第6話正義の味方なんかじゃない


『優しいな、シノは』

 不本意ながら一番記憶に残っていたのは、妙に穏やかで優しくて、それでどうしてか寂しげな笑みだった。先輩の表情の中で一番苦手なやつを鮮烈に覚えているというのは当たり前と言えば当たり前なのだろうが、皮肉というか、なんだか空しい話だ。

 そしてどうしてそんなことを思い出したのかというと、斜め向かいに座った人がやけに先輩に似ててこっそり観察していたら、やけにも何もどうやら本人らしかったことに気付いたからだ。カツ丼を食べる手を止めておそるおそる尋ねてみることにした。

「皆方(みなかた)先輩?」

「んむっ? ……えっと」

 つるんとうどんを吸い込んだ先輩がちょっと困った顔をしたのを見て、苦笑交じりに名乗る。

「高校の後輩だった品川です。品川(しながわ)広夢(ひろむ)」

「しながわ……あっ……シノ、か?」

 うっすらと記憶に残っていた声にあだ名で呼ばれ、懐かしさに口元が緩む。

「そのあだ名は結局誰にも呼ばれませんでしたがね……お久し振りです、先輩」

「ああ、久し振り。……まさか、こんなところで会うとは思わなかった」

「俺も予想外でした」

 漂う空気が若干ぎこちないのは仕方ないことだろう。なんせ二年は会っていなかったのである。俺が入部して半年たった時、陸上部でトップレベルの実力を持ちながら突然辞めてしまったこの人――皆方秋先輩は、ありとあらゆる部員を徹底的に避けてひっそりと卒業してしまったのだ。この人の進路は誰一人知らなかったが、まさか俺と同じ大学に進んでいるとは。奇妙な偶然もあったものだ。

「大学にはもう慣れたか?」

「まあまあですかね。授業が長いのはまだ慣れないんですけど」

「そのうち馴染むさ。サークルは何か入ったのか?」

「いろいろ見て回ってるんですけど、まだ決めかねてます。先輩は?」

「今は特に何も。バイトが忙しくてな」

 最後の一口を食べ終えた先輩は、ナプキンでさっと口元を拭うとてきぱきとトレーの上を整理して立ち上がった。

「用事があるから失礼する。講義があるなら遅れないようにな」

 そう言ってさっさと立ち去ってしまった先輩の背中を俺は呆けたように眺めていたが、連絡先くらい聞いておけばよかったな、と思った時には、その人は影も形も見えなくなっていたのだった。


 予想外の再会を果たした余韻でぼんやりと午後の講義をやり過ごし、駅前の本屋で漫画を買って帰る途中、見たこともない団体が演説しているところに出くわした。

 小さな子供が退屈そうに立っているのが少し気になって足を止める。何の話をしているのだろう。募金活動か何かだろうか。普段見る団体とはまた違う顔ぶれだ。

『日本ではまだ、これらの症状についての理解は――』

 演説の途中から聞き始めたものだから、何の話をしているのかよく分からない。病気か何かだろうか、と適当に推測して突っ立っていると、子供と目が合った。どうしよ、と一瞬迷ってぎこちなく笑ってみると、ふいと視線をそらされてしまった。まあそうなるか。

『同じ境遇の人たちのために私たちは――』

 真摯で、必死な声だった。それでも足を止めて聞いている人は決して多くはなく、俺もじんわりと興味が薄れていくのを何となく感じ取っていた。

 くるりと帰り道に足を向けた途端、爆発音が鼓膜を叩いた。一瞬遅れて悲鳴が上がり、ざあっと人の流れが止まる。爆発音がした方を向くと、さっきまで演説を聞いていた人が倒れている。

「救急車っ……!」

 携帯を取り出そうとして、更なる悲鳴に振り向かされる。今のはまるで、子供の泣き声みたいな……!

 現実味のない光景に、ぞっと背筋が凍る。覆面で顔を隠した男たちが、さっきまで演説していた女性と子供を取り囲んでいる。泣き叫ぶ子供から引きはがされ、女性は金切り声を挙げている。繰り返しているのは、もしかして子供の名前なのか。いや、そんなことより警察を!

 固まりかけた思考を慌てて動かして、携帯を取り出す。一一〇番、と打ち込んだところで、逃げようとした誰かにぶつかって携帯が吹き飛ぶ。拾いに行こうとした寸前に、かすかな声を耳が拾った。拾ってしまった。

「たすけ、て」

 幼い、小さな泣き声だった。ざわりと全身の毛が逆立つ。そうだ、今警察を呼んだところでどうなる。間に合う保障は、あの子が助かる保障は? だって今にも連れ去られるところだってのに! ぐっと足を踏み込み、手を伸ばそうとしたその刹那。

「シノ、伏せろ!」

 凛とした声に脊髄反射で膝をつくと、頭上を突風が走り抜けた。頭を庇いながらどうにか顔を上げると、まず最初に目に痛いほどの赤が視界を横切った。覆面男に勢いよく体当たりして、ふらついた足をすかさずすくって転ばせる。子供を抱き上げて一番近くにいた俺に押し付けると、体勢を立て直す隙も与えず拘束する。そのまま間髪入れずに地面に転がっていた拳銃を勢いよく踏み潰した。細かい鉄のかけらが飛び散り、見て分かるほどに銃身が歪む。

 呆然と座り込む俺を、黒い覆いに隠された目がじっと見下ろす。顔全体を覆う赤と黒のスリムなヘルメット。赤色の地に黒のラインが走るライダースーツのような服には、関節や胸を守るためのものかシルバーの装甲のようなものがついている。

「怪我は?」

 短い問いに首を横に振ると、その人はしっかりと頷いて踵を返した。もうこちらを振り向くことさえしない。

「武器を捨てて投降しろ! お前たちはすでに包囲されている。大人しくしていればこれ以上の危害は加えない」

 厳しい声音での警告が覆面たちに叩きつけられる。包囲されているという言葉の通り、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、武装した警察官が周囲を取り囲んでいる。それでも覆面たちはどこか迷いのある動作で、敵意を、武器をその人に向けた。ふっと短いため息が聞こえる。

「ダメだ。許可を。安全の確保が最優先だ」

 その呟きから短く間をおいて、その人は小さく頷いた。

「ありがとう。気を付ける」

 たっ、と地面をける音がして、赤い影が走り出す。腰のベルトに差してあった警棒を素早く引き抜き、近くにいた男の小銃を叩き落とした。バランスを崩してよろける男の腕を取って引きずり倒す。どういうわけか、倒された男はしばらく身動きが取れないようで這いつくばったまま呻いている。

「っあぶな……!」

 警告の声が届く前に、まっすぐに飛んできた瓦礫を握った拳で弾き飛ばし、振り向きざまに警棒を投げつける。

「うぉっ……!」

 警棒をかろうじて避けた男に、距離を詰めた赤い風が襲い掛かる。

「抵抗するな、と言っている!」

 そこはかとなく苛立たしげな叫び声をあげたその人は、覆面の胸ぐらをつかんで引き寄せ、勢いよく頭突きをかます。がくんと膝を折った男を軽く揺さぶって、赤い怪人はよく通るアルトで冷たく尋ねた。

「主犯は君だな。適合者が一人しかいないうえに、こんな雑なやり方で人攫いだなんて……どれだけ切羽詰まっているんだ。独断か?」

「うるせえ! 警察の犬め、お前みたいな奴がいるから、いつまでたっても理解されねえんだ!」

「警察に協力はするが、私の所属は組合だ。根拠のない言いがかりは止してもらおう」

 ダメ押しのように頭突きをもう一発。白目をむいた男をそっと地面に横たえさせると、駆け寄ってきた警察官の問いに答えてどこかへ行こうとした。

 その背中が昼に見たものと重なって、考えるより先に口が動いていた。

「先輩! 皆方先輩でしょう!」

 手に縋りつき、声を振り絞って引き留める。今のは、今のはなんだ!? 聞き覚えのある声、見覚えのあるフォーム、そして、俺を呼んだらしきその呼び方! じっと見つめるとその人はふらふらと首を横に振った。

「違う」

「他の人が呼ばない呼び方しながらしらばっくれんのはやめてください! 何着て何してるんですかアンタ!」

 周囲の人たちや警察官がざわついたのが分かったが、そんなことには構っていられない。

「だ、だから私は違うと……」

「嘘つくならそんな分かりやすく動揺しないでほしい! 説明してくださいよ、アンタ、いったい何者なんですか!」

 怪傑……じゃなくて先輩(仮定)は振り払おうにも振り払えないと言った様子でぐずぐずしていたが、不意に耳に手を当ててぼそぼそと何かを呟いた。

「なに……いや、彼は……しかし……むむ……」

 ちら、とメット越しの視線を向けられて背筋が伸びる。

「シノ……いや、品川。今からついてきてほしい場所がある。そこで全て話す」

「やっぱり、先輩なんですね」

「そう連呼するな」

 短く吐き捨て、膝立ちになっていた俺をぐいと引き上げて立たせると、先輩は額がくっつきそうなほどに顔を近づけた。

「そこでのことは他言無用、絶対に話さないこと。分かったな」

 低い声で念押しされ、慌てて首を縦に振る。感じたこともないような迫力だった。何が何だか分からない分、漠然とした不安が募るばかりだった。


「先輩」

「…………」

「先輩ってば……」

 警察官を簡単に振り切ってずんずん進む先輩は、何度呼び掛けても沈黙を貫き通していた。ヘルメットの色が赤から黒に変わっているのに気が付いて、でも聞いても答えてくれないだろうと困っていると、先輩はするりとヘルメットを脱いでしまった。

