第5話たんぽぽ少女についていく

 タンポポの季節である。僕にとって春と言ったらあの黄色い花の季節であって、白い綿毛がふわりと舞い上がる、そんなイメージが頭の中に思い浮かぶ。それで、どうしてそんな印象が刷り込まれているのかを考えてしまうと、心当たりなど一つしかないわけで。

 僕はつい先ほどその心当たりから連絡を受けて、鏡を見なくても分かるくらいに難しい顔で悩んでいた。

『観光したい』

 その短いメッセージは、僕の良く知る心当たりの普段の態度と少しも変わることはなく。

 それだから僕は、変わらないことがどうしても不思議なんだよ、と、それだけを言い出すことがいつまでも出来なかったんだ。


「そろそろ髪切ろうかな」

 彼女の小さな呟きを拾ってしまった僕は、自然と視線を向けてからすいと逸らした。肩につくくらいの長さのさらさらと流れる髪は、不定期に長かったり短くなったり、黒かったり茶色くなったりする。ちなみに今は暗めの茶色。そんな気まぐれなイメージチェンジに僕は毎度ほんの少しだけハラハラして、結局そんなに変わってないやとひっそり安堵するのだった。

 何か言った方がいいのかな、と一度視線を戻すと、彼女は僕の方を見もしないで、熱心に文庫とにらめっこなんてしていた。なんだ、ひとり言じゃないか。

「これからすぐ暑くなるし、いいんじゃないの」

 どうせすぐ、春の陽気なんてのんきなこと言ってる場合じゃないレベルの熱波が来る。時間があるうちに行っておくのが吉だ。聞いちゃいないだろうなと思いながら呟けば、ちらと視線がこちらを向いて、すぐに文庫の方に戻った。

「それもそうだね」

 明らかに気のない様子で頷く彼女の髪は、黄色の小さなリボンが付いた髪ゴムでまとめられている。もう少し経てば、おそらく白を基調とした飾りに変わる。まるで黄色い花弁を白い綿毛に変えたタンポポのように。例年通りであればの話だけれど。

 後日来た、たった五文字のメッセージ。それが来た日の朝に見た彼女は、髪を白い星型の飾りがついたゴムでまとめていた。ほら来た、と僕は少しだけ誇らしいような気持ちで、まだ短くなってはいない髪を眺めていたのだった。


『観光したい』という短いメッセージへの返信は、悩んだ挙句に端的に済ませた。『そりゃいいね』と一言だけ。すると時間を置いて、行先候補らしき画像が送られてくる。一通り送られてから『行きたいところあったら教えて』と添えられている。穏やかな喜びと、年々膨らむ疑問が胸を満たす。ああ、気分がいいのかそうでもないのか分からない。

 彼女は一体どうして僕を誘うのかね。友達なんていくらでもいるだろうに、幼馴染というだけで毎年律儀に声をかけてくる。僕だって断りはしないけど、そもそも僕なんぞ姉のオマケくらいの扱いだったのに。

 こんな疑問も抱かなかった子供の頃が懐かしい。僕と彼女の間には姉がいて――いや、それは改竄だ、彼女と姉の後ろに僕がいて、姉に手を引かれる彼女の背中を懸命に追いかけていたんだ、確か。小学校のころ、自分の目線より少し高いところで揺れる髪を見ていた。中学生になったらいつの間にか彼女のつむじが見えていて、高校生の時には彼女に見上げられるようになっていた。

 姉は僕たち以外の遊び相手をどんどん増やしていき、僕たちを頻繁に引っ張りまわすことはしなくなった。それはつまり、彼女との縁も遠くなるというわけで。ほんの少しの落胆を感じながら、しばらく連絡を取らないままでいた。

 ところが疎遠になったと思っていたのは僕だけだったようで、ある時彼女は何の脈絡もなく『出かけよう!』とやってきて、流されるままついていったら思った以上に楽しかった。その後も誘われるまま行ったり行かなかったりして現在に至る。出かける時はいつも二人きりだ。幼馴染の延長線と彼女は認識していると思われるが、彼女が何を考えて僕を誘っているのかは不明だ。そういうところが個人的には大変複雑な訳で。具体的にどうしたいかと言われると困ってしまうのだが。

