第4話ある分岐のその後は

『現在犯人は逃走中であり、警察は捜査を続けています』

 リモコンを操作してテレビの電源を落とし、鏡子はぬるくなったコーヒーを一気に呷った。流しにマグカップとプラスチックのサラダボウルを置き、洗面台の歯ブラシを手に取る。小さな置時計は既に九時過ぎを指していた。

――せっかく近所に住んでるんだし、たまには一緒にお茶でもどう?

 鏡子は無意識のうちにできていた眉間の皺を伸ばしながら、昨夜に掛ってきた電話の内容を反芻してぼやいた。

「呑気にお茶するような暇なんてないくせに」

 手早く歯を磨き、身なりを簡単に整える。それだけの作業が鏡子にはひどく煩わしく感じられた。待ち合わせ時間に間に合うよう余裕を持ってはいるものの、相手が間違いなく時間より早く来ることが予想できているからだ。

「三十分前には着くだろうけど、絶対いるだろうな……」

 待ち合わせ相手、中野由美は鏡子の叔母である。物腰柔らかな佳人ではあるが、スケジュール管理が下手なせいで必ず待ち合わせ時間より三十分以上──酷い時は一時間半近く――早く来てしまうという悪癖の持ち主だ。

「『遅れてくるよりましでしょう?』って言うらしいけど、そういうことじゃないんだな」

 呆れ半分諦め半分の呟き。妹の困った癖を語る母の、優しい眼差しを思い出して苦笑した。

 鞄を持って早足で玄関に向かい、忘れ物がないかどうかを確認する。部屋の鍵を鞄のポケットから取り出した。

「いってきます」

 答える声こそないが、一人暮らしを始めて日の浅い鏡子からこの挨拶の習慣は抜けていなかった。鏡子は一瞬寂しげに顔を曇らせ、しかし鍵を閉めしゃんと背筋を伸ばした時にはなんてことないとでも言いたげな表情に戻っていた。


 鏡子が待ち合わせ場所の喫茶店のドアを開けると、奥のテーブルでのんびりとカップを傾けていた由美が気付いて手を振った。屈託のない笑みに鏡子は肩を落とす。

「噂に違わず早いですね……待ち合わせって十時半だったでしょう」

「ああ、そうだったわね。でも遅れるよりはいいでしょ?」

 そういう問題じゃありませんよ、と言おうとした鏡子の目が、何かに気付いて丸くなる。その視線の方向に気付いた由美が、いたずらっぽく唇を緩ませた。

「そういう問題じゃないでしょう、母さん」

 押し黙ってしまった鏡子の台詞を代わりに言ったのは、衝立に隠れて見えていなかった由美の隣に座る少女。肩にかかった柔らかそうな黒髪に、今は呆れの色を浮かべた穏和な目つき。口元が由美さんにそっくりだな、と反射的に思って、鏡子ははっと息を呑んだ。

「母さん?」

 少女と由美を交互に見比べ、鏡子が呆然と呟く。こくこくと揃って頷く親子に、鏡子は激しく混乱した。由美の娘ということは鏡子の従妹にあたるわけだが、何故この場にいるのかが分からない。

「とりあえず、一から説明してもらえますか。今日は何の用なんです?」

「もちろん、今から説明するから。あ、飲み物はなにがいい? 好きなものを頼んでね」

 ぎゅっと眉間に皺を寄せる鏡子に、鷹揚に頷いてみせる由美。少女は居心地悪そうに、テーブルの縁に視線を落とした。由美が呼んだウエイターにコーヒーを頼み、鏡子は椅子に腰かけ姿勢を正した。

「この子は中野律子。今、高校二年生なの。何年か前に会ったことなかったかしら」

「言われてみれば、何年か前の法事の時に会ったような」

 鏡子がちらと律子を見やると、一瞬だけ目があった。さっと顔を伏せられ、鏡子はしまったという顔をする。きつい印象を与えるつり目のせいで、周囲からよく怒っていると勘違いされてしまうのだ。

「ごめんなさい、覚えてません」

「いや、大分昔のことだから……改めまして、森鏡子です」

「中野律子です」

 答える声はか細く、鏡子は助けを求めるように由美を見る。由美は軽く肩をすくめ、落ち着かせるように律子の肩を撫でた。鏡子は由美の眼の下にうっすらくまが出来ていることに気付く。

「結論から言うとね、この子のこと、しばらく預かってほしいのよ。具体的に言うと二週間くらい。急な仕事で、家を空けなくちゃいけなくなって」

 困ったように眉を下げた由美の言葉に、鏡子は不可解そうに首を傾げた。コーヒーが運ばれてきて、軽く冷まして口をつける。

「忙しいのは知ってますし、家を空けることが多いのも分かってます。でも、どうしてわざわざ私に? 健人さんも家を空ける用事でもあるんですか?」

 鏡子が由美の夫の名を口に出した途端、中野親子が若干表情をこわばらせる。由美は気まずそうに目を泳がせ、律子が咎めるような目で由美を見た。まずいこと聞いたか、と身構える鏡子に、由美は申し訳なさそうに頭を下げた。

「そっか、そこから説明しなきゃいけなかったのね……うん、実はね、健人さん、今は怪我で入院してるの」

「そうだったんですか? 一体いつから……」

 驚きのあまり大きくなってしまった声量を慌てて下げ、鏡子は尋ねる。

「一昨日から。連絡が遅くなっちゃってごめんね、仕事もバタバタしてて」

「いえ、それは別に問題ないんですけど」

 どうして私に、と鏡子が視線で問う。由美は物憂げに溜め息を落とした。

「一人で留守番させることも考えたけど、最近何かと物騒でしょう。一人にさせるのはどうしても不安で……学校に行くことも考えると、頼めるのが鏡子ちゃんしかいなくて」

「そういうことなら構いませんけど……私、家にいる時間はだいぶ不規則ですよ」

 自身の生活を顧みて、鏡子は眉を下げた。仕事場と部屋の往復する鏡子が慌ただしく出ていくのを見送り、殺風景な部屋に一人で座っている律子。鏡子にとっては結構罪悪感の募る光景である。

「一人でいること自体はこの子も大丈夫だって言ってるの。ただ、何かあった時すぐに連絡がつく人がいてほしいから……本当に、ごめんなさいね。急な話で」

「いや、こんなご時世ですし、心配するのも分かります。部屋さえ片付ければ大丈夫です」

 そこまで言って、鏡子は律子が殆ど会話に口を挟んでこない事に気付いた。視線を向けると、またも目が合った瞬間に逸らされる。同性や子供に怖がられた経験が全くない訳ではない鏡子だが、それに慣れているわけではない。

「その、律子さんがよければ……だけれど……」

 弱々しい付け足しに由美は苦笑し、愛娘を見やった。律子は視線を受けて顔を上げ、ぺこりと頭を下げる。

「しばらくご厄介になります。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

 はきはきとした声に、礼儀正しい態度。しかし、今度は二人の目が合うことは全くなかったのであった。


「ただいま……」

 波乱の面会から二日経った日の午後八時過ぎ。疲れた声で誰もいないはずの部屋に普段通りの挨拶を投げかけた鏡子は、見覚えのない靴が一足きちんと揃えて置いてあることに気付いて首を傾げた。

「あ……おかえりなさい」

「えっ?」

 部屋の奥からおずおずと進み出てきた律子に、鏡子は一瞬ぽかんと呆けて、すぐさま我に返る。由美が家を発つのは今日からで、学校が終わってから荷物を持ってくると聞いていたのに、すっかり忘れてしまっていた。いつ帰れるか分からないからと、由美には既に鍵を預けていたのだ。慌てて靴を脱ぎ、部屋の中へと入る。

「そうか、今日からだったか……! 必要なものは全部持ってきた? 荷物運びとか手伝えなくてごめん」

「いえ、大丈夫です。お仕事お疲れ様です」

「へ、ああ、うん……ありがとう?」

 素直な労いの言葉に戸惑う鏡子だったが、不意に手に持っていたレジ袋を覗きこんで眉根を寄せた。

「ごめん、今日来るってことすっかり忘れてて……夕飯一人分しかないんだ。買ってくるから、それ先に食べて……あ、食べられないものとかある?」

「いえ、特には……」

「そうか。アレルギーとかはないって聞いたけど、嫌いなものとかもあったら遠慮なく言ってくれていいから。じゃあ、また留守の間よろしく」

「はい、ありがとうございます」

 慌ただしく玄関へ舞い戻る鏡子の背に、遠慮がちな声が掛けられる。

「いってらっしゃい、森さん」

 鏡子がぱっと振り返ると、不思議そうにこちらを見つめ返す従妹の姿があった。思わずゆるりと顔をほころばせて、鏡子は頷いた。

「うん、いってきます」


 鏡子が買い物から戻ってくると、律子は渡しておいた惣菜を皿に取り分けて待っていた。

「先に食べていてよかったのに」

 そう鏡子が言うと、律子は控えめに笑って首を横に振る。新しく買ってきた物のための紙皿を出しながら、食器も買ってこなくちゃな、とひとりごちる鏡子に、律子はぺこりと頭を下げる。やや緊張している様子の従妹に割り箸を渡し、鏡子は「何も準備できてなくてごめん」と詫びた。テーブルを挟んで座り、手を合わせる。

「どこに何があるかは一通り見た? と言っても、狭いから見るところもあんまりないけど」

「キッチン周りは大体見ました。あとは洗面所の方も」

「何か足りないものとかあった?」

 サラダをつまんでいた律子はしばらく考えこむようにして、「今はちょっと、分からないです」と言った。小さな唐揚げをつまんでいた鏡子はじっと律子を見つめていたが、慌てて目を逸らした。

「まあ、来たばっかりだし……言ってくれれば、その都度買ってくるから」

「はい」

 短い返事の後に続く言葉はなく、二人は沈黙する。殺風景な部屋に人がいるということが、鏡子をどうにも落ち着かない気分にさせていた。しばらく無言の時間が続いていたが、時計の長針が半周した頃になって、律子が気まずそうに口を開いた。

「突然押し掛けてごめんなさい。私は一人でも大丈夫だって言ったんですけど、母が無理を言ってしまって」

 申し訳なさそうに俯く律子に、鏡子は首を横に振る。

「いやいや、やっぱり高校生一人じゃ何かと不安も多いし。由美さんには昔世話になったから、別に気にしないでいい」

 一向に表情の晴れない律子に、それだけではあまりに素っ気ないかと、鏡子は苦笑して言い足す。

「まあ、この間も言ったけど私はあんまり家にいられないから、どうしても自分の面倒は自分で見てもらうことになるし。ほぼ一人暮らしみたいなものだから、気楽にしていてくれていいと思う」