「あれに乗れ」

 先輩が指さしたのは白のミニバンだった。個人の持ち物ではないのか、車体に何か書かれていたが、読む前に車内に押し込まれる。

 無言の車内で気まずく身を縮めていると、先輩が不意に俺を呼んだ。

「シノ」

「へぁ、はい!」

「さっき、子供を助けようとしただろ」

 驚いて先輩を見ると、きょろりと視線だけこちらに寄越して端的に俺を褒めた。

「偉かったな」

「は、はい……ありがとうございます?」

「なんでお前が礼を言うんだ。変なやつ」

 それっきり先輩はだんまりを決め込み、俺はほんの少しだけ落ち着いて待つことができた。連れてこられたのはよく分からない研究所のような場所だった。黒いジャケットを羽織った先輩に質問しても全然答えてくれないため、詳細はよく分からないままだ。ぷしゅ、と空気が抜けるような音がしてドアが開く。清潔そうな白い壁と、よく分からない機械や部品が整然と並べられた部屋。

「ここは……」

「特殊地下資源研究所、略して特地研だよ」

 気さくな声がした方を向けば、少しばかり皺のついた白衣をまとった穏和そうな男性が微笑んでいた。

「二人ともお疲れ様。大変だったね」

「そうだな」

 男性の労いに短く答えた先輩の表情からは、さっきよりいくらか険しさが抜けているようだった。

「初めまして、品川広夢君。僕は山下(やました)春樹(はるき)。一応皆方の上司にあたるものだ」

「初めまして、品川です」

 杖を突いて立ち上がった山下さんの握手に応じ、勧められるまま小さな椅子に腰を下ろす。人あたりのよさそうな笑みに、ほんの少しだけ安心する。

「飲み物でも淹れよう。何がいい?」

「え、いや……」

 一瞬ためらったのを見かねたのか、先輩は山下さんの肩に手を置いて座らせると、こちらを一瞥した。

「私が淹れるから、ハルさんは座ってていい。コーヒーと緑茶と紅茶があるが、どうする」

「じゃあ、コーヒーで」

 軽く頷いた先輩が給湯室のようなスペースに消えると、山下さんは穏やかに、労ってくれた。

「今日は災難だったね。疲れてるだろうにわざわざ来させてしまって申し訳ない」

「いえ、大丈夫です」

 落ち着かない気分で周りを見回していると、山下さんは腕を組んで首をこてんと傾げた。

「さて、何から説明したものか。皆方の境遇はなんとも複雑でね、一つのことを説明しようとすると君が知らないことをいくつも教えなくちゃいけなくなるし、教えられないことも山ほどある。きちんと答えられるかどうかは保証できないけど……まず、何から聞きたい?」

 何から、と口の中で呟いて、混乱を引きずったままどうにか疑問を形にする。

「先輩は……皆方さんは、一体何をやってる人なんです?」

「結論だけ言えば、警察の手伝いみたいなものだ。警察が事件に際し協力が必要だと判断したときにのみ呼び出される。彼女の能力あってこその話だけどね」

 最初から用意してあったかのような滑らかな回答だった。

「能力というのはなんですか」

「メタモロイド、という物質は知ってる?」

 質問に質問で返された。きまり悪く首を横に振ると、飴玉サイズの透明な球体を手渡された。

「これのことだよ。特定の条件を満たした人間の体に大きく作用するものだったんだ。身体能力の強化とか、細胞の強度が変わる。主に経口摂取で血中濃度を上げて、」

「なるほど……?」

「ついでに言うと、皆方のような警察への協力者って実は結構多いんだ。僕たちはその協力者のとりまとめみたいなことをやらせてもらっている感じかな」

 話が難しくなってきたな、と思っていたところで、先輩がコーヒーを手にやってきた。

「砂糖、もう入れちゃったが大丈夫か」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 軽く頭を下げて、黒い液体に口をつける。熱くて甘くて、ほんの少しだけ苦い。体の力が抜けて、思っていたより緊張していたことに気付く。

「皆方」

 ぽん、と放り投げられた透明な球体を、先輩は慌てることなくキャッチした。山下さんが「見せてあげて」と先輩に言うので遠慮なくのぞき込ませてもらうと、透明だったはずのそれに赤い色が差している。じわじわと赤い色が広がっていく様子はあまりにも幻想的で美しく、見入っていると先輩は無言でそれをポケットに突っ込んでしまった。

「こんな風に、適合者の手に渡ると色が変わる。まあ不純物をある程度取り除かないとこうはならないんだけどね」

「はあ……」

「一応限りある資源だから、使うには許可が必要だけど……他に使い道がないものだから、まあそういう制約はあってないようなものだね」

 他には? と視線で尋ねられ、ずっと気になっていたことがつい口を突いて出た。

「それで……あの赤い服って何なんです? さっき先輩が着てたのは」

 先輩が着ていたあのスーツ。思い返してみれば、さっき見た赤と同じ色であると気付いた。思ったよりも期待が滲んでしまった口調に、山下さんが待ってましたとばかりに顔を輝かせる。

「あれはメタモロイドを効率的に利用するための特殊スーツだよ! 使用者の体内のメタモロイド濃度によって色が変わる仕様なんだ。メタモロイドの摂取した新しい研究成果が出るたびに機能、デザインともども改良を繰り返して今に至る。もちろんこれからも改良は続くよ? あのデザイン、かっこいいだろ?」

「それはもう!」

 勢い込んで頷く俺に、先輩が若干引いている。力強い肯定に顔を満足げな山下さんに重ねて尋ねる。

「あれ、銀河戦隊リュウセイダーのデザイン参考にしてたりしません? ヘルメットはそんな感じしないですけど、手首とか、肩とか」

「ああ、分かっちゃう? ちょうど見てた世代だもんなあ! 実はそうなんだよ。僕もリアルタイムで見てたらはまっちゃってさ。つい出来心でね」

「俺は最近見直し始めたばっかなんで気付いただけなんですけどね」

 私はそんな話聞いてないぞ、と先輩がぼやいたのが聞こえたが、山下さんは見事に黙殺した。

「顔を隠しているのは協力者の個人情報保護の観点からなんだけど、どうせならデザインにもこだわりたいなと思ってね。設計に無理言ってああなった」

「見た目は大事ですよね、分かります。めちゃくちゃ格好良かった……!」

 感嘆の吐息を漏らす俺を信じられないと言いたげな目で見て、先輩は苛立たしげに言った。

「分からんでいい。なんか他に聞くことあるだろ、私が何してるのかとか!」

「いやそれはさっき聞いたので……」

 顔を赤らめた先輩がぷいとそっぽを向く。イライラした時に足の爪先で床を叩く癖は高校時代から変わってないようだ。

「聞いてないぞ、道理で私のスーツが他と大分違うわけだ……職権乱用だ……」

 ぶつぶつと不満を漏らす先輩を、よく分からないまま慰める。

「大丈夫ですよ先輩、めちゃくちゃカッコよかったですし。まあ頭突きはヒーロー的にどうかと思いましたけど」

「別にヒーローじゃない。……リュウセイダ―? って、どんなやつなんだ」

 先輩に小声で尋ねられ、ポケットの中を探って四センチほどのキーホルダーを取り出す。

「これがリーダーのリュウセイレッドです。メンバーは全部で五人で、協力して宇宙からの侵略者を倒すんですよ」

「……言われてみれば、手の辺りが似ているな」

「それ、いつも持ち歩いているのかい?」

「え? そうですけど……この間実家の片づけしてたら偶然見つけて、懐かしくて。お守り代わりに持ち歩いているんです」

「物持ちがいいんだね」

 そう言ってほほ笑んだ山下さんが、時計に視線を走らせて瞬きした。

「もう時間も遅いし、そろそろお開きにしようか。最後に何か質問は?」

 最後に一つだけ聞きたいことがあったが、先輩の前で聞くのはどうにも憚られてしまった。頑固にこちらを見ない先輩に一瞬視線を向ける。

「皆方、ちょっと頼まれてくれるか。終わったら休んで構わないから」

 先輩を手招きして何事か囁いた山下さんに先輩は「分かった」と頷いた。

「……今日は早く休めよ」

 そう言い残して出て行った先輩の、憂えるような眼差しが妙に記憶に焼き付くようだった。山下さんがいたずらっぽく片目を閉じてみせたのは、気を遣ってくれたということなのだろう。短く息を吸い込んで、慎重に言葉を選ぶ。

「一度だけ、あなたのことを見たことがあります」

 意外そうに目を丸くして、山下さんは先を促した。

「二年前……確か、三者面談か何かがあった日だった。学校で、あなたと先輩が一緒にいるところを見たんです。でも、あなたは先輩の上司だと……それは、どういうことなんですか」

「……君は記憶力がいいんだな」

 感心したようにため息をつき、山下さんは天を仰いだ。俺は俯いて首を横に振る。

 覚えていたのは多分、当時先輩から三者面談について相談を受けたことがあったのと、この人の杖を突いた後姿が印象的だったからだろう。優しいな、と微笑まれたことまで思い出してしまって、妙に気分がささくれる。

「成人には後見人は必要ないんだよ。僕は今や単なる元後見人で上司だ。言えることはそれくらい。後は皆方から聞いてほしい」

「……難しいんですね」

「きっと僕の考えすぎなんだろうけどね」

 そう言った山下さんの困ったような笑い方がどこかの誰かを思い出させるものだから、やっぱり難しい、と小さく独り言ちるくらいしか俺にはできなかった。その後は普通に家まで送ってもらい、風呂に入って寝た。夢も見ないような熟睡だったのは多分、幸運なことだったのだろう。