 さて、今回はどこに行くのかな。



 季節の変わり目って苦手だ。変に暑かったり、急に寒さがぶり返したりする。気温差にやられて昨日からやや体調が悪い、気がする。帰らされてはたまらないので平気なふりをするけれど。どうか、ごくごく稀に鋭い彼女に気付かれませんように。

至って元気そうな彼女は、動きやすそうなストライプシャツにジーンズという恰好だ。ポニーテールに白いリボンの組み合わせが眩しい。ぼんやりと眺めていると、柔らかく微笑みかけられて息が止まる。

「晴れてよかったね」

「本当に。どこ行くかは決めてるの」

「ばっちり。あ、休憩したくなったらすぐ言ってね」

 その気遣いは正直かなりありがたい。素直に頷いて、彼女に導かれるまま歩き出す。空は曇っていたが、そんなのは気にならなかった。

 最初についたのは小さなお寺だった。紫陽花で有名な場所らしい。紫陽花が咲く時期に行けばよかったんじゃないの、と言えば、一度行けばもう迷わないから、なんて答えられた。なるほど下見か。お参りを済ませて彼女が御朱印をもらっている間、ベンチで人懐っこい猫を撫でていた。細い後姿を見つめて、僕も御朱印帳買ってみようかな、と思ったけど、どうせ彼女と出かけた時にしか使わない気がしたからやめることにした。視線を落とすと眠そうな猫、掌には柔らかな毛と体温。ここ最近動物に触る機会がなかったのでなんだか楽しい。

「写真撮ってもいい?」

 いつの間にか来ていた彼女が携帯片手に聞いてくる。猫の上に置きっぱなしにしていた手をそっとどかして頷いた。

「もちろんどうぞ。静かにしてあげてね」

「うん」

 猫に気遣うかのように声量を押さえて頷き、彼女は携帯で写真を撮った。近づいたり離れたり、ベストショットを探して四苦八苦してるらしい。

「はい、チーズ」

「……え?」

 ささやかなシャッター音に目を向ければ、いたずらっぽく笑う彼女と目が合う。携帯のレンズはいつの間にか僕の方を向いていた。

「この写真、後で送るね」

「いいよ別に……」

 何が悲しくて自分の写真を送られなくてはならんのか。笑い声に誘われて立ち上がる。居眠りを決め込んだ猫に二人で手を振って、その小さな寺を後にした。

今回が下見だったとして、次は誰と行くの? とは聞けなかった。聞きたくなかっただけかもしれないけれど。


 次に来たのは植物園だ。高山植物のコーナーが涼しくて、ぼうっと突っ立っていたらおいて行かれた。戻ってきた彼女に連れられて順路を進んでいくと、急に振り向いた彼女に尋ねられる。

「何か気に入った花でもあったの?」

「いや、涼しくて気持ちよかったから」

 素直に答えると彼女は「何それ」と笑った。加湿器から出るひんやりとした霧を浴びて、彼女は柔らかく目を細める。

「まあその気持ちは分かるけどさ、せっかく普段来ない所に来てるんだから、もっとちゃんと見ておこうよ」

 僕は普段見られない植物よりも、身近な植物の方が好きだけど。そう言おうかと思ったけど、恥ずかしくてやめた。僕がぼんやりとしてるのを口では咎めながらも、視界の下の方で軽やかに揺れる細いリボンを見る限り、機嫌はよさそうである。楽しそうで何よりだ。

 植物の解説が書かれているボードを読んでいると、とんとんと肩を叩かれる。

「どうしたの」

「あの花の写真撮りたいんだけど……」

 彼女が指さした先を見れば、かわいらしい白い花が咲いていた。僕の目線より少し高いくらいの位置にある。

「ああ、届かないのか」

 他意なくそうつぶやくと彼女はちょっと眉を寄せて、何も言ってないのに不機嫌になってしまう。

「女子の中では平均だから。別に小さくはないから」

「はいはい」

 女子の平均って何センチだったっけ、とは思っても口に出さない。僕とてそこまで大きいわけではないし。

大人しく写真を撮って彼女に見せる。合格点はもらえたようでリテイクは要求されなかった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 一通り見て回ってから、小さな売店を覗く。僕は書籍のコーナーでサボテンの本などを見ていたが、ふと彼女の方に行ってみると、熱心に何かを見比べている。