「……そんなにお仕事忙しいんですか?」

 ふと口をついて出たような律子の疑問に、鏡子は虚をつかれて目を丸くした。

「忙しいというか、要領の問題かな……持ち帰ってやることができない仕事だから。流石にほぼ一人暮らしは言い過ぎかもしれないけれど」

 ぼんやりと自嘲して、先に食べ終わった鏡子は後片付けのためにと席を立つ。

「皿洗ったらお風呂洗ってくるからゆっくりしてて。お湯はってる間に布団の場所とか教えるから」

「あ、はい」

 できる限り自然に笑ってみせた鏡子だったが、どこかぎこちない返事に、内心焦りを隠せなかった。浴槽をスポンジでこすりながら、ぶつぶつと独り言をこぼす。

「第一印象が悪かったか……いやでもほぼ初対面の人間の家でくつろげというのも無理があるし……」

 風呂場の鏡に映った自身の形相に、鏡子は深い溜め息をついた。眉間の皺にむっつりと引き結んだ唇。機嫌が悪いですと言わんばかりの表情だが、実際は年の離れた従妹の扱いに悩んでいるだけだ。

(どうせ生活リズムも合わせられないし、無理に仲良くする必要はないけど……)

 浴槽の泡をシャワーで流しながら、鏡子は顔に飛んだ水滴を無造作に拭った。

(あんまり居心地が悪い思いさせるのもかわいそうだし、怖がられたままでは私も寂しい)

「森さん」

「まあできるかぎりは……うん?」

 呼び声に一瞬遅れて鏡子が振り向くと、風呂場を覗きこんできた律子とぱちんと目が合った。

「森さん、すみません」

「うん、どうした?」

「その、お手洗い借りてもいいですか」

「もちろん。場所は分かる?」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 そそくさと行ってしまった律子を見送って、鏡子は小さく肩を落とした。とりあえず、あんまり怖い顔はしないように。そう心に決め、鏡子は風呂場を後にした。


「年の離れた従妹との付き合い方、ねえ」

 部屋に律子が来た翌日、早くも思考が行き詰った鏡子は、職場の先輩である長浜仁美に相談に乗ってもらっていた。

「一体いくつなの、その子」

「高二だそうです」

「女子高生か……なんとも扱いにくそうな年頃の子だね」

 長浜が表情を曇らせると、鏡子は力なく首を縦に振った。

「付き合い方というか、むやみに怖がらせないためにはどうしたらいいのか……」

「え、怖がらせるようなこと何かしたの?」

「何かしたわけではないんですが、第一印象が悪かったのか距離をとられているようなんですよ」

 もごもごと説明する鏡子に、長浜はきょとんとした。

「ほとんど初対面みたいなものなら、ただ緊張してるだけかもしれないじゃん」

「だといいんですけどね……」

 溜息をつく鏡子の肩を軽く叩き、長浜は屈託なく笑う。

「カガミちゃんは口を開けば怖くないから大丈夫でしょ、話す時間さえ取れれば」

「黙ってると怖いってことですかそれは。否定しませんが」

 口をへの字にしてむくれる鏡子に、長浜は「ごめんごめん」と涼しい顔。すぐ表情をやわらげ、優しく言い足した。

「第一印象はとっつきにくい感じだけど、話せば普通にいい人だって分かるから。それに結構世話焼きだし」

「そうですかね。自分だとよく分からないんですけど」

「そうですよ。そんなに心配する必要ないよ」

 首を傾げた鏡子の眉間をつつき、長浜はころころと笑った。「眉間の皺はちょっと気にした方がいいかもしれないけど」長浜のわざとらしい困り顔に、鏡子はようやく笑みを浮かべる。

「やあおはよう! お二人とも随分悩ましげな顔しているけど、こんな朝から何かトラブルかな?」

 朗らかな挨拶と共に滑るようにやってきたのは、白い霧を人型に切り取ったような人影――幽霊の坂井蘭。

「坂井さん、おはようございます」

「あらおはよう。今日は一段と薄いわね」

「そうみたいなんだ。日によって濃かったり薄かったりするのは何だ、湿度が低いせいかな?」

「それはたぶん違うと思いますけど……」

 冗談をあっさり受け流されて、坂井は肩を竦める。

「冗談はさておき、何の話をしていたの?」

「カガミちゃんの部屋に従妹が来ることになったんだって」

「二週間ちょっとですけど、打ち解けるにはどうしたらいいのか分からなくて相談に乗ってもらっていたんです」

 簡単な説明を受けて、坂井は軽く頷いて――頭部の霧が僅かに揺らめいた――明るく声を上げる。

「なら、その子の好きなものでも買ってやるなりしたらいいんじゃないかな」

「物で釣るってこと?」

「言い方が悪いですよ。でもそういう手もあったか……」

 顎に手を当てて考え込む鏡子に、長浜と坂井は顔を見合せて笑った。

「まあ、何かあったらまた相談に乗るから。あんまり当てにならないと思うけど」

「幽霊の手も借りたいくらい困ったら言っておくれよ。野次馬くらいしかできないけどね」

 ひらひらと手らしき部位を振って、坂井が悠然と去っていく。向かうのは彼女の仕事部屋である、霊体実験室。誰一人として入ることを許可されていない謎の部屋だ。

「さあ、仕事仕事。カガミちゃんは今日出張になってるけど、どこを手伝う予定なの?」

「警察本部で新人の研修の助手をしてほしいって言われてるんです。たいしたことはさせてもらえないでしょうけど」

「耐性があるのも考えものってことね。研修の相手は研究所から誰か連れて行くの?」

「いえ、今日は違うみたいです。霊の職員さんが入ったとかで、その人とやるみたいで」

「ふうん。霊体職員の導入、思ってたより早かったな……いつ出発するの?」

「午後から始まるらしいんですけど、準備があるとかで十一時には着いてなきゃいけないそうです」

「じゃあそんなに余裕ないね。ほどほどに頑張っておいで」

「ありがとうございます。まあ、そんなに難しいこともしないでしょうしね」

 不意に扉が開く音がして、二人は一斉にそちらを向いた。現れたのは瀬戸義行、鏡子と長浜が務める生活安全対策課の課長をしている。

「おはようございます、課長」

「……ああ、おはよう」

「課長、カガミちゃんこれから警察学校に行くんですって」

「ああ、聞いている。霊体と模擬戦しろとか無茶言うようだったら断ってさっさと戻ってこい」

「流石にそんなことは言われませんよ……言われませんよね?」

 不安げに尋ねる鏡子から、瀬戸はついと目をそらす。

「向こうの職員と組むことになるんだからそんなことにはならないって。ほら、さっさと支度する! 課長も不安になるようなこと言わない!」

 長浜は立ち尽くす鏡子を追い立て、瀬戸を叱りつけた。瀬戸は素知らぬ顔で席に着き、パソコンの電源を入れる。

「じゃあ、そろそろ行きますね」

「気を付けて行ってきてね」

「……寄り道しないで戻ってこい」

「分かってますって」

 瀬戸がぼそりと付け足した一言に、鏡子は苦笑いで答えて部屋を後にする。

「……警察は苦手って言ってるもんね、課長」

「苦手じゃない。無知なやつが現場に多いのが嫌なだけだ」

「カガミちゃん、早く帰ってくるといいね」

「今はそんな話をしていなかっただろう……」


「霊体であろうがなかろうが、警察官は毅然とした態度で犯人と対峙する必要があり……」

 壇上で行われる演説を聞くともなしに聞きながら、鏡子は内心ため息をついていた。

(まさか、ここまで何もさせてもらえないとは)

 部外者かつ若輩者の自分にないことは理解していた律子だったが、まさか一切の説明を任されることなく、ただ単に対照実験の被検体として呼ばれただけだったのだ。

 講堂の隅で演説の内容をメモに取りながら待っていると、「ではこれから、講義の検証実験をします」というアナウンスと共に司会者に呼ばれる。自分がどこの職員かも説明されずに引っ張り出されたことに釈然としない思いを抱えたまま、鏡子は壇上に立った。

(課長が苦い顔するわけだ)

 警察との協力体制を築くために必要なことだと言われたが、当の警察がこちらを全く受け入れていないようなのだ。

 今から行うのは霊体に近づくことで身体に受ける刺激の個人差を確かめる実験だ。心拍数や血圧など数値で表せる、専用の機器がなくても行えるなどの理由から、一般に普及したやり方ではある。

(一般的なやり方ではあるけど、これの結果はあくまで目安であって確実ではないってこと、事前に説明されてるのかな……いや、説明されなくてもわかるか?)

 つらつらと考え事をしながらも口を挟むことなく、大人しく血圧を測られる。結果が発表されたが、ぴんと来ている者は少ないようだった。鏡子はこっそりとため息をつく。

 実験が終わってから再び演説を挟み、ようやく鏡子は解放された。腕時計に視線を落とし、渋い顔をする。

「急いで戻っても四時過ぎか……」

 今日も早くは帰れないだろうと肩を落とし、警察学校を後にしようとする鏡子に、遠慮がちな声がかけられる。

「あのう……」

「はい? あ、さっきの……高橋さんですよね?」

 実験の時に顔を合わせた、幽霊の職員が何かを手に持って立っていた。

「はい。これ、さっき落としませんでした?」

「え、あ! 私のです、ありがとうございます!」

 差し出されたのは濃紺のハンカチ、鏡子の私物だ。鞄に入れておいたものを落としていたようだ。慌てて受け取り、鏡子は申し訳なさそうに眉を下げた。

「わざわざ持ってこさせちゃってすみません! これ、どこに落ちてました?」

「控室のドアのところにありましたよ」

 夕日をわずかに透過する女性職員は、穏やかに笑って頭を下げる。

「今日はわざわざ来てくれてありがとうございました」

「これも仕事ですから。こちらこそ、あまり納得してもらえるような結果が出せなかったみたいで申し訳ないです」

 苦笑する鏡子に高橋は力なく首を横に振った。

「ああいう結果だったのは学校側の落ち度ですから……」

 鏡子は何も言わなかったが、高橋の言う通り実験がうまくいかなかったのには警察学校側に理由がある。霊体が人間の精神状態に影響を及ぼすのは霊体本人の感情が昂っているときに限られる。実験の際、高橋は至って平静であったので、警察側で実験の趣旨が十分に理解されていなかったのだ。