「シノ」

「ふぇんぱい」

 呼びかけられてもごもごと答えたら顔をしかめられたので、口の中の天ぷらを飲み込み、ぺろりと唇をなめる。

「よく気付きましたね、混んでるのに」

「気付くも何も、お前この間もこのあたりの席に座っていたじゃないか」

 海鮮丼をテーブルの上に置き、断りなく隣を陣取った先輩に怪訝な視線を向ける。

「で、何の用です? 見かけたから声かけただけ……というわけではなさそうですね」

「当たり前だ。釘を刺しに来た」

 気難しげな表情でなんだか不穏なことを言う先輩である。視線を険しくし、ぴしりと指を突き付けて言った。

「いいか、繰り返しになるが昨日見たこと聞いたことは他言無用だ。あの仕事のことは大学内では秘密にしている。だから大学内でもあんまり関わってくれるな。いいな」

 剣呑な雰囲気に若干気圧されるも、ふと疑問になって首を傾げる。

「別に構いませんけど、別にそれわざわざ言いに来なくてもよくないですか?」

 きょとんと目を丸くした先輩に重ねて説明する。

「学部も学年も違うのに会う機会なんてそうそうないでしょって話ですよ。だってこの間初めて気づいたくらいなんですよ?」

「むう」

「それに、言うなって言われたなら誰にも言いませんよ。というか誰に話せって? 共通の知り合いもいないのに」

「むむ……」

 むぐむぐと海鮮丼をほおばる先輩に苦笑して、少なくなっていた水をぐいと飲みほした。

「先輩がそうしたいなら俺は別に構いませんよ。お互い干渉しすぎないようにしましょう」

「しすぎないように、じゃない。干渉しないんだ」

「はいはい。手厳しいことで」

 空になった丼を見下ろして、紙ナプキンで口元を拭う。ごちそうさま、と手を合わせて席を立った。

「じゃあ、俺はこれで」

「ああ」

 トレーを片付けて食堂を後にする。軽く頬に触れて、顔をしかめる。すげない言葉に傷ついたような顔してなかっただろうか。あの人の言い分は極めて正しくて、だから別に悲しんだりする必要はないんだ。自然と漏れたため息がどうにも煩わしくて、がしがしと頭を掻いた。平常心、平常心。あの人が遠い記憶だった頃に戻ればいいだけだ。


 そう、自分的には結構悲壮な決意を固めた日から一週間も経たないうちに、食堂でまた先輩に声を掛けられた。妙に周りを気にしている様子の先輩に、皮肉に口元を吊り上げる。

「今日はどうしたんです? 干渉しないんじゃなかったんですか?」

「すまないが、そうも言ってられなくなった。なるべく早いうちに話がしたい」

 どこか余裕のない表情に、棘のある言葉を投げたことを早速後悔した。しおらしい先輩を見ているのがどうにも忍びなくて、端的に用件を問う。

「ここでは話せない。あの場所にまた来てほしい。お前が指定した時間に迎えが来る手はずになっている」

 低い声で囁かれ、請われるままに空いている時間を答える。バイトが終わってからで遅い時間だったのだが、先輩はあっさりと了解して、来た時と同じように唐突に去って行ってしまった。

「あのかっこいい人、誰だ? 知り合い?」

「高校の時の先輩」

 何か聞きたそうにしている友人の視線を無視して、最後の一口を飲み込む。あの深刻な表情を見るにきっと穏やかな話ではないはずなんだけど、先日の釘刺しで若干落ち込んでいた気分が回復したのは、我ながら気楽で現金だな、と思った。


 バイトが終わり、一言も口をきこうとしない先輩に連れられてやってきたのは予想通りに研究所の一室だった。

「また呼び出してしまって申し訳ない。ちょっと楽観視できない事態が起きた」

 深刻な表情の山下さんに出迎えられ、ぴしりと背筋を伸ばす。

「先日君が巻き込まれた事件があっただろ、あれ、実は警察に協力していない適合者のグループからきた人らでね。要するに反社会団体なんだけど。あの場にいたのは全員逮捕したと思ってたんだが、どうやら一人、逃げて拠点に戻ったやつがいたらしい」

 ここからが本題なのだけど、と言葉を切り、山下さんが困った顔をする。

「見せていいもんだと思う? あれ」

「見せなきゃ話が進めにくいと思うけど、本人のいる前で言うのはよくないと思う」

 よく分からないことを言う二人だったが、なんだかんだで見せる方向で同意したらしく、渋々と言った様子で分厚い封筒を手渡してきた。中身を見ろ、ということらしい。

「……なんです、これ」

 声が震えて上ずるのが嫌でも分かった。見ても分からなかったとか、そういうわけではない。それ自体は全く普通の、何の変哲もない写真だ。膨大な枚数がある写真の全てに俺の姿が映りこんでさえいなければ。合成ではないことは写真の背景がここ最近行った場所に限られていたことから分かる。写真を撮られた覚えは、一度としてない。

「私たちは、これを脅迫だと考えている」

 写真と封筒をぱっと取り上げ、先輩はぎゅっと眉間の皺を深くする。

「何が目的なのかは未だ不明だが、少なくとも、お前の身元があっちに割れている。警察協力者の関係者としてな」

「それをわざわざこんな形でこちらに知らせてきたということは、こちらに対する牽制か、それとも君に何か危害を加えるという予告なのか……一応警察には通報したけど、本人からの通報じゃないから対応しかねるって言われた」

 苦虫を噛み潰したような顔の山下さんは、姿勢を正してひたりと俺の目を見据えた。

「何かしらの被害が出ないと警察は動けない。だから、何か起きる前の警戒は特殊地下資源研究所及び、メタモロイド適合者組合で協力してあたる」

「具体的にはどうするんです?」

 そう尋ねると、山下さんの顔から表情がすとんと抜け落ちた。なんだなんだ急に、そんな俺を責めるような目で見て。平淡な声で続いた言葉は、全く予想外のものだった。

「調べてみたら、君のアパートの隣の部屋って今は空いているそうだね。そこに皆方が住む」

 一瞬、何を言ってるのか本当に分からなくなった。

「住む? 先輩が? 隣に?」

「うん。いや僕もどうかと思うんだけどね、結局それが一番確実だよねって結論が出ちゃったんだよね腹立たしいことに」

 山下さんが語尾に本音をねじ込むと、先輩がわざとらしく咳払いをした。山下さんはひゅっと真面目な顔に戻って、何事もなかったかのように続けた。

「これは君に害が及ばないようにするためでもあるし、メタモロイド適合者の犯罪を未然に防ぐためでもある。君には負担を強いることになるけど、どうか我慢してほしい」

 むすっとしたまま黙りこんでいる先輩の方を見やって、山下さんは眉を八の字にした。

「ここまで一方的に話してしまったけど大丈夫かな。君が無理だというなら、強要はできないのだけど……」

「守ってもらう立場で文句なんか言えませんよ。それより先輩はいいんですか?」

「何が」

「何がって、引っ越しですよ? 準備とか大変だろうし、最寄り駅だって変わるし」

 先輩は表情一つ変えずに「問題ない」と言い切った。

「費用は私持ちじゃないし、今の部屋だってここに近くて大学にも行きやすいから選んだだけだしな」

 そういうことじゃなくて、と言いかけた言葉を飲み込んで「分かりました」と頷く。

「とはいえ、君にしてほしいことと言えばこれまで通り普通に生活してもらうことだけだ。できる限り皆方と一緒にいてほしいけど、その辺は二人とも生活リズムが違ったりもするだろうから、無理はしなくていい」

 山下さんは真剣な表情をほんの少し緩めてこう締めくくった。

「これはあくまで警戒であって、実際に何か起きるって決まったわけじゃない。気は抜かないでほしいけど、そこまで悲観しすぎないでほしい」

 そう言われても、急な話すぎて現実かも分からないくらいなんだよなあ。そんな本音をしまい込んで、深く頷いた。


 先輩は引っ越してきてからほぼ毎日一度は俺と顔を合わせるようになった。基本昼は食堂で食べるようにしていると告げれば、俺が食堂に行くと先輩も必ずいる(ただし一緒に食べるわけではない)という図式が出来上がり、この人結構まめだな、と意外な発見をした気分になった。今だって俺が部屋から出ると、鍵を閉めようとしたタイミングでひょいと顔を出した。結構耳ざとい。

「バイトか?」

「いや、今日は休みです。今から行くのは買い物」

 先輩はさっと扉の中に引っ込むと、小さな鞄一つ持って再び顔を出した。

「私も行く。場所が分からないから案内してくれ」

「構いませんよ」

 並んで歩くと、この人意外と小さいな、と思ってしまう。ヒールの靴を履くとそれなりに見えるが、多分平均の域は出ないだろう。姿勢がいいのとやたら落ち着いているので実際より大きく見えるのかもしれない。

「あまりじろじろ見るな。何を買いに行くんだ?」

「普通に食料ですよ。今日、卵が安いみたいで」

「それはありがたいな。私も買っていこう」

「先輩、自炊するんですか」

「そりゃするさ。たいしたものは作れないけど」

 そのあと小さく付け足された一言に、なんと返事したものか言葉に詰まる。

「ちゃんとできるようにならないと、一人暮らしさせてもらえなかったから」

 一瞬、これがチャンスかとも考えた。複雑そうな先輩の家庭環境、興味がないかと言われればもちろんある。これを機に尋ねてしまってもいいのか、とも思ったが。

「それをちゃんと続けられているのが偉いですよね」

「そうでもない。必要なことだ」

 無難に褒めて話を流した。一緒に買い物に行くのに気まずくなっても嫌だし。どうでもいいがこの人褒めてもとことんそっけないなあ。

「先輩は何買いに行くんです? 卵以外で」

「お前とたいして変わらない。日用品は大体持ってきてるからな」

 こういうことを言われると罪悪感が募る。つい忘れてしまいそうになるが、この人、俺のために引っ越ししてるんだよなあ。申し訳なさが顔に出たのか、先輩はちらと俺の方を見てぽつりと呟いた。

「そんな顔するな。私は別に気にしてない」

「そう言われて気にしない方が無茶ですよ。部屋の片づけとかもう済んだんですか?」

「大体は終わった。ところで、ダンボールはいつ出せばいいんだ?」

「資源ごみですか? いつだったかな……帰ったら確認するんでまた言ってください」

「分かった」

 そんな所帯じみた会話をしていると、近所のスーパーに到着する。そこから別々に欲しいものを買いに行った。必要な物だけ買って会計を済ませて待っていると、俺より大分時間をかけて先輩がやってきた。

