第3話美しい海で
がらがらの車内で揺られているうちに、どうやら眠ってしまっていたようだ。車窓から見える景色はいつの間にか水平線が見えるほど海に近くなっている。乗り過ごしたかと一瞬身構えるが、タイミングよく停車した駅は、目的地の二つ手前だった。
もし乗り過ごしていたら、それはそれは長い時間待たなくてはいけなかっただろう。自分のタイミングの良さに感謝する。
発車するのを待ちながら、大きな欠伸を一つ。朝が早かったものだから、本当に眠くてたまらない。床に置いた小さな鞄を足で引き寄せ、再び目を閉じた。寝るわけじゃないさ、少し目を休めるだけだ。
空気が抜けるような音がして、電車のドアが閉まる。走りだしてからしばらくして、不意に目を開けると、はす向かいの席に少女が座っていた。まず目を引くのは小さな花束。オレンジと黄色を基調とした可愛らしいものだ。包装紙は淡い黄色、リボンは若草色をしていた。薄い水色のカーディガンに、白いワンピース。艶やかな黒いおさげの髪を背中に垂らし、俯き加減に大人しく腰かけている。
今日は曲がりなりにも平日なんだが、学校はないのだろうか。人気の無さも相まって、少女のことが妙に気になってしまう。いいや、止そう。それほど乗り気でない旅路ではあるが、それなりに真面目な理由があってここにいる。余計なことは考えず、なるべく早く済ませて帰ることだけを考えよう。
携帯を取り出して、行程の再確認。今のところ問題なく進めているようだ。目が覚めてしまったので、鞄から文庫本を取り出して開く。知らないうちに文学少女になっていた娘から借りた物だ。自分の趣味には合わないが、まあ薦められたからには読んでやらないといかんだろう。
そうやってぱらぱらとめくっていると、ついつい熱中してしまっていたようだ。がたん、と大きな揺れに驚いて顔を上げると、なんと目的の駅に辿り着いている。慌てて鞄をひっつかみ、駆け降りた。背後で扉が閉ざされ、大きく息をつく。
「……間一髪でしたね」
涼しげな声をした方を向くと、向かいに座っていた少女が花束を手に微笑んでいた。
「ああ。乗り過ごしてたら目的地に着く前に日が暮れるところだった」
「それは大変」
ワンピースの裾を揺らして、少女が歩き出す。一つしかない改札を通って陽光の下へ出る。
「君もこの町に用か?」
「そうなんです。海に行きたくて」
海、海か。一体何の縁なんだか。
「おじさんの目的地も海なんだ」
少女はぱちぱちと目を瞬いて驚きを露わにする。
「お嬢さんは観光かい?」
「花束なんて持って?」
いたずらっぽく目を細めた少女に苦笑して、鞄を持ち直す。
「おじさんは観光?」
「時間があればそうしよう」
照りつける日差しを避けて、日陰を歩く。陽光に照らされる少女は、不可解そうに首を傾げた。
「海開きはまだ先。泳ぎに行くには少し早いですよ」
「水着持ってないんだ。泳ぎに行くだけが海じゃない」
「釣りに行くって感じでもありませんね」
「子供のとき以来やってないからなあ」
肩を竦めてのろのろと歩く。驚くべきは先を行く少女が、事前に調べた道順の通りに進んでいることか。海と言っても、この町は海岸線が長いんだから目的地まで一緒なんてことはないだろうと思ったんだが、そういうわけでもないらしい。
「私も釣りはやったことないです」
「あれは濡れるしな」
日陰を選んで歩いても、暑いことに変わりはない。背中に流れる汗に顔をしかめながら、先を行く少女に問いかける。
「お嬢さんこそ、海に何しに行くんだ。花なんて持って」
少女はくるりと振り向いて、にこりと笑って首を横に振った。おさげ髪が風に吹かれて揺れる。それきり黙って道を行く。お互いあんまり口にしたくない用事があるわけだ。
水平線にじりじりと近付いて行く。変わらず少女と道を違えることが無いまま、海岸線沿いの道路に出た。
「おじさんはどっちに行くんですか?」
「左だな」
「驚いた。私もです」
「ここまで来たら意外でも何でもないな」