 何と答えようかと悩む鏡子に、高橋は何気なく話題を変えた。

「森さんの所属って、確か霊体研究所の生活安全対策課でしたよね? 坂井さんはお元気ですか?」

「え、坂井さんとお知り合いなんですか?」

 驚く鏡子に高橋は笑って頷いた。

「元気にしてますよ。毎日研究所のいろんなところに顔出して手伝ってるみたいです」

「そうでしたか。好奇心旺盛なのは変わっていないみたいで、なんだか安心しました」

 鏡子が時計を気にしていることに気付き、高橋は「引き留めてしまってすみません」と謝った。

「私は研究所の肩とお会いする機会は少ないので、つい気になってしまって。坂井さんによろしく伝えてください」

 改めて礼を言って、鏡子は警察学校を後にした。


「ただいま戻りました……ってあれ、坂井さんだけ? 課長と長浜さんは?」

 自室のドアにもたれかかって退屈そうにしていた坂井は、鏡子を見つけると微笑んで手を振った。

「なんか所長に呼ばれてどこかいっちゃった。そんなに時間はかからないって言ってたし、そろそろ戻ってくるはず」

 鞄を置いてため息をつく鏡子を、坂井は簡単に労った。

「警察学校に行ってたんだっけ? お疲れ様」

「いや、実はそれほど疲れたわけじゃなくて……むしろ待ち時間のほうが長かったくらいで。今日も早く帰れないと思うと従妹に申し訳ないなと思いまして」

 そのまま愚痴とも懺悔ともつかない言葉を垂れ流す鏡子を見て、坂井はくすりと笑った。

「どうしたんです急に。私変なこと言いました?」

「いや、カガミさんが行く前に一度課長さんが警察学校に行ったんだけど、同じようなこと言ってたなあと思って。組織ってなかなか変われないものなんだね」

 懐かしむように目を細めた坂井の言葉に、鏡子は顔をしかめた。

「やっぱり当日に呼びつけられるよりも、前もって分かりやすい資料を送っといたほうがいいですよね」

「私はここの職員じゃなくて被験者だから、そういうことは分からないかな」

 提案をあっさり流され鏡子は不満げに眉を寄せたが、帰り際に高橋と話したことを思い出して顔を上げた。

「そういえば、警察学校で坂井さんの知り合いに会いましたよ。高橋さんって人」

「思いがけないところで懐かしい名前を聞いたなあ。そっか、だから霊体職員の導入が早かったのか……元警察官なんだよ、その人。元気そうだった?」

「見た感じだと普通にしてましたよ」

「それはよかった」

 表情を緩めて頷く坂井に、鏡子は怪訝な目を向けた。

「坂井さん、高橋さんとどういう知り合いなんです? 接点ないですよね」

「そんなことないけども。今はここでのんびりしてるけど、昔は幽霊になって間もない人の相談に乗ったりもしてたし」

 初めて知る情報に、鏡子は首を傾げる。

「……坂井さんっていつからここに来てるんでしたっけ」

「いつだったかな。少なくともカガミさんがここに初めて来た時よりは前」

「それは流石に知ってますよ」

 鏡子の問い詰めるような視線をかわし、坂井は「課長さんたち遅いね」となどとぼやいた。鏡子が諦めて書類の整理を始めたその時、扉を開けて瀬戸と長浜が戻ってくる。

「カガミ、戻っていたのか。警察学校はどうだった?」

 シニカルな笑みを浮かべて尋ねてくる瀬戸に鏡子は片方の眉を吊り上げて答えた。

「待ち時間が長いのは言うまでもないんですけど、使っているデータが古いのも問題かなって。それと警察官の責務について話すのは講義の時以外でもできると思います」

「だろうな。それ、時間があるときにでもまとめておいてくれ。意見書として提出する」

「分かりました」

 瀬戸はすぐ別の書類を手に出て行ってしまったため、鏡子は長浜に尋ねた。

「課長と何しに行ってたんですか?」

「警察官の研修に使う動画を作るのに必要なデータを提出しに行ったの。カガミちゃんが行くことになる前に動画を完成させたかったみたいで前から準備してたんだけど、流石に無理だって言われて諦めたんだって」

