ーーー羽目

 粘っこい汗が背中を伝う。その汗のせいで服がはりつく。


 この感覚は気持ち悪い。どこもおかしくないのに、心だけが焦ってる。何でこんなにも焦燥感にかられるんだろうか。


 このごろいろいろあって、それが背中を押している気がしてならないからだろうか。私は人と関わってそんなことを感じたことなかったのに、何故だか今は怖くて、それが温かみを持っていることに焦っているのだろうか。これは生きる意味も死ぬ意味も何もかも吐き捨てれば、なくなるのではないか。


 なんて考えてしまっている私が居る。どうしてそんな重みに自身の感情を左右されているのだろうか。


 いけない。心を毅然としなければ、以前と同じようなループを繰り返してしまう。


 いつも忘れた頃にやってくる。押しよせて来る現実の荒波。痛みの数々。


 どうやっても拭いきれないのに、ふとすると感じてしまう焦りと問いかけ。どうやってもどうしても、思い出す。


 今、忘れたって変わらない。偽った笑顔をふりかざす。すると湧き上がるのは、これって自分なのだろうか、と言う問い。それを友達は心地よく受け入れる。


 どうして?

 どうやって? 


 彼らはそれがいいのだ。

 だが、私は彼らに規定されたくはない。動かされたくない。


 平凡で痛みしかないなら、ふと感じた衝動で逝ってしまえばいい。

 どうしてもそれが出来ない…それが今。どうしても焦ってしまう今。


 捨て去ってしまえば、なくなるがまた焦燥にかられる。また問う。繰り返し繰り返し痛みを連ねた自問自答しかない。



 なら、何で私はまた学校に通っているのだろうか。



 学校指定の鞄の中には真新しい教科書類が詰め込まれている。

 この教室に入るのは実に一週間ぶりだ。


 無機質で、嫌みなあの空間に未練はないはずだ。だから、怖いと言う自身の感情が恐ろしい。

 何でこんなに入りづらいのだろうか。そこまで教室に入れ込んでいたのかもしれない。それが怖い。この感情は捨てたはずなのに、焦りも痛みも真っ白になって生まれ変わっている。生まれてきてしまっている。


 どの感情だって痛い。どの痛みも苦手だ。嫌いだ。捨ててしまえば楽だった。


 あの時の吉の言葉を反芻するのはきっと、吉に私の願望が含まれているからだ。私の真の突き詰めた痛みが全てあの少女と言う存在になって表れたからだ。


 素敵な吉。

 私の理想像。


「おはよう」


 教室前で立っていたら、背後から挨拶をされた。振り返ると、いつもノートを貸していたあの子が声をかけてきた。


 この子のことを久しぶりに見た。あの日から何も変わっていない。またおどけた笑顔を作っている。そんな笑顔をして何がいいんだか。


「おはよう」を返せない。あの日に全部切った縁をまた生まれてこさせるのは大きな力がいる。今の私にはその力がない。


「今日は一緒にお弁当食べよう」


 今日って彼女にとって何かいい日なのだろうか。いつもならそんなこと言わずに一緒に食べているのに。


 今日も簡単に、単純に、それでいて自然に、疎に笑顔を作っている。いつも通り。だがその言動はどこか真新しい。


 私はそれには答えず、彼女から逃げるようにして教室に入った。


 中はそれほど変わりない。ほんの少しだけ懐かしく思えただけだった。


 誰も私を見ない。

 そんなあけすけな反応とコミュニュティ―を形成しているいくつかの群れ。


 朝から孤独に苛まれる。みんな、こんな日常を自然にできるのは一種の才能だと思う。


 私にはできない。自身の腹の内を見せずに、どうしてそんなに振る舞えるのだ。それに留まることに辛さはないのか。理解されたくはないのだろうか。


 そうして自分の席に進む。

 周りは忙しない日常と笑顔。



 私の席には一輪の菊が添えられていた。



 異常なものが私に回ってきていた。お鉢が回って来たのは初めてだ。

 いや、この数日間来ていなかったのだから、その可能性も考えられたのに、気づきもせず知りもせずそのまま過ごしてしまった。それは私の性格と察しの悪さが原因だろう。嫌になる。


 こんな性格も苛つきも、群れの中に居続けることへの疑問も、感じなければなにもない。孤独も感じない。そのままでいれるのに、それなのに痛みが伴い続けるから群れの中に納まってしまう。居場所を探してしまう。そこに傍観者としてしか受け付けない性格も本能も全て投げ捨てたい。


「今日は一緒に食べようね」


 さっきと同じことを彼女は言った。


 名前は何て言ったっけ?