「悪いな、待たせたか」

「いえ別に。今終わったばかりなんで」

 先輩は一瞬目を丸くして、口をへの字にひん曲げた。

「嘘をつけ嘘を。大分前からここで待ってたの見えてたんだからな」

「バレてました?」

 じっとりとした視線をへらへら笑ってやり過ごす。目もいいんだからなあ。先輩はふいと視線を逸らすと、俺の持つレジ袋を見てまた視線が険しくなった。

「普段どんな食生活をしているんだ」

 袋からはみ出したカップ麺をつつかれ、さっと手を引っ込める。

「非常食ですよこれは! そんな変なもの食べてませんって。野菜はちゃんととってますから」

「どんなふうに?」

「炒めたり茹でたり蒸したり。味付けは基本塩だけで済ませてますけど」

「お前それ、生きてて楽しいか?」

「そこまで言うことないでしょう! 栄養が取れてるからいいんです」

 ひどい言われようだが、まともな料理をしたことがないのは本当だ。ひっそり恥じ入っている俺を先輩は横目で見ていたが、「帰るか」と呟くとさっさと歩きだしてしまった。調味料やらなにやらがはみ出したエコバッグは見るからに重そうだ。

「荷物持ちましょうか?」

「必要ない」

 あまりにもあっさり断られて若干肩を落としていると、先輩はちょっと困ったように眉を下げた。

「本当に必要ないんだ。メタモロイドの影響で体は頑丈になっているし、そうでなくても鍛えてるから、気を遣ってもらう必要はない」

「左様で」

 先輩は何故俺が落ち込んでいるのか分からないという顔をしている。戸惑いと、やってしまったという後悔が滲んだ表情。俺だってこんな風に落ち込むのは不本意なのでそんな目で見ないでください。純粋に余計なお世話だったというだけの話じゃないか、こんなの。

 

 言葉少なに先輩と別れ、食材を冷蔵庫に適当に突っ込んでパソコンを開く。調べるのは今までほとんど知ることのなかったメタモロイド適合者、その実態についてだ。結論から言ってしまえば、山下さんから聞いたような情報はあったものの、それ以外はよく分からなかった。

 続けて検索したのは先日の事件についてだ。ニュースサイトの類には事件の概要しか載っていなかった。赤いスーツの協力者も、メタモロイド適合者の話も一切ない。あの場にいた目撃者が個人のブログか何かに書き込んだりしてはいないかと探してみると、何件かは見つかったが画像や動画はピントの合っていないものばかりで、撮影した本人たちも先輩がどういう存在かを知っているわけではなさそうだった。

「俺も写真撮っとけばよかったな……」

 無意識の呟きにはっと我に返る。そりゃあの時の先輩は大層格好良かったが今はそういうことを考えているんじゃないんだ。

 公開されている情報がそれほど多くないのは、社会的関心が低いせいか? 公開されていること以外にもいろいろありそうな気もするんだけどな……。

 そんな風に物思いにふけっていると、インターホンが鳴らされた。扉を開けると、先輩が何故か両手鍋を持って待っていた。

「出かけていたらどうしようかと思っていた。どうか私のパスタを助けてやってはくれないか」

「は? もうちょっと具体的に説明してくださいよ」

 何やら焦っている様子の先輩の話を聞けば、夕飯の支度を始めたタイミングで例の仕事の出動要請が来てしまったらしい。扉を開けて戸惑う俺に、先輩はおろおろと困り顔で鍋を押し付けてくる。熱いってば。

「どうせ早くは帰ってこられないから、こいつを食べてやってほしいんだ」

「そんなの急に言われても困りますよ……」

 困り顔で鍋を押し返すと、先輩は申し訳なさそうに眉を下げて、鍋を引っ込めようとする。

「もしかして、夕飯何を作るかもう決めてたのか?」

「いや、まあ決めてなかったんでこっちからすればありがたいんですけどね」

 結局パスタは俺が引き取ることになった。鍋を火にかけてタイマーをセットしていると、「品川」と低く名前を呼ばれた。振り返るとソースが入ったフライパンを持って入ってきた先輩が、開きっぱなしにしていたパソコンの画面を見つめて険しい顔をしている。ぎくりと体を強張らせると、鋭く睨みつけられた。

「……知る必要のないことだ、こんなのは。余計な詮索はするな」

「それを決めるのは先輩じゃありませんよ」

 どうにか冷静に切り返すと、先輩は鍋敷き代わりに出しておいた雑誌の上にフライパンを置くと無言で出て行ってしまった。せめてブラウザは閉じておくべきだったな、と反省して、鍋の隣にフライパンを置く。

 先輩はどうも俺にいろいろ詮索されるのが嫌なようだ。思っていた以上に頑なで、そう簡単にはいかなさそうだけれども……けれどこのまま黙って引き下がるつもりはない。そう決意を新たにして、茹であがったパスタをソースに絡めて食べた途端、電撃が走った。

「……美味い」

 多才でありながらそれ以上にいろいろ複雑で、おまけにやたら頑固とくる。ややこしい人との縁が復活してしまったが、まあ凡人は凡人なりにやれることをやるだけだ。


「やれるだけのことを、と思って来てみたはいいが……」

 やってきたのは特殊地下資源研究所。事件直後とさらにその後と二回訪れているが、どちらも先輩に連れられてのことだったので、一人で来るのは初めてだ。何をしに来たのかと聞かれれば、今回に限って言えば単なる様子見。この研究所は表向きは地下資源の研究施設ということになっているので、見学か何かできないかと調べてみた結果、電話での申し込みを経てこうなった。ちなみに先輩にはバイトと噓をついてある。インターネットだけでは調べるのに限界があると思ったので、直接出向いてみることにしたのである。

 運が良ければ先輩に知られず山下さんと接触することができるかもしれないと思ったが、流石にそこまでは期待できない。仕事忙しいだろうし。受付で見学を申し込んだことを告げると、少し待たされてから白衣の男性に案内されることになった。

 メモを片手に、研究所を練り歩く。案内してくれる人の説明は丁寧でゆったりとしていたが、見たこともない機械に聞いたことのない専門用語の洪水で、メモをとるのでいっぱいいっぱいだ。

 紙を汚い字とスケッチで真っ黒にしながら説明に目を丸くしていると、案内人の白衣のポケットから無機質な電子音がした。ちょっと失礼、と通話に応じた声が、驚きに軽く裏返った。

「え、山下さんが? ああなるほど」

 ちらとこっちを見て苦笑したその人は、一つ二つ頷いて通話を終えると、ちょいちょいと手招きしてこう言った。

「少し移動しよう。次は見学じゃなくて座学になるかもね」

 はあ、とよく分からないまま頷き、ついていく。小さな中庭のようなところに出ると、建物の陰にひっそりとあるベンチに見覚えのある横顔を見つけた。

「山下さん!」

「やあ、久し振り……でもないね。こんにちは」

 ベンチに腰掛けた研究者は、ひらひらと手を振って微笑んだ。

「見学希望者なんて珍しいなと思ったら、見覚えのある名前で驚いたよ。結構行動力があるんだね」

「別にそんなことないです。俺もまさか山下さんが来てくれるとは思ってませんでした」

「皆方の後輩がわざわざ足を運んでくれたんだ、出迎えないわけにもいかないさ」

 そこで山下さんは急に声をひそめ、「このこと、皆方は知ってるのかい」と尋ねてきた。そこを聞かれると痛い。

「先輩は俺がバイトに行ってると思ってます。ここに来たって知れたらいい顔しないと思うんで、どうかご内密にお願いします」

「だろうね。それで? 内緒にしてまでここに来た理由、何かあるんじゃないかい?」

 まさか見学だけしたかったわけじゃないだろ、と微笑まれ、小さく頷く。話が早くてありがたい。

「できる限り詳しく、メタモロイドとその適合者について知りたいんです。ネットで公開されているのはメタモロイドそのものに関することばかりで、先輩の――適合者の人達のことは分からなかったので、直接調べに来ました」

「そりゃまた行動が早いなあ。ちなみに僕に話を聞けなかった場合はどうするつもりだった?」

「普通に見学して帰るつもりでしたよ? 先輩は教えてくれそうにないし、山下さんの連絡先も知らないし。だから気付いてもらえてラッキーでした」

 そう答えた俺に山下さんは何も答えず微笑んで、案内の人に何事か告げた。

「じゃあ、君の質問に答えることにしよう。座れるところに行こうか」

 案内人が変わるみたいだ。今まで案内してくれていた人に頭を下げ、顔見知りの研究者についていく。

「とはいえ、答えられることは多くない。機密を話すわけにはいかないのはもちろんなんだけど、僕たちにも分かってないことがたくさんある。きっと今のデータもすべてが正しいわけじゃないんだと思う。それでも構わないかい?」

「何も分からないよりよっぽどいいです」

 そうきっぱりと答えれば、山下さんはやけに嬉しそうに頷いていた。休憩室のような場所に通され、小さなテーブルを挟み向かい合って座る。

「適合者かどうかを調べるのは、まず最初に出生時。諸々の検査と一緒に行うんだが、大体の適合者はここで分かる。適合者だとわかったら親に告知して、最寄りの専門機関……つまりこことかの相談窓口を紹介して、役所には出生届と一緒に適合者証明書を出すことを説明する。生まれてから一年以内に一度は専門機関で講習を受ける必要がある……いろいろやることがあるわけだ。その後は三年に一度、身体検査を奨励してるんだけど……受けてくれる人は多くはないね。送った書類が悪いのかなあ……」

 ざかざかとメモを取る合間にため息を落とされる。その書類を見たことがないので分かんないです、と首を横に振ると、そりゃそうだねと頷かれる。

「メタモロイド適合者は、メタモロイドそのものがなければそうでない人たちと全く変わらない……なんてことであれば話はもっと簡単だったんだけどね。たまに、突然身体能力が跳ね上がって駆け込んでくる人たちもいる」