「そうだったんですか。どうして私が行く前に完成させたかったんですかね」

 半ば独り言じみた鏡子の疑問に、長浜はにんまり笑った。

「『ただでさえ少ない人員に無駄な時間を使わせるのは我慢ならない』だって。次からは行かなくてもよさそうだよ」

「それはありがたいですね……教官の話がまたとんでもない長さだったんですよ」

「お二人さん、愚痴はいいけど手が止まってるよ」

 坂井にたしなめられ、二人は自分の席へと戻る。音もなく部屋に戻ろうとする坂井を、長浜が呼び止めた。

「この間出してたレポートについて聞きたいことがあるって研究班の人達が言ってたよ。やることがないなら顔だけでも出してきな」

「え? ごめんなさい、どのレポートのことだか分かる?」

「幽霊の時間経過の認識と記憶についてだったかな」

「ありがとう。確か新しい資料も送っておいたはずだから、それについても意見を聞いてくるよ」

「あまり遅くならないほうがいいよね」と駆け足で出ていった坂井を見送って、鏡子はぽつりと疑問をこぼした。

「職員じゃないと言いつつ、坂井さんもいろいろやってますよね」

「考えること、調べることが趣味なんでしょ。報酬も新しい実験や調査に使っているくらいだし」

 鏡子に視線だけ向けて答えた長浜は浮かない顔でキーボードを叩いている。

「まあ、やりすぎはどうかと思うけど。幽霊だから生活に制限も多いしね」

「制限……あっ」

 鞄からメモを取り出してめくり始めた鏡子を、長浜は不思議なものを見る目で見つめた。

「どうしたの突然」

「いえ、警察学校の説明で霊体が取り扱える物量の限界が研究所の見解と違っていたので、それについての問い合わせもしなくちゃいけないと思って」

「法律が絡まないとざっくばらんだね。まあマニュアル通りにやればいい仕事でもないだろうけどさ……」


「カガミ、聞こえてるか」

「はい?」

「今何時だか分かるか。早いとこ切り上げて帰れ。長浜も坂井もとっくに帰っているぞ」

 瀬戸が示した時計は定時を一時間半ほど過ぎている。鏡子は目を丸くし、肩を落として瀬戸の目を見ることなく言い訳をする。

「キリのいいところまでやったら帰ろうかと思ってて……」

 時計から目をそらして言いよどむ鏡子に、瀬戸は大きくため息をつく。

「同居人ができたんだろう。防犯のためというなら早く帰ったほうがいいんじゃないのか」

「長浜さんから聞いたんですか?」

「今日お前が出ていってすぐ、聞いてもいないのに話し始めたぞ。女子高校生とのコミュニケーションの取り方を知っていたらアドバイスしてやれと言われた」

 肩をすくめた瀬戸に、鏡子は駄目元とばかりに尋ねる。

「何かアドバイスあります? 即効性がありそうなやつ」

「職場以外で年下の女性に出会う機会のないやつに何を聞いているんだ」

 呆れる瀬戸に気弱な笑みを浮かべ、律子は席を立った。

「今日は帰ります。言われてみれば夜に一人にしておくのは心配ですし」

「そうしておけ。最近は特に物騒だしな」

 携帯をチェックした鏡子がさっと表情を曇らせたのを見て、瀬戸は立ち止った。

「『晩ご飯は買ってこなくて大丈夫です』……これ、外で食べてくるからいらないってことですかね? 一緒にご飯食べたくないってことですかね?」

「それなら普通に外で食べてくると書くだろう。余計なこと考えずまっすぐ帰れ」

 鏡子の心配をばっさりと切り捨て、瀬戸は理解できないと言いたげに首を横に振る。

「何を心配しているのかさっぱり分からないが、高校生だというなら最低限の分別はあるはずだ。そもそも家主はお前なんだから最悪追い出せば解決する」

「それだと別の問題が発生しますけどね……」

 極端な物言いにわざとらしく眉をひそめる鏡子を見て、瀬戸はぐうっと伸びをする。

「そろそろ帰るか。急に同居人ができた部下と違って俺は気楽な一人部屋だ」

「そんなこと言って、どうせ独り身が寂しくてすぐ寝ちゃうんでしょう?」

「寝る以外にすることもないからな」

 軽口を叩きながらもどこか浮かない表情の鏡子に、瀬戸は半ば呆れている。

「お前が言うほど心配する必要もないと思うが」

「そうかもしれませんけど……」

「夕飯を買ってこなくていいというのも、もしかして……」

「もしかして、なんですか」

「……いや、あまり期待させすぎてもよくないだろう。言わないからもう帰れ」

「なんですかそれは」

 眉根を寄せて不満を露わにする鏡子に、瀬戸は少しだけ困ったような顔をした。

「その従妹がどんな子か知らないが、杞憂だと思うぞ」

「そう願っておきますよ。気を付けて帰ってくださいね」

「それはこっちの台詞だ。また明日」

 瀬戸と改札の前で別れ、電車に揺られながら、鏡子はふと朝言われたことを思い出していた。


 玄関の前で深呼吸をし、鏡子はゆっくりとドアを開けた。

「ただいま……」

「おかえりなさい……荷物、持ちましょうか?」

「え、いや大丈夫! 自分で持つから」

 律子は申し出を断ったことは気にしているようではなかったが、どこか落ち着かない様子で鏡子を窺っている。何を話すでもなく居間に行き、鏡子は目を見開いた。

「母から食費を預かっていたので、帰りに買い物して作ってみたんです……勝手に台所を使っちゃってごめんなさい」

 テーブルに並んでいたのは、きちんと二人分そろった料理だった。一瞬呆然とした鏡子だったが、すぐ我に返って首を横に振った。

「いやいや、こちらこそ食事の用意も満足にできなくて申し訳ないと思っていたから……これ、食べていいの?」

「もちろんです。一緒に食べましょう」

 律子が力の抜けた笑みを浮かべたのを見て、鏡子はようやく肩の力を抜いた。

 献立は肉じゃがと豆腐の味噌汁、青菜のおひたしだ。炊き立ての白米をよそい、向かい合って座る。鏡子は手を合わせてすぐに肉じゃがに箸をつけた。

「料理、得意なの?」

「得意って程ではないですけど、よく作ります。森さんは料理は……?」

「あんまりやってないかな。自分一人だと思うとどうもやる気が起きなくて……あ、ジャガイモおいしい」

 鏡子が顔をほころばせると、つられたように律子も笑う。

「よかったです。味薄かったりしませんか」

「そんなことないよ、ちょうどいいくらい」

 ぎこちないながらも会話を続け、鏡子は何気なく尋ねた。

「一応確認しておきたいんだけど、明日の予定ってどうなってる?」

「明日は部活がないので、父の見舞いに行こうかと思ってます」

 表情をほんのわずかに暗くして、律子はそう答えた。鏡子は聞きそびれていたことを思い出し、おずおずと尋ねる。

「言いたくなかったら答えなくていいんだけど、健人さんがどうして入院なんか……」

「……会社から帰る途中、歩道橋の階段を下りてるときに突き飛ばされたらしいです。目撃者もいなかったみたいで、犯人はまだ見つかっていないらしくて」

「……そっか。お見舞いから帰ってくるときはあまり遅くならないようにね。私もなるべく早く帰るようにするから」

「はい。心配してくれてありがとうございます」

鏡子は気丈に微笑んだ律子を慰めようと口を開きかけ、何も思い浮かばずに押し黙る。代わりに鞄を引き寄せ、いたずらっぽく微笑んでみせた。

「話は変わるんだけど、ちょっとデザートほしくない? 実は、ちょっと買ってきたものがあって」

 鞄から取り出したものをテーブルの上に置くと、律子が目を見開いた。

「湯白屋のプリン……買ってきてくれたんですか?」

「仕事帰りに由美さんに連絡して、これが好きだって聞いたから。これで合ってる?」

「あ、ありがとうございます……えっと、これ、一つしかないんですか?」

「え? そうだけど。閉店ギリギリで滑り込んだからそれしかなくて……もしかして他の味の方がよかったとか」

 はっと顔を強張らせる鏡子に、律子は首を横に振った。

「森さんの分がないじゃないですか。これ、すごくおいしいのに。食べたことあります?」

「ないけど……いや、私の分は別にいいから、食べちゃいなよそれ」

 鏡子はプリンを律子の方に寄せ、プラスチックのスプーンを出した。律子は難しい顔でプリンを見つめていたが、顔を上げてきっぱりと言い放った。

「半分こにしましょう。甘いのが苦手じゃないなら、一度は食べておいた方がいいですよ」

 律子は真剣な顔で提案し、鏡子が勢いに負けて頷くとさっさと小皿に取り分けてしまう。

「……本当に良かったの?」

「自分だけ食べるのも悪いですし……それに、もし気に入ってもらえたらまた買ってもらえるかもしれませんから」

 なぜか誇らしげに答えた律子に、鏡子は一瞬きょとんとして、それからくすくすと笑った。

「ちゃんと考えてあるわけだ。策士だね」

 鏡子は自分用のスプーンも持ってきて、試しに一口食べてみる。

「本当においしい。これは一人一個ずつ買ってこなくちゃだめだね」

「そうでしょう?」

 すっかり緊張もほどけた様子で、律子はプリンを堪能している。鏡子は安堵のため息をついて、残りのプリンに舌鼓を打つのであった。


「という感じで、従妹とはうまくやっていけそうです」

「まあ、そんな気はしていたよ」

 鏡子の若干誇らしげな報告を受けて、長浜は苦笑気味だ。瀬戸も「やはり杞憂だったんじゃないか」と呆れている。

「物で釣る作戦は上手くいったわけだ。それにしても可愛らしい従妹さんじゃないか」

 坂井がからかうように言うと、鏡子はぱっと破顔した。

「そうなんですよね。今日はなんとお弁当も持たせてくれたんですよ」

 昨日とはうってかわって上機嫌な鏡子を、三人は呆れながらも優しい目で見ている。内線が鳴り、瀬戸が素早く受話器を取った。

「はい、生活安全対策課……はい、わかりました」

 ぐっと険しくなった瀬戸の表情に、周囲の視線が集まる。

「カガミ、浮かれているところに悪いが出張が入ったぞ。調査班の人手が足りないそうだ、機材を持って現場に行く」

「今からですか? 分かりました」

「長浜は研究班のサポートに呼ばれるはずだ、今回の現場は具合が悪くなるやつが続出したらしいから、念のためこっちに残っておいてくれ」

 荷物を用意しながら指示を出す瀬戸に長浜はうなずいて、坂井に尋ねた。

「蘭ちゃんはどうする? 部屋から出るなら鍵閉めるけど」

「あ、ちょっと調べものしたいから出るよ。ありがとう」

 荷物をまとめ終えた瀬戸が、鍵を長浜に預ける。

「鍵は任せたぞ」

「もちろん。調査班の人たちを待たせないようにね」

「すみません、お願いします」

 瀬戸と鏡子が急いで出ていくと、鍵を持った長浜が、小さな鞄を持って出てきた坂井に何気なく問いかけた。

「そういえば、何を調べに行くの? また研究?」

「いや、ちょっとした確認。そんなに時間はかからないはずだから、手伝いが必要だったら呼んで」

 研究班も幽霊なんかの手を借りるほど人手不足じゃないと思うけど。苦笑する坂井を長浜は怪訝な表情で見つめ、首を傾げた。

「蘭ちゃん、なんか今日元気ない?」

「……そう見える?」

「まあ、多少」

 乾いた笑いを漏らして、坂井は首を横に振る。

「気のせいってことにしておいて。瀬戸さんとカガミちゃんには内緒ね」

「それは別にいいんだけど……悩み事でもあるなら、誰にでもいいから相談しといたほうがいいよ」

「悩み事というか、少し気がかりなことがあって。大丈夫、その時には相談に乗ってもらうから」

 ひらりと手を振って去っていく坂井に、長浜は手を振り返し、「無理しなけりゃ別にいいんじゃない?」などとひとりごちたのだった。

 

「思ったほど燃えてないみたいですね」

「聞けば住民は全員出掛けていて、延焼もせず死者はいないそうだ」

「へえ……じゃあなんでわざわざ調査班が呼ばれたんです? 死者がいないなら新しく幽霊になる人もいないわけでしょう?」

「犯人が幽霊と関与していた可能性が高いらしい。どうだ、何か感じるか?」

「今のところは特に何も。課長はどうです?」

「若干空気が澱んでいる気がする、くらいのものだ」

 機材を用意する手を止めずに話す二人に、研究班の岡本が声をかける。

「悪いな急に呼び出して。森さんも忙しいのに申し訳ない」

「あ、大丈夫ですよ」

「ボランティアでやっている訳じゃない、気にするな」

 それより指示はどうなっている、と瀬戸が尋ねると、岡本は立ち入り禁止テープの方を見た。

「霊体に耐性がない奴らが倒れたから、その原因を調査しろだってよ。現場検証はリタイアしなかった奴らがやるらしいから、そっちには入らせてもらえなさそうだ」

「それはそうだ。調査班は何が原因だと踏んでいる?」

「まだ来たばっかりだから何とも言えんが、相当感情にふり幅がある霊が犯人側についていると見た……そう言えば二人とも、体調は平気か?」

「俺は問題ない。多少空気が悪い気がする程度だ」

「私も大丈夫です」

「二人とも事務方とは思えないほど霊体耐性が高いんだよな……森さん、調査班の方に来ない? スタミナがある子はいればいるほど助かるからな」

「馬鹿なことを言ってないで手を動かせ。住民への聞き込みに人手は足りているのか」

 鏡子に伸ばされた手をぱっと払った瀬戸が、普段より低い声で問う。岡本は苦笑して機材を指さした。

「そう怒るなよ。森さんはこの機材使った事あるか? ないなら今日は聞き込みに行ってほしいんだが」

「これは使ったことないです。課長はどうするんですか?」

「俺は機材の方だろうな。何を聞いてくるか分かるか」

「分かりますよ。最近知り合いで死者がいなかったかと、近所で死亡事故が起きた事はあるかですよね」

「そうだ。あとは自分で気になった事を少しずつでいいから聞き出していけ」

「とりあえず、手続きとかで警察署まで行っちゃったら話聞けなくなるから、まず一通り聞いちゃってくれよ」

「了解です」

 頷いてメモを片手に周りを見回し、鏡子は目を見開いた。

「あ……」

 泣きそうな顔で佇んでいる少女に、鏡子は息を呑む。あの制服は、朝に律子が着ていたものと同じものだ。足を止めた鏡子に、先に到着していた調査員が声を掛ける。

「どうしました?」

「いえ、何でもないです。あの女の子は……?」

「あの子も今回の件の被害者ですね。……まだ学生のようですから、聞き込みも最低限にしておきましょう」

 鏡子は調査員の言葉に頷いて、途方に暮れる家族に声をかけた。

「不躾ですみません。私、霊体研究所生活安全対策課の森と申します……」


 聞き込みを終え、鏡子は瀬戸たちと合流した。瀬戸たちが調査結果について話し合っている間に周囲を見回すと、警官が妙に厚着の男に声をかけている。どうやら職務質問をしているようだ。鏡子はじっとその様子を見つめていたが、一瞬眉間に皺を寄せ、振り返って言った。

「すみません、あの人にも話聞いてみます」

「え、ちょっと森さん?」

「おいカガミ、お前何を……」

 驚く瀬戸たちをおいて、鏡子は警官と男がいる方に向かっていく。緊張した雰囲気の中、男は近づいてくる鏡子に気付いて顔色を変えた。警官二人を振り払って逃げ出し、警官と鏡子は慌てて追いかける。角を曲がると、男は服の下から拳銃を取り出して待ち構えていた。

「あぶなっ……!」

 鏡子が拳銃を抜こうとした警官を下がらせようとするのと、男が引き金を引くのはほとんど同時だった。銃声が鳴り響き、鏡子は腕を押さえて倒れこむ。その隙を突いて男は逃げ去ってしまった。

「いった……!」

「カガミ!」

 血相を変えて駆け寄ってきた瀬戸の方を振り向き、鏡子は切羽詰まった声で叫ぶ。

「大丈夫です! それよりもあっちを追って……!」

 必死な声に瀬戸は険しい顔で頷いて、ぐんと走るスピードを上げた。遅れて岡本が駆け寄ってくる。

「森さん、大丈夫か?」

「大丈夫です、多分……」

 服にじわじわと血のシミが広がっていくのをなるべく見ないようにしながら、鏡子は首を縦に振る。傷口をハンカチで押さえ、岡本は落ち着かせるように鏡子の肩を叩く。

「今から救急車呼ぶから、とりあえず安静にしておいて」

 警官に何が起きたか説明してから数分もしないうちに、息を切らせた瀬戸が戻ってきた。

「おいおい、下手人はどうした?」

「車で逃げた。ご丁寧に、ナンバープレートも隠して……」

 傷口を押さえて座り込んでいる鏡子に気づくと、瀬戸ははっと息を詰めて、短く尋ねた。

「傷は」

「血はまだ止まってないですけど、そこまで深くはないと思います」

「痛むか」

「痛いです」

「そうか」

 瀬戸はそれきり黙り込んでしまい、鏡子は気まずく視線をさまよわせる。

「課長、もしかして怒ってます?」

 鏡子にこわごわと尋ねられ、瀬戸はひくりと眉をひきつらせた。押し殺した低い声で「怒っていない」とだけ言い、鏡子が納得していないと見て渋い顔で付け足す。

「怒る理由がない。野次馬が銃を持っているなんて誰も予想できない。お前は自分の仕事をしようとしただけだ」

「言ってることは分かりますけど、説得力が全くないくらい怖い顔してます……」

 思わず身構える鏡子に瀬戸は一層表情を険しくして、半ば呻くように「……怒っていない」と言った。

「まあまあ、鏡子ちゃんはほら安静にしていようなー、もうそろそろ救急車来るし! 俺はちょっと瀬戸と話すことあるから。あんまり動いちゃだめだよ」

 ほら来い、と岡本が瀬戸を引っ張っていく。取り残された鏡子は傷を憎々しげに睨んで、深いため息をついた。視線を感じて顔を上げると、被害者家族が遠巻きに鏡子を見つめている。制服の少女と目が合い、鏡子は慌てて傷を隠すように身じろぎした。

