまり短いと技術の習熟ができないから、だそうだ」
「そういうものか。サナの家に許可は?」
「とっくに取ってある」
「ならいいよ。あと、今度からそういう話は俺に直接持ってきてくれよな」
「次からはそうしよう」
悪びれる様子のないリオに釈然としないものを感じながらも、グレーは初めての弟子に思いをはせるのだった。
「ハンター見習いってのは、もしかして君か?」
緊張気味に頷いた少女を前にして、グレーは一瞬途方に暮れたような顔をした。肩のあたりで切りそろえた黒髪に、痩せてほっそりとした手足。まだ十四、五ほどかと思われる幼い顔立ちに、グレーは言葉に詰まって立ち尽くしたが、少女を連れてきたサナに脇腹を突かれてはっと我に返る。
「えーと、じゃあ、名前。名前はなんて言うんだ」
「インです。よろしくお願いします」
ちょこんと頭を下げる少女にグレーは目を瞬いて小さく呟いた。
「珍しい名前だな」
「この辺りでは聞かないけど、もう少し北の方ではそうでもないよ。むしろ君の名前の方がよっぽど珍しい」
興味深そうにインを観察していたトーヤが口を挟み、グレーは「それもそうか」と苦笑して片手を差し出した。
「グレーだ。一応この村でハンターをしている。一年間よろしく頼む」
「よろしく、お願いします」
遠慮がちに握られた手の小ささに、グレーは僅かに目を細めたが、何も言わずにその手を離した。まだいくつか荷物があるらしいインを見て、グレーは隣のサナに尋ねた。
「この後ってどうするんだ」
「一応、村の中をざっくり案内するつもり。グレーもついてくる?」
「……いや、遠慮しとこう。長旅だったんだろ? 今日は特に何もしない方がいいだろうよ。戻ってきたら今後について相談しよう」
「そう? なら行こうか」
インと早速打ち解けたらしいサナが、連れ立って去っていく。その背中が見えなくなるまで見つめていたグレーはぼそりと呟いた。
「あの子、年はいくつなんだろうな」
「サナさんは一五だって言ってたけど」
「そうか」とどこか上の空で答えたグレーに、トーヤは首を傾げたが、特に何も言うことなく仕事に戻っていった。
翌日、グレーはインと共に村から一時間ほどかかる山に向かう支度をしていた。ハンター組合から指定された、村に常駐するハンターの担当区域だ。
「指導の時はこの区域を出ないよう教育担当が注意しろ、と言われたが……正直、範囲が広いからよっぽど歩かない限りは出たりはしないので気にするな。今日は初めてだから、とにかく俺から離れないようについてきてくれ」
「はい。担当区域を出たら何か良くないことでもあるのでしょうか」
「他のハンターと鉢合わせると少し厄介だから……かな。個人でやり方も違うし。この辺りではそういうことはほとんどないが」
「……よく、分からないです」
「俺もだよ。まあ、あまり大事なことじゃないから心配するな」
首を傾げるインが積んだ細長い包みに目を止めて、グレーはそれを開けてみせるように言った。
「これってもしかして誰かのおさがりか?」
新品とは思えない鈍い輝きの銃や刃物を指して、グレーが問いかける。恐々と頷いたインは、「何か、よくないところでも」と及び腰だ。
「道具が悪いって言うんじゃない。むしろよく手入れされてるさ。だが、それをお前さんが使いこなせるかって言ったら話は別なんだよなあ……」
悩ましげに腕組みしたグレーは、インを頭のてっぺんからつま先まで眺め、それから大きく頷いた。
「これ、使ったことはないんだよな? なら、一度試してみよう」
手持ちの装備にも目を通してから、グレーたちは近場の山へと出発した。
「キャンプに置いていく荷物と持ち歩くものは事前に分けておいてくれ」
「はい。何をしに行くんですか?」
「とりあえず今日は歩くだけだ。大事なことだぞ、いざって時の逃げ道を見つけておくとか、後はどんな植物が生えてるかも知っておくと便利だな。村のそばで取れない野草を取ってくるよう頼まれることもある」
インは大人しく頷き、荷物をとりわけ始めた。グレーは彼女に聞こえないように小さく息を吐き出し、「こんな感じでいいのかね」と、口の中で呟いた。
は、と大きく息を吐き出したインに、グレーは振り返って短く声をかけた。
「きついか」
「大丈夫、で……!」
答え終わる前に落ち葉に足を取られ、ずるりと足を滑らせる。腕を取って支えられ、インはほっと安堵の息を吐いた。グレーはやんわりと苦笑して、インの髪についた葉を取ってやる。
「重いだろ、それ」
「重い……です」
背中の銃を背負い直し、インは深く息を吸った。インの兄の物だったという銃は、彼女が背負って山を歩くには重すぎたようだ。
「村に戻ったら、トーヤと相談していろいろ調整してもらえ。それを軽くしてもらってもいいし、他のを探してもいい。あいつも大概変な奴だが、腕のいい鍛冶屋だからな」
こくこくと頷くインの余裕のない様子に、グレーは気づかわしげに見た。
「今日は歩くだけだから、無理する必要もない。キャンプに戻るまで持っていようか?」
「……いえ。自分で持ちます」
きっぱりと首を横に振るインのこめかみから汗が流れ落ちた。グレーは「そうか」と頷くと、黙々と歩きだした。
「ここらで少し休憩しよう」
「は、い……」
荷物を放り出して座り込むインに、グレーは小さな水筒を手渡した。
「キャンプにまだ予備があるから、全部飲んでもいいぞ」
それを聞くと、インは勢いよく水筒の中身を飲み干した。
「歩いてみてどうだった? いや、疲れたのは見てりゃ分かるが、そうだな……見慣れない植物とか、動物とかはいたか?」
「そう、ですね……ふもとの方では、私の村の近くにあった木も見ました。でも、登ってくと全然見たことないやつばっかりで……気温が違うからでしょうか……?」
「俺もそれほど詳しくないが、ここら辺は季節によって気温差が結構あるから他では見かけない植物とかも見るんだってさ」
感心したように頷くインに、グレーは近くに生えている草をむしって「これは村のそばにも生えてるが、あっちのはこの辺りにしか生えてない」と言った。
「そろそろ行けそうか?」
「はいっ」
呼吸を整えたインは、元気よく返事をした。グレーはその手を取って立ち上がらせる。
「気付いたことがあったら、何でもいいから口に出してくれ。教えられることは教えるから」
グレーがそう言うと、インは生真面目に頷いた。歩き出すと景色は再び木々に覆われ、インはグレーを見失わないように気をつけながら地図を読む。
「あっ」
緊張した表情で歩いていたインが小さく声を上げた。振り向いたグレーに、前方に見える崖の方を指さして、はしゃぐように伝える。一面の白い花はグレーにはもはや見慣れた、何の変哲もないものだったが、インにとっては違ったらしい。
「あの花、私たちの村のすぐそばに咲いてるんです。久し振りに見たなあ……。香りがよくて、それに可愛いし人気があるんですよ」
「へえ。贈り物か何かに添えたりするのか?」
「いえ、湯がいて食べるとおいしいんです」
あっさりと否定されてグレーは目を丸くし、声をあげて笑った。
「そりゃあいい! ここではあれを食う習慣はないから、そうとは知らんかったな。あそこならここから歩いてすぐだ、いくらか摘んでくか?」
インはその申し出にほんの一瞬顔を輝かせて、すぐにしゅんと俯いた。力なく首を横に振り、未練を振り切るように花畑に背を向ける。
「いえ、今日はいいです。取りに行くまで時間もかかりますし、正直、持って帰る余裕もないので」
「……そうか」
行きましょう、と先を促され、グレーは再び歩き出す。その日はひたすら山を歩き続け、会話も少なく村へと帰参した。
翌日も、その翌日も、インは生真面目にグレーに教えを乞うた。山に行こうと村にいようと、いつもどこか肩に力の入った様子でいるインに、グレーはなんと声をかけたものか分かりかねたようにしていた。インが初めて仕留めたマハンジカの死体を解体しながら、しゃがんで荒い呼吸をするインに声をかけた。
「手放しで褒めたいところだが、ちょっと顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「大丈夫、です」
初めて会ってから何度も繰り返された、ほとんど変わらないやり取りに、グレーは僅かに眉をしかめた。インはそれに気付くことなく言葉を続ける。
「私、早く立派なハンターにならなくちゃいけないから……もっと、教えてください。お願いします」
そう答えるインは、初めての成果を前に達成感より疲労感を感じていたようだった。
「……そうか。理由は聞かんけども、体だけは壊さないようにしろ。無理な時は無理と言え」
「大丈夫です。大丈夫」
自分に言い聞かせるようにそう繰り返すインに、グレーは重ねてこう言った。
「俺は誰かに教えるってことは初めてだから、アンタの限界もまだ見極められん。いいか、限界になったらまず自分で言うんだ。分かったな」