 一瞬痛ましく歪んだその表情に、ぴんと思い当たる節があった。

「先輩もそうだったんですか」

「勘がいいね。もっとも知識があった分、対応は落ち着いたもんだったけど。部活をやめると突然言われたときは、むしろこっちが慌てちゃったよ……」

 ふっと説明を区切った山下さんが、遠くを見るような目をした。多分その時のことを思い出しているのだろう。先輩が部活を辞める時に一悶着あったのは覚えているが、まさかそんな理由があったとは。

 メモを取るのも忘れてふんふん頷いていると、山下さんははっと背筋を伸ばして照れくさそうに頭を掻いた。

「話がそれちゃったね。他に何か聞きたいことは?」

「ここでは適合者の研究もしてるのに、その辺の情報開示はあんまりしてないですよね。どうしてです?」

 ちょっと困った顔をして、山下さんは指折り理由を挙げてくれた。

「個人情報の保護が一番の理由かな。後は、個人差が大きくてデータがほとんどまとまってないとか、そもそも聞きに来る人も少ないよね。関係者にはこっちから説明するし」

 納得してもらえたかな、と微笑まれ、メモを取る手を止めて頷く。

「……なんというか、思っていたより病人みたいな扱いをされてるんだな、と思って」

「実際病気みたいなものだよ。ある日突然、自分の体が思い通りに動かなくなるようなものだからね。皆方みたいにコントロールするのはすごく大変なことなんだ」

 ページの端に「大変」と書き込み、取ってきたメモを読み返す。無言になった俺に山下さんは不思議そうに尋ねた。

「どうかしたかい? 分からないことでもあった?」

「いえ、そうじゃなくて。自分で言うのもなんですけど、急に来たのにここまで親切に対応してもらえるとは思ってなかったので……」

「それを自分で言っちゃうか! まあ、こうしようと思ったのは僕の意思だし、それほど気にしなくていいよ。それに、皆方に興味を持ってもらえるのはうれしいからね」

 小さくため息をついて、山下さんは目を伏せた。

「あの子が友達を作りたがらないのは、まあ本人のコミュニケーション能力にも原因があるにせよ、結局は自分の問題に周りをかかわらせたくないからなんだよ。君との再会だってずっと後悔している」

 歯に衣着せぬ物言いが、胸にざっくり突き刺さる。予想できていたこととはいえ、こうもはっきり言われると……。顔を上げるとやたらにこにこしている山下さんと目が合って、つい視線がじっとりと湿る。

「何笑ってるんですか」

「いや、そんな顔するとは思わなくて……皆方に聞いてた話だと、君とはそんなに仲が良さそうじゃなかったから。結構慕ってくれてるんだなーと思って」

「俺、やっぱり嫌われてますか」

 暗い声で尋ねると、山下さんは慌てて首を横に振った。

「やっぱりってどういうことだい? 違うよ、君があの子のことをそんなに好きじゃないのかと思ってたからさ。うん? ということはそうか、あの子が君に嫌われていると思っているのか? まあそれはいいや」

 個人的にはまあよくないんだけど、流されてしまったので仕方がない。

「君が巻き込まれることを良しとしてないから、詮索も嫌がるしわざとつんけんしてるんだろうね。内心さっさと見限ってほしいんじゃないかなあ」

 ぐっと眉間に皺を寄せた俺を、山下さんは穏やかに見つめていた。

「まあ、あの子は人に迷惑をかけるのが極端に嫌いなだけであって人嫌いなわけじゃないから、根気よく付き合ってあげてほしいなというのが僕の本音です。本人には言わないでね、きっと怒るだろうから」

「言いませんよ。山下さんに会ったことがバレた時点で絶対怒られるんですから」

 顔を見合わせて力なく笑ってから、口から小さく不安がこぼれた。

「結局、先輩は俺のことどう思ってるんですかね?」

「好きでも嫌いでもないんじゃない? 彼女にとって適合者以外は等しく守るべき者だ。顔を知ってるか知らないかくらいの違いしかなかったりしてね」

 どこか冷ややかな声と、残酷で、しかもなんとなく分かってしまうような言葉に表情が強張るのが分かった。

「まあこれは僕の主観だから、本当のところは本人に聞かないと分からないかな。そういう君はどうなんだい? あの子のこと、どう思っているの?」

 にやりと意地悪く笑われて、一瞬だけ言葉に詰まる。けどこんなのは高校の時から繰り返し聞かれたことだったから、答えは自然と口から滑り落ちた。

「尊敬できる先輩ですよ。格好良くて、憧れの人です」

 自分で言っていて、でも今はきっとそれだけじゃないと思ったので、考えがまとまらないなりに小さく付け足した。

「隠し事が多い人みたいだから、本人の口からいろんな話を聞けようになったらいいと思ってます」

 山下さんの微笑ましいものを見るような視線に顔が熱くなったのは、きっと墓まで持っていく秘密になるだろう。なんともいたたまれない。山下さんは帰る前になって、先輩に内緒という条件を付けたうえでこっそり連作先を交換してくれた。

「何かあったら気軽に連絡してね。すぐに何かできるわけではないだろうけど」

 わざわざ出口まで来て見送ってくれた山下さんに頭を下げて帰路に就く。そういえば山下さん自身の話はほとんどしてくれなかったな、と帰る途中で気付いたが、今更どうしようもないことだった。


 望外の収穫は嬉しくもあり、ほんの少し疑問が残ったこともあって複雑極まりない心境になってはいたが、何食わぬ顔で部屋に戻る。ひょいと顔を出した先輩に「お疲れ」と簡単に労われ、一瞬だけ目が泳ぐ。

「……ええ、お疲れ様です」

 いつもは先輩の方から「今日は何かあったか?」と聞いてくるのに、それがなくて二人揃って沈黙する。シノ、と小さく呼ばれて、自然と足がそちらを向いた。

「いや、その……この間は言い過ぎた。ごめん」

 気まずそうな表情で謝られた瞬間、思考が止まった。謝られた? 何のことで? ……まさか、あの時の。そう思った時には勝手に口が動いていた。

「そう言って謝るのは、俺が傷ついたと思ったからですか?」

 部屋に引っ込もうとした背中に、鋭く問いかける。振り向いて目を瞬く先輩に、重ねて尋ねた。

「それとも、自分が間違ったことを言ったと思ったからですか?」

 言葉に詰まった先輩を玄関に招いて扉を閉める。狭い三和土に向かい合って立ち、戸惑う先輩を見下ろしてできる限り平淡に問いなおす。

「先輩、俺に詮索されるのは嫌なんですか。適合者の仕事について知られることも」

「……ああ。嫌だ」

 困惑しながらも明確な拒絶だった。断固とした意志が読み取れて怯みそうになったが、想定の範囲内だ、とどうにか持ち直す。

「じゃあなんで謝るんです?」

「私の対応が悪かったと思うからだ。お前が何を知りたいと思うかはお前の自由だ、それを踏みにじるようなことは許されない」

 きりりとした眉が苦しげに歪む。それを見て俺は、悲しいくらいに山下さんの見立て通りだな、とだけ思った。人に迷惑をかけることを良しとしないその性格、立派ですけど少々極端だし、正直言ってかなり生きにくそうだと思いますよ。

「何言ってるんですか先輩。それはとんでもない勘違いですよ」

 きょとんと目を丸くする先輩に向かって大げさにため息をついてみせる。

「俺が先輩のことを知りたいと思うのと同じように、先輩だって知られたくないと思ったってだけの話でしょう? それで何で俺の気持ちを踏みにじったことになるんです」

「だって、お前は知りたがっているのに」

「だから、俺が知りたいっていうのと先輩が嫌だっていうのは同じだって言ってるんですよ。なんで自分だけ加害者みたいなこと言うんですか」

 ようやく反論を止めてくれた先輩に、口調を和らげて話しかける。

「まあ、結論だけ言えば俺は全然気にしてないので謝らないでくださいってことですよ。上手くいくのは俺が知りたいと思って、先輩が教えてもいいと思った時だけですよ。それ以外は何もかもノーカン、お互いの意思が嚙み合わなかったってだけですから。謝罪も何も必要ないんです」

 先輩はしばらく目を丸くしていたが、不意にその小さな唇が自嘲気味に歪んだ。

「知ろうとすることをやめる、とは言ってくれないんだな」

 切なげな、諦めたような静かな声に胸が軋む。ずるい人だ、そんなしおらしい表情で、恐らく無意識に俺の決意を折りに来る。

「ええ、勿論。先輩が教えてくれれば手っ取り早いんですけどね?」

「絶対に嫌だ」

 引きつりそうになる頬で無理やり笑いかければ、帰ってきたのはぶっきらぼうで不機嫌な声。先輩はいつものどこか威圧的な無表情に戻って、しゃんと背筋を伸ばした。

「謝る必要がないというなら、私ももう何も言わない。疲れてるのに邪魔したな」

 また明日、と言い残して出て行ったのを見送って、大きく息を吐き出して鍵を閉めた。

 謝られてカッとなった、なんていうと俺がおかしい奴みたいだが、山下さんの話を聞いてわだかまっていたものが、謝られたことで小規模爆発したみたいな、きっとそんな感じだ。あんなこと言ってもあの人はどうして俺がこんなこと言ったのかなんて分かっちゃいないだろう。