そう言うと少女は「それもそうですね」と頷いた。波の音がすぐそばで聞こえる。早いとこ用事を済ませて帰りたいが、まずその前に腹が減った。弁当を持っているので、適当に座れるところを見つけたい。慣れた足取りで進む少女に案内を頼んでみることにした。
「お嬢さん、この辺りは詳しいのか?」
「昔住んでいたから、それなりに」
「それはよかった。この辺にどこか座れるところは無いか? 少し遅いが昼飯にしたいんだ」
少女はぐるりと首をめぐらせて、左方を指差した。
「あっちに東屋がありますよ」
少女が指した方向を見れば、少し遠いところに屋根があるのがわかった。涼しい日陰を想像して自然と口元がほころんでしまう。
「そりゃあありがたい。日陰があるだけでだいぶ違う」
「私も休憩したいので、ついていってもいいですか?」
意外な言葉に一瞬目を丸くしたが、よくよく考えてみれば断る理由も権利もない。
「お嬢さんさえよければどうぞ。独り占めするにはもったいなさそうな場所だ」
汗をかきかきたどり着くと、先客は海鳥が一羽だけ。そいつもすぐに飛び去ってしまった。
「邪魔しちゃったみたい」
「悪いことしたな」
潮風を浴びながら、水平線を一望する。空と海の境目を、何にも遮られることなく見ることができる。久しく見ていなかった海辺の景色に、息をすることも忘れて見入る。なるほど、これはまた。
「……想像以上にいい景色だ」
「そうですか」
少女はベンチに腰掛けて、花束に視線を落としてしまった。鞄から持たされた弁当を引っ張り出す。ケースに入った大きなおむすびが三つ。ねえおまえ、これは少し多いんじゃないのか? 朝早くにこれを持たせてくれた妻を思って苦笑しながら手を合わせ、アルミホイルをはがす。
大口開けてかぶりつき、よく噛んでから飲み下す。塩がよく効いていておいしいんだが、大きすぎて具がなかなか出てこないのが少し残念だ。もごもごと口を動かしながら、鞄をあさって中の瓶を確認する。小さな瓶は傷一つなく、中身がこぼれている様子もない。
「それ、自分で作ったんですか?」
手持無沙汰そうな少女がおむすびに目をやって尋ねてくる。そう思われても仕方のないような大きさをしているのだ、実際。ぺろりと唇を舐めて苦笑した。
「いや、奥さんが作ってくれたんだ。適当に買って済ませるつもりだったんだが、朝起きたらもう作ってあった」
「いい奥さんですね」
「ありがたいことだよ、本当に」
やや照れながらおむすびを一口。ようやく出てきた具は昆布の佃煮だ。流石に分かってらっしゃるな、と上機嫌に味わっていく。
「お嬢さんは昼になにか食べたのか?」
「あまり、お腹すいてないんです」
「そうか。もし欲しかったら言ってくれ。正直食べきれる気がしない」
八の字眉での提案に、少女は微笑むだけの返事をした。そりゃそうか、普通は断るよな。ぺろりと食べ終えて二つ目に手を伸ばす。潮風が吹き付け、かぎなれない香りが肺を満たしていくのがわかった。潮の――海の、においだ。人が生きていけない世界のにおい。
「おじさんは、海が好きなんですか?」
白米に埋まっていたたらこを探し当てたところで、出し抜けに少女が尋ねてきた。
「好きでも嫌いでもないな。思い入れがないわけじゃないが、あんまりいい印象はない」
「そうですか」
「お嬢さんはどうなんだ?」
「嫌いです」
少女は端的にそう言った。唇の端には苦笑が浮かび、眉は困ったように下がっているのに、疑問をはさむことも許さないとでも言うような断固とした口調だった。潮風が目にしみて、軽く目をこする。少女は自分にも言い含めるようにつぶやいた。
「嫌いです。怖いから」
海に背を向けて座っているのは、見つめるのが恐ろしいからだったのだろうか。そこにあるのはただの砂浜なのに。どこにでもあるような海と空を背負って、少女は花束を優しい手つきでなでた。その左薬指の付け根に小さなほくろを見つけて、自分の左手に――結婚指輪に、視線を落とす。
「海は、人を、食べるから」