「何見てるの」

 覗き込もうとすると、手をぱっと背中に隠してしまう。「右手と左手、どっちがいいと思う?」

 唐突な質問にきょとんとして、「じゃあ左」と答えると、彼女は満足そうに頷いて「これ買ってくるから待ってて」と右手に持っていた物を置いてレジへと向かった。

「何だったんだ……」

 彼女が置いていった何かを手に取ってみると、小さな白い花をモチーフにしたブローチだった。彼女が買いに行ったのは、また違う種類のものなんだろう。

 彼女のこういう、人に選ばせているようで実際にはそんなことはないみたいなところが、最近本当によく分からない。何が分からないのかも分からないからどうしようもないのだけれど……。

 まあ彼女が何を考えているか逐一説明してくれるわけではないし、意図が読めない行動は姉貴で慣れているのでどうってことはない。僕は特にほしいものもなかったので、家族にお土産を買って植物園を後にすることにした。


 周到な事に、彼女は昼食をどこで食べるかにもいくつか候補を用意してくれていた。何が食べたい?と聞かれ、食欲が無かった為にそばがいいなと答えたら、珍しいねと言いながらもすぐに連れて行ってくれた。もしかして体調がよくないことに気付かれたのかと思ったけど、特に何も言われなかった。

移動する間に見た空の雲行きがどうにも怪しくて、彼女にバレないように眉間に皺を寄せる。帰るまでに雨が降らない保証がないうえに、傘も持ってきていない。

「雨降りそうだね……」

「天気予報はどうなってる?」

 がっかりした様子の彼女に携帯の画面を見せられ、僕はむうと唸った。午後から傘マーク、そのうえ豪雨のようである。朝は普通に曇りだったのに……。困り顔の彼女と顔を見合わせて溜息をつく。

「……どうする?」

「昼飯食べたら帰ろうか。傘持ってないでしょ、お互い」

「まあそうなるよね……」

 二人揃って肩を落とし、とぼとぼと蕎麦屋に入る。

「何食べる?」

「僕? かけそばにするけど」

「じゃあ私はうどん。きつねうどんにしよっと」

 お互い食事の時は口数が少ないので、それほど時間は掛らない。僕の方が食べ終わるのが早かったので、彼女が食べるのを眺める。見られている事に気付いて食べる速度を上げるのが微笑ましい。

「ゆっくり食べてていいのに」

 口に油揚げを含んだまま小さく首を横に振る彼女から視線をずらし、店の出入り口を見やる。新しく入って来た人が傘をさしている様子はなかったが、早く出ないとまずいかもな、と考えて……でも、それは言わなくてもいいことだからと、彼女が一生懸命うどんをたぐるのを眺めていたのだった。だからゆっくり食べてていいっていったのに。


 蕎麦屋から駅まではそれほど遠くはなかったのだが、それでも降り出す方が少しだけ早かった。そしてその少しが致命的だった。駅に着くまでに横殴りのひどい雨に降られて、哀れな二匹の濡れ鼠の完成である。ポケットの中に入れていたハンカチを引っ張り出したら、もうすでにびっしょりと濡れていた。うんざりと顔を拭って空を見上げる。庇を叩く雨粒の大きさが分かってしまって、余計気分が落ち込んだ。

 二人そろって思い切り濡れた上に、気温もじわじわと下がりつつある。小さなくしゃみをした彼女を見下ろして、なんとかしなくては、と鞄に丸めて入れておいたカーディガンを引っ張り出し、彼女に差し出す。

「これ着て」

 案の定彼女は戸惑った顔をした。ふるふると首を横に振り、上着を持つ手をそのまま押し返してくる。

「駄目だよ、こんな寒いのに」

「自分が上着着て君に風邪ひかせたなんて姉貴に知れたら殺される。助けると思って着てほしいな」

 苦笑して、でも引いてやるつもりはなく。彼女がまだためらっているので、もういいやとばかりに肩にかけてしまう。睫毛の先に水滴がついているのに気付いて、訳もなく心臓がうるさくなる。髪留めのリボンまでしっとりと濡れて、外さなくていいのかな、と迷う。

