第2話カクレクマノミの遊泳

 五月第二土曜日


 少し蒸し暑いなと思いながら起床した朝、仕舞ってあった夏物の山から適当に掴みだした服が、背中に見事な筆字で『太公望』と書かれたTシャツだった。こんな服どこで買ったっけか、とぼんやりすること数秒、妹が旅行の土産にとふざけて買ってきたものだったなと思い出して気の抜けたような吐息が漏れる。今まで一度も着たことのないそれを着ていくかどうか、少し悩んだ後に面倒臭くなって袖を通す。一人で釣りに行くのに服に気を遣う意味はなく、天気予報は一日中曇りで気温もそれほど高くないとのことだったので、それなら上着を着ていけば問題ないだろ、と楽観的に決めて朝食の支度を始めた。

 確かに出かけてから一時間ほどは、見事なまでに曇天だった。湿度は高かったが風が吹いていたので暑過ぎるということはなく、上機嫌に釣り糸を垂らしていた。

 しかし、問題なのは一時間経ってからだった。天気予報は外れ、空はすっかり晴れてしまったのである。言葉にすると簡単だが、実情は過酷だった。心地よい風はほぼ熱風に変わり、五月の日差しが脳天を焼く。下手したら熱中症になるかも分からない状態で自分の服装など気にする余裕などあるわけはなく、迷いなく上着を脱いで帽子を被る。

 この際認めてしまおう、油断はしていた。狭くてゴミだらけの砂浜、豊富なプランクトンで淀んだ海に寄りつくのは何を考えてるのか分からない猫くらいのものだったから、多少おかしな服装でも見咎める人間なんかいないと思っていた。帰る時にここから自分の部屋まで短い時間、少し暑い思いをするだけで済むと、そう思っていたのだ。たった一言、小さな呟きが聞こえるその瞬間まで。

「『たいこうぼう』……?」

 僕の耳が風の音でかき消されてしまいそうなその呟きを拾ったのは、単なる偶然でしかない。もしその声が聞こえていなければ、または聞こえないふりが出来ていれば、僕はきっとそのまま海を眺めていただろう。それを聞いて反射的に振りむいてしまったこと、そして、その声の主とばっちり目が合った時、お互い驚いた顔をして――おそらく相手も、いきなり振り向かれるとは思っていなかったんだろう――少し困ったような、人当たりの良い笑みに会釈を返してしまったのが、きっと分岐点。

 僕と彼女の出会いはそんな、なんとも言えない間の抜けたものだった。



 つい会釈してしまったはいいものの、自分のおかれている状況を思い出して妙な汗が滲んだ。自分は妙なシャツを着ながら釣りをしていて、初対面の人にそのシャツの文字を読み上げられるという謎かつ気まずいシチュエーション。なんなんだこれは。どうしたものかと迷っているうちに、相手は被っていた野球帽をひょいとずらして「ちょっといいですか?」などと微笑んでみせた。自分より一つ二つ年下に見える女性、ラフな服装に身を包み、大きめのトートバックを肩に掛けている。

「実は今、見晴らしのいいところを探してるんです。この辺りでよさそうなとこ知りませんか?」

 どうやらシャツの文言については見なかったことにしてくれるらしかったが、彼女の質問の意図が謎だ。不思議ではあったがしかし、それを尋ねてどうする。少し考えこんで、心当たりのある方向を指した。

「それなら、向こうの角を曲がって坂を上った辺りがいいと思う。あそこの高台に出るから、海もよく見える」

 示した方向を見て目を輝かせたその人は、「御親切にありがとうございます」と帽子を脱いで一礼すると、足取りも軽く去っていった。見晴らしのいいところで一体何をするつもりなのやら。離れていくスニーカーの足音を聞きながら、僕は上着を手に取った。流石にこれ以上背中の文字を晒す気にはなれず、暑さに顔をしかめつつ着込む。なんだか気が抜けてしまって、その日はいつもより早めに帰ることにした。

 帰って一息入れつつ思う。さて、一体なんだったんだろうな、あの人は?


 五月第三土曜日


 先週の出来事を忘れてしまったわけではなかったから、今日は無地のシャツを選んで身に付けた。冴えないミドリガメのようなダークグリーン。気に入っているというわけではないが、何故かよく着てしまう一着だ。

 天気は晴れてこそいるものの、先週よりはましだった。風は涼しくて気持ちがいいし、空気もからりと乾いている。若干背後を気にしつつ釣り糸を垂らしていると、しばらくして砂を踏む軽い音が聞こえてくる。まさか、まさかな、と思ってのろのろと振り向くと、まあ想像の通り、見覚えのある顔が控えめに笑っている。

「こんにちは」

「……ああ、どうも」

 戸惑いながらも挨拶を返す。先週と同じく帆布のトートバッグに、青地に白い星が輝く野球帽。白いTシャツにジーパンという簡素な出で立ち。長い黒髪は結ばれて、背中で風に揺れていた。屈託のない笑みにやや怯みつつ動向を窺っていると、女性は僅かに視線を泳がせてから、愛想よく尋ねてきた。

「……よく釣れるんですか、ここ」

 質問の意味は分かるが、何を意図してそんなことを聞くのか分からない。とりあえず、今日ここで釣りをする気はないんだろうということは、荷物で流石に分かる。困惑しながら女性から目を逸らし、クーラーボックスに視線を落とす。

「いや、日によって大分違うけど……」

 それなりに使い古されたクーラーボックスの中は海水が張ってあるのみ、わびしい光景に思わず肩が落ちる。二時間はこうして当たりを待っているが、今日はどうやら駄目な日のようだ。暑くなるようなら粘らず帰るかと考えていたところでもあった。

