第8話 マイスター


 「お、起きてきたね安成。なんかまだ眠そうね」


 朝食を食べる為にまだ半分しか開かない瞼を擦りながら一階のキッチンへ。

 部屋へ入るなり、母親が声を掛けてきた。

 

 父親はここ数年、単身赴任で関西のどこかで仕事をしているらしい。

 と言うか、それぐらいの事しか聞かされていない。

 別にその件に関してはあまり興味もないし。


 僕や姉は勿論の事、一番下の妹ですらもう寂しがる年でもない。

 だから彼には健康に働いていればそれでいいぐらいにしか思っていないのだ。

 

 既に朝食を食べ始めている姉。

 彼女の正面が僕の定位置となり、毎度お決まりの席に座ると……


 「アンタ昨日遅くまで起きていたでしょう? 私が帰ってきた時まだ起きていたもんね。アレ確か1時ぐらいだったかな?」


 「三時過ぎだよバーカ、ねーちゃん毎日何時に帰ってきてるんだよ?」


 朝食を口の中に含みながら行儀悪く話す姉と僕。

 その会話を聞いた母親がマナーを注意するのかと思いきや、


 「三時に帰ってきたって? アンタいい加減にしなさいよ! 幾ら仕事だからって限度ってもんがあるでしょう!」


 「もう少し頑張れば今の仕事も終わると思うの。そうしたら普通に帰ってくるから心配しないで」


 そこは母親、どうやらねーちゃんの身体を心配しての事らしい。

 しかし返答した姉の言葉に甚だ疑問を感じる。

 

 早く終わったら終わったで毎晩飲み歩いてくるのではないか?

 結局帰ってくるのは既に日付が変わってからではないのだろうか?

 普段の生活態度を見ていれば大体の予想が付く。

 

 だからと言って僕自身は彼女を心配していない。

 暴力で姉に勝てる人間は全盛期のヒクソングレイシーぐらい?

 それぐらいの格闘バカな彼女なのである。


 幼少期から被害を被っている僕の経験から言い切れるそれ等真実。

 しかしこの暴力姉、僕は嫌いではない。

 なにかと留守がちな両親に代わり、僕達兄妹の面倒を色々見てくれたのだ。

 

 アメと鞭を上手く使い分ける少し年の離れた姉。

 時には新技の実験台、またある時には欲しかった玩具などを買い与えてくれた。

 僕や妹の持っている身の回りにあるものはほぼ彼女の見立てで購入した物。

 しかもそれ等は全て彼女が学生の時に稼いだバイト代。

 そんな姉を嫌いになれるはずがないではないか。

 

 これは妹も同意見で確認済み。

 二人とも表立っては言わないが、何よりも姉を優先すると誓っている僕達。

 よって、調子に乗らせない為、彼女には甘い言葉を掛けないよう心掛けている。

 そんな事を考えていたら、漸くここで妹がこの場に居ないことへと気付いた。


 「あれ? 美也って……」

 

 いつもなら朝食は一緒に食べるのだが。

 ハテ?


 「あの娘ならとっくにでかけたわよ。今日は日直だから一番早く行って教室のカギ開けなければいけないんだって」


 「へーそうなんだ。僕の時は先生が開けていたからそんなことなかったなー」


 息子の問に答える母親との何気ない日常会話。

 そしていつものように姉も参加。

 ありふれた一般家庭の日常。

 これって幸せって事なのだろうか?

 

 「アンタが日直で一番早く教室の鍵を開けるんだったら女子の机の中とかまさぐりそうだもんね。先生は未然に犯罪を防いでたのさ」


 (その手があったか!)


 さすが15年も同じ屋根の下で暮らしてきた姉だ。

 僕の性格を見事に見抜いている。

 その指摘にグウの音もでないほど悔しがる僕の姿がそこにあった。


 「ねーちゃんもう会社に行くの? 殆ど寝てないんじゃないの?」


 「まぁねー、ほぼ徹夜だねー。無理できるのは今のウチしかないから頑張るよ。そもそも一日ぐらい寝なくっても人間どうってことないし」


 三河家の長女はバケモノか!