「分かってます」
そう答えたインは、深呼吸をすると額の汗を拭って立ち上がった。
「……その顔じゃ多分分かってねえよ」
グレーは聞こえないようにそう呟くと、マハンジカの死体を縛って担ぐ。今日は撤収だ、と告げた声が、木々の隙間に空しく消えた。
村で数少ない酒場にて。一仕事終えたトーヤはのれんをくぐり、既に赤い顔でジョッキを呷っていたグレーを見つけて手を振った。
「仕事中に声かけないでくれるのはありがたいんだけど、それなら字は綺麗に書いてよね。一瞬何かと思ったよ」
「直せるもんならもうとっくに直ってる」
ぶっきらぼうに答えたグレーに苦笑して、トーヤは頬杖をついて注文を済ませる。黙り込むグレーの顔を覗き込むと、わざとらしいまでに優しい笑みを浮かべた。
「またえらく思い詰めてるね。お酒を頼るなんて珍しい」
「別にそんなことないだろ」
「インさん、そんなに教えづらいのかい?」
「……まだ何も言ってない」
「言わなくたって分かるとも! 彼女がここ一番の大きな変化だ。悩んでるかもとは思ってたけど、相談相手が必要なほどなのかい?」
グレーはしばらくむっつりと口を噤んでいたが、トーヤの酒が運ばれてくると観念したように話し出した。
「教えづらいなんてことはない。武器の扱いなんかはまるきり初心者だが、やる気はあるし観察眼もある。反射神経も悪くはないから、きっと腕の立つハンターになる。体力面はこれからでも十分間に合うはずだ」
「またえらい高評価だなあ。じゃあ何が不都合だって言うんだい」
トーヤの心底不思議そうな問いに、グレーは「決まってる」と吐き捨てた。
「教えられることがないんだよ! というか、教え方が全く分からん!」
ああ、と納得のような憐憫のような声を漏らしたトーヤに、グレーは唸るように言葉をこぼす。
「人にものを教えるなんてできっこない! 手持ちの技術はほとんど我流で直感と腕っぷしだけで生きてきたような男だぞ!? 今からでも遅くない、他の誰かに頼めば」
「その通りかもしれないけど、じゃあどう言って代わってもらうのさ? 教えるのに向いてないから駄目です、なんて言ってはいそうですかってなるとは思えないけど」
グレーの切実な叫びを遮ったトーヤが、意地悪く笑って囁いた。
「いい考えがあるよ? あの子の態度が悪くてとても預かっていられないって追い返せばいいんだ。村の人たちと口裏を合わせればさらにいい」
「んなことできるわけ……!」
目の色を変えて立ち上がりかけたグレーを手で制し、トーヤは言いくるめようとするように畳みかけた。
「だから、適当な理由をでっちあげて追い返すとかそんな無茶な方法を取らなきゃ無理なんだって。そんな都合のいいこと早々起きないよ」
不明瞭な呻き声をあげて座り込むグレーを呆れたように見つめて肩を竦めるトーヤ。
「諦めなよ、たかが一年じゃないか。初めてやることならすぐうまくいく方が稀なんだ。試行錯誤して、お互いに納得できるところまで持っていければそれでいいだろう」
「気楽に言ってくれるよ、自分には関係ないからって」
苦々しい表情でジョッキを傾けるグレーにトーヤはからからと笑った。
「大いに関係あるとも! 彼女関係のお仕事はこれからも受けていきたいし。僕の作品を丁寧に使ってくれる人は好きだよ。だから一年きっちりいてもらうために、君には大いに頑張ってもらわなくちゃね」
あけすけな物言いにグレーは顔をしかめ、しかし文句も言わずにただうなだれた。
「お師匠の話、もっとちゃんと聞いとくべきだったなあ」
「君は自主練に力を入れるタイプだったもんねえ」
屈託ない笑い声を聞かされ、グレーはぐったりとカウンターに突っ伏した。何かぶつぶつとこぼしているのを聞き取ろうと、トーヤは耳を近づけた。
「人の目標に責任持てるほど、人間出来てねえんだよ、こっちは。あんなに一生懸命なのに……師匠が俺じゃ報われないよ」
弱気な呟きにトーヤは穏やかな声で答える。
「君は自分のできることを探してる。迷いながら一生懸命にね。できることをやっているなら、何も心配しなくていいよ。後悔なら後からすればいい」
「……それで、あの子の時間を無駄にしたくない」
「無駄だったかどうかは、未来の彼女が判断してくれる。今から心配してもどうにもならないよ」
「そういうものかね……」
口が回らなくなってきたグレーはふらふらとかぶりを振って、「勘定」と低く呻いた。トーヤが意外そうな顔をする。
「もうちょっといるかと思ってた」
「弟子持ちの身で二日酔いだから休みとは言えねえよ」
「君のお師匠さんはそのへんすごいおおざっぱだった気がするけど」
「反面教師ってやつさ」
どこかから空のジョッキが投げつけられ、グレーは首だけを動かして避けた。木でできたそれはトーヤの額にあたって床に落ちた。
「あいたっ」
「地獄耳め……」
引きつった笑みを浮かべ、グレーはそそくさと店を出る。アルコールで鈍くなった思考であっても、考えているのは黒髪の少女のことばかりなことに気付いて、知らず知らずのうちに笑っていたことは、本人以外は誰も知ることは無かった。
その日もまた山へと向かう支度をしている途中、グレーは武器を積んでいたインが一瞬ぐらりとよろけたのを見た。その場にぺたんと座り込み、また立ち上がったところを呼び止めた。
「……待て」
低い声での呼びかけにインはびくりと肩を震わせた。グレーは無言でインの額当てを取ると、手でインの熱を測る。ぐっと眉間に皺を寄せ、額当てを返してぐるりと周囲を見回した。
「サナ! ちょっとこっち来い!」
インの腕を引っ張り大声でサナを呼ぶと、すぐに畑仕事の支度をしていたサナが飛んでくる。
「こいつ、ちょっと熱があるっぽいんだ。今日は休ませる」
グレーの言葉にサナは頷いて、インの顔を覗き込んだ。汗ばんだ額に手を当てると、確かに平時より熱い。
「わかった。……気付かなくてごめんな、イン」
「だ、大丈夫です!」
焦ったような声をあげ、インはサナの手から逃げるように身をよじる。
「私、大丈夫ですから……連れて行ってください!」
「……駄目だ。今までは多少の無茶なら見逃してきたが、病気とくればそうもいかん。少なくとも熱が引くまではどこにも連れて行かない」
「でもっ……」
「そもそも大丈夫じゃないから熱が出るんだろ。確かに自分で無理だと言えと言ったが、言わなければいいってものではねえぞ。ガキみたいに意地はるんじゃない」
低い声でそう言い放つと、グレーはさっさと山に向かう馬車に乗り込んでしまった。唇を噛んで俯くインの肩をそっと抱いて、サナは唇をへの字にゆがめた。
「何もあんな言い方しなくてもいいのに。あ、でも今日はちゃんと休まなきゃ駄目だぞ」
「はい……」
「すみません、ご迷惑おかけして……」
居候の間借りている部屋のベッドで、インは申し訳なさそうに肩を縮めた。
「いいって。慣れないところで暮らしてれば体調崩すのも無理ないよ」
あたしはこの村から出たことないけどな、と苦笑いして、サナはインの額に浮かぶ汗をタオルで拭った。
「ところでさあ、インはどうしてハンターになろうと思ったんだ? 親がハンターってわけでもないんだろ、言っちゃなんだがそんなに向いてるとは思えなくてさ」
細くやわらかなインの腕を取って、サナは首を傾げた。
「……私の村、組合に所属してないからハンターがいないんです。今までは獣害があっても村の人たちだけで対処できてたんですけど、最近はサンクオオカミも増えていて、怪我する人も出てきて……行商の人から聞いたんですけど、組合にハンターを派遣してもらうにしても田舎だと断られることも多いって。じゃあ私がハンターになって、安全に生活できるようになればって、思って……」
インは力なく咳き込むと、目に涙をにじませて言葉を吐き出した。
「向いてなくても、頑張りたいんです。早く、弟たちを安心させてあげたいから」
ぐす、と鼻をすすったインにサナは分かりやすく狼狽えて、指でそっと涙を拭った。熱に潤んだ瞳と火照った頬を痛ましげに見つめ、申し訳なさそう目を伏せる。
「向いてないなんて言ってごめん。私なんかよりしっかりものを考えてるんだね……今は、少しだけ休みな。ハンターは体が資本だって、グレーもいつも言ってるから」
「はい……」
インは素直に頷くと、うとうとと目を閉じてすぐに眠り込んでしまった。サナはしばらく幼い寝顔を見つめていたが、起こさないようにやさしく頭をなでるとそっとその場を立ち去った。
ふと目が覚めて、インはゆっくりと体を起こした。窓の外は薄暗くなっており、空気は少し冷えている。寝る前よりだるさがないのを確認して、そろりとベッドから降りる。
「……サナさん」
「ああ、おはよ。もう熱は下がった?」
「大分、楽になりました」
サナはインの額に手を当て、そうみたいだね、と頷いた。「ちょっと待ってな」とそのまま大きなコップを手渡す。見覚えのある可愛らしい花が、コップ一杯に咲いている。