 鏡子がどうしても思い出してしまうのは、昨晩見た律子の憂いを帯びた顔だ。

(学校は何時に終わるんだったかな。見舞いの時間は何時までだったか。遅くなるようなら迎えに行った方が、いやむしろ私こそ見舞いに行った方がいいのか? 一応保護者代わりなんてやってるんだし)

 腕の痛みにしかめっ面になりながら、鏡子はぐるぐると考え込む。痛みから気をそらすための現実逃避に真剣に悩む鏡子に、話を終えたらしい岡本が遠慮がちに声をかけた。

「森さん、救急車来たよ。立てる?」

「あ、大丈夫です、歩けます」

 未だに不機嫌な顔の瀬戸を見つけて、鏡子は足を止める。

「すみません課長、まさかこんなことになるとは……」

「お前が謝ることじゃない。付き添いは必要か」

「大丈夫です、一人で行きます」

「そうか。ならちょっとあっち向け」

 首を傾げながら言われたとおりにする鏡子に、瀬戸は薄手のジャンパーを掛けた。

「血まみれの服で病院に行ったら目立つ。研究班のやつらの余りを分けてもらったから羽織っていけ」

 驚きに目を見開く鏡子に瀬戸は一瞬戸惑ったような顔をして、それからわざとらしく厳しい声音で言った。

「お前を撃ったやつを捕まえるのは警察の仕事だが、幽霊が関わっているなら俺たちにもできることはある。怪我人だからって休めるとは思うなよ」

 上着を掛けられてから目を丸くして固まっていた鏡子は、ぶっきらぼうな瀬戸の言葉ににやりと笑ってみせた。

「当たり前ですよ。もうこんな目に遭うのはごめんですから、普段より働いちゃうかもしれませんね」

「それはやめろ」

「仲がいいのはいいことだけど、森さんは救急隊の人待たせてるから。ほら、早く行った行った」

 鏡子を乗せた救急車が走り去り、瀬戸は小さくため息をついた。岡本に肘で突かれ、鬱陶しそうに睨みつける。

「かわいい部下が心配か?」

「今はそうでもない。だがあいつ、少し様子がおかしかったな」

「そうだったのか? よく見てるな」

「からかうな。戻ったら聞いてみる必要がありそうだ」

「そんな余裕あるかなあ。多分忙しいぜ、これから」

 不吉なこと言うんじゃない、とげんなりした声で答えた瀬戸だったが、その瞳には若干の諦念を漂わせていた。


 治療を終えた鏡子が生活安全対策課に戻ると、そこには忙しなく手を動かす長浜とパソコンの画面を睨みつけている坂井がいた。扉を開けた音に顔を上げた長浜が、鏡子を見つけて声を上げる。

「あ、カガミちゃん! 怪我したって聞いたけど大丈夫?」

「大丈夫です、ちゃんと痛み止めももらってきました」

 自分の机を見て、鏡子は首を傾げた。パソコンに貼られた付箋を剥がし、書いてある文を読み上げる。

「『現場で何を見た』……?」

「ああそれ? 課長がね、『現場でカガミの様子がおかしくなった、一体何を見たんだ』ってずっと気にしてたよ。研究班に呼び出されたからそこに貼っていったみたいだね」

 視線だけ寄越した長浜が補足すると、鏡子はぎくりと表情をこわばらせた。目ざとくそれに気付いた長浜が手を止めて立ち上がった。

「お、図星? 隠し事はナシね。気付いたことがあったらすぐに言えって課長がいつも言ってるでしょ」

「そんな大したことじゃないんですが……現場で見た被害者家族の女の子が、従妹と同じ学校に行ってるみたいで、つい思い出しちゃっただけなんですよ」

「何だって?」

 パソコンを睨んでいた坂井が突然大声を上げた。そのままつかつかと鏡子に近寄り、深刻な顔で問いかけた。

「ということはカガミさん、あなたの従妹さんってもしかして生山高校の学生なのか?」

 焦った声で問い詰める坂井に鏡子は驚き、慌てて頷く。

「そしてその従妹さんのお父さんが怪我で入院している、ということでいいんだね」

「そうですけど……。どうしたんですか急に。いや、まずどうして律子さんの学校を知ってるんです?」

 問い返す鏡子に答えず、坂井はがしがしと頭を掻いた。足早に出ていこうとして、扉に手を掛けて振り返る。

「ごめんなさい二人とも、しばらくお仕事手伝えそうにないんだ。瀬戸さんにも謝ってたって伝えてほしい」

「それは別に構いませんが……一体どうしたんですか? 坂井さんは何をしに行くんです?」

「少し調べものをね。大丈夫、なるべく早く済ませる」

 自分に言い聞かせるように言い切って出て行った坂井を二人は怪訝な顔で見送った。

「どうしたんですかね」

「分からないけど、何か気がかりなことがあるみたい」

 首をひねる鏡子に長浜は肩をすくめてみせた。鏡子が持ったままだった付箋を取ってごみ箱に捨てた。

「まあ、相談されない限りは手が出せないんだけどね」

 物憂げにぼやいて席に戻った長浜は、鏡子も席に着いたのを見てきっぱりと言い渡した。。

「カガミちゃんは机の上の書類整理したら今日は帰りな」

「え、どうしてですか? どうみても忙しそうなのに」

「怪我人を怪我した当日に残業させてたまりますか。本格的に忙しくなるのは明日からだろうから今日は帰ること」

 それに、と続けた長浜の表情はわずかに暗い。つられて不安げな顔をする鏡子に、長浜は念を押すように言った。

「蘭ちゃんの言ってたこと、少し気になるから。従妹さんのためにも帰ってあげて」

「……はい」

 神妙に頷いた鏡子に「不安にさせるようなこと言ってごめん」と謝って、長浜はまた忙しく手を動かし始めた。鏡子は机に広がった書類に目を通す。定時になった途端戻った瀬戸と長浜に追い出されるようにして、鏡子は帰路に就いたのだった。


「ただいま」

「おかえりなさい、今日は昨日より早いんですね」

 制服のブラウスとジャージというラフな格好の律子に出迎えられ、鏡子は状況も忘れて微笑んだ。

「私も学生の頃は帰ってきたらそんな格好してたなあ、懐かしい」

「あ……ごめんなさい、見苦しい格好で。すぐ着替えます!」

 わたわたと後ずさる律子を鏡子は慌てて止める。

「いや、そんな気にしなくていいって。楽にしてくれてた方がこっちも緊張しなくていいし」

 それでも少ししゅんとしたままの律子に、鏡子は「またやっちゃった……」と額を押さえた。ぐいぐいと眉間の皺を伸ばして、着替えるために自室へと引っ込んだ。

「あとちょっとで夕飯ができますから、テレビでも見て待っててください」

「うん、ありがとう」

 鏡子が腕の包帯を隠すために長袖の部屋着を選んで居間に戻ると、律子は台所に立って火の番をしていた。食欲を刺激される香りに、鏡子はごくりと唾をのむ。ふらふらと近寄り、頭一つ分低い位置に尋ねる。

「今日は何作ってるの?」

「ひき肉が安かったのでハンバーグです。付け合わせも少し凝ってみたので、たくさん食べてくださいね」

 もう少しでできますから、と穏やかに追い返されてしまい、鏡子はテレビの電源を付けた。チャンネルを変えていくと、昼間の火事についてのニュースが取り上げられている。火事というよりはその後の発砲事件に焦点が当てられており、鏡子は無意識に傷に手を伸ばしていた。

「できましたよ、どうぞ……森さん、どうかしました?」

 怪訝そうに問いかけられ、鏡子は慌ててテーブルの上のリモコンに手を戻した。すぐさまチャンネルを切り替え、クイズ番組で止める。律子が持ってきた皿を受け取り、ぎこちなく微笑んだ。

「ちょっとぼーっとしてただけ。作ってくれてありがとう」

「どういたしまして」

「いただきます」と二人揃って手を合わせる。しばらく無言の時間が続いたが、不意に鏡子が口を開いた。

「その……今日は部活がないって言ってたけど、そもそも何の部活やってるんだっけ」

「数学研究会です。活動がない日の方が多いくらいの、小さなグループですよ」

「数学研究会……どんな活動してるの?」

「そんなに熱心な感じではないんですけど、勉強会とかを開いたり、先生の講義を聞いたりしてます」

 ハンバーグを箸でざくざくと割りながら律子は問い返す。

「森さんは部活は何をしてたんですか?」

「え、私? 私は高校の時は合気道部だったよ。あんまり真面目にやってなかったけどね」

 鏡子は苦笑しながら付け合わせのブロッコリーをつまみ、一口食べて「おいしい!」と顔を輝かせる。

「本当ですか? よかったです」

 ほっと胸をなでおろし、律子は小さく切り分けたハンバーグを食べた。

「誰かと一緒にご飯食べるの、よく考えてみたら久しぶりでしたから……おいしいって言ってもらえると嬉しいです」

「由美さんたち、普段からそんなに忙しいの?」

「忙しいというより、単純に生活リズムが合わないだけですよ。お母さんが出張に行くときは、お父さんがなるべく家にいてくれるようにしてくれてたんです、けど」

 苦笑いしながら話していた律子が突然下を向いた。一瞬見えた透明な滴に、鏡子ははっと息を呑む。

「律子さん」

 鏡子が慌てて呼びかけると、律子は弱々しく首を横に振った。幼い子供がぐずっているところを連想させる仕草に、鏡子は箸を置いて立ち上がる。小さく嗚咽する律子は、懸命に涙を拭って顔を上げようとしない。

「ごめん、なさい……なんか、急に」

「うん」

「急に……ごめんなさい」

「いいよ、謝らなくて。こっちも気付いてあげられなくてごめん」

 鏡子は恐る恐る手を伸ばし、律子の柔らかな髪をそうっと梳いた。嫌がらないのを確かめて、ゆっくりと頭をなでる。抑えた泣き声が止まらないことに内心ひどく狼狽えて、小さな肩を抱きしめた。私は馬鹿か、と声には出さずに呟いて、鏡子は従妹の背中を不器用にさする。

(父親が大怪我して、不安にならないはずないのに)

律子はしばらく大人しく鏡子に撫でられていたが、落ち着いてくると顔を上げて「もう大丈夫です」と言った。

「本当に大丈夫? 辛かったらすぐ言わないとだめだよ」

「今はもう落ち着きましたから。ありがとうございます」

「うん、なら良かった」

 鏡子が涙に濡れた目元を親指で軽く拭ってやると、律子は照れたように鏡子から体を離した。

「あの、森さん」

「うん、どうしたの」

 普段より優しい声で答えた鏡子に、律子は言いにくそうに目をそらして「こんな風に言うのは失礼かもしれないんですけど」と前置きして言った。

「名前にさん付けで呼ぶの、できればやめてほしいんです……年上の人にそう言われるの、なんだか落ち着かなくて」

「え、じゃあなんて呼んだらいいかな」

「よ、呼び捨てがいいです」

 食い気味に即答した律子は、鏡子が驚いていることに気付いて慌てて声量を落とした。

「実はその……私、一人っ子だから、兄弟に憧れがあって。森さん、お姉さんみたいだから……」

 言っていて恥ずかしくなってきたのかどんどん声が小さくなる律子。鏡子は少しの間あっけにとられていたが、くつくつと笑って律子の頭をくしゃりと撫でた。

「いいよ。でも、お姉ちゃんに向かって『森さん』はよそよそしくない?」

 鏡子が意地悪く尋ねると、律子は分かりやすく困った顔をした。鏡子は「好きに呼べばいいよ」と言って、元の位置に戻る。

「ご飯、冷めちゃう前に食べよう」

「はい」

 頷いた律子は口元に柔らかな笑みを浮かべていて、鏡子はようやく肩の力を抜いた。

 