「約束してね」

 辛そうな表情の元、彼女は私の席に飾ってある菊に手を伸ばした。そして次の瞬間、菊を薙ぎ払った。黄色い菊の花弁が儚げに散る。


「友恵?」


 驚いて彼女の名を呼んでいた。





「ふ っ ざ け ん な」





 教室にいる生徒全員の視線が一斉に向けられる。彼女の渾身の叫び声はきっとこれをした愉快犯に届いただろう。


 彼女は私が居ない間、何があったのか、それとも今変わってしまったのか。


 なおも彼女の叫びは続く。


「人の机にこんなもの置くなんて、良いご身分だなあ。自分らは何も考えてないようだけど、私は知ってる。雰囲気だろ。こんなもの置いて、悲痛に歪む人の顔を見て楽しんでる。その雰囲気が好きなんだ。いい加減私達も高校生だしこんなことやめろよ。恥ずかしいと思わないの? 馬鹿らしいだろ?」


 彼女はこの場をしらけさせようとしていた。この発言で明日からの空気を変えようとしていた。


 これを起点に変えられるはずなんてない。そんなこと私が良く知っている。だから、だからこそ……


「これからこんなことするなら、私は教育委員会に告発する。それも出来なければ、殺してやる。そんな奴この世に居てたまるか。私は本気だから」


「え」


 私はその言葉に耳を疑った。その言葉を皮切りに、彼女は鞄から大きいカッターナイフを出してきたからだ。

 友恵が鞄をその場に落とす。カチカチと刃を出し、誰にとも分からない人に向けて、前に突き出した。


 このままでは傷害事件になりそうだ。


「やめよ、友恵」

「嫌」


 彼女の瞳は本気だった。本気でやりたかったのかもしれない。

 そんなの、私も同じだった。でも変わらないんだ。だからこそやろうとしているんだけど、そんなことしてもいつも通りの日常がやってくるだけだ。変わらないって、知っている。


 知っているんだ。



「……や、やめなよ」



 それなのに、彼女の気持ちが痛いほど伝わって来た。怖かった。涙が出そうだけど、止めた。今見せたらみんなから変な目で見られる。この場で泣くなんていけないんだ。

 あくまで教室の中に居る生徒と同じようにしなければならないのに。それなのに、彼女はそれをしていいって言っているみたいだった。彼女が逆らっているのは、いじめなんかじゃない。


「私は戦う」


 空気だ。

 私が何よりやりたくてできなかったこと。


「やめてよ」


 目の前でそれをされるのは痛い程分かるから。こういう日常に変える一瞬の切れ間はなによりも痛みでしかない。


 明日になったらこの惨事も終わる。明日はこの惨事も日常に変える。たった一人だけいない日常になる。それに誰も気づかない。誰も彼女の気持ちを分かってくれない。


「嫌だよ」


 嫌の一言が彼女でなく私の口から漏れ出た。自分でも意外だった。物事を収束させるのも、関わるのも苦手だったはずなのに、嘘の一言がポロリと出て来た。


 いつも通りの虚無感に乗せてまで彼女を救いたくなった。


 彼女と本当の友達になりたくなったのかもしれない。孤独であることを受諾してもこのままではきりがない。明日変われるなら、それなら、私は、私は私は……


「気にしてないから」


 嘘をつく。


「だから、そのカッターおろして」


 こういう嘘ならついていいかもしれない。


 彼女の目を見据える。これまで見てきたことない彼女の本気を受け取る。何も痛みがなかったなんて言えない行動だった。あるんだ。彼女だって、この虚無感を翻すために、必死であがいていた。なら、その翻す行動を無駄にはしたくない。


 彼女の手からカッターが落ちた。カンっと一回跳ねて、刃が折れた。幸いにも、刃は誰も傷つけずにしゅるしゅると床を這っただけだった。


 新品の白く照っている刃先。それを私は拾った。


 カッターも黄色い菊の花も、彼女が放心しているうちに拾って、私の机の上に並べた。こうして見たら、菊の花をこの机で切って生け花をしているみたいだ。しかし、そんな習い事じゃなくて私にはちゃんとした勲章に見える。