「そうですか」

 女性は、なんと言ったものか分かりかねる、と言いたげな表情をしてから苦笑して、軽く頭を下げた。

「突然ごめんなさい。素敵な場所を教えてもらったお礼が言いたかっただけなので……じゃあ、これで失礼しますね」

「ああ、いや……お気になさらず……」

 もごもごと言葉尻を濁して。戸惑いのあまりかみ合わない返事をしてしまった気がするが、女性は気にするそぶりも見せずに歩き去ってしまった。不思議な人との遭遇は二度目、その目的は今も謎のままだ。

「なんだったんだ一体……んっ?」

 びくん、と手の中のロッドが震える。軽くはない手ごたえに思わず浮足立つが、ここで焦ってはいけない。しばらく無言で竿を操り、頃合いを見計らってリールを巻いていく。出来損ないの口笛のような吐息を漏らして、引き寄せた魚影を網で頭からぐいとすくいあげる――スズキだ。この時期にしてはそれなりに大きい。待てば海路の日和あり、というやつだ。我知らず会心の笑みが浮かぶ。

「やったぜ」

 五月の煩わしい日差しや湿気も、この時ばかりは全く苦ではない。もう少し粘ってみるか、と舌なめずりして準備に取り掛かる。全く根拠のない直感だったか、今日はこれからがうまくいくような気がした。

 その日は入れ食いというほどではないにしろ、上出来の部類に入るくらいの成果を提げて帰宅することができて大いに満足であった。夜に布団の中でとろとろとまどろみながら、もしかしたらあの不思議な人は釣りの女神さまだったんじゃないかなんて、らしくもなく夢見がちなことを思った。


五月第四土曜日


「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 来るかもしれないな、とは思っていたけれど、まさか本当に来るとは。内心驚きながらも何食わぬ顔で挨拶を返す。バッグと帽子に黄土色のズボン、Tシャツは鮮やかな青に黄色のラインが入ったものだ。ナンヨウハギみたいなカラーリングだな、とは思っても、流石に口には出さない。「釣れてます?」と柔らかく尋ねられ、「まあ、それなりに」と頷く。それを聞いたその人は、クーラーボックスを覗きこんで目を丸くした。

「うわ」

 無意識に漏れてしまったと思しき声は、驚きかそれとも嫌悪感か。表情を見る限りは前者のようだが、果たしてどちらなんだか。

今日の目当ては先週と同じくスズキ。ボックスの中には、今回釣れた中では一番小さい中型のが一匹、後は三匹ほどストリンガー(ざっくり言うと釣れた魚を海の中で繋いでおくための綱)にひっかけてある。

「一匹しかいませんけども」

「残りはそこのスト……紐に繋いである」

 首を傾げた女性のもっともな疑問に、先端を海に漂わせてあるストリンガーを指して答える。女性は数瞬考え込むように目を細めたが、やがて納得したように頷いた。

「確かに、ちょっと窮屈そうですもんね」

 まさに興味津々、と言った様子でスズキを見つめている女性に怪訝な視線を向ける。今日も今日とて何をしに来たのだろう。そう思っている間にその人は身軽に立ち上がり、帽子を軽く押し上げて微笑んだ。

「今日はこれで失礼します。よく釣れるといいですね」

「うん、ありがとう……また、あの高台に行くのか?」

 唐突な質問に女性は目を瞬いて、軽く首を横に振った。

「いえ、あそこはもういいんです。もうかきおわっちゃったから」

 かきおわる? 脳内で漢字変換をしそこなったのが顔に出てしまったのか、女性は鞄の中からするりと大判のスケッチブックを取り出して見せてくれた。

「趣味で風景画を描いてるんです」

 なるほど。それで「見晴らしのいいところ」というわけか。

「今日はこの辺りをちょっと歩いて、いい場所を探そうと思ってるんですよ」

「そうだったのか」

 こくりと首を縦に振った女性――名も知れぬ絵描きさんは、じゃあもう行きますね、と今まで通り軽やかに立ち去ろうとした。

「……この辺りは意外に車通りが多いから、気をつけた方がいいと思う」

 少し距離があいていたので、普段より若干声を張る。その甲斐あって絵描きさんはくるりと振り向いて、またあの人好きのする笑みを浮かべて一礼した。その後ろ姿が消えるまでぼんやりと見送って、放置していたロッドを持ち直す。

 絵か。昔から僕は図工やら美術は大の苦手で(実を言うと字も汚い)、そういう趣味にはあまり造詣が深くない。けれども鑑賞することは結構好きだから、あの人が絵を描いていると聞いた時、一瞬、ほんの一瞬「観てみたい」と口走りそうになった。口走らなかった理由はとても簡単なことだ。

 そんな頼みごとをするには、僕と絵描きさんの縁は浅すぎる。だってほら、三回会ってもまだお互いの名前も知らないままだ。

 その後は結局一匹も釣れずに引き上げることになった。上がり始めた気温のせいかもしれないし、何となく集中力を欠いていたのが原因かもしれない。とにかくあの人は釣りの女神なんぞではなく、単なる趣味の絵描きさんであることだけは分かった。来週はちゃんと集中しようと思う。


六月第一土曜日


 今日の狙いはアジということで、先週とは装備を変えて臨んだ。それなりに慣れているのでひょいひょいと釣り上げていると、五匹目に到達した辺りで背後から拍手が聞こえた。振り向けばまあお察しの通り、もはやパターン化してきた気配さえある絵描きさんだ。人のことは言えないけど、この人は暇人なのだろうか? 目を輝かせて拍手し続ける彼女に帽子のつばを下げて挨拶する。

「こんにちは」

「こんにちは。今日は何を釣ってるんですか?」

「御覧の通り、アジだけど」

 濡れたままの手でボックスを指さすと、やはり興味深そうに覗きこむ。動く魚がそんなに珍しいかな、と考えて、それはそうだと思いなおす。生きた魚なんて、釣りか水族館以外で滅多に見ないだろう。そしてこの人が日常的に釣りをしてるようにも思えない。そう思って苦笑していると、絵描きさんがひょいと顔を上げて、無邪気に問いかけてくる。