 今日話した感じだと、本人に話を聞くには果てしなく長い時間がかかりそうだが、まあ気長にやっていこうかな、くらいの心構えはできたのでよしとしよう。


 視線を感じてふと振り向いても、誰もこちらを見てはいない。そういうことがここ数日で格段に増えた。素直に先輩にも相談すると、ぎゅっと眉間に皺をよせてから、

「できる限り一人での行動は避けること。連れて行かれそうになったら大声をあげて助けを求めること。大学の行き帰りは私が一緒に行く。悪いが異論は認められない」

「別に嫌がりませんよ。なんか小学生の不審者対策みたいですね」

「似たようなものだろ。それに、本当に切羽詰まった時にできることなんてほとんどない」

 深刻そうな表情で語る先輩の唇が不機嫌に歪んだ。

「あのな、他人事のように聞いてるが他ならぬお前のことなんだぞ。もうちょっと危機感を持て」

「そんな緊張感ない顔してます?」

 力強い頷きに首を傾げる。

「そんなに実感ないですからね。狙われてるって言われても現実味がないっていうか……どうしました?」

 急にむすっとしてしまったのを見るに、何やら先輩の機嫌を損ねたらしい。

「私のスーツ姿まで見ておきながら現実味がないとは何事だ。しっかりばっちり現実だろうが」

「確かに見ましたけど、それと俺がつけ狙われてるってのが結びつかないんですよ」

「むう」

 小さく唸った先輩は、しばらく押し黙っていたが結局何も思い浮かばなかったのか、眉間の皺を深くすると、びしりと指を突き付けてきた。

「とにかく、一人きりにはなるなよ! ハルさんにも相談しておくから」

 そう締めくくった先輩は、ぶつぶつ呟きながら自分の部屋に戻ってしまった。気をつけます。


 先輩に脅されてから、特に何事もなく過ぎたある日、買い物から帰ると先輩がちょうど出かけようとしているところに出くわした。片手には真っ黒なヘルメットを抱えており、着ているのは見覚えのあるライダースーツだ。

「あれ、お仕事ですか」

「ああ。今日も早くは帰れなさそうだ」

「気を付けてくださいね」

「お前もな。遅くに出歩くなよ」

「分かってますって。もう出かけませんから」

 満足そうに頷いて出て行った先輩を見送り、鍵を閉める。買い物袋の中を覗き込んで、ふむ、と考え込む。

 別にね、食材を少し……本当に少しだけ多く買い込んだのは、他意があってしたことじゃなくて。そう、先輩に呆れられてしまったものだから初心者向けの料理本なんかも買って試してみようと思っただけで、失敗した時のために材料を多めに確保しただけなんだ。本当にそれだけ。余った時にはあの帰る時間がころころ変わる先輩に分けたりすることもあるかもしれない。なーんて……。

 我ながらつまらない言い訳だ。ため息をついてあらかじめ付箋を貼っておいたページを開く。

「本の通りにやれば失敗はしないでしょ、多分」

 自分を励ますように呟いて、シャツの袖をまくる。野菜を切るくらいはやっているのでどうにかなるはずだ。そう思ってやってみると、予想外に時間がかかってしまった。

「この調理時間って、手際がいい人間がやった場合に限られるよな」

 若干ふてくされながらそう結論づけて、調味料を計る。このままいけば何の変哲もない肉じゃがができるはずだ……多分。説明が簡単すぎて不安になるが、少なくとも食べられるものができないと困るのだ。

 蓋をして後は煮るだけ……なんだけど、少し心配で鍋の前にずっと立っている。火が通るのにどれくらいかかるか分からないのが心許ない。普段から料理しておけばなあ、なんていっても後の祭りだ。火が通ったか確認するので穴だらけになってしまったジャガイモひとかけを味見して、ようやく人心地着いた。うん、普通の味だ。火を止めて、このまま放っておけば味がなじむ……と本に書いてあった。

 どうにかできあがった肉じゃがは一人分には少々(嘘。かなり)多いが、まあ頼めば食べてくれそうな隣人もいることだしいいか! と無意味な言い訳を完結させたところでインターホンが鳴った。

「はいはーい……っと」

 サンダルをつっかけて扉を開く。知り合いが来る予定もなかったし、宅配か何かかな、と警戒のけの字すら思い浮かばなかったのは、完全に失態だったと言える。

 鋭くこちらを睨みつける、知り合いどころか宅配業者ですらないその男。誰何するより早く。全く無造作にこちらに手を伸ばす。まずい、と反射的に扉を閉めようとしたが、遅かった。素早く扉のふちに手をかけて押し入ってきた男に突き飛ばされて床に転がる。逃げなきゃ、とそれだけを考えて踏み出した足を掴まれ、抑え込まれる。叫ぼうとした口を塞がれ、武骨な手が首にかかった。

 死ぬ。じわじわと首を絞められながら、その二文字が脳内を埋め尽くす。声が出ない。息ができない。考えが回らない。誰か助けを、呼ばなくては。でもああそうか、声が、出ない……。

 先輩の警告をきちんと理解してなかったことを後悔しながら、意識が途切れるまでもがくことしかできなかった。視界が徐々に暗くなり、様々なことが一瞬で脳を駆け巡ったと思ったのだけど、掴めたのは肉じゃがの火を止めといてよかったな、なんてどこまでも平和ボケしたものだけだった。


 目を覚ますと、まず視界に入ったのは見覚えのない荒れたオフィスのような場所だった。立ち上がろうとして、がくりとバランスを崩す。そこでようやく自分がどういう状態か分かって愕然とする。

「な、んだこれっ……」

 足は縄でぎちぎちに縛られ、左手は手錠がはめられている。右手は自由だが、手錠のもう片方は割れた窓のサッシに繋がれていて、つまり右手以外全く動けない。とにかく緊急事態だということしか分からない。何が起きている? 右手だけでどうにかポケットを探ると、いつも持っているリュウセイレッドのキーホルダーしか入っていなかった。

「ああ、起きたのか」

 どこか疲れたような声を無造作に投げかけられ、ぱっと顔を上げた。暗い緑の大きなサングラスで顔の半分を隠した若い男が、気だるそうに立ってこちらを見ている。

 つるりとした半透明の緑に感じた妙な既視感は恐らく気のせいじゃない、はずだ。先輩の纏う目を焼くような赤が鮮やかに思い起こされて、恐る恐る問いかける。

「適合者、なのか」

「え? ああ、そうだよ。すごいな、これ見ただけで分かるのか」

 サングラスに触れた男の軽い肯定に、どっと冷汗が噴出した。ただでさえ身動きが取れないのに、見張りが適合者だなんて! 青ざめる俺を見て男は軽く肩をすくめ、落ち着いた声で言った。

「そんな顔しないでくれよ。言うこと聞いてくれれば怪我させたりしないから」

 緊張を緩めない俺に男は一枚の写真を差し出した。写っているのは見覚えのある赤いスーツ……先輩だ。

「こいつを呼び出してくれ。あんたに頼みたいのはそれだけだ」

「呼び出してどうするつもりだ」

 露骨に警戒する俺を見て、男はやれやれと首を横に振った。

「俺はこの赤いのを勧誘するように言われただけだ。協力者番号K37番。あの凶悪なまでの強さ、そしてあの、鋼のような意志。敵である今は恐ろしく厄介だが、仲間にすれば百人力だって」

 平淡にそう言ってから、男は忌々しげに顔をしかめた。K37番ってのは先輩のことか? 勧誘って一体どういうことだ。まだ、理解が追い付かない。混乱する俺に、抑えた声での問いが投げかけられる。

「俺たちみたいなやつのこと、なんて聞かされた?」

「警察に協力しない適合者の集団だって……」

「そうだな。それで大体合ってるよ。一応、適合者の自由を求めるためなんて目的もあるが……でも、そんなのもう建前でしかないみたいだ」

「自由を、求める……?」

 そんな場合ではないのに、つい怪訝な声が出る。男は「余計なこと言っちゃったな」とぼやいた。

「警察に協力を要請された適合者は単独行動が認められていない。いつだって邪魔な警察とセットで行動してるんだ、勧誘なんかできるわけない。かといって素顔までつかめてないからどうしたものかと思ってたが、そこにあんたが現れた。運が無かったな」

 俯く男の声はひどく乾いていた。男の視線が俺の肩から首のあたりをさまよって、床へと落ちる。

「ひどいことだと自分でも思うさ。けどな、これは必要なことなんだってよ」

 自分に言い聞かせているかのような声だった。男は俺にそっと携帯を握らせる。

「どうせ覚えさせられてるだろ、センパイの電話番号。呼び出してくれよ。一人で、丸腰で来るように。ここの住所はこれ」

 小さなメモを押し付けられ、震える手で番号を押した。

『もしもし』

「……先輩」

 小さな声で呼びかけると、はっと息を呑む音が聞こえ、続いて慌てた声が飛んでくる。

『品川か? 今どこにいる? 無事なのか!』

「すみません、無事では……ない、です」

『大丈夫だ、すぐ助けに行く。相手は何と言っている。君、今どこにいるんだ?』

 押し殺した声に涙が出そうになる。

「先輩が、一人で来るように言えって……場所は……」

 一瞬気持ちが揺れて、言葉に詰まった。手の中でメモがぐしゃりと潰れ、ぐっと唇を嚙む。

 先輩。俺、先輩の秘密を知ってからずっと考えてたことがあるんです。

 きっと顔を上げて男を睨みつけ、携帯に向かってきっぱりと言い放つ。

「場所は言えません。助けにも来ないでください」

『は? ちょっと、何を言って――』

「先輩に助けられるの、はっきり言って癪なんです。絶対に来ないでください」

 突き放すように言い捨てて、通話を切った。男の方に携帯を放ると、男はつまらなさそうにそれを拾い上げた。

「驚いたな。それ以上に分からない。助けられるのが癪って言うのはどういうことだ?」

「言葉通りの意味だよ」

 飛び切りふてぶてしく答えてやる。当然、空元気だ。声が震えないようにするので精一杯なのに、頭はかっかと熱を持ち、舌は見切り発車で回る。

「助けてほしくないのか?」

「そんなわけないだろ。でもだからって、先輩がわざわざ来る必要はないって言ってるんだ」

 言っているうちに自分でも混乱してくる。頭をぐるぐる回るのは、先輩と再会してからあった出来事と、全く普通の高校生だった頃の先輩の姿だ。

「あの人だって勉強して、買い物行って普通に学生してるんだぞ! それでどうして他人のこと助けなきゃいけないんだよ、どうして危ないことしなくちゃいけないんだ! 俺のことだってほっとけばいいのに……!」