 などとどこぞで聞いたセリフが脳裏に浮かんだ。

 だが、それを上回るバケモノがすぐそこで僕の食べ終わった食器を片づけている。

 見た目だけは品性の塊なのに……


 「なにじーっと見てるの? 偶には私が片付けてもおかしくないだろう?」


 (あれ? 昨日も誰かとこんなやりとりをしたような……その後どうなったっけ?)


 思い出せないもどかしさに内心モヤモヤ。

 そんな中途半端な僕にイラっとしたのかプチ噴火。


 「言いたいことがあるならハッキリ言いなさい!」


 母の言動にビクついた僕は背筋を伸ばしてシャンとする!

 長年怒られ続けた僕の経験が辿り着いた末のこの姿。

 一番被害を広げない反省を装った姿勢は面接に挑む就活学生そのもの!

 

 反抗するのではなく、やわらかい言葉を選び肯定で答える!

 これで全て問題ナッシング!

 そして僕の経験値マックスな接待スキルが選びに選び抜いた言葉は……


 「ね、ねーちゃんはバケモノだけど母さんはそれを上回るバケモノ……」


 「殺すぞ!」

 「殺すよ!」


 学習能力がミトコンドリアほどもない僕の一日が始まった。



 


 8時を少し過ぎたところで僕は家を出て学校へ。

 マッキーの父親と毎度同じみの挨拶交換。

 その後、もう少しで学校に到着するといった所で僕は呼び止められた。


 「アンジョー君、ちょっとちょっと!」


 可愛らしい女性の声。

 僕は鼻の穴を広げながら声のする方へ顔を向けると……


 「あっ!」


 そこには手招きをしながらこちらを見ているイヤンの姉が!

 それもセーラー服姿で!

 ……あたりまえか。


 「あのさアンジョー君、ちょっと話があるんだけどいいかな?」


 なぜか僕の手を握り、じっと目を見つめながら話す彼女。

 もしかして告白!?

 などと照れながらも、罰ゲームかと少し警戒。


 「童夢のことなんだけどね……昨日例の看護師さんから相談を受けたの。まだ付き合い始めて二日目ぐらいだけど、”もう限界、無理!”って。で、理由を聞くとね、”あの人四六時中ヤラシイ事しか考えてないみたいなんです”だって。話せば猥談、会えば何かと体に触ろうとするし、すれ違う女性を舐めまわすように見たりするって」


 なにか自分の事にも思えるのは気のせいだろうか?

 いや、そんな事はないはず……と思いたい。


 「アイツはバカだけどさすがにソコまでひどくないでしょう? こっちも身内がバカにされたからカチンときてちょっと強い口調で言い返したら”もういいです。もうウンザリです。今後お二人とも私に構わないでください。彼にもそう伝えてください。”だって!」


 ……。

 言葉が見つからなかった。

 

 お姉さん、あなたは15年間イヤンの何を見てきたの?

 エロは彼のアイデンティティーなんですよ。

 

 などと言わざるを得ない状況だがイヤンを信じて疑わない彼女。

 結構な弟思いなのだろうか?

 そこは少しだけ僕の姉とダブって見える。


 「このことはまだ童夢に伝えてないの……てかどう伝えればいいんだろう? 教えてアンジョー君、何とかして!」


 校門を抜けて下駄箱までの数分間、乞うように頼み込むイヤンの姉。

 その姿に僕のS(サドっけ)メーターは振り切れそう。

 新しい自分を見つけた瞬間。

 

 「おぉ、アンジョーとねーちゃん! なんで一緒にいるんだ? できてんのか?」


 下駄箱前にいたイヤンが僕達二人を見つけると声を掛けて来た。

 土間で増幅されたイヤンの汚らわしい声が廊下を伝わり校舎全体へ響き渡る。


 「おいイヤン! お前、俺の目に入れても痛くないほど愛しい看護師さんに超絶セクハラしたらしーじゃないか? 彼女からの絶縁状が昨日お前の家に届けられたらしいぞー!」

 

 イヤンにも劣らない僕の大きな声は、先ほど張り上げた彼の声に反応して僕の周りにいる生徒ばかりか、校舎中の窓という窓から顔を出した各クラスの生徒たちの耳に届いた。


 そのせいか、少しザワザワと。

 更にはヒソヒソと陰口にも似た声のするその周囲の中から、


 (あれ三年の矢田さんじゃない?)