「これって……」
「お師匠さんから見舞いの品だって。山から戻って一番に持ってきたみたいだよ」
先日山に行った時のことを思い出して、インは驚いた顔をする。
「きつい言い方して悪かった、だってさ。自分で言えばいいのにな?」
大ぶりのコップに活けられた小さな花を見て、インはしばらく目を丸くしていた。
「サナさん」
「ん?」
「私、グレーさんのこと誤解してたのかもしれません」
その小さな呟きを聞いたサナは、優しく目を細めてから大声をあげて笑った。
「まあ、人は見かけじゃわからないからね。顔を洗っておいで、夕飯にしよう」
頭をくしゃりと撫でられ、インははにかんだ。「それにしてもこの花、いい匂いだね」とうっとりするサナに、インはコップを差し出した。
「これ、湯がいて食べるとおいしいんですよ」
「えっそうなの? 知らなかった……」
熱は下がったものの大事を取ってもう一日休むよう言われ、インは渋々ベッドの中で過ごしていた。退屈そうに枕の紐を結んだり解いたりしていると、部屋にノックの音が響いた。
「イン、お客さんだよ。入っていい?」
「え? はい、どうぞ」
お見舞いに来てくれるような知り合いなんていただろうか、と首を傾げていると、サナの後ろからぬっと顔を出したのは、普段より軽装のグレーだった。
「グレーさん」
「よう。熱下がったって聞いたから来たんだが、具合はどうだよ」
「今日は休むように言われたんですけど、もう大丈夫です。あの……お花、ありがとうございました」
「ああ、いや、それは……大したことじゃないしなぁ……」
素直な礼にグレーは照れたような顔をする。インは首を傾げて、気恥ずかしげにしているグレーに尋ねた。
「今日は山を見にいかなくていいんですか?」
「何も毎日山に行って見張ってなきゃいけないわけではないさ。座っていいか?」
小さく頷くインに、グレーは「ありがとな」と笑って椅子に腰かけた。
「ハンターの仕事は何も狩りだけじゃない。村全体の仕事を手伝うこともある。今日はその日だ」
そう言って膝の上に置いたのは、粗い作りの籠だった。村の祭りで使う飾りを入れるんだ、とインに説明して、グレーはげんなりとため息をついた。
「あんまりこういう作業は得意じゃないんだけどな。すぐ飽きるし」
その呟きこそ独り言じみていたが、インが小さく噴き出したのを見ると満足そうに微笑んだ。
「とはいえ作業してるだけじゃつまらんし、お前さんも暇だろうから。この辺の昔話とか適当に話すつもりなんだが、聞きたいか?」
「はい、聞かせてください」
グレーのつたない語りをインは大人しく聞いていた。つっかえたり前後したりするのを時々修正しながら、緩やかに時間が過ぎていく。昔話が終わると、グレーが今まで見てきた国の話を聞いた。手はゆっくりと動いていたが、ある時ぴたりと止まってしまった。
「……ここ間違えちまったな。クソ、やり直しか」
小さく毒づくグレーの手元を覗き込み、インはそっと手を差し出した。
「直しましょうか?」
「分かるのか? そうしてもらえると助かるんだが……」
遠慮がちに差し出された籠を受け取って、インはしばらく籠を眺めていたが、絡まっていたところをすぐに解くとてきぱきと編み始め、あっという間に直してしまった。グレーは短く口笛を吹いて喜んだ。
「器用なもんだな」
「……これくらいしかできませんから」
自嘲するような口調にグレーは一瞬困ったような顔をした。籠を抱えて何かを考えこんでいる様子を、インはぼんやりと見つめている。その視線に気づいたグレーが、ふっと目元を緩めた。
「……できることを、これから増やしていくんだよ。あんたなら大丈夫だ」
そう言ってどうにか籠を完成させたグレーは、次の籠を手に取って苦戦しながら編み始めた。その真剣な横顔を眺めながら、インはふと気になっていたことを思い出した。
「グレーさんは、どうしてハンターになったんです?」
「成り行きだよ。必要に迫られてしただけで、たいして理由はない」
ややそっけない答えにインは何と答えたものか分かりかねて黙り込んでしまう。
「……ところでさ、インには兄弟がいるんだっけか。何人だ?」
「兄が二人と姉が一人、弟と妹がいます」
「六人兄弟か。大所帯だな……」
目を丸くするグレーに、インは「少なくはないですけど、一番兄弟が多いところはもっといっぱいいましたよ」と苦笑した。
「グレーさんはご兄弟は……?」
「いない……かな。知り合いの姐さんがよく面倒見てくれたが、血の繋がったのはいない。兄弟のみんなは反対しなかったのか? 一人で村を出ること」
「姉は心配こそしてましたけど、止められはしませんでしたね……兄はもう家を出てますから、それこそ好きにしろって感じでしたし。弟と妹には泣かれましたけど」
懐かしむような口調にグレーがほんの少し羨むような目をしていたことに、インは気付かなかった。
「グレーさんは、その……ご結婚は、されてないですよね……? お付き合いされてる方とかは……」
問いかけの初々しさにグレーは微笑ましいものを見るような目をして、情けなさそうに首を横に振った。
「俺もいい歳だが、そういう話には縁がない。こんなみっともない髪してるもんだから、誰も相手してくれないのさ」
薄い灰色の髪をくしゃりと撫でつけ、グレーはからからと笑う。インは少し戸惑ったような顔をして、そうでしょうか、と首を傾げた。
「私は、寒い日の月みたいな色で素敵だと思いますけど」
インの何気ない一言に、グレーははっと息を呑んだ。
「な、何か気に障ることでも……」
「いや……」
グレーは小さく唾を飲み込み、ふらふらと首を横に振る。取り繕うように浮かべた笑みは引きつって、幼子をごまかすこともままならないような有様だ。
「随分と洒落た褒め方されてまったもんだから驚いちまっただけさ。実は詩の才能もあるんじゃないか?」
茶化すよう一瞬笑ってみせるものの、すぐにふいと目を逸らしてしまったグレーにインは僅かに狼狽える。グレーはちらと視線を戻して、ぼそりと付け足した。
「……昔、同じことを言われたんだ。それで少し驚いた。それだけだ」
これ以上は聞かないでくれ、と言われているようでインは口を噤む。グレーは時間をかけてまた籠を完成させると、「ちゃんと安静にしとけよ」と言い残して帰ってしまった。
体調も回復し、明日にはグレーについていってもいいと村の医者からお墨付きをもらったインは、しかし寝付けずサナの家を出て夜風にあたっていた。
今夜は月は雲に隠れて、ひどく暗い。転ばないように気をつけて歩かないと、何に足を取られるか分からない中、インは立ち尽くして空を見上げていた。
考えているのは、先日のグレーとの会話のことであった。同じことを言われた、と言ったグレーの動揺が何を示しているのか、そればかりを考えてしまうのだ。ぼうっと考え込むインに、近づく人影が一つあった。
「おい。どうした、こんな時間に」
「ひゃあ!」
突然声を掛けられ、比喩でなく飛び上がったインは、武具を着込んだグレーを見て驚いた顔をした。
「ぐ、グレーさん……? どうしたんです、その恰好」
「山に行く。今はマハンジカの繁殖期だ、人里にまで近づいてこないか見てくる。お前さんこそ何してるんだ」
グレーのその、以前と変わらずあっさりとした態度にインはこっそり安堵して、暗闇の中で苦笑した。
「少し、眠れなくて。……山に行くなら、私も行った方がいいですか?」
少し緊張したようにそう尋ねたインに、グレーはすぐ首を横に振った。
「いいや。夜の山はまだ駄目だ。今日は特に暗いから、行くなら月が明るいときにな。それにまだ病み上がりだ」
「……はい」
暗がりでお互いに表情は見えず、何を思っているのかもわかりはしない。グレーは小さく唸って、自信なさそうに付け足した。
「……すまんな、教えるどころか他人と仕事するのも久し振りなもんだから、勝手が分からねえんだ。いろんな場所を見せた方がいいとは思う。だが、焦って怪我させるのもよくないと思うんだ」
「……それは、分かります」
声の調子がだんだん沈んでいくのが分かってしまい、グレーは狼狽えた。
「日が昇る前には戻ってくる。少し寝たらまたいろいろ教えることがあるから、そうしたらまたついてきてくれ」
「はい」
声にほんの少しの喜びの色が差したことが分かって、グレーは胸をなでおろす。背中をそっと押して、部屋に戻るよう促した。
「ほら、眠れなくても横になるだけで大分違うから。体だけでも休めとけ」
「はい」
素直に頷いて離れていく背中を眺めていると、インは一度振り向いた。どうしたよ、とグレーが聞く前に、穏やかな声がかけられる。
「気を付けて行ってきてくださいね。待ってますから」
「……ああ。行ってくるよ」
足音が止まることなく遠ざかっていくのを確認して、グレーは夜の山へと歩き出した。