結局三つ目のおむすびに手を伸ばす気にはなれず、しばらくの休憩を挟んで歩き出した。目的地まであと少し。日が沈むまでには用事を済ませられそうだった。
ざぶん、と波が砕ける音が聞こえる。砂浜から移動して、今いるのは比較的小さな岩場だ。少女もどうやらここが目的地であるようで、波打ち際で一人佇んでいた。足場が悪くてひどく歩きにくいにもかかわらず、すいすいと進んでいたのが不思議だった。
「お嬢さん、今は構わないんだがあまり長居し過ぎないようにな」
今は干潮だから問題はなさそうだが、ぼんやりしてて潮が満ちたりしたらこんな季節に海難事故だ。寒くはなくても水は冷たいだろう。鞄から小瓶を取り出しながら注意すると、少女はおさげをなびかせて振り向く。その妙に寂しげな笑みに、強烈な既視感を覚えた。そう、そうだ。いつもああやって笑っていたのは――。
「大丈夫ですよ、すぐ済ませます」
そう言った少女は花束のリボンをするするとほどいた。たおやかな指が丁寧に包装をはがしていく。アルミホイルと切り口から水を吸わせるための紙、硬い茎をひとまとめにした輪ゴムをゆっくりと取り払い、波打ち際より少し遠いところに置く。手の中にあるのは優しい色合いの花だけだ。
「あなたはきっと、花なんかやめろって言うのでしょうね」
波音にかき消されて聞こえなかった言葉は、きっとここにはいない誰かに向けたものだ。サンダルを履いた足を波に浸して、少女は膝を折り曲げた。黄色いバラを一本、掌ごと海水に沈めてしまう。波が動くのに任せて、小さな黄色が青の中に流される。オレンジのガーベラも、白いカーネーションも、同じように陸を離れ、海に飲み込まれていった。
少女の手が空になってようやく、口を開いた。
「……亡くなったのは、この辺に住んでたっていう知り合いか」
「はい」
意外にも、少女は明瞭な声で肯定した。不思議とよく通るその声が、どんな表情で発せられているのかは、背を向けられているので分からない。きっと、分からなくてもいいことだ。
「私が故郷を離れてすぐに、親戚の子供を助けようとして亡くなったと聞きました。子供も助からなかったようです。それを私が聞いたのが、彼が亡くなって半年ほど経った頃でした」
少女の語りはどこまでも淡々としていた。もう、自身の中で整理がついた話なのだろう。海は人を食べる、か。今までに何人食われたっていうんだ。この目に鮮やかな美しい青に。
黙して海を睨んでいると、少女は不意に振り向いた。どこか諦めたような、穏やかな表情をしている。
「おじさんは、ここで何をするんです?」
こちらを見据える視線はどこまでも凪いでいる。何もかも見透かすような瞳だった。
「頼まれたんだよ。灰を、海に撒いてくれと」
少女の目を見返して、鞄から瓶を取り出した。後ろに下がった少女の横を通り過ぎて、波打ち際に立つ。瓶の中身はくすんだ色をした灰である。正しくは――
亡き母の、思い人への手紙だったものである。
「思えば、遠くまで来たもんだ」
母は三年前に我が家の近所で一人暮らしを始めた。父が亡くなったために、何か起きればすぐ駆けつけられるようにと、妻と娘と三人がかりで説得したのだ。
自分のことは自分で解決したがる人だったし、誰かに相談している様子などほとんど見たことがなかった。結局自分の面倒をみきれなくなる前に亡くなってしまったが、それはいいことなのか悪いことなのか。死因は胃癌だった。
無口で、自分にも他人にも厳しい人だった。孫である娘にだけ甘いなんてこともなかったはずだが、娘は立派なおばあちゃん子になり、毎日のように母の部屋へと通っていた。
母の遺品整理を家族総出で行っている途中、娘がひどく不満げな表情で一つの箱を差し出してきた。聞けば、母に隠し場所を教えられていたのだという。死後開けるように言い含められてもいた。
『おばあちゃんが、中身はお父さんにしか見せちゃだめよって。あなたも絶対に見ないでねって』
人並み以上に好奇心の強い娘が、言いつけ通り箱を開けないでいたのはやはり、それだけ母のことを大事に思っていたからだろうか。何にせよ娘がこれの中身を見なかったのは幸いだった。