 翌日、鏡子が生活安全対策課のドアを開けると、瀬戸が受話器を片手に悪鬼のごとき形相で立っていた。声のトーンは普段と変わっていないのが恐ろしい。

「ですからまだ調査の結果が出ていませんので、今すぐ提出することはできないんです。ただでさえ確実とは言い切れない手段に頼っている以上、時間を掛けなければ冤罪も生み出しかねないんです……はい、結果が出次第ご連絡しますので」

 比較的穏やかだった声がだんだんと平淡になっていくのに鏡子が怯えていると、パソコンに向かっていた長浜が鏡子に手招きする。

「課長、どうしたんです?」

「昨日の今日で調査結果を早く出せって急かされてご立腹なの。朝一で電話寄越してくるだなんて、よっぽど焦ってるんだね」

「科捜研や科警研と一緒にするなって話ですよね。確立された技術体系もないというのに」

 小声で会話する二人の間に、電話を切った瀬戸の不機嫌な声が割り込んだ。

「カガミ、来て早速だがやってほしいことがある」

「はい、なんでしょう」

 その日、生活安全対策課は外部からの電話対応や調査班と合同の資料作りに明け暮れたが、その間坂井は一度も顔を見せなかった。

 

「ただいま……」

「おかえりなさい……大丈夫ですか?」

 帰ってきて早々玄関にへたり込んだ鏡子に、サイズが一回り大きなエプロンを付けた律子が駆け寄った。鏡子はふらふらと首を横に振り、靴も脱がずに廊下に寝転がった。

「今日は本当に大変で……ご飯の前に少し休んでいい?」

「別に構いませんけど、着替えてベッドで寝た方がいいと思いますよ。それともご飯より前にお風呂入ります?」

 鏡子の乱れた前髪をいじりながら、律子が気遣うように聞く。鏡子はしばらく悩んで、「いや、先にご飯食べる」と答えた。「よっこいしょ」と体を起こした鏡子に、律子が不安げな目を向ける。

「お仕事、何か問題でもあったんですか?」

「詳しいことは言えないけどね、競争相手がいないものだから消化しきれないお仕事がたまるのなんの……私が働いてる課は人も少ないし」

 のろのろと上着を脱いだ鏡子は大きくため息をつき、がしがしと頭を搔いた。

「しかも怪我したところ思いっきりぶつけるし、思えば今日は最悪だったな……」

「怪我? 鏡子さん怪我してるんですか?」

 鏡子が口を滑らせたことに気付いた時にはもう遅かった。律子はすっかり青ざめて、目に涙を溜めてさえいる。

「い、いつ怪我したんですか? どこを? どこで? まだ痛むんですか? 病院はちゃんと行ったんですよね?」

「だ、大丈夫だって! 病院は行ったし痛み止めもちゃんと飲んでるよ。たいした怪我じゃないの、本当に大丈夫だから、そんな心配しなくていいよ」

 おろおろする律子をなだめてようやく食卓の前につかせた鏡子は、部屋着に着替えてくると気難しい顔をして袖をまくった。包帯を一瞬見せて、すぐに元に戻してしまう。

「ほとんど事故みたいなものだったんだよ。普段は本当に怪我とは無縁な職場なんだから」

 不安そうに揺れる律子の目をまっすぐ見つめ、鏡子は優しく言い聞かせる。

「それにほら、今は律子がいるから」

 突然自分の名前が出てきたことに目を丸くする律子に、鏡子はにやりと笑った。

「一人暮らしの時より栄養もしっかりとれるから、怪我なんてすぐ治るよ。これでもまだまだ若いしね」

 どうだ! と胸を張る鏡子に律子はしばらく目を丸くしたままだったが、ややあっておかしそうに噴き出した。

「そう、ですよね……ふふ、じゃあ鏡子さんの怪我が治るように考えて作らなくちゃいけませんね」

 頑張らなくちゃ、と気合を入れる律子に鏡子はこっそり安堵した。いつ怪我したのかをうまく誤魔化すことができたからだ。自然に話題を変えようと、居間に顔を向ける。

「ところで今日のご飯は何?」

「サンマの開きと、わかめときゅうりの酢の物です。今から大根おろしを作るので、ちょっと待っててください」

「ああ、じゃあ私酢の物とか持ってくよ」

 食器をきちんと並べ、二人は向かい合って座った。「いただきます」と手を合わせた鏡子は、箸を動かしながらもどこか申し訳なさそうにしている。

「なんというか、毎回ご飯作らせちゃってごめんね……」

「そんなに気にしなくても……今日はちょっと手抜きですし。干物は買ったものを焼いただけで、酢の物もすぐに出来ますから」

「そうなんだ。酢の物くらいは作れるようになっておこうかな……どうやって作るの?」

「本当に簡単ですよ。きゅうりを薄く切って塩もみして、わかめを水でもどして調味料と混ぜるだけです」

「シンプルだけどおいしいってのはありがたいよね、今度作ってみるよ」

 他愛もない会話をして、鏡子が何気なく「明日は部活あるの?」と聞くと、律子は不安げに表情を曇らせた。

「明日は部活があるんですけど、普段より早く終わらせて帰るように言われてるんです。最近、事件がいろいろ起きてるみたいで……火事とか、家族が怪我したりした人が生徒に何人もいるみたいで、親に部活を休むように言われた人もいるって」

「そっか……」

 短く答えて黙り込んでしまった鏡子の表情は硬い。

「とにかく、暗くならないうちに帰ってて。明日もあんまり早く帰れそうにないけど、無理に買い物とかしなくてもいいから」

 ぎこちなく首を縦に振った律子は、話をそらすようにテレビの電源を入れた。会話は途切れ、テレビのバラエティ番組の音だけが響く。

 鏡子はサンマの身をほぐしながら、丸一日連絡のつかなかった坂井のことを考えていた。幽霊用に軽量化された携帯端末を持っているはずだが、送ったメッセージに目を通してもいないようなのだ。瀬戸と長浜も同様らしく、最近様子がおかしかったことも相まって三人の不安をあおったが、連絡が取れない以上はどうすることもできなかった。何かしらの反応があり次第報告するということで解散となったが、鏡子の携帯にはいまだ音沙汰がない。

「うーん……」

 白米をもそもそと食べつつ唸る鏡子を、律子が心配そうにちらちらと見やる。お互い気もそぞろに夕飯を食べ終えると、律子が今思い出したとばかりに尋ねた。

「今日はお風呂どうします?」

「私はシャワーだけでいいかな」

「じゃあ私もいいかな……あ、鏡子さん先に入っちゃってください。その間に食器洗っておくので」

「うん、わかった」

 鏡子は流しに食器を置いて着替えを取りに行き、律子は流しの前に立った。手を動かしながらも、頭は明日の献立について考えている。

つまり二人は──二人だけでなく、その周囲の人間も、不穏な気配を感じながらも、何が起こるかなど予想してはいなかったのだ。


 翌朝、鏡子は携帯の着信音で目が覚めた。寝ぼけまなこで相手を確認し、勢いよく跳ね起きる。

「もしもしっ、坂井さん?」

『もしもし。こんな時間にごめんよカガミさん、おはよう』

「はあ、おはようございます……いや、そうじゃなくて! いやそうですけど、でもそうじゃなくて!」

『うん、ちょっと落ち着いて。実はついさっき連絡が来てたことに気付いたんだ。心配させたみたいで申し訳ない』

 坂井の神妙な声音に鏡子はどうにか落ち着いて、声を潜めて尋ねる。

「いや、何ともないならそれは別にいいんですけど。昨日はどこに行ってたんです?」

『ちょっと家族に会いにね。死んでからは会いに行ってなかったんだけど、確認しなくちゃいけないことがあって』

 どこか疲れたような声に、鏡子は話が見えずにあいまいな相槌を打った。

『で、ここ何日かで最近の事件について調べたことを自分なりにまとめたのだけど、かなり私見が入っているので生対課の人たちに見てほしいんだ。始業前にちょっと目を通すだけでいいからさ』

「分かりました。ちなみに量はどのくらいあるんです?」

「大したことないよ。個人情報とかいろいろぼかしてあるからね」

「成る程。瀬戸さんたちにはもう連絡しました?」

『したよ。課長さんには『そういうことなら事前に連絡しろ』って怒られたし、長浜さんにはでっかいため息つかれた。『悪い想像ばっかりしてた自分に呆れてるの』だって』

「二人とも心配してましたからね」

『それ、残りの二人も言ってたよ。生対課の人たちは、みんな優しいよね』

 穏やかな声に違和感を感じて、鏡子は一瞬押し黙る。その一瞬で坂井はさわやかに別れを告げた。

『というわけで、なるべく早めに来てね。待ってるよ』

 あっさりと電話を切られ、鏡子はしばし首を傾げていたが、時計を確認すると素早く立ち上がった。居間と洗面台をざっと見まわし、律子がまだ寝ていることを確認する。

 音をたてないように注意しながら、先に出かけることをメモに残し、手早く身支度を整える。

「あれ、きょうこさん……?」

「ん、起こしちゃった? おはよう、律子」

「いつもこのくらいにおきてますから」と眠たげに答えた律子は、のろのろと椅子を引いて座った。

「鏡子さんは、もう出かけちゃうんですか?」

「うん。そこにメモ書いておいたけど、今日はちょっと早く行かなくちゃいけなくて。ああでもコーヒー淹れる時間くらいならあるな。インスタントだけど、律子は飲む?」

「お願いします……」

 眠気の覚めない律子の頷きに鏡子は笑い、コーヒーを淹れている間に顔を洗ってくるように言った。マグカップに湯を注いでくるくるとかき回していると、さっぱりした様子の律子が戻ってくる。