 肩に掛けた鞄を机の横に置こうとしたその時ーー


 そこで友恵が私の手を握って駆け出した。私はされるがまま、その手に引かれて、ついていく。チャイムが鳴る。だけど、彼女の足は教室から遠ざかっていく。階段を上り、一気に屋上まで。



 ーーーーーー



 彼女と屋上まで来て、やっと私の手を放してくれた。しかし、彼女の行動はそこで止まらず、落下防止用の金網まで歩みを進める。それを私はぼんやり眺めていた。


 覚悟はあった。彼女の瞳はそれを告げていた。


 青い空。蒸し暑い空気が薄れていく。屋上の風が私の髪を撫でて、汗を冷やす。照り返す日は彼女の表情を見えなくさせた。

 そのまま行くのであれば、私は止めない。私は止める資格もなければ、行く資格もない。



 行くの?



 そんな疑問だけが私の心をついた。


「そんな言葉初めて聞いた」


 私の言葉がまた零れていたらしい。彼女はそれでも歩みを止めない。


「此処に来るの初めてなんだ。こんな場所だったんだ。広い空に澄み切った空気。でも……とにかく暑い。死にそう。暑すぎ。それなのに、来る理由分かった」


 彼女はガシャッと金網を握りしめる。その光景は吉……いや、私が電車に向かい、そうしたように彼女もきっとそう思っているんだろう。こんな世界、生きる価値なんてないって。私すら価値がないって。ならどうしたらいいんだろうって。


「私ここから飛び降りるけど、止めないの?」

「私に止めさせるために連れて来たんだとしたら申し訳ないけど、止めない」


 返答は端的に言って、簡単だった。


「私がそっちに立ちたいぐらいだもの」


 誰も居ない屋上に求める者はいつだって、そういうものだ。彼女が目の前で死んだって、私は変わらない。あの教室だって変わらない。蔓延る悪の数も変わらない。同じような日常が通り過ぎるだけ。


「おかしいね」


 彼女はそこから動かない。ただ握りしめているだけだった。金網を蹴とばしも、さっきのような叫びも、嘆きも罵声も漏らさずただ校舎を眺めていた。


「おかしいよ」


 返答がオウム返しになってしまうが、仕方ないように思えた。私は私でそれしか言葉がなかった。痛みを返すには、嘘がはらむ。この返答だって嘘でしかない。彼女はそんな嘘を見抜けないだろう。それでも友達になってほしいなんて、傲慢だろうか。


「私、叫びたかった。あの教室の空気が嫌いだったから、私に受けたあんなしょうもないいじめで落ち込んでしまったから。すっごく悔しかった。あんなことでめげちゃう私がさ。馬鹿らしくて、でもそれを許しちゃう空気があって、それが本当に嫌だった」


「本当に?」


「もしかして嘘言っていると思ってる? 嘘だったら、あんなことしないよ。出る杭にならないようにする。今日も千鶴に話しかけない。でもね、それも全部ひっくるめて嫌だった。嫌で嫌で嫌で……分かってくれなくていい。でも、これが本音」


 彼女はくるりと振り向いた。短いスカートがひらりと翻り、いつものような笑みを浮かべている。その心の内はきっとまだ何かはらんでいるに違いない。家のこと、両親のこと、兄弟のこと、友達のこと、でも彼女はそこでやめる。本音だって嘘だって、それでもいいから。



 そう?

 ねぇ、吉もそう思う?

 私の中のこの答えは、この友達として彼女を受け入れるこの答えは合ってる?