 だから、この場所を知らせなかった。こんな方法でおびき出そうとするやつらに、先輩を合わせたくないと思うのは当然だった。

 ぎりぎりと歯を食いしばり、虚勢を張って笑ってやる。

「絶対に助けなんか呼ばないからな! こんな無駄な労力使ってご苦労さん、ざまあみろ!」

 声をからして叫んだ俺を、男は冷徹に見下ろした。

「……あんたの主張は分かった。たいした覚悟だ。しかし、俺たちにもこうするには理由がある」

 かつん、と威圧的な靴音。感情のない声に背筋が凍る。

「説得が必要みたいだな」

 乱暴に胸ぐらをつかまれ、ぐっと目を閉じる。その説得が穏便な方法じゃないことは明らかで、今になって血の気が引いた。くそ、我ながらなんて浅はかな! ぐっと歯を食いしばって堪えようとした、その時。

「離れろ外道ッ!」

「なあっ……ぐ、ぅ!?」

 胸ぐらをつかんでいた手がいきなり離れ、放り出されてしりもちをつく。聞き覚えのありすぎる声に、安堵している自分がいて泣きそうになる。

 恐る恐る目を開けると、目に痛いほどの鮮やかな赤が飛び込んできた。決して大きくない背中が、俺を庇うように男と対峙している。言うまでもなくその人は……。

「……せんぱい」

「37番!」

 俺の掠れた声は男の驚きの声にかき消された。

 いったいどこから入って……まさか、窓から? 驚きのあまり声も出ない俺を先輩は一瞥さえしない。男は目を丸くして、矢継ぎ早に声を浴びせる。

「まさかこのタイミングで来るとは思わなかった! 一体どういうカラクリだ? なぜこの場所が分かった?」

「説明してやる義理はない」

 男の問いを切って捨て、先輩は一瞬こちらを振り向いた。

「見張りのやつらは下であらかた逮捕されている。手短に交渉しよう。私はこいつをこれ以上傷つけずに帰りたい。あんたがこのまま帰ってくれれば、私は追わずにこいつを連れて帰る」

 声音は提案というより脅迫に近かったが、男は怯んだ様子もなく笑う。

「計画通りとはいかなかったが、せっかく本命のあんたが来てくれたんだ! そういうわけにはいかないな……と言ったら?」

 男の不敵な問いかけに、先輩は短く息を吐いた。半歩踏み出して腰を落とし、身構える。

「傷つけずに帰りたいと言ったが、こいつを庇って戦うことができないとは言ってないぞ」

 警棒を握りしめ、先輩は静かに臨戦態勢をとった。男はそれを冷たく見据えていたが、ふっとため息をついて首を横に振る。

「そんな効率の悪いことはしない。彼を狙ってあなたをおびき出そうとしたのがそもそも間違いだったようだからな。彼をつけ狙うのをやめるように言うために、ここは退かせてもらおう」

 男がそういっても、先輩は緊張を緩めない。身構えたまま「ならそのまま帰れ」と吐き捨てる。

「出るなら窓からにしろ。今警官隊がバリケード崩してるところだから、かち合いたくなければそこからしかない」

「はは、無茶を言う」

 警棒を向けられたまま男は窓枠に足をかけ、一つだけ聞いていいか? と場違いなくらいにのんきな声で尋ねた。

「そうやって自分で自分を守れないヤツを守るのは息苦しくないか。自分のためにその力を使おうと思ったことはないのか?」

「ない。私の力は周りの助力あってこそのものだ。それならば力は周りのために振るうのが道理というものだ」

 苛立ちを押さえた声で即答した先輩に、男は呆れたように首を横に振った。

「ご立派なことで。俺には真似できそうにない」

「それ以上無駄口きいてみろ、今すぐそこから叩き落してやるぞ! とっとと去れ!」

 先輩の怒鳴り声がびりびりと空気を震わせる。男は「怖い怖い」と笑ってひたと俺を見据えた。

「交友関係ってのは慎重に選んだ方がいいぞ? 変わり者と付き合うのは大層骨が折れる」

「必要ない気遣いどうも」

 手錠に繋がれたまま顔をしかめる俺を見て男は意地悪く笑い、ひらりと窓の外へと身を躍らせた。窓の外を睨みつけていた先輩がようやく緊張を緩めたのを見計らって、恐る恐る声をかける。

「……窓の外見えないんでわかんないんですけど、ここって高さどれくらいあるんです? 飛び降りても大丈夫なんですか?」

 メットを被っているので分からないが、先輩は「正気かこいつ」とでも言いたげだ。俺の足をぐるぐる巻きにしていた荒縄を乱暴に引きちぎりながら(なんつー馬鹿力だ)、不機嫌に吐き捨てる。

「大した高さじゃないし、このくらいなら運が悪ければ足をひねるくらいで済むだろ」

「そりゃすごいや」

 足が自由になっても左手は手錠でサッシに繋がれたままだ。どうしましょうと視線で問えば、先輩はしばらく考え込んでいたが、一つ頷いて手錠を指さした。

「それ、たるませないでぴんと張れ」

「こうですか?」

 ぐっと鎖を引っ張ると、先輩は軽く頷いて警棒を構えた。ぴりっと空気が引き締まる。

「姿勢を崩さないように踏ん張れ。行くぞ」

 あ、嫌な予感……と考える前に警棒が勢い良く振り抜かれ、鎖が叩き壊された。衝撃が走り、手首から腕全体にじんとしびれが広がっていく。手首を押さえて悶絶する俺を、先輩は心配そうに見下ろした。

「悪い、痛かったか」

「見りゃわかるでしょうに……! 全く無茶なことを……」

 自分でやっておきながらおろおろと狼狽える先輩を見ていると、怒る気もそのうち失せた。まだ少し痛む手首をさすり、ぐったりと疲れ切った状態で頭を下げる。

「助けてくれてありがとうございます、先輩。でも、どうしてここが分かったんです?」

 先輩は明らかにぎくりとして、気まずそうに俯く。力なく指さした先は、俺のズボンのポケットだ。

「ポケットの、中。君がいつも持っているものだ」

「これがどうかしましたか」

 古ぼけたリュウセイレッドのキーホルダー。首を傾げると、先輩はスーツの内側から見た目が全く同じものを取り出した。

「こっちがお前のだ。で、こっちは私たちが用意したもの」

 俺が持っていた方を指さす先輩の目が泳ぐ。

「で、その……そっちには、GPSとか、そういうものが、入ってて……お前の居場所が分かるように、なってる」

 ぽかんとする俺の手からそっとキーホルダー(GPSつき)を取り上げ、俺の方を返してくれた。

「だから、俺が連絡する前からここに着いてたってことですか……あれ、じゃあ電話は誰が出たんです? 確かに先輩の声でしたけど」

「電話に出たのはハルさんだ。任務中には携帯は預けてあるから、音声ソフトで私の声に近いものを使って私のフリをしてもらっている」

 説明されても「はあ」と呆れと感嘆の混じった吐息を漏らすくらいしかできない。

「言われてみれば、先輩は俺のこと『君』なんて呼びませんよね……」

「そうだったか?」

 そうですよ、と頷いて、自分のキーホルダーと先輩の持っているものを見比べる。細かい傷まで再現されているのが恐ろしいところだ。

「しっかしまた凝ったものを作りましたね……」

「わ、私は反対したんだぞ! でもハルさんがいざという時のためにって……」

「これ、いつから入れ替えてたんです?」

「私が引っ越してきた次の日から……」

 となると、研究所に見学に行く前のことだ。あの日、山下さんが俺が来たことをこれで知ったのだとしたら、ラッキーも何もなかったわけだ。優しげな顔して全く食えない人だ。怒ってるか、と蚊の鳴くような声で尋ねられ、苦笑いして首を横に振った。

「怒ってませんよ。これのおかげで助かったんですから。まあ、そういうことは前もって教えてほしかったですけど」

 はふ、とため息を吐き出して、ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす。さて、なんと切り出したものかな。

「……先輩」

「どうした」

「俺が、さっき男に言ったこと……聞いてましたか」

「聞いてない。知らない」

 食い気味の即答に眉根を寄せる。メットを被ったままの先輩はそれきり口を閉ざしてしまう。メタモロイドの効果が切れて色が抜け落ちていくのを見つめながら、そっとヘルメットに手を掛けた。抵抗はなく、さら、と短い髪が揺れる。下を向く先輩の唇は、何かをこらえるようにきつく引き結ばれていた。

 この人、嘘をつくのが下手なだけじゃなくて、嘘をつくのが後ろめたいんだろうなあ。だからこんな痛ましいような表情をしてしまうんだ、多分。

「聞かなかったことになんかしないでください。あれが俺の本心なんだから」

 はっきりと困惑が浮かぶ瞳に見つめられ、不思議と気分は落ち着いていた。

「最近ずっと考えてたんですが、今日ようやく分かりました。結局俺は先輩に危ないことをしてほしくないんです。怪我一つしないくらいうまく立ち回れるとしても、もしも何かあったらなんて考えてしまう」

 ほんの一瞬ためらって、それでも懇願することをやめようとは思えなかった。

「先輩。こんなこと、もうやめてもらえませんか」

「……ごめん。それはできない」

 絞り出すような声で、それでも微塵も揺らいでいなかった。はっきりとした拒絶に、思っていたほどショックは受けなかった。

「シノを心配させるのは心苦しい。けど、私はずっとこうしたかった。高校の時からじゃない、もっとずっと小さいときからだ」

 その瞳から困惑は消え、ただただ真摯に見つめられる。高校の時と同じようでどこか違う、迷いのない表情。自分の目標をひたと見据えた強い視線に射抜かれる。

「自分の力で多くの人を助けたいと願っていた。今その願いは果たされているし、この先もやめるとはどうしても思えない。きっと私は死ぬまでこうだ。……許してほしい。お前の優しさを受け取ることはできない」