「砂糖とミルクはどうする?」

「お砂糖だけください」

 小さな砂糖壺を淡い桃色のマグカップの傍に置き、鏡子は自分のコーヒーに口付けた。

「しかし、どうして急に早く行かなくちゃいけなくなったんです? 昨日は何も言ってなかったのに」

「今朝電話が来たんだよ。急いで来いと言われたわけじゃないけど、どうしても気になっちゃって」

 軽い調子で答えながらも、鏡子の表情は深刻だ。律子に見つめられていたことに気付いた鏡子は、慌ててぎこちない笑みを浮かべる。

「一応確認しますけど、危険な仕事では」

「ないない。知り合いの調べものの結果を見に行くのと通常業務だけだから」

 露骨に訝しんだ律子に首を横に振り、鏡子はコーヒーをぐいと呷った。そろそろ出るね、と立ち上がった鏡子に律子は慌てて尋ねた。

「そう言えば、朝ご飯は……」

「外で適当に買ってくるよ。昼もそうするから、律子はもう少しゆっくりしてな」

「……はい。いってらっしゃい」

 柔らかな笑みに見送られ、鏡子はちくりと胸が痛むのを感じた。無理に不安を押し殺したような笑みに、やはり自分では役不足なのだと思い知らされるようだったのだ。


「おはようございます、坂井さんは来てますか?」

「実験室で休憩中だ」

「おはよーカガミちゃん。蘭ちゃんが集めたこれ、読む?」

「あ、読みます」

 長浜がひらひらと振った紙の束を受け取ってざっと目を通し、鏡子は眉をひそめた。瀬戸が端的に問う。

「……どう思う?」

「今までに例はないですけど、絶対に起こりえないとは言えないと思います。ただ分からないのは、坂井さんがどうしてこんなことを知っているのか……」

「そこは聞かないでほしい、だそうだ」

「まあ、私たちは警察でも何でもないから書いてあることの検証なんてできないし。でもこれ、筋は通ってるよね」

 長浜の言葉に、瀬戸と鏡子ははっきりと首を縦に振った。「で、これはどうするんです?」

「警察に持っていくのが妥当だろうな。まあ、本人がどうするかによるだろう」

 そう言って瀬戸が視線を向けたのは、謎に満ちた霊体実験室。部屋の主が起きるまで、三人にできることは何もないのだった。


「警察にはまだ持って行かない。潜伏場所に何か所か心当たりがあるから、そこを回って会えたら自首を勧めてくる」

 昼頃になって起きてきた坂井が言った言葉に、生対課の面々はいい顔をしなかった。

「え、それって大丈夫なの? 危なかったりしない?」

「怪我する心配がないのに危ないも何もないよ。大丈夫」

「説得してどうにかなるような相手だとは思えないんですけど、それでも行くんですか?」

「駄目だったらその時は警察を呼ぶよ。でも、説得できるならその方がきっといいはずだから」

「潜伏場所に心当たりがあると言ったが、もし全て見当違いだったらどうするつもりだ」

「これはまた手厳しい。その場合も警察に行って探してもらうことになるよね」

 坂井は説得に行くのを諦めるつもりはないようで、それを悟った三人はそれ以上の質問をやめた。

「警察に行くときは連絡しろ。付き添いが必要かもしれん」

「気持ちはありがたいけど、忙しいだろうから無理しなくていいよ。警察には知り合いもいるしね」

 瀬戸の言葉に軽く肩をすくめ、坂井は「じゃあ早速行ってきます」と手を振って部屋を出て行った。

「まだ間に合うはずだ。間に合わせなくちゃ駄目なんだ」

 ぐっと拳を握りしめ、険しい表情で呟いた言葉を聞くものは誰もいなかった。


 激務を終えて帰路に就いた鏡子は、コンビニで買ったプリンが二つ入ったビニール袋を提げていた。自分へのご褒美と、律子へのささやかなお土産である。

「前買っていったやつには敵わないだろうけど……」

 湯白屋のプリンを食べていた時の律子の笑顔を思い出し、鏡子は力の抜けた笑みを浮かべた。

「喜んでくれるかな」

 玄関前で鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。

「あれ? 開いてる……」

 空虚な手応えに、鏡子は背筋に悪寒が走るのを感じた。慌てて扉を開け、靴を脱ぐのももどかしく部屋の中へ入る。電気は全て消えていて、人の気配はない。

「律子!」

 鏡子の必死な呼び声が、真っ暗な部屋に空しく響く。携帯を取り出して、最近登録したばかりの番号を呼び出しても、繋がることはなかった。

「律子っ……」

持っていた荷物を取り落とし、鏡子は強く手を握りしめる。次に電話をかけた相手に呼びかける声は、縋るように震えていた。


 律子は誰かの足音で目を覚ました。硬い床、見覚えのない天井に混乱し、慌てて周りを見回す。倒れて動かない、自分と同じ学校の制服を着た人が何人か。光源は床に置かれたランタンが一つ。一体何が起きている? ひどい頭痛と目眩に思考を邪魔され顔をしかめた律子が、疑問を口に出そうとした時だった。

「ああ、こんな場所でも起きていられる子っているのね! 初めて知った!」

 場違いなほどに明るい声と共に、少女が律子の顔を覗き込んだ。少女の後ろがうっすら見えていることに気付き、律子は息を呑んだ。

「おはよう! と言ってもまだ午前二時なんだよね。寝ててもいいよというか、別に無理して起きてる意味ないよ?」

「あ、あなた、は……?」

 掠れた声での問いかけに、幽霊の少女は微笑んで、「あなたが知る必要はないよ」と突き放した。

「兄さん、目を覚ましちゃった子がいるんだけど、この子どうする?」

「……放っておけ。どうせ立つこともできないんだろ」

 陰気な男の声が少女の霊の問いに答えた。律子からは見えないが、他にも人がいるようだ――。

 そこまで考えて、律子は痛む頭を振った。先ほどの幽霊少女以外にもいる。不明瞭だが確実に、怒りに震える誰かが! がたがたと震える律子の顔を、青白い顔をした男が覗き込んだ。反射的に身を縮める律子を見下ろし、男は気だるげに告げる。

「逃げようとしなければ何もしない。大人しくしてろ」

 無造作に突き付けられる拳銃に、律子は目を見開いて首を縦に振った。それきり男は興味を失ったように律子から離れ、前にいた位置に戻った。

 律子は床を這って、倒れた学生へと近づいていく。一人ずつ顔を確認し、ある確信を得てきつく唇をかんだ。

「誰かお友達がいないかって心配してるの?」

 上から見下ろしてくる少女を律子は厳しい目で見据えた。

「……でしょう」

「何? 聞こえないんだけど」

「ここ数日の、放火や傷害事件……全部、あなたたちがやったんでしょう……!」

 振り絞るような声での詰問に、幽霊少女は目を丸くした。

「驚いた。どうして分かったの?」

「ここにいる全員が、事件の被害者かその家族だからです……もちろん、私も。あなたたちが事件に無関係だと思うのは、あまりにも……現実的ではありません」

 頭痛がひどくなるのを自覚しながら、律子は幽霊少女を睨みつける。背中に嫌な汗をかきながら、にやにやと笑う少女の答えを待つ。

「まあ、誰が事件の被害者を知っていれば自然とそう思うよね。辛いだろうに説明してくれてありがとう!」

 少女の霊は律子を讃えるように拍手する。体が無いために音は響かず、律子はきゅっと唇を引き結んだ。

「そうなると不思議なのは、どうして事件を起こしたのかとあなたたちをここに集めた動機だよね、それが分かんなくちゃ気持ち悪いよね。ねえ、聞きたい? それとも聞きたくない?」

「やめろ、藍」

 男が静かに制止したが、少女は唇を尖らせ不満を訴えた。

「いいじゃない兄さん。どうせ皆に知られちゃうんだから、今隠す意味なんてないよ!」

 律子の傍らにしゃがんで、藍と呼ばれた幽霊少女は誇らしげに語りだす。

「あなたたちはね、交換材料なの。私たちを死なせた大人たちと交換するのよ! あなたたちの家族はあなたたちをさらうのに邪魔だったからあんな風にしたの!」

 そう言って笑う幽霊少女の背後に、律子は不可視の憎悪を感じ取る。尽きない怨嗟が、生への渇望が、痛みへの恐怖がそこにはあった。

「あなたたちを、死なせた」

「そう! 私たちはね、卒業旅行の帰りに事故で死んだの。防げる事故だったのに!」

 幽霊の顔が怒りに歪む。

「私達には未来があった! 一クラス三十八人、全員分の未来、それが一度に失われた! それなのに大人は責任を取ったふりをして、あとは忘れてのうのうと年を取り続けている! そんな大人には復讐するの!」

――復讐を!

 脳に直接響くような声に、律子の肌がぞわりと粟立った。幽霊少女の背後で、無数の気配が叫ぶのだ。生きている人間への妬みを原動力に、生への執着を怒りに変えて。

(一クラス、三十八人……後ろの、あれが)

 ぎりりと歯を食いしばり、律子は声を振り絞る。

「そんなの、できるわけがない……!」

「……今、何て?」

「出来るわけがないって言ったんです……! 警察が、一連の事件の共通点に気付いていないわけない!」

 怒りに任せて喚く律子に、幽霊少女の表情が凍り付いた。

「捕まりますよ、あなたも、お兄さんも! そんな杜撰な計画がうまくいくなんて……!」

「静かにしろ。騒ぐと殺す」

 黒くて冷たい拳銃を額に押し付けられ、律子は息を呑んだ。男は律子の髪を掴んで持ち上げ、暗い声で囁く。

「お前だけ死体で親元に返してやってもいいんだぞ」

 低く脅しつけ、男は律子を乱暴に放り出す。律子が己の無力さに涙した、まさにその時だった。

「いい加減にしろこの野郎っ!」

 突然怒声が弾け、物陰から誰かが飛び出した。男の拳銃を持ち上げた手を掴んで上向かせ、重心を崩して引き倒す。素早く拳銃をむしり取り、体重をかけて男を抑え込んだ。

「兄さん!」

「動くな! こいつ撃つよ!」

 張りつめた大声で藍を制すると、鏡子は大きく肩で息をした。その額には汗が滲み、よく見ると銃を持つ手は震えている。その顔が普段とは比べ物にならないほど青白いのは、緊張のせいだけではない。