「これ、この後どうするんですか」

「持って帰って処理する。で、食べる」

「自分で処理するんですか? つまり自分で捌いたりできるってことなんですか?」

 目を丸くする絵描きさんの食いつきに軽く引きつつ頷く。そりゃそうだろう、一人暮らしだから自分でやるほかない。

「すごい……」

「ん、ああ……そりゃどうも……」

 尊敬のまなざしという言葉の見本のような見つめ方をされ、つい照れてしまう。そういう風に見られるのには慣れていないものだから、その視線から逃れるように遠くの海に目を向けた。

「……今日はどこに絵を描きに行くんだ?」

 話題を変えるために何気ない風を装って質問を投げかけると、彼女は一瞬ぎくりと体をこわばらせ、ぎこちない笑みを浮かべた。

「今日は、絵はお休みなんです」

 そう、明らかに訊かれたくなさそうな顔をして言うものだから、ただ「そうなのか」と相槌を打つにだけとどめた。

 言われてみれば確かに、今日の絵描きさんの荷物は今までに見た帆布のトートバッグではなく、小さな肩掛け鞄が一つだけ。服装もシンプルなTシャツは変わらないが、ジーパンではなく膝丈のスカートを履いていた。

 絵を描かないのならばなぜこんな所へ来るのか疑問ではあったが、口には出さなかった。会話は無く、ただ波の音だけが聞こえる。

 ロッドを握っている間、隙を見てちらちらと彼女の方を窺う。何をするでもなくぼんやりとつっ立っているだけの姿に、これまでに見たはつらつさは見受けられない。

「……今、ちょっとだけスランプなんです」

 波の音の間にぽつりと吐き出された言葉があまりに小さく唐突だったものだから、返答するタイミングを見失って開きかけた口を閉じる。彼女も僕の返事を待つことはなく、ぼそぼそと続きを口にした。

「でも、スランプって言ったって別にたいしたものじゃないんだし、少し休んで気晴らししたらすぐ治るものなんですよ」

 言っていること自体は楽観的で前向きだが、それを言う声のトーンはとことん暗かった。少なくとも、今この場にぼうっとつっ立っていても気晴らしになってはいないだろう。僕に話しかけているようで、その実自分に言い聞かせているような言葉選びも気にかかる。気にかかるけど。それを聞くことができるような間柄ではないんだ。

 ふは、と大きく息をついてリールを巻く。振り向いて口を開く前に、ぺろりと唇をなめた。ああ、息が詰まる。

「……君、水分はきちんとっているのか」

 目を瞬いて、ふるふると首を横に振った自称スランプの絵描きさんに、ペットボトルの麦茶を差し出す。当然未開封のものだ。

「あげる」

「え? いや……悪いですよ」

「これは余分に持ってきたものだから、僕の分は気にしないでいい」

 戸惑いを隠せない絵描きさんに麦茶を押し付け、そそくさと釣りに戻る。痛いくらいに背中に視線を感じて、きまり悪く振り向いた。それはもう不思議そうに、まっすぐに見つめられている。首を傾げて、気まずく口を開く。

「……いらないか?」

「いえ……じゃあ、いただきます」

 ぷしゅ、と軽い音を響かせてキャップを開けたのを見届け、濁った海面に視線を戻す。波の音を聞きながら、二人揃って沈黙する。

 こういう沈黙が気まずい時には、口下手な自分を恨むほかない。さて、どうしたものか。話しかけてみる? それにしたって何を話せというんだ。じゃあこのまま黙っているのか? それは気まずくてたまらない。困った。

 堂々巡りの思考をぐるぐると回っていると、小さく「よし」と気合を入れるような声が聞こえた。振り向くと、やたらと力の入った表情の絵描きさんと目が合う。

「今日はもう帰ります!」

「え、ああ、うん……」

 堂々とした宣言の唐突さに驚きつつ、かくかくと首を縦に振る。決然とした足取りで踵を返そうとした彼女が、急に方向転換してこちらを向いた。くるくると忙しいことだ。眉を八の字にした絵描きさんから掛けられた言葉は、僕の意表をつくものだった。

「来週も、ここに来るんですか?」

「僕? そのつもりではあるけれど……」

 それがどうしたというのだろう。返事を聞いて満足そうに頷いた彼女は、尋ねる暇も与えずに去っていってしまった。

「じゃあ、また来週。麦茶ありがとうございます」と言い残して。

 取り残されて一人、僕は混乱の極致にあった。麦茶はとにかく、また来週ってそれはつまり、来週も僕はあの人と会うというわけで、つまりどういうことなんだ? いや、ここのところ連続で顔を合わせていることは確かだしパターン化しているなどとほざいたのは僕だがしかし、まさか、また来週、とか言われるだなんて! ……今まではそんな、また会うことを前提としたことなんてなかったのに……。

 こんがらがった思考を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。冷静になって考えてみろ、僕が来週もここにいて、彼女がここに来たら会うのは当然のことだし、あの発言だって絵描きさんに他意があって言ったものじゃないだろう。

だからあんまり浮かれるものじゃない。そう自戒してもその後の僕は少しおかしくて、アジを二匹ほど釣り損ねて閉口することになった。ついでに翌日会った友人たちに「なんか良い事でもあった?」と訊かれるくらいにはふわふわしていた。隠し事ができないというのは、正直格好がつかないので少し困る。


六月第二土曜日


 先週の浮ついた気分を若干再浮上させつつ砂浜へ向かうと、驚いたことに絵描きさんは既にそこにいた。さくさくと砂を踏み進んでいくと、足音に気付いたのか絵描きさんはこちらを振り向いた。小さなレジャーシートをひいて、手には鉛筆、膝の上にはスケッチブック。スランプから脱却したかはさておき、絵は描いているようである。