朝早くにインは起きだして、黙々と村はずれの丘の道を走っていた。体力作りのためである。後はグレーが戻ってくるところにちょうど鉢合わせたりしないものか、とも考えていたのだが、そんな彼女を探してやってきた男がいた。
「やあインさん! 今日は半日暇なんだって聞いたよ? 突然で悪いけど少し付き合ってもらえるかな?」
「わ、私ですか……?」
「そうとも! さ、こっちこっち」
村はずれの工房に連れて行かれ、目的を聞く前にてきぱきと採寸を済まされる。
「ここに来た時よりほんの少し背が伸びたみたいだね。服も少し丈が合わなくなってきてるんじゃないかい?」
最近気にしていたことをずばり言い当てられ、インは驚いた顔をする。トーヤは巻尺をしまってにやりと笑った。
「ここは平和なところだし、仕立て屋家業の方が板についてしまうのも仕方なしってところなのさ。このあたりの装備なら少し調整すればつけられると思うよ」
トーヤがさした防具の山を見て、インは浮かない顔をした。
「でも、私そんなにお金ないですし……」
「ああ、それなら心配ないよ。ハンター組合から補助金が出てるのを、リオが僕に回してくれたんだ。何、そんな高いものを売りつけようとは思ってない。少しゆっくり時間を取って君に合う物を探そうってだけだよ。防具だけじゃなくて、これもね」
ばーん、と気の抜けた擬音を声に出して、トーヤがにんまりと笑う。親指と人差し指をぴんと立てて、鍛冶屋は小柄な客の腕を引いた。
「不幸な話、君と君のお師匠さんは致命的なまでに条件が合わない。体格もそう、筋力もそう、持久力だってそうだ。恐らく考え方もね。仕方ないね、そもそも男と女だ。君が成長しきったとしてグレーと同じことをするのは無理だ」
分かり切った事実を突きつけられ、インは俯く。
「ここで勘違いしちゃいけないのは、できないのはグレーと同じ方法であって、同じ結果は案外そうでもないってことさ。道具をうまく使えれば、グレーと同じ結果を出すことは不可能じゃない」
壁にかかっていたぼろ布を取り払い、鍛冶屋は笑う。無数の銃に、色も形も異なる刃の数々。圧倒されるハンター見習いに、楽しげな声がかけられる。
「選択肢は無限にあるってことさ! さあ、早速試してみよう!」
突然の展開に目を丸くするインに、トーヤは嬉々として一つ目の作品を押し付けた。
「ただいま、戻りました……」
ぐったりとした声の聞こえた方に、調理場に立っていたサナはなんだなんだと足を向けた。玄関に座り込んでしまったインを見て、驚きに目を丸くする。
「ありゃ、どうしたの」
エプロンの裾で頬の煤を拭ってやると、インは疲れた声で事の次第を説明した。繰り返される試し撃ち、短い休憩を挟んだと思ったらすぐ新しい剣を握らされる。さらにその後は装備の試着と、試着したまま武器の取り回し……と次から次へと飛ばされる指示に従うまま半日が過ぎたことを言うと、サナは呆れたような顔をした。
「そりゃあんた、適度なところで断んなきゃ。あいつは悪いやつじゃないけど、人より鉄に興味があるんだ」
「身をもって知りました……」
疲れ果てた声でそう答えるインを見下ろしていたサナは、手を貸して立ち上がらせると何気なく提案した。
「まだ昼ご飯まで時間あるし、水浴びでもしに行く? 天気もいいし、ほら、汗も流した方がいいでしょ」
インは言葉もなく頷いて、着替えを持ってサナについていく。
村はずれにある沢は、水も澄んでいて生活用水としてもよく利用される。先客がいないことを確認して、二人は他愛のない話をしながら服を脱ぎ始めた。
「今日からまた見習い業再開だっけ。体調は大丈夫?」
「おかげさまで、すっかり元気です。山を走り回っても全然平気です……多分」
「まあ、無茶はしないようにね。冷たいから気をつけて」
「はぁい」
川の流れに身を浸し、インはほっと息をつく。サナは服を茂みに隠すと、ざばざばと音を立ててインに近づいていく。
「また聞きだけど、グレーがインのこと褒めてたって聞いたよ。すごいじゃん」
「そうですか……でも私、グレーさんのこと困らせてしまってばかりで……体調管理も出来ないし」
俯くインに目をつぶらせ、サナは頭から水をぶっかける。煤で汚れた頬を石鹸で洗うように言うと、細い背中にばしゃばしゃと水をかけた。
「ばかだな、困らせるくらいでちょうどいいんだよ」
サナはインの髪を洗ってやりながら、遠くを見るような目つきをした。
「あいつ、元はよそから来たやつなんだ。アタシがほんの子供の時くらいからだからそれなりに長いんだけど……でも、一度三年くらい村から出てで仕事してたかな」
「そうだったんですか? だから他の国の話も知ってたんだ……」
感心したようなインの言葉にサナは声を出さずに笑って頷く。
「あいつの事情は私もあまり知らない。でもここ数年、ずっと張り合いのなさそうな顔してたから……お前が来て、良くも悪くも緊張してるよ。きっといい刺激になってる」
安心しな、と肩を撫で、頭の泡をざばざばと流してしまう。サナは顔を洗うインにタオルを差し出して、頭上の太陽を見てから首を傾げた。
「ところで、そろそろグレーを起こしてやった方がいいんじゃないの? 今日も教えてもらうことあるんでしょ?」
「そうでした。早くいかなくちゃ」
わたわたと体を拭いて服を着るインにサナが「ちゃんと髪も拭いていきな!」と注意する。
「サナさん、お姉ちゃんみたい」
振り返って無邪気に笑うインに、サナは面食らった顔をする。張りつめた糸のような緊張感がとれたインは年相応の子供らしい愛嬌があって、サナは安心したように微笑んだのだった。
「グレーさん、お昼ですよ……」
足音を立てないようにして、そっと寝室に足を踏み入れる。カーテンの隙間から差し込む日差し意外に光源はなく、床に散らばるよく分からないものに躓かないように慎重にベッドへ向かう。
「グレーさん、起きてください……」
布団の塊を優しく揺すると、くぐもった声が聞こえるものの出てくる気配はない。インはもう一度声を掛けようとして、視界の端で何かがきらりと光ったのに気を取られた。
「ペンダント……?」
月をかたどった銀色の飾りが、窓から差し込んだ日差しを控えめに照り返している。インが見たこともない模様を彫り込んであり、細い鎖が絡まないように清潔なハンカチの上に置いてあった。銀の月。グレーの髪の思わせる飾りだ、とインは無意識に息を潜めた。
「誰のだろう……」
グレーがこれを付けているところは見たことがない。華奢な意匠のペンダントを、インは手に取ってまじまじと見つめた。細かな錆の散る月面を指でそっとなぞり、光にあててみる。きれい、と声に出さずに呟いて、鎖の留め金を軽くひっかいた。
「気になるか、それ」
眠たげな声を投げかけられ、インは息を呑んで振り返った。体を起こしたグレーが寝ぼけ眼でインが持つペンダントを見つめている。インはさっと頬を赤らめて、ペンダントを元あった場所に戻した。
「ごめんなさい、勝手に触っちゃって……!」
「構わんよ、別に」
目をこすりながらベッドから降り、グレーはかさついた指でペンダントの飾りを撫でた。半分閉じているような瞳が一瞬愁いを帯びる。
「いい加減、返しに行かなくちゃ駄目なんだろうがな……」
聞こえるか聞こえないかくらいの呟きにインは瞬きした。
「顔洗ってくるよ。昼飯はもう食ったのか?」
首を横に振るインにグレーは目を細めて微笑んだ。
「どうせなら一緒に食おう。外で待っててくれよ」
「はい……」
ぼんやりとしたまま部屋から出されても、インはぐるぐると考え込み続けていた。小さな銀の月のペンダント。グレーの髪をそう褒めた人の物だろうか。返しに行かなくちゃ、ということはきっとその誰かから借りるなり預かるなりしたもので、でもその理由は分からなくて……。
「悪い、待たせた」
「っいえ、そんなことは……」
グレーは挙動不審なインの様子に軽く首を傾げていたが、インもまた自分の感情の全体像を掴みそこなって、困り果てたようにグレーの背中を追うのであった。
日も暮れて、インがサナの家に戻ってくると、どこか気落ちした様子の一家が待っていた。事情を聞くと、サナは「インはまだ見てないんだっけ」と困り顔で教えてくれた
「それがさ、夜中に畑が荒らされてて……毎年のことなんだけど、今年は特にひどいみたい。見張り番を置いてもお構いなしだし、どうしたものかなって」
ため息交じりの言葉にインは目を瞬いた。
「まあ、インに愚痴言っても始まらないもんね。ほら、荷物置いておいでよ」
「……ちょっと、畑の様子を見てきてもいいですか?」
「構わないけど、早めに戻ってきなよ。夕飯までそんなかからないから」
頷いたインは駆け足で薄暗闇を駆け抜けると、荒らされた畑を見て回り、トーヤの工房を訪ねてから戻ってきた。何してたの? と聞かれたインは、何か言いかけてから口を噤んで首を横に振った。
「あまり期待させたくないので、今は聞かないでください」