 頑なで、でもひどく申し訳なさそうな声だった。ここまできっぱり断られると、謝られない方が清々しくてよかったくらいだ。でも、なんとなくこうなるだろうとは思っていた。間違っても恨みがましくならないように、軽く笑い飛ばそうとする。

「ひどいですよ、先輩。後輩の厚意を突っぱねるなんて」

 きっと上手には笑えていないんだろうな、と思いながらそう言うと、先輩の顔がくしゃっと歪んだ。大量の足音が聞こえてきて、警官がなだれ込んでくる。表情を引き締めた先輩が警官と早口で話し始めるのをぼんやりと見上げていると、俺にも声がかけられた。

「君が品川くんか?」

「え? ああ、はい……」

「いろいろ大変だったね。体調が回復してからでいいから、何があったか話してもらってもいいかな」

「もちろんです」

 手を貸してもらって立ち上がり、促されるままついていく。鎖が壊れた手錠を見せて「取れますかねこれ」と尋ねれば、「取れるとは思うけど、なんでそういうことに?」と極めて当たり前のことを聞かれた。適当に誤魔化して行こうとすると、不意に視線を感じた。振り向くと、先輩と一瞬視線が絡んで、その唇が小さく動くのを見た。

「ごめん」

 消えいるような声だったのだろう。実際誰も何も言わなかった。連れて行かれる前に、少し迷ったが小さく手を振ってみた。先輩は不思議そうにしていたけど、ちゃんと手を振り返してくれたので、多分これでよかったんだと思う。


 翌日、警察の事情聴取は思っていたより簡単に済んだ。主犯と思われる適合者本人は取り逃したものの、逮捕者は多く、巻き込まれただけで何も知らない俺にはそれほど聞くことは無いようだった。こっちもなんだかんだ疲れていたので、それを考えると助かったと言える。

 首を絞められた時の痣は一晩で消えてくれるようなものではなく、仕方がないので肌が隠れる服を選んで着た。昨日の時点で痣があることはばっちり見られてしまっている。先輩、きっと気に病むだろうなあ。会ったらどうしようかな、などと考えていると、当の本人がいきなり訪ねてきた。何て言ったものかな、と悩んでいると。先輩はどこか落ち着きない様子でこう切り出した。

「実は、お前に頼みたいことがあってな」

「はあ」

「ここを離れるにあたって諸々の整理をしなくちゃいけないわけなんだが……」

「離れるって……先輩、引っ越しちゃうんですか?」

 声が小さくて聞き取りにくかったが、内容が分かった瞬間反射で頓狂な声が出た。けれどよくよく考えると妥当な話で、俺に危険がなければ先輩がここに住む理由は特にないのだった。

「いや、しばらく様子見の期間は置くだろうが、多分ここは引き払うことになるから……」

 驚いて身を引いた先輩は、ちょいちょいと手招きして俺を呼んだ。先輩はどうしてかこちらを見ようとしない。

「それでその、冷蔵庫の整理をしなくちゃいけなくてだな」

 手を引かれて先輩の部屋に入ると、小さなガラステーブルいっぱいに料理が並べられていた。凝った飾りつけなんかはしていないが、きちっとしている盛り付けに性格が出てるなあ、と変なところで感心させられた。

「一人では食べきれそうにないので手伝ってほしい。食べられるものではあるぞ」

 この見た目でその評価は謙遜しすぎではないだろうか。そう言おうとしたら、一度だけもらったパスタの味を思い出して腹が鳴った。小さく笑った先輩に、ふと浮かんだ疑問をぶつける。

「ところで先輩、今朝大量に買い物してましたけどあれはなんだったんです? 食べ物っぽかったですけど」

 それを聞いた先輩の表情がびしりと固まった。ああしまったな。不用意な発言で締め出されかけたのを慌ててなだめて再び部屋に入れてもらう。まだちょっとむくれている先輩に苦笑した。

「こういうのはもっと早く言ってくださいよ。そうすれば何かしら手土産でも買ってきたのに」

「別に必要ない。ただの身辺整理だからな」

 まだ言いますかそれ、と呆れたが、実際部屋の中は几帳面では済まされない程度に整頓されて物がない。ああ、本当にいなくなるのか、この人。そう思うと何とも言えない空しい気分になった。

「ほら、早く座れ。今日だけは何も連絡しないと、ハルさんに約束させたんだ」

 何でもないようにふるまう先輩の前で――実際引っ越しすることも何とも思ってないんだろう――寂しがるのがどうしても嫌で、「じゃあご馳走になります」と置いてあった割り箸を手に取った。

「しっかしこれ、作りすぎじゃないですか?」

「自慢じゃないが私はそこそこ食べるぞ。ある程度は日持ちするだろうし問題ない」

 冷蔵庫の前でしゃがんだまま動かなくなってしまった先輩が気になってそばに行くと、日本酒の瓶を片手に悩んでいた。酒には詳しくないので分からないが、少なくともコンビニなんかでは見たことがない銘柄だ。振り向いた先輩が酒瓶をよく見えるように傾けてくれた。

「……飲んでみるか? 知り合いからもらったんだが、一人で飲む気にもなれなくてな」

「未成年ですけど、俺」

「……やめるか?」

「そうは言ってないです」

 小さなグラスを受け取ると、先輩の表情がふわりと和らいだ。普段あんまり見られない優しい表情に心臓が一度強く跳ねた。

「先輩も意外と悪いなあ」

「四角四面じゃないだけだ。少しだけだぞ」

 茶化してにやりと笑うと、先輩は軽く鼻を鳴らして立ち上がる。そうして始まったささやかな晩餐は、時に盛り上がり、時にしんみりしながら進んだ。先輩の「そこそこよく食べる」という発言は誇張でもなんでもなかったようで、途中で俺の肉じゃがを持ってこさせられたほどだった。酒のせいか俺も先輩もよくしゃべったし、それになによりよく笑った。言うつもりがなかったこともたくさん言ってしまったような気がするけど、よく覚えていない……ということにしておく。

 先輩が顔色一つ変えず、それでもいつもより砕けた口調で、「私はお前のことを全然わかってなかったんだな」と呟いたのを「そんなのお互いさまですよ」と笑ったことだけが、俺たちのたった一つの進歩なんだろうと思う。


 そんな慎ましい宴会からしばらく日が経って、山下さんから電話がかかってきた。珍しいこともあるものだ、と思って出てみると、挨拶もなしに笑い声が聞こえてぎょっとする。

「もしもし?」

『あ、品川君! いやね、皆方がちょっと勘違いしてたみたいだから、訂正しなくちゃって思って電話したんだけどね、ふふ、今時間は大丈夫かい? そんなに長くならないから!』

 心底おかしそうな声に驚きつつも大丈夫ですと返し、早速本題に入る。

「勘違いって何のことですか?」

『勘違いというか早とちりというか……はは、あの子、別に引っ越したりしないよ? というか引っ越しさせてあげられない』

「はい?」

 山下さんが言うには、先輩の引っ越し費用には援助金が下りなかったため、よっぽど問題がない限り住居は今のままらしいのだ。研究所も資金繰りが大変らしい。

「それはまたなんていうか、俺のせいですみません……」

『いやいや、君は悪くないから。前住んでいたところより研究所から遠いけど、それだって支障が出るほどじゃない。まあつまりこれからも隣人として仲良くしてあげてねってことなんだけども……』

 すっと笑いを引っ込めて、山下さんが聞いたこともないような押し殺した声で尋ねてきた。

『ところで? お別れ会と称して秋の部屋で飲み会したって本当? 問題があったようなら元後見人としていろいろ考えなくちゃいけなくなるんだけど?』

「飲み会は本当ですがなんもないですよ! 本人から聞けばわかるでしょう!」

 神に誓って無実だが、証拠が用意できないのが辛いところだ。額の冷や汗の手で拭って必死で話を逸らす。

「そう言えば、先輩って今そこにいます? いるならちょっと代わってほしいんですけど」

『いるよ。今自分の早とちりを猛省してる。代わるね』

 山下さんの声が遠くなってから、しばらく電話の向こう側が沈黙する。油断すると笑い声が漏れそうになるから油断ならない。

「せっかちな人だなあ」

『……うるさい』

 短くぶっきらぼうな悪態に、つい顔がほころんでしまう。

「気まずいでしょうが今後ともよろしくお願いしますよ。お隣さんですからね」

『……ああ。よろしく』

 電話の向こうで、先輩が微笑んだような気配がする。ふっと短い吐息に一瞬ドキリとした。

『お前と一緒にいられるのは私としても嬉しいからな』

 思いがけない言葉に携帯を落としかけた。一瞬言葉を失って、ぱくぱくと空気を取り入れてからようやく疑問の声が出る。

「それって、どういう」

『あの男はお前を狙わないと言っていたが、また何かしらの事件に巻き込まれないとも限らない。近くにいた方が私もお前も安心だ』

 自信に満ちた声に思わず絶句する。電話からは山下さんの笑い声と、「何がおかしいんだ?」と先輩が不思議がっている声が聞こえる。笑みが引きつるのを自覚しながら、平淡な声で答えた。

「そうでしょうね。じゃあ俺、ちょっと疲れてるんで切らせてもらいますね」

『えっ? うん……』

「では」

 言い終わるのを待たずに電話を切る。あの人、やっぱり何も分かってないじゃないか。そう顔をしかめてから、でもちょっとそっけなさすぎたかな、と後悔した。携帯をベッドの上に放り投げて、そのままぼすんと横たわる。先輩のことになるとどうしてもため息が増える。

 あの人、戻ってきたらなんと言うだろう。俺のことを心配したりするのだろうか。

 寝転がって動かないでいると、どうしても眠気というものはやってきてしまうようだ。最近はいろいろ大変だったから、そう、先輩が戻ってくるくらいまでは、久し振りに昼寝でもしていよう。とろりと瞼が落ちれば、そこから眠るまではあっという間だ。夢も見ないような眠りではきっと寝過ごしてしまうから、どうせなら優しい夢でも見てから起きたいものだ。

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