「こんにちはーっ」

 ぴこぴこと鉛筆を振る独特の挨拶に、つい顔がほころんでしまう。荷物を下ろして一息つき、挨拶を返す。

「こんにちは、今日は早いんだな」

「そうですね、この前までは夕方くらいの絵ばかり描いてたんで、今度は午前中の絵も描いてみようかと思って」

「午前と午後でそんなに変わるものなのか?」

「それをこれから確かめるんですよ。でも多分、影の付き方とか変わってくるんじゃないですか?」

「なんだそりゃ」

 曖昧な言葉に苦笑して、若干離れて支度する。

「今日は何を釣るんですか?」

「先週と同じくアジだ。ちなみに帰ったら干物にする」

「家で干物なんて作れるんですか!」

 驚く絵描きさんに頷きつつ、竿を振って釣り糸を張る。絵描きさんは海とスケッチブックとの間で視線を動かしながら器用に質問してくる。

「今までどんな料理を作ったんですか?」

「いろいろ。アジだとフライとかたたきとか作ったし、スズキはこの間ムニエルにしたっけな」

「へえ……料理、得意なんですね」

「そうでもない。まだ始めてから一年くらいだし、バリエーションが少なくて困ってるところだから」

 暑くなってくるとフライなんて作れたものじゃないしな、と付け足すと、なんか所帯じみてますね、と笑われた。

「料理って、やっぱり作れたほうがいいんでしょうか」

 悩ましげな声音でのぼやきに僕は首を傾げる。知り合いで料理に凝っているやつは全くいないわけではないが、数にしてそんなに多くはないだろう。

「僕のは完全に趣味だから……別にできなくちゃいけないってことはないんじゃないか? 便利な世の中になったことだし」

「そういうものですかねえ」

 時折雑談を挟みつつ、でも基本的にはお互いやっていることに集中していた。アジを釣るたびに律儀に歓声が上がるのには若干困ったというかいちいち照れてしまったのだが、おおむね何事もなく時間が過ぎていった。

「あ、もうこんな時間……」

 小さな呟きにつられるようにして時計を見れば、時計の針はとっくに六時を回っていた。立ち上がって道具を鞄に詰め込み始めた絵描きさんを尻目に、僕も片付けを始める。時間の流れに気付くのが遅かったのはどうしてか、分かるような分からないような。

「また来週も来るのか?」

 ほとんど無意識に口を突いて出た問いかけに返ってきたのは、どこか愁いを帯びた笑みだった。

「……来週は、人と会う約束があるので」

 そうか、という三文字が必要以上に沈んでしまわないようにするのに苦労した。その後はお互い軽く挨拶だけして別れた。部屋に帰って一人、当然だ、と思った。


 六月第三土曜日


 砂浜で顔をしかめて唸る僕を、近所住まいらしい猫が一瞥して去っていく。天気は腹立たしいまでに快晴、サングラスがなければあっという間に目を傷めそうな日差しだ。釣り日和と言えばまさしくそうなのだが、僕は着いて五分で帰るか帰らないかの二択を選択しなければいけなくなっていた。理由は単純、忘れ物をした。是非とも笑ってほしいんだが、ルアーをごっそり忘れてきてしまった。そんな自分が間抜けすぎて笑うほかなく、笑った後にはため息しか出ない。

「……帰る、か」

 取りに戻る、という選択肢がないわけではなかった。けれど今日は最初から乗り気ではなかったのだ。砂浜に来ればどうしたって、先週のことを思い出す。約束があるのでと言った絵描きさんの物憂げな笑み! 質問をためらわせるあの表情に、僕は彼女との間に長い長い距離を感じさせられてしまったのだ。考えてみれば今になっても、お互い名前も知らない。半分ほど忘れかけていた事実が、棘のように胸の奥に刺さって抜けない。

「帰るかな……」

 さんさんと降り注ぐ日差しに体力を削られつつ、ぼんやりと呟く。姿の見えない猫の鳴き声に一つ頷き、ルアーを探すためにあらかた広げてしまった荷物をまとめにかかる。ああまったく、なんて日だ。

 

****


 日も沈んで静まり返った砂浜を、重たい足取りで進む人影が一つ。可愛らしいパンプスで湿った砂を踏みしめ、波打ち際を目指しているようである。その表情は暗く、吐く息は荒い。何かに気付いて一瞬立ち止まり、驚いたようにきょろきょろと辺りを見回す。足元には折りたたみ椅子に、真新しいスケッチブックと鉛筆。見覚えのあるものとない物に混乱する彼女とぱっちりと目があったのは。

「こんにちはって時間でもないよな。こんばんは」

 決まり悪そうに立つ、道具を持ってない釣り人……つまりは僕なのだった。

「こ、こんばんは……じゃなくて、どうしてこんな時間にいるんですか? いつもだったらもう帰っちゃってるのに」

「アジは夕方の方が良く釣れるんだ」

「道具ないじゃないですか」

 極めてもっともな突っ込みに黙らされつつ、可及的速やかにスケッチブックを回収する。気まぐれを起こして絵など描いてみたは良かったが、人に見せられないどころか自分でも顔を覆いたくなるような迷作が出来上がってしまって困っていたのだ。言い訳を諦めて素直に実情を白状する。

「忘れ物をしたから一度帰ったけど、気が変わって戻ってきたんだ」

「そうなんですか……」

「君こそどうしてここに? 人と会うんじゃなかったのか」

「昼に待ち合わせて、ちょっと前に別れてきたところです。ここにきたのは……夕日を、見ようと思って。間に合いませんでしたけど」

「そうなのか」

 明らかに空いた間にぎこちない笑み。いくら付き合いが浅いとはいえさすがに嘘だと分かったが、言及はせずに流す。疲れているようだったので座るように勧めると、普段と違った装いの絵かきさんは申し訳なさそうに腰を下ろした。頭頂部の平たい麦わら帽子に、淡い水色のワンピース。麦わら帽子に掛けられたリボンは黒とオレンジのボーダーで、白い花飾りで留められている。華やかな装いとは裏腹に沈んだ表情に、お節介と知りながらも問いかけた。