翌週から、畑の被害がぐんと減った。その理由がインの仕掛けた小動物用の罠にあったことがグレーの耳に入るまで、それほど時間はかからなかった。
「そっか、それで褒められたのか」
嬉しそうに頷くインを見て、グレーは感慨深く頷いた。
「インは手先が器用だし、俺の次はそういう罠を使うのがうまい人に教えてもらった方がいいのかもな」
「次……ですか」
それを聞いたインが僅かに表情を曇らせる。インがこの村に来てから既に半年が経過しており、基礎的な知識は概ね教え込まれていた。
「この企画って、継続して同じハンターさんの下で教えてもらうこともできるんですよね」
「できるらしいな。俺はやるつもりはないが」
即答されて驚いた顔をするインに、グレーは困ったように眉を寄せた。
「継続できるのは担当がうまいこと見習いの資質を引き出してやれる人材だった時だけだよ。分かるだろ、俺がそういうの向いてないってことは」
グレーの淡々とした言葉にインは何も言い返せず、唇を引き結んで俯く。少しばかり言葉が悪かったか、とグレーは後悔したが、本心なだけに取り下げるわけにもいかず、気まずさをごまかすように言葉を続けた。
「まあ、期限が来るまでは俺がどうにかするさ。他の村にも知り合いがいるから、相性が良さそうなのも紹介できる。お前さんのおかげでこういうのも悪くないって思えたことだしな。で、今思い出したんだがな……」
そう言ってグレーがインを連れてやってきたのは、役所の古い資料が仕舞われている古い倉庫だった。
「昔、俺の師匠とここの整理を任されたときにな、狩猟用の罠の作り方が書かれた本があったんだ。村長に許可はもらったから、お前さんの教科書として使おうと思ってな」
「なるほど。それで……ここの、どこにあるんですか?」
ほとんどガラクタ置き場と化している倉庫を唖然と指さしてインが尋ねる。グレーは苦笑いすると「ここも整理されなくなって長いからな」とぼやいて腕まくりをした。
「ま、宝探しみたいな気分でのんびりやろう。もし見つからなかったらまた考えるよ」
二人がかりで倉庫中を探し回り、ようやく見つけたころには二人とも全身埃だらけになっていた。
「これじゃ読めねえな……」
インが持つ虫食いやしみだらけの本にグレーは顔をしかめた。分厚く積もった埃を払っただけではどうにもならない汚れに、グレーは諦めたようにため息をついた。
「昔見つけた時きちんと取り出しておけばよかったな……それはもう捨てて、新しいやつを買うか?」
「いえ、大丈夫ですよ? 全体図が残ってれば再現できますし、最悪細かいところが間違ってても動けばいいんです」
「そういうものか。役に立ちそうか?」
「はい! この本、材料が簡単に集められるものばかりですから、すごい役に立つと思います」
真剣な表情で頁をめくりながらも、どこか楽しそうなインにグレーはほっとしたように笑うと、インの肩の埃を軽く払う。朝から作業していたにも関わらず、外に出ると太陽は真上を通り過ぎて、二人はようやく空腹に気付いた。
「時間も中途半端だし、今日はこのまま休みにするか」
「あ、じゃあ私これ読んでてもいいですか?」
「それで休みになるのかよ。勉強もほどほどにな」
ある日、山から戻った二人を険しい表情で迎えたのは、見慣れない顔の男を伴ったリオだった。グレーはインに休むように言うと、リオに連れられて村長の家へと消える。
「イン! ちょっとこっちおいで!」
「サナさん」
手招きするサナの方へ行くと、不安そうに手を握られる。
「詳しい事情は分かんないんだけど、何でもいいから必要最低限の荷物だけまとめておけって……避難することになるのかも」
「何かあったんですか」
「分からない。でも山の向こうの村から避難してきたって人の中に、怪我してる人もいるみたいで……」
サナの狼狽えた声にインも一瞬胸がざわついたが、ぐっと唇を引き結んで握られた手を引いた。
「今は言われたことをやりましょう。推測なら後からいくらでもできます」
ガイリグマが山の向こうの里を襲い、今こちらに向かっている。そんな知らせをグレーは半信半疑で聞いていた。被害を受けた里の出身であるという商人の話はあちこちに飛んで要領を得ず、リオの補足によってようやくグレーはその全体像を把握した。
「ガイリグマがわざわざ山を下りて人を襲うなんて話を聞くのは初めてだ」
「自然が予想できないことをしてくるのなんて珍しくもない。こちらでは避難の手はずを整えるから、お前はその時間稼ぎをしてもらいたい」
「里一つ壊滅させるような大物だぞ? そこは少し様子を見て来いとかにしてくれよ」
グレーの皮肉げな言葉に、商人の男が「冗談じゃない!」と苛立った声を上げた。
「あれは、あんなのは放っておくべきじゃない! あれは人の敵だ、すぐにでも殺すべきだ! 私の家族も殺された……! 早く、早く敵を討ってくれ!」
「勘違いしてもらっちゃ困るぞ」
冷えた声が、男の喚き声を遮った。立ち上がったグレーは男を見下ろし、低い声で威圧する。
「俺は確かに殺すのが仕事だが、それはこの村を守るためだ。指図される必要はないし、敵討ちだとも思わない」
「……この村のハンターの見解はこうだ。早めに避難するための手配はもうしてある。あなたもそこに乗せてもらえるよう今から頼みに行く。支度をしていただきたい」
男とグレーとの間に割って入ったリオが事務的に告げると、男は忌々しげにリオを睨みつけて足音も荒く立ち去った。グレーは短気を恥じるように顔を俯け、ぼやいた。
「……もう少しまともに話ができるやつを連れてこられなかったのか」
「いないこともなかったがあいつ以外は怪我人だった。配慮が足りてなかったのは詫びよう」
「……お前が悪いわけじゃない。俺も言い方が悪かった」
リオたちとの話を終えたグレーは、トーヤと数人の村人を呼んで山へ向かう支度をしていた。いつもより念入りに点検を行うグレーに、手伝っていたトーヤは珍しく不機嫌な顔をしていた。
「いざって時の保険だ。火力は保証するってお前が言ったんだろうが。使い方も考えてる。単なるゲン担ぎだっての」
「火力しか保証できるものがないよあんなの……。僕はね、見目がよくて実用に耐えうるものを作ってるっていう自負があるんだ。それなのにあんなのを持ってくだなんて……」
「俺はあれ嫌いじゃないけどな」
「……とにかく、なるべく使わないようにしてよね」
渋い顔をするトーヤに悪びれず「気をつける」と返したグレーは、ある問いにだけ表情を険しくした。
「インさんはどうするの?」
「近づけさせたくはねえが、あの子の罠が必要になる可能性が高い……連れて行くよ」
苦虫を噛みつぶしたような顔でそう答えたグレーが、皮肉っぽい口調で問いかける。
「見習いを危険な場に連れ出すなんてひどいやつだ、とか言わないのか?」
「僕はそういう話は専門外だもの。君が必要だと言うなら信じるさ。僕は僕の仕事の成果を差し出すだけだ」
明るく突き放され、グレーは唇の端を吊り上げた。忙しなく歩き回っていたリオを捕まえて、一枚の紙を握らせた。
「念のためハンター組合への応援要請も頼む。これ、俺の委任状。俺たちだけじゃどうにもならんかもしれないしな」
「分かった。くれぐれも無理はするなよ」
グレーは目だけで微笑んでインを呼びに走る。リオは一瞬だけその背中を目で追うと、置いていかれたトーヤに向かって小さく尋ねた。
「無茶しないと思うか?」
「僕だったらするほうに賭けるかな」
捜索を始めて数時間が経過していた。ガイリグマの足跡を見つけたグレーの額に汗が滲む。やけに大きくくぼんだ地面に、インは緊張したように体を縮こまらせた。(近いな)と声を出さずにインに伝え、足音を忍ばせて進んでいく。
前方に黒々とした毛の塊を見つけて、グレーは目を見開いた。以前隣村のハンターの要請を受けて退治したものより一回りも二回りも大きい。
グレーはインに頷きかけると、二手に分かれて隠れ場所を探した。グレーがガイリグマを引き付けている間にインが近くの平地に罠を仕掛ける。仕留めることはできなくとも弱らせることができれば、とグレーは考えていた。
そろそろか、と銃を構え、足元を狙って引き金を引く。地面が植物ごと抉り飛ばされ、ガイリグマは歩みを止めて警戒したように周囲を見回す。そのまま様子を見つつ、根気よく威嚇を続けた。
不意に風向きが変わった。銃声に怯んでいたはずのガイリグマが、ぐるりと首を巡らせる。どこ見てやがる、と毒づきかけて、グレーは息を呑んだ。今、風上には誰がいる。やつは何を嗅ぎつけた? その予感を裏付けるように、ガイリグマが走り出した。
「クソッ……!」
グレーは鋭く舌打ちして、銃を放り投げ走り出す。平地に向かう最短距離を、枝を払うのももどかしく駆け抜ける。
大きな足音に気付いたインがはっと顔を上げた。仕掛けの為に膝を立てて座っていたことは間違いでこそなかったが、逃げ出すのがほんの一瞬遅れた。
(間に……あ、え!)