「……ありがとう」

 こちらを案じるように見つめながら、彼女は小さく礼を言った。僕は笑って頷いて、「早く止むといいね」なんて言ってみたりした。

 こめかみが熱っぽく、ほんのわずかに痛み出していることには知らん顔を貫き通して。後の事なんか考えず、今はただ彼女と過ごすこの時間の事だけを考えていたかった。


 発熱。頭がボーッとして、身体の節々が痛む。

 咳。時々止まらなくなる。喉は痛い。

 鼻水。微妙。明日はひどいかもしれない。

 完全に風邪だ。それも結構重症。布団から出て這うように居間まで行くと、姉が妙な生き物を見る目で見てきた。

「何してんの。ナメクジのモノマネ?」

 起き抜けで声が出ないのでふらふらと首を横に振る。姉はぐったりとしている僕に体温計を押し付けて、コップに水を注いでくれた。鳴った体温計を取り上げた姉貴がぐっと眉根を寄せた。

「……三十八度七か。朝ご飯食べられるの?」

「むり……」

「うわ、すごい声」

 やっとの思いで水分を摂ると、マスクと冷却シートを持たされ、部屋に追い返される。布団に潜り込みながら、小さく咳を一つ。

 幼馴染に見栄張った報いにしては重すぎやしないか。そんなことはないのか。分からん。頭が働かない。朦朧と布団の中に沈みながら目を閉じる。

 こんなことになるなら行かなきゃよかっただろ、なんて。客観的な自分が言った。あの日出かけずに休んでいれば、ここまでひどくならなかったはずなのに。それはそうだ、その言い分は正しい。でもそうじゃないんだ。僕はそうしたくなかったんだ。

 どうしてそうしたくなかったんだ。という疑問まで辿り着いたところで、ぐらりと意識が遠くなる。どうして、どうして僕が彼女の誘いを断らなかったのか……? それは、それ、は……。


ふっと目が覚めると、布団の傍に彼女がいた。夢か。僕、まだ寝てるのか。そう決めつけてそのまま彼女を見つめていると、小さな手が熱っぽい額を優しくなでた。

「起きた? 具合はどう?」

「……まだ、寝てるんだ」

 どうにか絞り出した声に彼女は軽く噴き出して「起きてるじゃん」と笑う。その笑みはすぐに崩れて、「あんまりよくないみたいだね」と呟いた。いやにリアルな夢だ。昨日の雨の中で見た、心配そうな目に今度は見下ろされている。悲しそうな顔の再現度が高いところは、夢として評価すべきなのかどうなのか。そんなどうでもいいことで悩んでいると、彼女はぽつりと言葉をこぼす。

「昨日もなんか元気なさそうだったよね。ごめんね、体調良くないのに連れ出したりして」

 バレていたのか。ああいや、夢なんだからバレていても仕方ないのか。でも違うのに。僕が君の誘いを断らなかったのは僕のせいなのに。

「ちがう、から」

「え? ……違うって、何が」

 何が? なにがちがうんだろ。僕が君の誘いを断らないのは君のせいではないという話だった。違うんだ、ただ、僕は……。

「やすむのが、もったいなくて……だから……」

「もったいない……?」

 上手く伝わっていないことだけが分かって、目に訳が分からない涙がにじむ。頭が痛い。体が熱い。視界がグルグルと回り、聞こえてる音が遠くなる。衝動に突き動かされるまま、彼女に向かって手を伸ばす。指にひやりとした感触を感じ取って、ふっと力が抜けた。

――もったいないって、なんで、そんな。

「なんで、って……」

 最後に拾った困惑気味の声に答えを出すのは簡単だった。

 ぼくはきみがすきだから。

 だから君との約束を、先延ばしになんてしたくなかったんだ。ようやく明確になった自分の思いに納得して、深い安堵と共に視界が真っ暗になった。


 発熱。計ってみれば平熱だった。問題なし。

 咳。特になし。喉は少し痛むがよくなった方だ。

 鼻水。症状なし。

 彼女からの連絡。なし。体調に全く関係なく目眩がした。

 ある程度体調が回復したら、姉から本格的に熱を出して動けなくなったその日に彼女が見舞いに来てくれたことを教えられ、僕は再び寝込みそうになった。というか実際少し寝込んだ。夢で自分が何をしてたかをうっすらとではあるが思い出してしまったからだ。夢じゃなかったし。

 じゃあ何か、夢だと思って言ってしまったこと、丸々彼女に聞かれてたってことか! そんな馬鹿な!