「……何か良くない事でもあった?」

「そんな風に見えます?」

「見えるよ、すごく」

 見えちゃいますか、とため息を吐いた絵描きさんは、帽子のつばを下げて視線を遮ってしまった。

「……今、暇ですか?」

「暇じゃなければこんなところにいない」

「……少し、話を聞いてもらっても?」

「もちろん構わない」

 躊躇なく頷けば、ぐすっと鼻を鳴らす音が聞こえた。

「君さえ良ければ場所を変えないか。ここは立ち話に向いてない」

 斜めにかぶった麦わら帽子が一度小さく縦に揺れる。帽子に隠された表情を窺い知ることは出来なかったから、せめて彼女が泣き出していないように祈るくらいしかできなかった。

 

 砂浜から歩いて五分ほどの、個人経営の喫茶店。海が近いからかそれとも店長の趣味か、インテリアには海や魚をモチーフにしたものが多い。そこが気に入っていることもあってよく来るのだが、人を連れてくるのは初めてだ。知り合いの店員が目を丸くしたのを無視して、奥の方の席を陣取る。絵描きさんは壁に掛けられたクジラの絵を熱心に見つめていた。

 意味ありげな視線を投げかけてくる店員を一睨みして、どこかそわそわとしている絵描きさんに問いかける。

「なに頼む?」

「え? あ……じゃあその、ミルクティーで」

「僕はアイスコーヒーを」

 かしこまりました、と頭を下げた店員の背中を見送るふりをしながら、僕はちらりと絵描きさんの方を盗み見た。ほんのりと赤くなった目尻に、隠しきれない躊躇いの色。先ほどより落ち着いたように見えるが、疲労しているのは明らかだった。話を聞くのは今度にして、帰らせたほうがよかったか? そんな考えが頭をよぎるとともに、胸の奥の棘が毒づいた。返しでもついているんじゃないかと思うくらいには抜けてくれない、厄介な棘。

『また今度、が来る保証なんてないじゃないか。彼女の名前も知らないくせに』

ぐうの音も出ないような正論を振りかざされる。表情が険しくならないように苦心して、沈黙に押しつぶされかけながら辛抱強く飲み物を待つ。

「お待たせしました……」

 軽い足取りでやってきた店員が異様な空気に一瞬不安げな顔をする。「問題ないから早くいけ」と視線と手振りで伝え、小さく深呼吸してから絵描きさんに向き直る。

「じゃあ、改めて訊いてもいいか。何があったんだ?」

 絵描きさんはアイスティーに伸ばしかけていた手をゆるゆると引っ込めて、少し長くなりますが、と前置きしてから訥々と語り始めた。

「三年前に両親が離婚して、今は母と二人暮らしなんです」

――離婚した原因は何かって言うと、父親がもともいい加減な人で、母親も私もうんざりさせられることとか多くって。いろいろトラブルもあったんです……じょせ、んん、人間関係とかで。それでもなんとかやっていけてたんですけど、父親が突然失職しまして。幸い母も働いていましたし、生活に困るようなことはなかったんです。私が母の方についていくことになったんですけど、でも、定期的に父親と顔を合わせるように言われてて……。

そこまでいって、声が、途切れた。話している間にどんどんと深刻になっていく表情に、核心が近いことを知る。俯いて唇を噛む絵描きさんを、静かに促す。

「……会うように言われてて、それで?」

 絵描きさんはぐっと眉間に皺を寄せ、苦しげに言葉を吐き出した。血を吐くような、苦悶に満ちた声だった。

「……本当は、会いたくなんかないんです。顔も見たくないのに……でも、そんな風に思ってるなんてこと、誰にも言えなくて。今日も結局、それで、会ってきて……話しているうちに、母の話になって」

――母さんは元気でやってるか? いや、連絡はしてるけどさ、しばらく直接会ってないからなあ。仕事忙しいんだって? 最近暑いし、体調崩さないように言っておいてくれよ。それから……

「『お前ももう大学生なんだから、あんまり無理させるんじゃないぞ』って、言われたんです」

 振り上げられた拳が、力を失ってこつんとテーブルに落とされる。苛立ちを物にぶつけられないあたり冷静さは残っているようだったが、その様がひどく辛そうで言うべき言葉が見つからない。

「そんなのお前が言うな、って話ですよ! 私が苦労させてるのは否定しないけど、でもそれって本来あの人がするはずのものなんですよ? なのに、あんな他人事みたいに……! 私だって、苦労させたくてさせてるわけじゃないのにっ……」

 完全に下を向いてしまった絵描きさんの言葉を聞いて、僕は思わず天井を仰いでいた。会ったこともない彼女の父親に、苦々しい思いが沸き上がる。きっとその父親だって、悪気があってそう言ったわけではないのだ……だからなおのことたちが悪いんだろうが。誰だって、自分が親しい人間の重荷になっていることを指摘されるのは辛いだろうに。

 氷が解けてすっかり薄くなったコーヒーを一口含み、すっかりしょげかえってしまった絵描きさんに視線を戻す。テーブルの隅に置かれたオレンジと黒と白――カクレクマノミの色で飾られた麦わら帽子を一瞥し、意を決して口を開く。

「……話は分かった。これは僕の個人的な意見だが、その父親とはしばらく会わない方がいいと思う」

「無理ですよ……だってしょっちゅう連絡来るし、母と険悪になって別れたわけじゃないから、約束すっぽかしたら母に告げ口するんですもん」

 とうとうテーブルに突っ伏してしまった絵描きさん。僕も出来ればそうしたいくらいには困っているのだが、喋りながら必死で打開策を探す。

「いっそのことストレートに言ってみたらどうだ?」

「『あなたが嫌いなので会いたくありません』って? 言うのは別に構わないんですけど、母がどう思うか……」

 父はもう知りませんが、母を悲しませたいわけじゃないんです。消え入りそうな声に、今から言おうとしていることを反芻して気が滅入った。

「……本当にそう思っているのか?」

「え?」

 怪訝な顔をする絵描きさんをまっすぐ見据えた。乾いた唇をなめて厳しい言葉を吐き出す支度をする。

「本当に、母親を悲しませたくないだけなのか? ただ単に口論になったりするのを避けたいからそう言っているだけじゃないのか? 母親だって別れたとはいえ父親と娘が仲が悪いのはいたたまれないだろうが、だったら君が嘘をついてまで父親と会うことなら喜ぶと思うのか」