盾を咄嗟に突き出したグレーが、インを庇う位置に間一髪で滑り込んだ。べごん! と音を立てて盾が歪み、二人の体が地面に押し付けられる。
「ぐ、ああっ……!」
上から降ってくる声が、ガイリグマのものなのかグレーのものなのか、咄嗟に耳をふさいだインには判断がつかなかった。鋭い爪が何度も盾を殴りつける。鼻をつく獣の体臭、耳に残る荒い息遣い、肌を貫くような害意に、インはただ震えることしかできなかった。インが押しつぶされないように腕を突っ張り、グレーは歯を食いしばって耐える。
「このッ……! どけぇ!」
一瞬の隙をついて、グレーは短刀を力任せにガイリグマの鼻面に突き刺した。大地を揺るがすような咆哮が響き渡り、インはぎゅっと身を縮める。突き刺さったままの短刀の向こう側にある艶やかな黒の目を睨んで、グレーは低く唸った。
「イン! 掴まれ、飛び降りるぞ!」
暴れるガイリグマの爪を盾で弾いて、グレーは力強く地面を蹴った。硬いブーツの底をガイリグマの爪が強く叩く。痛みに顔を歪めたグレーはインを強く抱きかかえたまま、盾を下にして斜面を滑り落ちていった。
「大丈夫か……?」
グレーにそっと問いかけられ、インは坂を滑り落ちる途中から止めていた息を緩やかに吐き出した。
「怪我は、なさそうです……」
「それは何よりだ」
グレーは盾を放り出し、インを起き上がらせると大きくため息をついた。木の枝に引っ掛けたのか、目の下に赤い線が走っている。
「予想以上に狂暴だったな……」
「ぐ、グレーさん!」
短く呻いたグレーの足元、血のにじんだブーツを見てインが切羽詰まった声をあげる。脂汗のにじむ額を乱暴に拭い、グレーは「大丈夫だ」と自分にも言い聞かせるように言うと、油断なく周囲に目をやってから傷を検分し始めた。インは怯えて立ちすくみ、震える声で進言する。
「む、村のみんなに避難するように言わないと! あんなの、私たちだけじゃどうにもできません」
「待て」
御者に合図するための発煙筒を持ち出したインを、グレーは表情を険しくして止めた。
「ガイリグマは本来この時期積極的に人を襲ったりはしない。だがあれは迷わず俺たちを襲ってきた……恐らく、人食いの個体だ」
苦々しい声での推測に、インはさっと青ざめた。
「こいつは人のにおいを追ってくる。今まとまって逃げたら、かえって被害が増えるかもしれない」
言葉を失ったインから目を逸らし、グレーは低く呟いた。
「あの村の暮らしを壊させはしない。あいつはここで、必ず殺さなきゃならん」
「でも、一体どうやって……」
グレーは地図を取り出して一瞥すると、インに今いる位置とキャンプの位置が離れていないことを指し示した。
「幸い、ここからキャンプまでそう遠くない。できることはある……悪いが、ちょっと肩を貸してくれないか」
足を引きずるグレーを支え、インは枝を払いながらキャンプへと引きずっていった。傷だらけのグレーを見て血相を変える御者に「大丈夫だ」と全く大丈夫でない声音で告げて、グレーは荷台を指さした。
「事情が変わった。使うつもりはないって言ってたやつがあるだろ。あれを下ろすのを手伝ってくれ」
血の気のなくなったハンター二人を見て、御者は一も二もなく頷いた。インはグレーを座らせると、改めて尋ねる。
「できることはあるって……一体どうするんです?」
「それはだな……」
インが黙々と罠を作る傍ら、グレーは荷台に積んでいた大筒に火薬を込めていた。トーヤが東方の山里で祭祀で用いられるものを再現したものだが、あまりの火力と飛距離のなさに実用性を見だせず工房の隅で埃をかぶっていたものだ。まさか本当に使う羽目になるとは、と乾いた笑みを浮かべていたグレーは、今はどこか悲痛な表情をしていた。
「これは、俺の独り言だから、あんまり真面目に聞かないでほしいんだが」
顔を上げたインに「手は止めるなよ」と釘を刺し、グレーはとつとつと語り始めた。
「ここにはサンクオオカミの群れがいるだろ。増えすぎないよう見張っちゃいるが、十年前に俺がここに来たときはハンター一人二人じゃどうにもできないような群れがいた」
突然の語りの真意を測りかねて、インは無言で先を促す。
「俺はある商人の娘の小間使いみたいなことをしててな、その日もご主人についていった。そうしたら……」
グレーは一瞬言いよどみ、深く息を吸った。
「乗ってた馬車ごと倒されて、雇った用心棒がまず食われた。走って逃げていたら斜面から落ちて、ご主人は動けず、俺は歩けるが大怪我だ。ご主人は、俺にペンダントを渡して、一人で逃げろ、と……」
頬を伝う血と汗が混じった滴は涙にも似て、でもその目は薄暗く乾いた視線で過去を見つめていた。
「その時のことはあまり覚えてない。気付いたらあの村にいた。村の人たちがかき集めてくれたご主人の遺品を見て、もう帰れないと思った」
グレーの話はどこか要領を得ないもので、インは手を動かしながらひりつくような焦燥感にかられていた。
「帰る手段がなくてあの村で暮らすことになって、生きていくためにハンターになった。あと数年で引退って頃合いの爺さん……まあ俺の師匠なんだが、それしかいなかったから、村にとっても俺にとっても都合がよかった」
がちん、と硬い音がして、インは罠を組み終えた。動きを封じるための、落とし穴と括り罠を組み合わせたものだ。グレーの作業を手伝うために手を伸ばすと、グレーの青白い横顔が目に入り、思わず目を逸らしてしまう。
「ある日、サンクオオカミの駆除依頼を受けた。群れから一匹ずつ引き離して、殺して死体を隠す。それを何度も繰り返して……同行してた師匠にぶん殴られるまで続けた。あと一歩で群れを全滅させるところまで来てたらしい」
自らの所業を振り返る声がひどく淡々としているのは何故なのか、インには全く理解できなかった。グレーが語る彼自身は、彼女の目の前の青年とは到底重なるものではなく、まるで架空の存在のようだった。
「殴られてからようやく気付いたんだ。俺はあの人を食った個体を見分けることなんかできないし、ハンターになってしまった以上は規定で皆殺しにすることもできない。もしかしたらこの手であの人を食ったやつを殺したのかもしれないし、そうなる前もっと昔にあっちが勝手に死んでいたかもしれない。そんなことも分からないで生きていたわけだ、俺は」
自虐的でひどく冷めた口調に、インは思わず声を上げた。
「グレーさん、それは」
「独り言だ、と言っただろ」
インの言葉を端的にはねつけ、グレーは淡々と作業を続ける。空気は冷えているのに、額からは汗が次々流れ落ちて地面にしみこんでいく。
「山では生の喜びも死の悲しみもない。あの人は自然の流れに飲み込まれてそれきりだ。それなのに俺は未練がましくあの人のことを考えていた。自然を恨み、自分を責めた。どうにもならないことにばかりこだわって、たくさん時間を無駄にした」
足の傷が痛むのか、グレーはしばらく言葉を止めた。歯を食いしばり、その隙間から細く息を吐く。
「……弟子には、そんな思いはさせたくない」
掠れて弱々しい声だった。愁いを帯びた視線がようやく、唇をかみしめるインの方を向く。
「どうか、この作戦の結果がどうなろうと、俺以外の何もかもを恨んでくれるな。お前だけでも、必ず村に帰るんだ」
「だったら! まずはあなたが生き延びることを考えるべきでしょう!」
たまらずそう叫んだインを、グレーは驚いた顔で見つめた。叩きつけるような勢いで、インは強く言い募る。
「私に恨むなと言うのなら、どうしてここで死んでしまいそうなことを言うんです! この山で生き残らされたのは他ならぬあなたでしょう、どうして私に一緒に帰ろうと言ってくれないんですか!」
普段は滅多に大声をあげることのない少女の叫びに、グレーはぐっと言葉を詰まらせた。師の傷は決して浅くはなく、弟子は未だに半人前。それでも引けないこの状況で、それでもこの少女は、グレーに絶望しないことを望んだのだ。その、師への過剰な期待はグレーにとっては重すぎた。一歩後ずさろうとした足に痛みが走り、止まる。彼女の罠が視界に入り、グレーは大きく目を見開く。急ごしらえの罠なのに、驚くほどに精密で頑丈に作られたものだ。それだけ、彼女は自分の役割を重く見ている。それはなぜか? 二人で、生きて村に帰るためだ。
(重すぎる? 馬鹿を言え! こんなの、敵討ちなんて幻見てたことに比べれば、あの時の悪夢に比べれば!)