 一通りパニックを起こして狼狽えた後、冷静になって考えてみると何の問題もないような気がしてきた。僕は彼女が好きで、だから体調不良を押して一緒に出掛けた。そして体調を思いっきり崩しダウンしていたタイミングで彼女のことが好きだと口走り、当の彼女からは一切の連絡がない。いや駄目じゃないのかこれ。問題しかない。

 だって、意識がほとんどなかったとはいえ僕から告白する形になってしまったわけで、それに関して彼女から何のアクションもないということは……。

「……もしかして、僕が……って言ったと思ってたのは勘違いで、あっちは何も聞いていなかったんじゃない?」

「じゃあなんで音沙汰ないんだよ。現実を見ろ現実を」

「だよね……」

 希望的観測を素早く切り捨てられ、うんともすんとも言わない携帯に視線を落とす。

「で、なんでそれを私に言うのかね」

「いや……パニックが収まってなくて、つい」

 露骨に迷惑そうな顔をする姉貴を前にして深くうなだれる。姉貴は深いため息をついて眉根を寄せた。

「帰るとき様子がおかしかったのはそれが理由だった訳か……よく考えてもみろ、普段『突然地元でトマト祭りを開催することになった』とか『叔父さんの家が動物園になってた』とかいう意味の分からない夢しか見ないヤツが、可愛い幼馴染が見舞いに来てくれるなんて都合のいい夢見ることあるか? 現実に決まってるじゃん」

 姉の言い分は滅茶苦茶だが、実際その通りなので返す言葉もない。テーブルに突っ伏してめそめそしているのも辛くて、心底気だるげな姉貴に助けを求める。

「……姉貴、僕どうしたらいいかな」

「いや知らんし。自分で決めなきゃダメでしょ、そういうのは」

 棒アイスをかじりながら、姉貴はひたすら呆れている。携帯をいじりながら、至極どうでも良さそうに尋ねてきた。

「まあ、あっちがどう思っているかはこの際置いてさ、あんたはどうしたいわけ?」

「どうしたいか……」

 俯いて、言われたことを考えてみる。僕がどうしたいか。

「一度でいいから、会って話がしたい……というか普通に会いたい……」

「会って話がしたい、っと……」

 そう繰り返して携帯を仕舞い、姉貴は勢い良く立ち上がった。驚いた僕に手招きして、簡潔に告げる。

「ま、そうやってウジウジしててもどうにもならんわけだし。気分転換に出掛けるよ、着替えてきな」

「ええ……」

「いやな顔するなよ。悩める弟におごってやろうって言ってんだから」

 渋々腰を上げると、姉貴はにんまりと笑った。普段だったら何か企んでいることに気付ける、そんな分かりやすい表情の変化だったのに、病み上がりで使い物にならなかった僕の頭はあっさりついていくことを許可したのだった。


「……あと、このチョコのやつください。飲み物? コーヒーでいいよね」

「別にいいけど……」

 覇気のない声で答えながら、きまり悪く辺りを見回す。連れてこられたのは最寄駅から十五分ほどかかる喫茶店だ。普段なら絶対に来ないような、どこかかしこまった雰囲気の店である。気分転換にこんな慣れない空気のところに連れてこられても困る。

「きょろきょろしない。座ってりゃ来るんだから」

「そりゃそうだけど……」

 携帯の画面を気にしながら、姉貴は物憂げに目を伏せる。

「まあ、さっきも言った通り、人間関係なんてのは当人同士の問題でさ。周りのやつが口出してもロクなことにならないと思っているわけさ」

 気分転換に来たのにその話を蒸し返されても。そう言いかけたところで、ようやく勘が働きだす。初めてくる店ではあるが、最寄り駅から十五分、その間どんな道をたどってきた? 何かすごく見覚えのある風景じゃなかったか。それに、姉貴はさっき何を注文した? チョコケーキとコーヒー、その前に……!