「う、嘘なんかついてません」

「隠してるじゃないか、会いたくないと思っていること。本当のことを言っていないことは変わらない」

 冷房が程よく効いた店内で、僕は手にびっしり汗をかいていた。絵描きさんの表情が悲しげに歪み、その大きな瞳が潤む。しゃべっているときも辛かったが、自分の言葉が人を傷つけるのを見るのは余計に辛い。そもそも絵描きさんが悲しそうにしているのを見るのも辛いんだから、相乗効果で心が完全に折れた。棘が刺さったあたりもしくしくと痛む。がくりとうなだれ、謝罪の言葉を絞り出す。

「赤の他人のくせに差し出がましいことを言って悪かった……ごめん」

「……いえ、確かにその通りですから。だからそんな、悲しそうな顔しないで下さいよ……」

 ぱっと顔を上げれば、眼のふちは赤いままに絵描きさんが苦笑を浮かべていた。意外な言葉に目を瞬き、小さく尋ねる。

「……そんな悲しそうに見える?」

「見えます。私の五倍くらい悲しそう」

 きっぱりとした頷きに、慌ててごしごしと顔をこすって表情をもとに戻す。アイスティーを啜って軽く目元を拭った絵描きさんは、丸まっていた背中をしゃんと伸ばしてまっすぐ僕を見た。

「悩んでたけど、やっぱり母とは一度話し合って考えたいって……じゃなくて、考えなくちゃいけないって分かりました。突然だったのに、話を聞いてくれて本当にありがとうございます」

「……役に立てて良かったよ」

 ストレートな感謝の言葉に、照れてつい目をそらしてしまう。すると、イルカの壁掛け時計が目に留まり、ほとんど無意識のうちに呟いた。

「あ、もうこんな時間」

「え? あっ本当だ! ごめんなさい、そろそろ帰らないと……電車混んでるかな……」

 一瞬ぽかんとしたのちに、驚き、困惑、辟易ところころと表情を変える絵描きさん。この時間だと混んでるだろうな、と呟くと、ですよねえ、と悲しげな相槌が返ってくる。座って帰りたい……と嘆く絵描きさんを励ましながら店を出る。星の見えない空の下、湿度の高い空気に二人そろって顔をしかめる。

「駅まで送っていこう」

「いいんですか? ご飯作る時間なくなりますよ?」

「突然手抜きをしたくなった。駅前でちょっといいものでも買って帰るさ」

「駅前って言ってもコンビニしかないじゃないですか」

「馬鹿言うな、スーパーだってある」

「え、どこに?」

「駅から自転車で五分くらいのところ」

「それもう駅前じゃありませんよ」

 真面目な顔で慣れない冗談など言ってみれば、絵描きさんはようやく笑ってくれた。悲しそうな顔よりは、笑っている顔を見ているほうが気が楽だ。

十分ほど歩いて、コンビニしかない寂れた駅前が見えてくる。目に痛いコンビニの照明を背に、絵描きさんは静かに問いかけてきた。

「あの、来週もあそこにいてくれますか?」

「……ああ、いるとも」

 僕は余裕ぶって頷きながら、薄まったアイスコーヒーで潤したのどが渇いていくのを感じていた。こういうシチュエーションは心臓によくない。暗い夜道、来ない電車、普段と違う格好をした知り合いの女の子。胸に刺さった棘も、大変よろしくない。

 内心混乱しかけている僕に、彼女は「お願いがあります!」と勢いよく手を合わせて拝み倒してきた。

「話を聞いてもらった上にこんなこと言うなんて図々しいって自分でも思います。でも、本当に申し訳ないんですけど、お願いしたいことがあるんです」

 彼女の『お願い』。それは多分さっきまで話していた内容と関係のあることで、そういうデリケートな問題は本音を言うとあんまり首を突っ込みたくない。胸の棘だってうるさく喚く。話を聞いた時点で超えるべきじゃない線は超えている、耳を貸すな、手を引けと喚く。じり、と後ずさりして、僕は口を開いた。

「……僕にできることであれば、まあ、いいけど」

 今日、砂浜で来るかも分からない絵描きさんを待ち続けていた時点で、この『お願い』を断れないことは決まっていたのかもしれないと、ぼんやり思った。

 抑えた声での承諾に、絵描きさんは今日一番の笑みを浮かべた。どきりと跳ねた心臓が落ち着く前に、「あ、電車来ちゃう!」と絵描きさんが声を上げた。

「細かいことは来週言います。今日は本当にごめんなさい」

 絵描きさんは困ったように眉をハの字にして、パンプスで慌ただしく改札を駆け抜ける。電車がホームに滑り込み、そのまま乗り込んでしまうかと思われた、次の瞬間。

「ありがとうございました、また来週!」

 乗る直前に振り向いた彼女の声は、目を見張るほどによく通った。電車から降りてきた人たちの視線が刺さるのを感じながらも、僕はその場から動く事ができなかった。絵描きさんと言えば少し照れたように微笑んで、小さく手を振って車内へと消える。呆然としている間に無情にも扉は閉まり、あっという間に走り出してしまった。

「あー、うん……また、来週」

 かすれた声での別れの挨拶を聞く相手はもういない。駅に背を向けて歩きだしながら、また来週、と繰り返した。

 浮かれた気分で夕飯を済ませ、早々に寝たその夜。詳しい内容は忘れてしまったが、オレンジに白と黒――カクレクマノミ色の夢を見た。内容を覚えていないことが悔やまれるくらいには、素敵な夢だったと記憶している。