箱の中身は大量の黄ばんだ封筒と、比較的新しい便箋が数枚。一番上にあった白い便箋を一通り読んでみて、まず、自分の頭を疑った。角張った癖のある字は見慣れた母のもので、だからこそ一層混乱した。
『この手紙を燃やしてほしい』
そんな一文から始まり、燃やした後の処遇について細々と記されていた。ご丁寧に我が家の最寄駅から目的地への交通手段まで書かれている。
『恥ずかしくも後生大事に抱え込んでしまったこの紙束を灰にして、所定の場所に廃棄してほしい』
手紙を燃やしてくれと、母の字が言う。燃やした灰を、海に撒いてくれと。何の為に? そもそもこれは、誰から誰に宛てた手紙なんだ。それについての説明はない。黄ばんだ封筒を一つ手に取り、宛名を探す。差出人は旧姓の母。便箋のものに比べて字が若干丸いというか、拙い。宛名には知らない名前があった。もう一つの封筒では、宛名と差し出し人が逆になっていた。意味が分からない。
肝心の便箋にはこの手紙が何なのか、一切触れられていない。やりとりの相手が母の何なのかも、どうして灰を撒かなければならないのかも、何も分からない。
封筒を放り出して、息を深く吸い、吐く。まず引っ掛かったのは、娘には箱を開けることも許さないようだったくせに、便箋には封筒の中を見るなとは書いてはいないのだ。見ろとも書いてはいないが、ただ書き忘れたとは考えにくい。
それに、これは母宛ての手紙だけでなく母から誰かに宛てた手紙もある。なぜ母が持っているのかも分からないものがある以上、このまますべて燃やしてしまっていいのか分からない。
分からないなら自分で考えろ、ということか? あの母が言いそうなことではある。何も見ないまま燃やしてしまうのも、中を見てからどうするのかも自分で決めろと。放っといて部屋の隅で埃をかぶらせとくこともできないことはないな、などと思って苦笑が浮かぶ。娘の好奇心が誰由来のものかなんて、母にはとっくにばれているのだ。
整理が一通り終わってから、自室で手紙を開封することにした。
手紙の詳細については、伏せる。別に何の変哲もない、かわいらしい子供の文通そのものだった。ただ、内容が純粋であるほどに、これを取っておいた母の、未練の強さがわかってしまうのだ。母が娘に見るなといっていた理由がわかった。あの子は母のある種禁欲的と言うか、余計なことを好まないところに憧れているようだったから、これを見てしまえば少なからずショックを受けるだろう。
「それにしたって意外だよ。あなたがこんなものをとっておくなんて」
小さくもらした独り言で、自分も驚いていたことに気づく。母の子供の頃の話など聞いたこともなかったし、そもそも人付き合いに関してだって同窓会のはがきが来たのに眉根を寄せていた記憶ぐらいしかないのだ。
寡黙な人ではあった。離れて住むようになってようやく、自分が母のことをあまり知らない事に気づいた。一緒に住んでいたって、知ろうとしない限りは家族のことだって分かりはしないのだ。
家族が寝静まった後に、こっそりと手紙を燃やした。煙が出過ぎないように少しずつ。ちろちろと燃える火を見つめながら、海に行く予定を立てたのだ。名状しがたい思いを抱えての、何年振りかも分からない一人旅となった。
蓋を開け、さらさらと灰を海に流す。母の純情の亡骸は、あっという間に流されて見えなくなる。
空の色を反射して、海が燃えているようだった。手紙を燃やした時の微かな火を思い出す。
「これで満足か」
目を伏せて、小さく低く囁いた。尋ねてみたって返事をするわけないが、聞いておかなければならないと思った。
「さて、そろそろ帰るとしようか……」
立ち上がって振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。呼吸も忘れて呆然と立ち尽くし、靴に波がかかりそうになったところで我に返る。
空を見れば、息を呑むほどに美しい夕焼け。しばし見とれてから、一つ大きく頷いた。