 (矢田さんと一緒にいるの彼氏?)

 (三年の矢田さんって近寄りがたい美人だけどこの学校に彼氏がいたんだ)

 (あそこに見える矢田さんの彼氏って超絶セクハラ変態らしいよ)

 (あの矢田さんの彼氏アンジョーって言うんだ)

 (なに? アンジョーは超絶セクハラ変態野郎だって?)

 (変態アンジョーには決して近づくな!)


 まるで伝言ゲームのように伝わる言葉はいとも簡単に僕を有名人に伸し上げる。

 それらの言葉を耳にしたイヤンの姉は顔を真っ赤にして僕を強烈に張り飛ばした。


 {バッシィ―――――――ンッ!}

 

 肉が千切れて飛んだかの如く頬を伝う衝撃に唖然とする状況が呑み込めない僕。

 なぜか彼女はダッシュで校内に逃げ込むと、人ごみに紛れて消えていった。

 取り残された僕に観衆は、


 (アンジョー振られたぞ)

 (この目でアンジョーが張り飛ばされるのを見たぞ)

 (なにあれアンジョーってやつは女の敵ね)

 (三年の矢田さん泣かしてたぞ)

 (アンジョーを殺せ!)

 

 もう何が何だかわからない。

 僕は半泣きで、助けを求めようと縋る目でイヤンを見る。

 しかしそこには両手両ひざを地面につけ、首を垂れて絶望する哀れな姿の彼が!

 

 衝撃レベルでは僕を遥かに上回った模様。

 ちょっぴり言いざまだなとも思う。

 

 全てか最悪に傾いた感じだ。

 とりあえずガックシ落ち込んだイヤンを起こし、二人トボトボ教室へと向かった。


 

 

 

 「どうしてこうなった?」

 

 席に着いてからずっとシクシク泣いているイヤン。

 変態の烙印を押された僕の周りには誰もいない。

 ぴかりゃとヒソヒソ話す委員長の席は気のせいか昨日よりかなり前にある。

 

 今更誤解を解くのも面倒なのでこのまま放っておくことに。

 机にゴロンと頭だけ乗せて窓に顔を向けると、おっさんもこちらを向いていた。


 (げ、おっさんこっち見てるじゃん! 今更白々しく首の向き変えれないし)


 嫌な汗が全身から噴き出す。

 気まずさに業を煮やしてつい僕は


 「おっさ……古屋さん、僕はこんな時どうすればいいんでしょうかね?」


 すると


 「おっさんでいいよ。実際おっさんだし」


 初めて会話が成立した!

 彼はそもそも馴染めないのではなくて馴染む必要がないのではないのか?

 高校に入学したガキばかりの中で、彼はひと際異質。

 

 些細な事に感情を揺さぶられることもないおっさん。

 離れた位置から物事全体を見渡す鷹の目を持っているような堂々としたその様。

 

 彼は正に僕が考えうる大人の姿をしているのではないだろうか?

 壁を作っているのは寧ろ僕達なのでは?

 

 彼と目が合い、なぜかそう思った。

 てか、じっと目を見られると恥ずかしいんだけれど……


 「別に言いたい人には言わせておけばいいんじゃない? 一々小さい事気にしてたらこの先やっていけないよ」


 「僕にとってはこれから送る楽しい学園生活が音を立てて崩れていくのを目の当たりにした感じですけどね。……ところで古屋さん、いやおっさんさんって呼ばしてもらいますね。おっさんさんってなんで高校生なんてやってるんですか? 世の中の常識としては、その年齢……いくつかは知らないけど貴方ぐらいの歳なら仕事しているのが当たり前だと思うんですけど?」


 勢いついでに核心を突く質問をしてみる。

 すると、


 「あー、俺中卒なんだよね。色々あって青春を謳歌してないのに我が人生にこのまま朽ち果ててしまっていいのかって思ってね。とりあえず高校からやり直して大学とかも行ってみたいと思ったらもう歯止めきかなくなっちゃって」


 思いのほかよく喋るおっさん。

 その気持ちを抑えて社会の為に一生懸命働くのが僕達の目指す社会人では?

 つまりはそれが大人というものだとの認識だったが間違っているのだろうか?