 六月第四土曜日


 時刻は六時半を回り、日はじりじりと沈みかけていた。僕は今日はロッドではなく双眼鏡を手に、砂浜ではなく高台で、ターゲットを待っている真っ最中だ。

「この砂浜に父を連れてきますから、あの高台から見ていてもらえませんか」

 午前中、普段より早い時間に来て待っていた僕に会うなり、挨拶もそこそこに絵描きさんは少し緊張した様子でそう頼んできた。短くした髪について尋ねるタイミングを見失い、何の為に、と訊けば、保険なのだと苦笑いした。

「見てもらってないと放り出しちゃうかもしれませんから」

 時間は日没前、全てが終わったら帽子を振って合図するので、そうしたら坂の下で合流しましょう。そう言ってなぜか双眼鏡を手渡してきた絵描きさんの背中を見送って数時間、僕は一時間ほど前に釣りを切り上げ、今は高台から砂浜を見下ろしている。

 彼女が父親とあの砂浜で何をするのか、全く聞かされていないだけに心配が尽きない。滅多なことは起こらないとは思うけど……。意味もなく双眼鏡を覗き込む。このくらいの距離ならこんなものなくても普通に見えるんだけど、あの絵描きさんは一体何を考えてこんなもの持ってきたんだ。ここに着いた時からずっと、景色を楽しむ余裕もなく待ち続けている。日没前とは言っていたが、あんまり遅いと暗くなって見えにくくなってしまう。

双眼鏡を指で軽く叩きつつ焦れていると、それらしき人影が現れた。カクレクマノミ色の麦わら帽子を確認し、ごくりと唾を飲み込む。隣に立っている中年の男、あれが、絵描きさんのいい加減な父親か。こぎれいな格好をしてはいるが、性格はどれほどのものか分かったものではない。失礼な評価を下しつつ、言われた通り黙って見守る。

「しかし、何を話しているんだ」

 遠目に見る限り言い争っているという感じはしない。少し気になるのは、絵描きさんが軽い身振り手振りを交えて話している所か。僕と話している時はそんなことしていなかったような気がする。首を傾げて、ひらひらと動く絵描きさんの手を目で追いかける。ふわりと大きく弧を描き、水平線を指さした。彼女の父親がつられて海を見た、彼女から視線を外した、その隙をついて、絵描きさんが動いた。

 波打ち際に立つ父親を突き飛ばし、盛大に転ばせたのだ。

「……っ!?」

 僕は一瞬何が起きたのか分からず、慌てて立ち上がった。柵から身を乗り出して、薄暗くなってきた砂浜に目を凝らす。高台を――僕がいる方を仰ぎ見た絵描きさんを見つけ、「何してんだ君は!」と叫んだ。その声で絵描きさんは僕に気付いたらしく、手にした帽子を激しく振っている。どうやら何を言っているかまでは聞き取れなかったようだ。そのまま父親のほうを振り向いて何事か話しかけると、さっさと坂のあるほうへ歩きだしてしまった――ずぶ濡れの父親をおいて。無慈悲か。

 柵を掴んでいた手を離し、帽子をとってぱたぱたと顔に風を送る。……何が何だかさっぱりだが、とにかく坂の下へ向かう必要がありそうだ。沈んでいく夕日に目を細め、僕は高台を後にした。


 坂を下った僕をはじけんばかりの笑いで出迎えた絵描きさんは、双眼鏡を受け取るとようやく笑うのをやめて、それでも小さく肩を震わせている。そんなにおかしかったか、あれ。

「説明を要求する。いったい何だったんだ、あれは」

 呆れ顔を隠さずに尋ねると、絵描きさんはにこにこと笑って話し始めた。

「ふふっ……私ね、きっとずっとああしたかったんですよ。あの人、私のことを素直でいい子だと勘違いしてたみたいだから、思い知らせてやりたくて。私はこんなに怒ってるんだぞって。で、一番手っ取り早いのが……」

「海に叩きこむ、ってわけか。やりすぎじゃないのか?」

「私はそうは思いませんね。それに、ストレートに言ったほうがいいって言ったのはあなたじゃないですか」

「行動に移せといったわけじゃない。見かけによらず恐ろしい人だな、君は……」

 お褒めに預かり光栄です、と微笑む彼女。褒めてるわけじゃない、とぶっきらぼうに返して、帽子を深くかぶりなおす。

「母親とはもう話はついているのか」

「ええ、ちょっともめましたけど、最終的には好きにしなさいって言ってもらえました」

「そうか。それならよかった」

「はい。……ところであの、どうしてさっきからこっちを見てくれないんです?」

「夕日がまぶしいんだ」

「いやここ日陰ですけど……それに帽子もかぶってるのに」

 どうしたっていうんです、と詰め寄ってくる彼女から後ずさりして、慌てて話題をそらす。

「そんなことはいいだろ。それより、父親とは何を話していたんだ?」

「たいしたことは話してませんよ。大学が忙しいから、これからは今までみたいに頻繁に会うのは難しいって。まあそれは建前なんですが、とにかく納得してもらって。で、それから、雑談を……あの砂浜の絵を描いた話とかをしてから、海に」