決して油断できる状況ではない。だが、打つ手はあるし人手もある。あの時とはどうあっても違う! グレーは未だ痺れの残る手で、インの手を強く握った。
「……ああ、そうだ。俺が馬鹿だった。必ずあのデカブツをなんとかして、二人で帰ろう。そのためにはお前の協力が必要だ」
頼めるか、と尋ねかけたグレーが、インの表情を見てふっと唇を緩めた。目を瞬くインを、グレーは不思議と穏やかな心持ちで見つめていた。
「頼めるか、じゃないな……頼んだぞ」
「……はい!」
力強く頷いたインに笑いかけ、グレーは自らを鼓舞するように声を張り上げた。
「さあ、いっちょやってやろうじゃねえか」
インは息をひそめて手負いのガイリグマの様子を窺っていた。半年かかってようやく使い慣れてきた銃を構え、音もなく呼吸を繰り返す。軽い銃声が鳴った。クマが体を震わせ、警戒するように辺りを見回す。
(『視界に入らず、できる限り音を立てず、風向きには常に注意を払え。距離を保て、気付かれたらすぐ逃げろ』)
グレーに言われたことを脳内でなぞり、深く深く息を吸うと、銃身の震えがひたりと止まった。再び引き金を引くと、彼女が狙った通りの方向へガイリグマは走り出す。
インの役目は「誘導」。大きな音に弱いガイリグマの性質を利用し、グレーの待つポイントまで追い立てる。上手くいかなかった場合の合図として発煙筒を持たされていた。
逃げるガイリグマを視界の端に収めながら、インは速やかに次のポイントへ向かう。確かな手ごたえを感じながら、インは油断なく木々の間をすり抜けて走った。
断続的に鳴り響く銃声が近づいてきていた。動けないグレーは罠のすぐ近くで待ち構え、発動と同時に大筒を放つ。連射式ではないため本番は一度きりだ。重たい足音を足の裏で感じ取り、グレーは体ごと震源を向いた。木立を割って走りこんでくるガイリグマを睨み、グレーは腕の痛みを無視してまっすぐに最終兵器を構える。グレーを視界に入れたガイリグマが、発砲音から逃げていたことも忘れて牙を剥き出した。大きく開いた口の、禍々しくとがった歯の一本一本が見えるまで近づいたその時。
獣の咆哮が轟き、巨体が地面に沈み込む。その足を頑丈な縄が縛り上げ、大穴から這い出すことを阻止する。グレーはまるで動じることなく、暴れるガイリグマの頭に銃口を向け、引き金を引いた。
瞬間、爆音が轟いた。熱風に叩かれ、グレーは吹き飛ばされて地面を転がる。衝撃の余波が掻き消えるまで、命あるもの全てが沈黙した。
「グレーさん!」
爆音と立ち込める白煙。インは安全が確認できるまで近寄るなと言われていたことも忘れて飛び出した。倒れたグレーが目に入り、一瞬呼吸が止まる。肩をゆすると、一瞬遅れて目を覚ました。短く呻いて起き上がり、咄嗟にインを庇うように引き寄せた。武器を取ろうとした腕が、途中でぴたりと止まる。インを隠そうとしていた手が彼女を揺らし、罠の方を指さした。インは示された方を見て、ひゅう、と喉を鳴らした。
間違いなく人の敵であり、間違いなく自然だったものが、崩れて血だまりを作っている。穴から上半身だけを出して、顔がほとんど吹き飛んで、黄ばんだ歯と大きな舌がむき出しになっている。生臭い血の臭いが鼻をつく。動かない骸となってなお堂々たる威容を誇る巨体にまず恐ろしさが先に来て、インは思わずグレーにしがみついた。
「いっ……おい、大丈夫だ、もう死んでる」
グレーの声が届いて、インははっと顔を上げた。汗と泥にまみれたグレーの顔は疲れきって、それでも安らかにほころんでいる。穏やかな声にインは再び獣の死体に目を向けた。ぴくりとも動かないそれを見て震えるインの肩を支えてやりながら、グレーは独り言のように呟く。
「後は証拠になる毛皮やらを持ち帰って、肉やら爪やらは……ん?」
グレーは肩を震わせるインを落ち着かせるように頭を撫でる。浅い呼吸は徐々に嗚咽に変わり、ついには大声をあげて泣き出してしまった。吐き出すため息を震わせて、グレーは埃まみれになってしまった黒髪にそっと頬を寄せた。
「ごめんな、こんな思いさせたいわけじゃなかった……。お前の夢が叶うよう、俺が導いてやりたかっただけなのに」
泣きじゃくるインを、傷ついた腕でどうにか抱きしめながら、グレーは発煙筒の栓を引き抜いた。
「でも、お前がいなければ、きっとここで俺は死んでたよ」
色のついた煙が細く天に向かってのびていく。そう時間のたたないうちに、御者が二人を探しに来るだろう。こうして村を混乱に陥れた騒動は、一人のハンターの負傷だけを代償に終息したのだった。
夜半、小さな蠟燭の明かりの下で悩ましく便箋を睨んでいたグレーは、遠慮がちなノックを音に気付いてふっと顔を上げた。村の危機を乗り越えたことを祝う宴が開かれているはずだが、抜けだしてきた誰かがいるようだ。
「入っていいぞ」
無造作にそう言うと、ベッド脇に便箋を隠してしまう。宴の最中、動けない功労者を見舞いに来たのは、宴から一人抜け出してきたトーヤだった。
「宴の主役がベッドの上で動けないままとはねえ。残念なことだよ」
「そんなの一人いれば十分だろ。インはどうしてる」
ほんのりと顔を赤くしたトーヤが、ベッドのわきにあった椅子を引き寄せて座った。
「誰かがお酒飲ませたみたいで、今は席を外してる」
「ばか、あいつ酒飲んだことないって言ってたぞ? 大丈夫なのか」
「だからおかみさんが面倒見てるって。怪我人なんだから安静にしときなよ」
立ち上がりかけたグレーを笑って制し、トーヤは労うように肩を叩いた。痛みに顔をしかめるグレーにぼんやりと謝って、トーヤは酒臭い息を吐いた。
「まあ、何はともあれお疲れ様。武勇伝がまた一つ増えたじゃないか」
すごいよ、と熱に浮かれたような賞賛に、グレーは疲れたように目を閉じた。
「別に、褒められたくてやったんじゃない。村ごとの避難なんて早々出来んだろ」
包帯のまかれた手に視線を落とし、グレーは小さくため息をついた。
「でも……今回ばかりは死ぬかと思った。死んでも構わない、とも思ってはいたが」
「……君が生きていてよかったよ」
からかうような笑みではなく、心底ほっとしたようにそう言ったトーヤを、グレーは意外なものを見る目で見ていた。ふん、と鼻を鳴らしてつまらなさそうにぼやく。
「どうせお得意さんがいなくなるからそう言うんだろ」
「失礼だな。それもあるけど、僕たち友達だろ」
友達、という言葉にグレーは目を丸くして、すぐに意地悪く唇の端を吊り上げた。
「まあ、そういう見方もあるだろうよ」
「何て言い草だ」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。トーヤが布団にぐたりと体を乗せると、グレーは呆れたように「酔ってんのか」と眉をしかめた。トーヤは力の抜けた笑みを浮かべ、若干呂律の回らない舌で尋ねた。
「これからどうするつもりだい?」
「この怪我じゃハンターもしばらく休業だ。ま、組合から代わりを呼んでのんびりさせてもらうとするさ」
ひらひらと傷だらけの手を振るグレーに、トーヤは「分かってるくせに」と苦笑する。
「そういうことを聞いてるんじゃない。インさんのことだよ。彼女のことはどうするつもり?」
グレーは分かりやすく目を逸らして、ぼそぼそと小さな声で答えた。
「……同じだよ。この怪我じゃ無理だ。代わりを探して、インはそこに行かせる。引き受けてくれそうなやつにいくらか心当たりがあるから、片っ端から声をかけるつもりだ」
先ほど仕舞った便箋は、きっとその心当たりに向けて書いたものだったのだろう。何か言いたげなトーヤの視線を避けるように、グレーは横たわって背中を向けてしまった。
「むしろ彼女にとってはこの方がいいくらいだ。俺なんかより優秀な奴なんて星の数ほどいる。俺の下で無駄にする時間が減ってちょうどいい」
「……僕は、ハンターじゃないから。そういう効率の良さみたいな話は分からないけど」
淡々と言葉を重ねるグレーを、トーヤは真摯な視線で見据えた。
「さみしいとは思わない?」
「……それを言ってどうなる。この怪我じゃどうにもならねえんだ」
ふっと大きく息をついて、グレーはどこか投げやりにそう言った。ベッドの上から銀色のペンダントを見ていた。
「口惜しい、とは思うよ。せめて期間中はできる限りのことをしようと決めたのにこのザマだ。俺らしいと言えばそうだが」
「流石に卑下しすぎじゃない? もう休みなよ。きっと怪我して疲れてるだけだ」
グレーはその声に応えず布団を頭まで被ってしまった。トーヤはゆるゆると体を起こし、静かな声でこう告げた。
「僕もリオも、それをインさんに伝えるほど優しいわけじゃないから。それは君から伝えるんだよ。サナを頼るのも駄目だ」
「……分かってる」
「ならいいよ。今日はゆっくり休んでね」
立ち上がった拍子にほんの少しふらついたトーヤは、「飲みすぎちゃったかな」と呟いてのろのろと部屋から出ていこうとする。