「私、死にたかったんだ」


 ふっと息をついてでてきた言葉が彼女を試すものになってしまった。


「この屋上でじゃない。もっと多くの人が見る場所で。もっともっと大勢が通う場所で、そしたらすぐに風化するから。人の心に留まらずに自分を持てるような気がしたんだ。こんな邪魔な奴を殺したらどれだけの人が救われるか、どれだけの人が『私』を証明できるか、私が死ぬことで、分かるから」



「今、千鶴は此処にいるじゃん?」



 馬鹿にせず彼女は小首を傾げた。その背後の金網は猛々しく立っていて、それを飛び越えることを彼女はしない気がした。飛び越えられないほど高くなってしまった。


 だからこそ、彼女に死を告げたんだ。死なないからこそ、一緒にご飯を食べる約束をして、私をここに連れてきた。


 彼女に問いましょう。


「私、いる?」

「居るよ」

「そっか」


 それだけで今はいいや。それだけの言葉とあの叫びで『今』は受け取れる。


「大丈夫。どうせ私の行動はすぐに消えるよ。多分いじめはなくならないけど、でもね、変われた気がした。私は変わった。もう二度とあの日常には戻らない。違う日常に行くんだ」


「確かに誰だって普通が良いもんね。私たちは嫌なら違う日常を求める生き物だからね」


 そう答えておいて、自分の心で違う答えがでてくる。


 きっとその違う日常だって、鬱陶しいだけだ。


 死なんて打ち消される。普通と傍観者と、痛みと憎しみと、全て雰囲気で作り出されるものはこの胸にある。脳にあったり、胸にあったり、心臓に宿っていたり。変わらない日常も彼女が変わるのならと受け入れられるだろうか。私の死を受け入れてくれるのなら、今の私はそれでいいと、居座る。感情もある。彼女の叫びは私がないと出来ない。私がないと、不完全で、なくなってしまう。


 未完成で、不完全な私達だけど、それでも生きていいって言い合えるのなら、私は彼女と一緒に居たい。


「どうしたの?」

 彼女が尋ねてくるから、改めて宣言する。


「私達ってどうしようもなく友達なんだね」


 嘘を吐いても、一緒に居られるのならいいって思える。


 それでいい?

 それが私の求めた『友達』だろうか。



 ーーーー



 教室の中で私は自分の席に座っていた。足元には冷たいと感じられる水が薄っすらとはっている。その水の中に足を浸けている。裸足だ。つらつらと流れて来るのは千羽目がない鶴達だった。赤白青緑、白い紙に文字が書かれた鶴。


 そうすると、ああこれは夢なんだなと分かった。


 無機質に流れる空間は契約した放課後を思い出す。


 あの日もこの空間と同じように夕日がきれいだった。蝉の仰々しい声が遮り、吉の声を聞こえなくした。


 もうすぐ夏休みだ。家族での思い出もこれから作るのだと思うとちょっと億劫で、悲しかった。何もないんだ。この夢も自分も、たくさんあった記憶はどれも無意味でしかなかった。もう夏が終わってほしい。


「そんなことないよ」


 そんなことあるよ。友達だってできたけど、あれでいいのか分からない。


「いいんだよ。考え過ぎだって」



 吉は……



 目の前に女の子が居た。吉だと思っていた私とそっくりな見た目をした女の子が居た。


 白い肌にくりくりっとした黒い瞳。礼服みたいな黒い制服姿の女の子。

 私が憧れたのに、その姿は知らない女の子。可愛いなんて思えない。本当はどんな姿なのか知らない。教えてくれない。



「吉」



 呼び掛けて見ると、彼女は嘘みたいに弾けんばかりの笑顔を作った。


「久しぶり」


 いつものように前の席を私の席向けて話している。挟まれた机の上には鶴が一羽。あの日折った鶴だ。


 現実のこの鶴は机の上に飾っている。紙を切るためのカッターと一緒にして。小ぶりなそれを知っていたからこそ、友恵のカッターに臆しなかった。


「これ覚えている?」


 吉は鶴を手のひらで包んだ。


「覚えているよ」

「なら、こっちは?」


 鶴を包んだ手を開ける。掌で包まれた鶴は違う鶴の姿へと変わっていた。赤い色の折り紙で折られた鶴へ。


「覚えてる」

「約束は?」

「覚えてる」


「なら、この鶴は何羽目?」


「この鶴は……」


 夜、寝る前に私はふと思った。こんな日常でいいのか。平坦で何もないけれど、それでもいいのだろうか。それが私の生きる意味に繋がるのだろうか。結局教室に戻ったところで何も変わらなかった。あの子はあの子で変わったし、私は変わらない。雰囲気に叫んだが、どれも変わらない。


 分かっていたはずなのに、何か引っかかった。



「この鶴は……千羽目」

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