 どん、って。背中を押すジェスチャーに、再びはじける笑い声。先ほどよりは声量を抑えていた。

「本当に清々しましたよ。あの人の驚いた顔! 冷静になってみると、何してんだかって感じですけど」

 ほんの少しだけ自嘲的になった言葉。恥じ入るように肩をすくめた絵描きさんに、僕は「別にいいじゃないか」と言った。

「今まで散々困らされてきたんだろ? ストレスが溜まって爆発した、よくあることじゃないか。父親がこれまでのことを反省してくれるといいな?」

「反省はするでしょうけど、きっと治りませんよ。困らされることには変わりないと思います」

 そう、身も蓋もないことを言う絵描きさんの表情は、諦めたような言葉とは裏腹にすっきりとしていた。

「でもね、もうため込むのはやめます。今日父と話してはっきり分かりました……沈黙は金、なんて嘘っぱちだってね!」

「それは時と場合によるだろうけど……とにかく、まあ、おめでとう」

「ありがとうございます」

 とりあえずは一段落したようで、ほっと胸をなでおろす。落ち着いたら思っていたよりも近く麦わら帽子があって、思わず、じり、と一歩後退した。

「ところで、えーと……太公望、さん?」

 予想外の呼び名に噴き出しかける。だがまあ確かに、それ以外の呼び方はあんまりないかもしれない。

「……なんだい、絵描きさん」

 すい、と軽やかな動きで、麦わら帽子が前に出る。オレンジに黒のリボン、白い花飾り。カクレクマノミ色の夢が脳内を過ぎ去り、一瞬くらりとする。

「そんな大層な者じゃないですよ、私は。それよりね、さっき私、父親からいいものもらっちゃったんです」

 小さなカバンから取り出された紙を手渡される。水族館の割引券。

「それが、私と父と、母用に三枚。でも、母は水族館が苦手なんです」

 そんなことも忘れてるなんて、馬鹿な人。毒をわずかに含んだ言葉に背筋が冷えるが、それよりこれを僕に見せる意図が分からない。どくどくと脈打ち始めた心臓をなだめつつ、ひらひらと券を振る。

「で、どうしてこれを僕に見せるんだ」

「……分かりませんか?」

 ずい、と下からのぞき込まれ、ぐっと言葉に詰まってしまう。胸がぎゅうと軋んだ。棘の刺さったあたりが変な風にうずく。一体何が起きているんだ。

「券は三枚、母は行かないし、父と水族館デートなんてまっぴらです。だからほら、私が持ってるのはこれと、」

 絵描きさんは鞄からもう一枚チケットを取り出し、次いで僕の手にあるほうを指さした。

「それだけ。回りくどいのもなんですから、はっきりいいますね。私と一緒に、水族館に行きませんか?」

 今度こそ本当に目まいがした。

「待ってくれ、本当にどうしてそうなった」

「どうせ行くなら詳しい人と一緒のほうが楽しめそうじゃないですか。詳しいでしょ、魚」

「そりゃ多少の知識はあるさ。しかしそんな、二人で水族館なんて……僕らまだ、お互いの名前も知らないのに!」

 慌てる僕の言葉を聞いて、絵描きさんは目を丸くした。それから心底おかしそうに笑いだす。

「そんなの、これから知っていけばいいじゃないですか。名前に年に住んでる場所、それに、好きな色とか得意な料理とかも!」

 そう言った彼女の屈託のない笑みを見た途端、ぽろりと胸の棘が抜け落ちた音がした。数舜呆けてから、さっぱりと消え去った痛みに驚く。もろい精神を散々に打ちのめしてくれた、あの忌々しい釣り針のような棘が抜けてしまった。こんな、こんなに簡単に! ふは、と笑みを含んだ吐息が漏れ、被っていた帽子をもどかしい思いでむしり取る。そろそろ髪を切りに行こう。そうこっそりと決意しながら、きょとんと目を丸くする絵描きさんの前で、帽子を胸に当てて恭しく礼をした。

「僕の名前は河瀬海聖。K大学経済学部の二年生だ」

 絵描きさんは僕の大仰な仕草に笑って頷いた。帽子を取って胸に当て、慇懃に一礼。花が咲くような笑顔で、高らかに名乗りを上げる。

「私の名前は鮎川汐里、K大学文学部の一年生です!」

 大袈裟に名乗りあって馬鹿みたいに笑う。絵描きさんは笑いすぎてにじんだ涙を指で拭い、しみじみと呟いた。

「よくよく考えてみると、私たち初めて会ってから一か月以上たってるのに名前も知らなかったんですね」

「そうだな。正直、名前も知らないやつにプライベートなことを相談するなんて無防備な人だと思ったよ」

「わあ耳が痛い。仕方ないじゃないですか、事情を知ってる人に言うと変に気を遣わせちゃいますし」

「僕だって、事情が分からないなりに大いに気を揉んださ」

「う、すみません……」

 気まずそうに目を伏せてしまった絵描きさん――いや、鮎川さんに、少し言い過ぎたかと反省する。

「別に怒ってるわけじゃない。ところでその……最初に言い損ねてたんだけど、ずいぶん短くしたんだな、髪」

「え? ああ……結構暑くなってきましたから。自分では割と気に入ってるんですけど……変ですかね?」

「いや、そんなことはない。似合ってる似合ってる」

 不安そうな言葉に首を横に振る。変だなんてことはない。ただ、高台で待っている間に思い出したことに一人で狼狽えているというだけの話だ。そう、今まで僕が淡いあこがれを抱いた女の子は、今の君みたいに短い髪をしていたということを。思いがけないところで自分の好みが判明してしまった。

「そうですか、よかった……。あ、話をそらさないで下さいよ。結局水族館行くんですか、行かないんですか」

 勢いよく食って掛かってこられ、落ち着きかけていた心臓がまた激しく動き出す。

「う、いや、それはその……ま、前向きに検討させてもらうということで、少し時間がほしいんだけど……」

 一気にしどろもどろになる僕を、鮎川さんは半眼でにらみ、大きくため息をついた。

「来週までには決められます?」

「……努力します」

「お願いしますよ、ほんとにもう」

 仕方のない人、と苦笑され、面目ないとうなだれる。日が落ちて本格的に暗くなってきた。駅まで送っていこうか、と尋ねる前に、ついと袖を引かれる。

「駅まで送っていってもらえます?」

「もちろん構わない。もう暗いしな」

「それもそうですけど、そうすればもっと長くお話しできるじゃないですか」

 言葉に詰まった僕に笑いかけ、鮎川さんは足取り軽く歩き出す。

「これからいろいろ知っていきましょうよ、お互いのこと。名前に年に住んでいる場所、好きな色や得意な料理も!」

 星が見えない空の下、素晴らしい提案につい頬が緩む。よろこんで、と、頷き、僕は彼女の後を追いかけた。

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