「きょうこ、さん」

 掠れた声で名前を呼ばれ、鏡子は口角を上げて応えた。

「もう、大丈夫だから」

 そうしてもがく男を膝で強く押さえつけ、後頭部にごり、と銃口を押し付ける。

「見覚えがあると思ったら、火事の現場にいたな。あんたに撃たれた傷、まだ少し痛むんだよ、見てみるか?」

 低く囁く鏡子に、藍はヒステリックな叫び声をあげる。

「なんで! なんでそんなこと出来るの? 普通だったら立つことも出来ないはずなのに!」

「世の中にはいろんな人がいるってだけだよ。そんな狭い見識でよくもまあここまで被害者を出せたものだな」

 動揺する藍を鋭く睨み、鏡子は冷たく吐き捨てた。

「あんた、警察じゃないだろ……どうしてここが分かった」

「事情をよく知る聡明なブレインがついていただけ」

 男の問いに端的に答え、鏡子は藍に向かって「諦めろ」ときつい語調で言い放った。

「じきに警察が来る。逃げようとしたって間に合わないし、万が一逃げられたとして何か当てはあるの? このまま大人しく捕まったほうがあんたたちのためになる」

「うるさいっ!!」

 鏡子の説得を遮り、藍は苛立たしげに叫ぶ。

「わたしたちにはこれしか残されなかった! 恨まなきゃ生きたかったと思うことさえできなかったのに!」

 怒り、恨み、嫉み――激しい感情をぶつけられ、鏡子は震え上がった。(警察は、警察はまだか!)幽霊の激情にあてられてこみあげる吐き気をこらえ、銃を強く握りなおす。

「私たちは許さない! 私たちを忘れた大人たちを! 私たちが死んだこと、絶対に思い出させてやる……!」

「そんなのは、ただの逆恨みだ! アンタが死んだのは事故だ、もうそれは覆らない! アンタには人を殺す権利も、この子たちを怖がらせていい理由もない!!」

「お前に――生きているお前に何が分かる!」

 亡霊の咆哮とほとんど同時に、警官が踏み込んでくる。抑えつけられた犯人と血走った眼をした鏡子を見て一瞬動きが止まり、後ろから坂井が警官の間をすり抜けるようにしてやってくる。ぐっと表情を険しくして、鋭く叫んだ。

「分かってないのは君だ、藍! 何もかもその人の……鏡子さんの言うとおりだ」

「なに。なによ……なによ、あんた! あんたは何? なんで、なんで……わたしと……」

 相対する二人の幽霊。暗闇の中浮かび上がる像は、まったく同じ少女の姿をしていた。服装も、捕らわれた少女たちが着ている制服と同じものだ。今にも霞んで消えそうな坂井を鏡子は案じるが、それを口に出すこともできないほど疲弊しきっていた。

「それを今説明しても、理解できるほど冷静じゃないだろ。君はもちろん、私だってそうだ」

 冷淡に疑問を切り捨て、坂井は少女に歩み寄る。有無を言わさぬ視線で同じ瞳をまっすぐ射抜き、同じ唇で追い詰める言葉を紡ぐ。

「諦めろ。実行役の兄さんを取り押さえられた君に何ができるっていうんだ。体のない君に人を傷つける力はない」

「う、うるさい! こっち来ないでよ!」

 ナイフを振りかざそうとする藍に、坂井はまるで失望したかのようにため息をついた。

「体が無いんだ、そんなので脅せるわけない。それをこっちに渡せ」

 厳しい声音で藍を威圧する坂井は、一歩ずつ踏み出して重ねて低く命令した。

「渡せと、そう言ったんだ」

 震えて取り落としそうになったナイフの刃を掴み、そっと抜き取った。それに一歩遅れて、警察官が動き出す。取り押さえられる男と自分の片割れだった像を見下ろし、坂井は冷たく言い放つ。

「幸いなことに霊が罪を犯したときに適用される法律は整備されている。今まで使われたことがなくても、きちんと君を裁くだろう……もっとも、兄さんと切り離される君が罪を償いきるまで自分を保てるかは分からないけれど」

 淡々と宣告し、坂井は藍に背を向けた。落ちていたナイフケースを拾って刃をしまうと、手招きして瀬戸を呼んだ。

「人質を早いとこ運び出そう。怪我はなさそうだから、担架を待たずに運べるだけ運ぶんだ。ここは場所が悪すぎる」

「ああ、そうだな」

「わ、私も手伝います……」

 立ち上がろうとした鏡子がふらりとよろける。咄嗟に襟をつかんで支えた瀬戸が、ぼそりとぼやく。

「心意気は買うが、今は運ばれる側のようだな」

「そういうことだね。カガミさん、無理せず座っときな」

 壁にもたれかかって休む鏡子を放って、攫われた学生たちが次々と運び出されていく。瀬戸に支えられて出ていく律子に弱々しく手を振って、鏡子は安堵の溜め息をついた。

「ごめんよ鏡子さん、無理させて」

「いいんですよ別に。それより、聞きたいことがごまんとあるんですから、ちゃんと答えてくださいね」

「仰せのままに。それにしても、ここまで大事になるとはね……私の想像力が足りなかったなあ」

「坂井さんのせいじゃないですよ」

「……そうとも言い切れないんだけれど。まあこれで一件落着ってことでいいかな」

 こうして一連の事件は犯人たちの逮捕で終わりを告げた。誘拐された学生たちは全員怪我一つなく、病院で形ばかりの検査を受けて、それぞれの家へと帰っていった。


 事件が解決して一週間が経ち、坂井は鏡子と公園で待ち合わせをしていた。

「やあお待たせ……おや!」

 鏡子の横に、坂井にとって見覚えのある少女、律子が縮こまって座っている。坂井はぱっと破顔して近づいていく。

「日の下で見るとまた一段と愛らしい従妹さんだね。鏡子さん、こんな可愛い子にご飯作ってもらってたの? 全く羨ましい限りだよ」

 出会い頭に褒められて律子は目を丸くしたが、鏡子が何故か「そうでしょうそうでしょう」と誇らしげに頷いたのには顔を赤くした。

「初めまして……じゃないけど、坂井蘭です。見ての通り、君をさらった幽霊とは訳あって同じ見た目をしているけど、怖がらないでいてくれると嬉しいな」

「中野律子です、その辺りは鏡子さんからみっちり説明してもらっているので大丈夫です」

 穏やかに笑って答えた律子に坂井は片眉を吊り上げ「そりゃありがたい」と笑い、鏡子が引いた椅子に腰かけた。

「さて、改めて確認すると、あなたたちが聞きたいのは事件と私との関係ってことでいいのかな」

 落ち着いた声での問いかけに、鏡子と律子はそろって頷いた。満足そうに頷き返し、坂井は顎に手を当てて悩む。

「じゃあ、最初に簡単に話すから質問はそのあとってことでいいかな。何から話したものか……」

 しばらく考えこみ、坂井は透ける掌に視線を落とした。

「結論から言ってしまうとね、内海藍は生前二重人格者だったんだよ。で、そのときのもう一人がこの私、坂井蘭だ」

 ため息をつく憂い顔は、もうあどけなさを感じさせるものではない。

「正直おぼろげな記憶しかないのだけど、まあ愉快な家庭環境じゃなかったことだけは確かでね。そういう症状が出て、しばらくして例のバス事故で死んだ。嘘みたいな確率で両方の人格が幽霊になって、私は瀬戸さんに拾われ、彼女は兄の下へ帰った。私は自分が何なのか、何ができるのかを知るために研究所に来て、彼女は兄と復讐の時期を窺い続けた……という訳さ。ざっくりとしか説明できなくてごめんね」

「いえ、そんなことないですよ」

 何か質問は? と首を傾げる坂井に、律子が手を挙げた。

「事故で亡くなった藍さん以外の三十七人は、あの時どうなっていたのですか?」

 律子の問いに坂井はつまらなさそうな顔をして答える。

「幽霊にもなりきれない状態のまま藍についていった結果ああなったと推測してるけど、実情はどうなんだか。藍ともども跡形もなく消えてしまったしね」

 しれっと明かされた事実に鏡子と律子は息を呑んだ。その様子を見て坂井は苦笑して、静かに付け加えた。

「復讐のことだけ考えて自分たちを保ってきたような存在だ、計画が倒れたらそうなるのは自然なことだよ」

 神妙に黙り込んでしまった律子をちらちらと気にしながら、鏡子が尋ねた。

「共犯の男は……内海恭介はどうなったんです?」

「あの人なら今は留置場にいる。こちらも藍がいない以上、何ができるとも思えない。安心してもらっていいい」

 淡々と質問に答え、坂井は不意に姿勢を正した。

「中野律子さん。今回の件はいろいろと災難だったね。君だけじゃなくご家族にまで……本当に、申し訳なかった」

「そんな、坂井さんは何もしていないのに……」

「何もしないっていうのが今回は一番まずかったんだよ。疑ってから本格的に調べ始めるまでが遅かった」

 失策を悔いるように目を伏せた坂井を、二人は気遣わしげに見る。その視線に気づいて、坂井は力なく笑った。

「君がいなくなったって話を聞いたときは焦ったよ。カガミさん、まるでこの世の終わりみたいな取り乱し方をするんだもの。こっちもつられてすごく慌てたよ」

「……そうだったんですか?」

「本人の前でそういうこと言わないでくださいよ……我ながら尋常じゃなかったとは思ってるんですから」

 律子にじっと見つめられ、鏡子は気まずく目をそらす。

「私からも聞きたいことがあるんだった。私が警察を呼んでいる間、カガミさんには学生が無事かどうか確かめることだけを頼んでたはずなのに、いざ行ってみたら犯人確保してたの、あれすごく驚いたんだけど何がどうしてああなったの? 中野さん見てた?」

「見てました……あの時の鏡子さん、すごく格好良くて」

「おお、それは是非とも聞いておかなくちゃ」

「やめてくださいって……」

 坂井はひとしきり鏡子をからかって満足したのか、そういえば、と話題を変えた。

「二人は今日、これからどうするの?」

「これから買い物ですよ。律子のお父さんの退院祝いを何にするかの下見です。坂井さんは何か予定は?」

「私は……本屋にでも行こうかな。うん、そうするよ」

 そう答えて、坂井はふと何か思いついたという顔をした。

「最後に一ついいかな。中野さん、今、何か将来なりたい職業はあるのかな」

 唐突な質問に律子は意外そうに瞬きして、「いいえ」と首を横に振った。坂井はいたずらっぽく笑って頷く。

「じゃあ、未来ある若者の選択肢を一つ増やさせてもらおうか。なんて光栄なことだろう」

 うきうきと身を乗り出した坂井は、律子にそっと耳打ちする。ぱっと笑顔になった律子にウインクして、坂井はひらりと席を立った。

「じゃあ、これで失礼するよ。いろいろ話せてよかった、二人ともありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「休みの日なのに時間を取ってもらってすみません」

「それはお互い様だよ。また生対課でね」

 そう告げて歩き去っていった坂井を見送って、鏡子は律子をちらりと見た。どこか夢を見るような、ふわふわとした表情に好奇心をくすぐられる。

「……坂井さん、なんて言ってたの?」

「え? えへへ」

 しまりのない笑みを浮かべて、律子は嬉しそうに答えた。

「『就職先候補に霊体研究所も入れておいて。事件の話を聞く限りだと、才能あるよ絶対』……って言われました」

「はあ!?」

 あまりに予想外だった言葉に鏡子は絶句した。律子は呆ける鏡子の袖を引っ張って、「私たちもそろそろ行きましょう」と急かす。

「いや、才能どうこうはさておき私は反対だからね? いやでも人材不足を考えると積極的に勧誘した方が……?」

「そういう話は進路面談の時だけにしてくださーい」

 真剣に悩み始めた鏡子を立たせ、律子は足取り軽く歩き出す。難しい顔の鏡子と浮かれた表情の律子。対照的な様子で歩く二人は、同じ方向を目指して陽光の下を進んでいくのだった。

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