「おやすみ」
「……おやすみ」
小さいながらも返事があったことにトーヤは目を見開いて、それから静かに微笑んで立ち去った。終わらない宴の騒ぎは、グレーの家にまでは届かない。
インの旅立ちの日がやってきた。来た時よりいくらか増えた荷物を馬車に積み、インは深く息を吐く。グレーがまだ来ていないことに消沈している様子を隠しきれておらず、サナはイライラと爪先で地面を叩く。
「インさん!」
名前を呼ばれて振り向くと、大きな包みを抱えたトーヤが駆け寄ってくる。
「それ何?」
「インさんの新しい相棒だよ」
そう言ってトーヤが見せたのは、新品と思しき猟銃だった。インが村を出ていくことが決まってから、トーヤは彼女の武器をまるきり新しくすることを宣言した。インが断ろうとしても、「もう材料も買っちゃったから」の一点張りで一歩も引かなかったのだ。代金を出そうとすると、こっそり「グレーから頼まれたことなんだ。代金ももちろん受け取ってる。どうか君のお師匠さんの顔を立ててやってくれないか」と言われ、とうとうこの日まで来てしまった。
「これだけ遅くなってしまってごめんよ。新しくしたとは言うけど、作りは前使ってたものとたいして変わらない。グレーのと違って変に改造してもないから、どこに出してもすぐ修理してもらえると思うよ。弾もオマケしてあるからね」
「ありがとうございます……大事に使わせてもらいます」
おずおずと銃を受け取り、インはきっぱりとそう宣言した。それを聞いたトーヤは小さく噴き出して、インの頭を優しく撫でた。
「君のお師匠さんにも見習ってほしいなあ、その姿勢! あいつ無茶な使い方するくせに早く直せって急かしてくるんだよ? 本当に困ったお客さんで……あれ? グレーまだ来てないの?」
「見ての通りだよ。全く何してるんだか……」
呆れた声でぼやくサナをトーヤは「まあまあ」となだめて、グレーの家がある方を見た。
「しつこいくらいに馬車の時間を聞いて来たくらいだったのになあ。何してるんだろ。呼んでくる?」
トーヤの気遣いに、しかしインは首を横に振った。
「いいんです。私が勝手に待ってるだけですから」
「君がそう言うならいいんだけど……ほら、お姉ちゃん。本人よりイライラしちゃってどうするの」
「誰がお姉ちゃんか誰が」
サナに不機嫌に睨みつけられ、トーヤは「わあ怖い」と言ってころころと笑った。猟銃をひょいと預かると、荷馬車を指さして言った。
「じゃあ僕、これを荷馬車に積んでくるから。グレーのことなら心配しなくても来るよ。君のことすごく好きだもの」
トーヤの言葉に、インは顔を真っ赤にして絶句した。サナはトーヤを追い払うと、気遣わしげにインを見下ろした。
「私、いない方がよかったりする?」
インは無言で首を横に振り、「一緒に待っててもらえませんか?」と上目遣いにねだる。サナはため息を一つついて不承不承といった様子で頷いたのだった。
「イン!」
遠くから呼ぶ声が聞こえるなり、インはぱっと駆け出した。松葉杖をついてやってきたグレーに駆け寄る歓喜の表情に、グレーもつられて微笑んだ。
「グレーさん!」
「遅くなって悪かった! もう発つのか?」
「もう少し時間があるみたいです。来てくれてありがとうございます」
ほっとしたような笑みを浮かべるインとは対照的に、グレーはひどく申し訳なさそうな顔をした。ほとんど寝巻のまま飛び出してきて、寝癖も直していないことに今更気付いたのだ。
「その……もう少し、きちんとした格好で来るつもりだったんだが、寝坊しちまって……」
いたたまれなさそうに弁解するグレーにインはゆるゆると首を横に振った。
「気にしませんよ。怪我してるのに来てもらってしまってすみません」
「弟子が旅立つってのに、来ないわけにもいかないだろ」
グレーが差し出した手を、インは柔らかく握った。初めて会った時より荒れて硬くなった手を握り返して、グレーは複雑な表情をする。
「今までお世話になりました」
「こちらこそ、至らないことも多かっただろうに済まなかった」
お互い言葉が見つからないのか、しばらくは無言で見つめあっていたが、グレーが先に口を開いた。
「……情けない話だが、最初から最後まで何か教えられた実感ってものが全くない。俺に関してはハズレだったと思って、次の場所でしっかり学んでくれ」
心底申し訳なさそうにそういったグレーに、隣で見ていたサナが信じられないという顔をする。何かを言いかけて口を閉じたサナと目配せして、インは苦笑する。
「私は、グレーさんがハズレだったとは思いません」
決然と師を見上げ、インは堂々と胸を張ってそう言い切った。目を見開くグレーに、インは穏やかに言葉を続ける。
「確かに、技術的な面では私にはできないことが多かったです。でも、動物の習性や植物の使い方はすごく参考になりました。まだ、聞けてない話もたくさんありましたけど……それは、今度は自分で試して知っていこうと考えられています」
そう語るインの目は誇らしげに前を向いている。グレーは眩しそうに目を細めて、言葉の続きを待つ。
「何より、あんなに怖い目に遭ったのに、私はまだ夢を諦めないでいられる……いいえ、あんなことも乗り越えられたんだから、何が起きても大丈夫だなんて思っている」
強い輝きをともした瞳が、ほんの一瞬悲しげに曇った。松葉杖を握る腕の痣は、時間が過ぎるうちに跡形もなく消えていた。ほんの少しだけ筋肉の落ちたその腕をそろりと撫で、インは沈んだ声で囁いた。
「情けないのは私の方です。その怪我も、私を庇ってできたものです」
「あんなのとやりあう以上、避けられないもんだったさ」
「……グレーさんは、ほんとに嘘が上手ですよね」
インの下がった眼尻が濡れて光っているのを、グレーは見て見ぬふりをした。
「本当に、何から何までお世話になりました。次のハンターさんも、グレーさんが見つけてくれたんですよね?」
「ああ。少しばかり口うるさいところもあるが、腕は確かだしお前みたいな礼儀正しい奴には親切だ。説明するのも俺より何十倍もうまい。行って、きっちり技を盗んで来い」
「頑張ります」
インが柔らかに微笑んで、二人の間に沈黙が落ちる。グレーは言葉を探すようにゆっくり息を吸って、慎重に吐き出した。
「……お前は俺の最初の弟子だ。お前の夢が叶うよう、どんな困難も乗り越えていけるよう、師として心から願っている」
静かで優しい声に、インははっと息を呑んだ。胸の前で手を握りしめ、晴れやかに笑う。
「あなたは私の最初の師匠です。どうかあなたが幸せになるよう、新しい夢を掴めるように、弟子として心から祈っています」
インの言葉にグレーは驚いたように瞬きした。
「新しい夢、ね。少し遅すぎやしないか?」
「そんなことありませんよ。まだまだいっぱいできることがあるって、私はそう思います」
そう信じて疑っていない様子のインにグレーは根負けして、「分かったよ」と頷いた。インがおずおずと腕を伸ばすと、グレーは少しかがんでインを抱きしめた。
「どうか、元気でな」
「そちらこそ、早くよくなってくださいね」
「任せろ。頑丈さにかけてだけは人より自信があるんだ」
グレーは誇らしげな声にインはくすくすと笑って、灰色の髪に頬ずりした。
「おーい! 馬車が出るぞ、そろそろ戻ってこい」
リオの呼びかけにインは名残惜しそうに体を離して、大きく頭を下げると踵を返して走っていってしまった。残されたグレーに、背後からサナが声をかけた。
「泣かなくていいの?」
「一体何が悲しいってんだ。あんなことまで言ってもらえて、身に余る光栄ってものだろ」
「あの子は泣いてたよ。怪我させたのに何もしないまま出て行かなくちゃいけないのかって。私には何もできないのかって」
「……例えあの子にできることがあったとしても、俺は同じことをしたよ。あの子の時間はあの子の目標のために使われるべきだ」
サナは納得したような、それでも何か言いたげな複雑な表情をしている。
「あの子はあんたの言葉を受け止めて新天地に行くんだ。だったらあんたは、あの子の言葉を受け止めて新しい夢を見つけなきゃ」
サナの真摯な視線から目を逸らさずに、グレーはしっかりと頷いた。
「……夢かどうかは分からんが、やるべきことは一つ分かってる。怪我が治ったらすぐにでもやるさ」
唇の端を上げそう答えたグレーの顔を覗き込み、サナは意地悪く笑って再び尋ねた。
「本当に泣かなくていいのか?」
「……あんまりいじめんなよ」
困った顔をするグレーの背中を強く叩き、サナは村にある小高い丘を指さした。
「ほら、あの丘なら多分まだ馬車が見えるはずだよ。急げ!」
「怪我人に無茶言ってくれるよ」
そう言いながらもグレーは力強く足を踏み出して、遠ざかる馬車を見送るために歩き出した。
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