「お待たせしました、モンブランとチョコレートケーキになります」

 頭を下げたウェイトレスに目礼して、姉貴はモンブランを空いた席の前に置いた。チョコレートケーキを僕の目の前まで引き寄せ、血の気が引いた僕の手にフォークを握らせる。テーブルの上に置きっぱなしになっていた姉貴の携帯が低い音を立てて震えた。

「だがまあ当人たちが動けないなら第三者の介入もやむなしと思ってもいる訳で。まあ君らがこんなややこしい関係になったのは私のせいと言えないこともない。恨むなら存分に恨むがいいよ」

 腰を浮かしかけた僕の足を、姉貴のパンプスが強く押さえた。細いヒールを食い込ませてこない辺り、随分と真剣で、そして心配してくれているらしかった。それでも十分痛かったけども!

「逃げるな。そんなビビらなくても、悪いようにはならないから」

 落ち着いた声で諭されても、不安を完全に拭い去ることはできなかった。

「……でも、なんて言ったらいいのか……」

 小さな声で弱音を吐くと、姉貴は片方の眉を吊り上げて、迷わず言い切った。

「そりゃ、あんたがあの子にどうしてほしいか言うしかないじゃない。あの子は読心術なんて使えないんだから」

 お前にも私にももちろんないけども。そう言って苦笑した姉の携帯が、また短く震えた。姉貴は画面を一瞥して財布から五千円札を抜き、テーブルに置いて席を立つ。

「まあ、『どうしたいか』は一緒だったんだから。心配するだけ無駄じゃないかなと思うけど……」

 小さく呟き、窓の外に視線を向けた姉貴がぱっと表情を明るくする。つられて僕もそちらを見れば、予想通りの人物がそこにはいた。走ってきたのか、遠目から見ても呼吸が荒く、顔は真っ赤になっている。

 姉貴が彼女に見せるように指さしたのは、先ほど頼んだモンブラン。昔から彼女の大好物だ。最初から姉貴は彼女を呼び出すつもりだったようで、つまり僕は、腑抜けていたところを姉貴にまんまと騙されてしまったというわけだ。やられた、と呻くと同時に、僕はとうとう腹をくくった。くくらざるをえなかったというのが本音だが、彼女が来てしまった以上、もう泣き言を言ってる場合じゃない。


姉と入れ替わりでやってきた彼女は、席に座ってしばらくはぐったりと椅子にもたれかかって休んでいた。

「……そんな走ってこなくてもよかったのに」

「急に……連絡、きて……急がなきゃって、思ったから」

 ふう、と大きく息を吐いて、彼女がようやく起き上がる。本当に急いできてくれたのだと思うとひどく申し訳ない気分になった。それにしても、ほんの少し会っていなかっただけなのに、長いこと離れていたような気がしてしまうのは何故だろう。

何か言われる前にこれだけは言わなくては、と先手を打って口を開く。

「あのさ……見舞い、来てくれてありがとう。心配させちゃってごめん」

「そんな、お礼を言われるようなことじゃないし……」

 力なく首を横に振るのに合わせて、おろしてある髪がさらさら揺れた。髪を結ぶ余裕もないほど急いできたってことか。久し振りに見たけどこれはこれで……じゃなくて。ぼけっと見惚れてしまいそうになる自分に活を入れて、彼女の質問に答える。

「熱はちゃんと下がった? もう外に出て平気なの?」

「大丈夫だよ、本当に……ケーキ食べる? 姉貴の奢りだって、モンブラン」

 話をそらすように手で彼女の好物を示せば、彼女は分かりやすく狼狽えた。展開が急でどうにもついていけないらしい。姉貴め。

「え……でも、いいのかな。どうしよう」

「いいんじゃない。姉貴帰っちゃったし、僕は二つも食べられないから」

 そう言って自分のチョコケーキを切り分けたりなどしてみるが、実はさっきから背中に妙な汗をかいている。さてどうしたものか。彼女のモンブランが控えめなペースで減っていくのを眺めていると、視線が気になったのか、いたたまれなさそうに見返されて少したじろいだ。