「そうか。まあ、それならいいんだ」
娘に土産でも買って帰ろう。そう思って鞄に手を伸ばし、あるものを見つけて思わず笑みがこぼれた。
潮風に吹かれて揺れる、若草色のリボン。鞄の持ち手に結ばれたそれは、捨てようにも場所がなかったから、そのままつけて帰ることにした。
駅に戻って電車を待ちながら、母について考えていた。手紙を燃やす前、自分なりに調べてみたのだ。母の文通相手のことについて。
文通相手本人は随分と昔に亡くなっていた。その妹さんは母と面識があったらしく、連絡すると随分と驚いていたが、質問には快く答えてくれた。
母と文通相手には家族ぐるみの付き合いがあったらしく、文通は母の引っ越しを機に始められたようだ。文通は随分と長いこと続いていた。
――文通相手が死ぬまで、続いていた。
部屋の整理をしていた時に母との手紙を見つけ、慌てて連絡した際に、残っていた手紙があるなら送ってほしいと頼まれたそうだ。それを聞いて母からの手紙があったことに納得がいった。
『お母さんは恨んでいるかもしれないわね……小さい頃、散々お世話になったのに。伝えるのが半年も遅れてしまって』
そんなこと言われたって、母にそんな相手がいたことすら知らないんだから何も言えるわけがない。「そんなことはないと思いますよ」とだけ言った。母が何を考えていたかなんて、生きていた頃だって分かりはしなかったのに。しばらく当たり障りのない話をしてから挨拶をして電話を切った。
母は昔から海が大嫌いだった。海辺に住んでいたこともあるのに変わっていると父は言っていた。
家事をする時に邪魔だからと、結婚指輪はしていなかった。左薬指の付け根にある黒子に気付いたのは、多分それほど大きくなってからではない。
病床で一度だけ「海に行きたい」と言った。娘は「この間、海水浴なんてとんでもないって言ってたじゃない」と首を傾げていた。
ああ、もしも、もしも、全てが。今までに知ったことと、今日見てしまったことが、全て、全て繋がっているとしたら。あの鉄面皮の下で、誰も予想もできなかった感情が、父と結婚する前から、最後の眠りに落ちる日まで、ずっとくすぶり続けていたのだとしたら。
考えてみたってどうにもならないことだ。当事者は一人残らず死んでいる。母も父も、文通相手も。額を押さえて俯き、軽い目眩を堪える。
世の中思い通りに行くことの方が珍しいのだ。望みどおりになることの方が少ないなんて分かっている。だから、自分が母親の幸福ではなかった可能性にショックを受けるのは、とても傲慢で浅ましいことだというのも分かる。分かるが、心中は誤魔化す余裕もないくらい複雑だ。
そのまましばらく項垂れていると、突然鞄が振動した。耳に覚えのあるリズム。携帯に通知が来たらしい。ろくに確認しないままアプリを開くと、新着メッセージがが二件。
『昼に二人でクッキーを焼きました。お土産と交換じゃなきゃあげない、だそうです』
そんなメッセージと共に添付されていたのは、やたら凝ったデコレーションをされたクッキーの山の写真だった。
『お土産は買っておくから、帰ってくるまでに無くならないよう見張ってて』
そう返信して、携帯に鞄を戻す。飾りのない銀の輪に目を落とし、静かに深呼吸をした。
「考えるだけ無駄、か」
そもそも全て推論に過ぎないのだ。真実は闇の中、確認できたとしてもできることなど何もない。
だから、今回の件はそのまま全て、墓まで持っていくとしよう。誰にも晒さず、暴かれることもないように。
短い電車がのろのろとホームに滑り込んできたのを見て、よっこらせ、と重い腰を上げる。ふいに香った潮のにおいに、馬鹿なことを考えた。
誰も幸せにしない秘密なら、海に喰わせてしまうのもありかもしれない、なんて。
我ながらつまらないことを考える。持ち手のリボンをさっと解いて、鞄の奥深くにねじ込んだ。
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