 いや、どう考えても彼の方が子供じみた考え方と違う?

 成人男性としてそれではダメじゃないのか?

 

 伝達系統がスズメの涙ぐらいしかない僕の脳にそんな思考が駆け巡る。

 思わずポロリと僕の口から出たセリフは……


 「おっさんさんみたいに皆が自分のしたいことを勝手気ままで自由にしたら日本社会はこの先成り立つのか疑問ですけどね」


 それを聞いたおっさんさんは少しだけ表情を変えた。

 悪い意味ではなく、寧ろ好感触か。

 彼はとても感心した様子で、


 「ほほぅ、三河君はそう思うんだ。君ぐらいの年齢はいつもスケベな事ばかり考えているかと思ったけど……いやはや大したもんだ。」


 謝れ!

 東大を目指している受験生たちに謝りやがれですわよコノヤロウ!

 僕、いやこの学校にいるほぼ全ての男子高生諸君はそうなのかもしれない。

 

 いやそうだ!

 だからと言って高校生全てをエロで一括りにしないで貰いたい!


 確かに、全校生徒代表イヤン卿も今朝それが原因であの状態になっている。

 だからといって四六時中エロい事は考えていないはず。

 僕だってそこまでは……いや一日の五分の一ぐらいはエロ以外の事を考えるぞ!

 

 しかしそれはオッパイマイスターと言われる僕の職業柄仕方のない事。

 女子の胸が体形に合っているのかいないのかを見極めるのは重要じゃないか!

 男安成はその仕事に人生を賭けていると言っても過言ではない!


 大きいだけが正義みたいな今日の風潮に一石を投じるべく日々……ん?

 あれ?

 なんかおかしい?

 一体僕は何に腹を立てているのだろう?

 

 そんなバカバカしい空想と葛藤している僕の姿を見ていたおっさんさん。

 言葉に出してないはずなだが、全て見透かされている様に見える。

 

 「君は非常にユニークだな。今何を考えているのか良ければ教えてくれない?」


 「実はですね、女性のオッパイは……」


 その時点で論点がすり替わってしまっていた。

 しかも巧みな誘導尋問に引っかかったお間抜けさんアンジョー。

 全てを白状させられてしまう。


 その後おっさんさんとの会話に弾みがついたところで急に委員長が振り返った。

 彼女は僕の襟を掴むと、あり得ない怪力で顔を自分の近くに引き寄せる!

 艶やかな唇を動かし、とても小さな声を使い耳元でこう話す。


 「ちょっとちょっと三河君、いつの間に古屋さんと親しくなったの?」


 僕と委員長のやり取りをじぃーっと見ているおっさんさん。

 チチマスターアンジョーの知る限り、初めて彼は委員長へと口を開いた。

 

 「小碓委員長は三河君と話すときだけは馬脚を現すんだね。なるほどねフフ」


 なんだなんだ!

 意味が分からない!

 

 言葉の意味も分からなければ委員長の態度も腑に落ちない!

 釜から上げた蟹みたいに顔を真っ赤にしている彼女に一体何が起きたのだ!?


 怒っているのか、それとも何かをガマンしているのか?

 彼女はなぜ小刻みにプルプル震えている?

 

 理由が分からないままの僕は、ガタンと席を立ちあがる委員長を下から見上げた。

 そこで僕は、今考えている事と全く見当違いなあることに気付く。


 (下から見ると結構胸あるな。委員長ぐらいの胸の大きさが一番ツボかも)


 純粋に感じた事で下心満載な僕。

 満面の笑みを浮かべるチチラーアンジョーを見ておっさんさんはこう言った。


 「三河君、委員長は君が俺に何を話していたのかが気になるみたいだから教えてあげたら?」


 突然おっさんさんにそう言われた僕は暫し考える事に。

 そして勘の悪い僕の出した答えは……


 「なんだっけ? 委員長のオッパイの話だっけ? 吸い付きたいとか……あ」

 

 {ドゴォッ!}


 頭蓋を全て粉にしてしまう程の鈍い音を放つその打撃音は、陽気によって暖められた心地よい空気をも震わせた。



 

  僕の学園生活はまだ痛みしか伴わないような気がしてならない。

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