「食べないの?」

「食べるよ。食べる」

 頷いてケーキを口に運ぶけれど、味など分かるわけがない。半分ほど食べてから、気まずさに耐えかねてとうとう口火を切った。

「……ちゃんと、覚えてるわけじゃないんだけど。見舞いに来てくれた日に、さ」

 できる限り自然なようにと思ったのに、出てきた声は分かりやすく震えそうになっていた。

「僕、何か、言ったよね」

 ぼかしたのは最後の逃げ道だ。僕が覚えてるなら彼女が覚えていないはずないのに。彼女は目を見開いて、こくりと頷いた。

「あのね」

「待って、言わないで」

 慌てて彼女を遮って、ごくりと唾を飲み込む。

「……あの時、僕、熱でぼーっとしてて。その、言うつもりがない事まで言ってたと、思うんだ」

 言うつもりがなかっただけで、本心には違いないけれど。そうとは言えずに下を向いて、残りの言葉を絞り出す。

「だから、嫌だったら忘れて、ほしくて……」

「……それ、本気で言ってるの?」

 聞いたこともないような低い声で尋ねられ、さっと背筋が伸びた。真っ直ぐ見つめられて、ふらりと視線が泳ぐ。本気かどうか? 本気じゃなければこんなこと言わない。そう言おうと思うのに、どうしてか口が開かない。

「私がここ数日何を考えていたか聞かないまま、そういうこと言っていいの?」

「考えていたって、何を……」

 彼女の意図は見えず、ただ主導権を握られた事だけは分かる。ぐいと顔を近づけてきたのから逃れられずに、何か決意を固めたらしき瞳に視線をからめとられる。

「言うつもりがなかったことを言った幼馴染になんて答えるか考えていたの。どういう結論が出たと思う?」

「……見当もつきません」

 凄みのある声にたじたじになって答えると、歯の隙間から出したようなため息をつかれた。怒ってる……。

「ちゃんと答えようって思ったのに」

「へ……?」

「悩んで悩んで悩んで、やっと覚悟決めたのに、どうして忘れろとか言うの……?」

 イライラと歯噛みする彼女が何と言わんとしてるのか、うっすらとではあるが分かってしまい、ごくりと唾を飲み込む。

「……なんて答えようと思ってたのか、聞いてもいい?」

 テーブルの上できゅっと握りこまれていた手を恐る恐る握ると、初めて彼女の目が泳いだ。

「だから、私も……好きって」

 消え入りそうな声にぐらりとした。心臓の鼓動が早くなる。赤い顔で見つめ合う僕たちは、お互いどうしたものか全くわからなくなってしまって、その、困った。

「えっと……僕ら、両想いなわけだけど」

「うん……」

「どうしよう」

「どうしようか……」

 お互いどうしようもなく狼狽えていると、彼女の鞄の中で携帯が小さく鳴った。目だけで「見ていい?」と尋ねられ、もちろんと頷く。

『どうなった?』と一言だけ。送り主は今日の首謀者――もとい、姉貴だ。彼女と顔を見合わせて、なんと返信するか一緒に考えてみた結果、『ひとまずなんとかなりました、詳細は追々詰めていきます』と送ることにした。

 その後に慌てて「モンブランごちそうさまでした!」と付け足しているのを緩んだ笑みで見守っていると、素早く返信が飛んでくる。

『業務連絡かよ……何はともあれお疲れ様。走らせて悪かったよ、私の代わりに愚弟が謝るから』

 勝手な言葉に渋い顔をする僕を見て彼女はくすりと笑って、穏やかな声でこう言った。

「ねえ、今度またどこか行こうか。いつもと同じ、二人で」

あまりにも甘やかな誘いに一瞬脳がしびれたようになって、僕は言葉もなく首を縦に振るので精いっぱいだった。



「おはよう」

 聞きなれた声に顔を上げ、目に入った光景に一瞬目を丸くする。ささやかな驚きを笑みに変えて片手を挙げた。

「髪切ったね。さっぱりしてる」

「そっちもそろそろ切ったら? 結構伸びてきてるけど」

 前髪をくしゃりとかき混ぜられ、へらりと唇が緩む。

「そのうち行くよ。今日はどこ行こうか」

「いつもそれ聞くけど、たまにはリクエストとかしなくていいの?」

「僕? 僕は別にいいんだよ」

 たんぽぽ少女についていく。それだけで十分すぎるくらいに幸せなのだから。

「……じゃあ特に行きたいところもないし、今日のところは帰る?」

「えっ? それはその、困る……」

「冗談。さ、行こう」

 自然に差し出された手を取って、穏やかな日差しの下を歩き出す。

 その時に子供の頃よく手をつないでたな、なんて考えていた僕は、まだその手の小ささとか柔らかさとか、ともかくいろいろなことに気付けていなかったのだけど――それはまた、別の話。

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