九百九十九羽と十五万四千四百五十円

 こんなに幸せでいいのかな。


 随分前まで私は、その食卓に満足していた。そこには何もないけど、冷たいけど、それで大丈夫なんだって、私はそれでも生きていけるんだって、思い込んできっと諦めてたいたのだろう。私はそれで大丈夫ではなかったのかもしれない。


 目の前のありえない光景に少しだけの憧憬を描いてしまったからにはもう戻れない。


 目の前に姉。そこは元々母の席だった。

 左斜め前には父。そこにいつも誰もいなかった。


「また、別れちゃった」


 姉が男の話をしている。彼女にはいつもいつも男の影がある。私にはどうしてそこまで熱心に男に入れ込むのか分からない。どこの馬の骨とも分からない男と遊んで、何が楽しいのだろうか。そう思っているのに、口元がほころぶ。付き合って別れてを繰り返している、そんな姉のいつも通りのくだらない話なのになんだか温かい。


「それでね、お父さん」


 父も腫物がなくなったように顔を晴らしていた。そして姉の発言にうんうんと頷いている。前はそんなことなかったのに、なぜそんな突然に変わってしまったのだろうか。


 ぱくりと揚げ物を口に放り込む。味が舌の上をじわっと滲み出てくる。その味は口全体に染みていく。揚げ物の味はどんどん広がり、口をしびれさせた。いつもの大味じゃないから、とてもおいしいから、だからこんなに染みるのかもしれない。なんだかずるい。


「男と遊ぶのもほどほどにな」


 父が姉に注意をし、姉は「これからはね」と返す。


 父と姉の間には何か固い結束があった。暗黙の了解のように、何か隠している。これでは私は、何のために此処に居るのか分からない。

 私はこの場にはにいらないのではないか。そう思っているのは、寂しいのかもしれない。温かいのに、寂寥感に襲われてどこかからか棘が突っぱねて来るのだ。その棘が痛い。


 私にはある後悔がある。それはこびりついて洗い流しても剝がれないようなものだ。痣となってこの身に痛みを与え続けている。その後悔がこの光景を見ているとじりじりと胸の内で蠢くのだ。もぞもぞと百本もの足がある虫のように動き回り、居心地を悪くする。


 この食卓は一見して幸せだが、私にとっては気持ち悪かった。


 まだ晴れない。私は何も晴れていない。


「ごちそうさま」


 痛みが噴き出す前に私は箸をおいた。


 目片君にポテトをもらったからそれほどお腹もすいてなかった。それ以前に私が此処に居ても邪魔な気がした。私を入れる食卓より、私が居ないところで何か算段した方が彼らにとっては気安いだろう。私の知らないところで暗躍した方が楽しいのだろう。何も知らないところで、知らなかった私を嘲笑い、あの子は子どもだからと罵る。私は彼らがそれをしたいと思っているのならそれでいいと感じている。彼らは私と言う人物を下に見た方が楽しそうだった。


「千鶴」


 姉から呼び止められる。


「何? お姉ちゃん」


 あまり良い気がしないから、不機嫌な声色で返事をする。


「お腹、いっぱいになった?」

「なったよ」


 こんなに幸せでいいのだろうかってぐらいには。


「良かった。明日は一緒に作ってね」


 そうやって私に未来の枷をはめていく。


 姉ははっきりした人だ。他人に興味がない人だ。必要以上に関わってこない人だ。だから、私は姉が嫌いだった。これ以上、必要以上にこっちに来ないでほしかった。それは以前の姉のように思えないから。今更ご機嫌取りされたって、気持ち悪いだけだ。


「めんどくさい」


 投げやりに言って、私は二階の自室に駆けこんだ。


 自室は落ち着けた。

 そこら中に転がっているのは九百九十九羽の一羽足りない千羽鶴。その中には教科書をちぎって作られたものもある。折り紙で作られたものが多いから、部屋が鶴で彩られていた。


 鶴、鶴、足元を覆う鶴は、あの夢を思い出す。水が足元を浸し、その水の流れに沿って流れ込んできた鶴は美しかった。だが今の鶴は、一羽欠けていて、そこまで鶴に温もりが感じ取れない。

 やっぱりもう一羽折りたい気分になる。


「今は、無理だけどね」


 最後の一羽は今目片君が持っている。



「明日は一緒に作ってね」と姉の声。


「また明日」と目片君の挨拶。



 その両方の言葉はまるで明日に希望があるみたいだった。


 そんなはずないのに。現実は明日に命を絶つ者もいる。明日に希望を抱いた矢先、すぐにホームに飛び込むものが居る。

 『明日』なんて絶望的な言葉もない。むしろ『過去』の方が思い入れの強い思い出しかなく、そっちの方が良い。思い出は時として、人を追いやるが、その思い出はなくしたくなかった、忘れたくなかった、大切なものなんだから。その意味での私にとっての『過去』は吉だった。


「吉?」


 今なら出るかなと思って呼び掛けてみる。


 でも、部屋には何も出ない。散乱した鶴といつもの無機質な今が流れている。所詮現実は現実で、幻は理想でしかない。今は死ねないから出てこないのであって、また死にたい、死ねばいいのに、なんて言ったら出て来るかもしれない。


「死に…」


 口に出そうとしたけど、言ってしまえば、目片君に申し訳ない気がした。そんなことで呼んでも吉が余計出てこないだろう。

 代わりに遺書を書こうと思って、鶴を押しのけ勉強机に向けて歩みを進めた。


 吉と会った時、突発的に『死のう』と思っていたから、遺書も何も用意していなかった。おそらく吉と同じように死にたかったのだろう。同じようにホームに立ち、同じように無機質な日常を呪い、そして逝きたかった。実際の吉がそうであったかは分からない。でも、目片君も感じていたように、噂でもしかしたらそうなんだろうなって雰囲気で悟っていたのだ。

 あの子は電車にその身を投げて死んだんだって。


 あの子の笑顔は私の笑顔と似ていた。耐えられない日常に恐怖を抱え、全て抱え込んで逝ったのだ。


 私が憧れた吉。


 机に辿り着くと、封筒がぽつんと置かれていた。

 目の前が凍っていく。その上の黒い文字が目に入らないように目をつむってしまった。でも、瞬きするぐらい速く開けてしまう。



『教科書代に使って 恵』



 姉の文字がそこにはあった。


 彼女はどこまで私のことを知っていたのだろうか。


 少し厚めの封筒は、中身を確認せずとも、とても多くの物が入っているのが理解できた。

 重く大きなものが、嫌な悪臭を付けて押し寄せて来る。私が知らないところで、私に気を使って、働いて、こんな妹に大金を上げる必要なんてないのに。あの姉はどうしてこんなに優しくするだろう。


 抑えていた嫌な気が襲ってきた。


 あの姉はどこまでも私思いの姉ではなかった。どちらかと言えば、どうでもいいと言う態度をとる人だった。

 それなのに、こんなことをするのは、嫌がらせでしかなかった。今更何をしろと言うのだ。もう既に遅いのだ。私は一旦死のうと思ったのに、その時点で、これをしていればまだいいのに……遅い、遅すぎる。


 こうして、私を嘲笑っているんだろう。裏であの子はこうしないといけないんだからって。姉に面倒を見られる程私は子どもじゃないし、今更姉の一言で変わるわけない。

 こんなもの一つで私の価値を推し量るだなんて、たまった物じゃない。あの千円みたいな真似をいつからするようになったのだろうか。私はこんな価値で生きていられるのだろうか。親みたいな真似をして、価値を推し量って何が面白いのだろう。


 私は、そんな価値で、生きていられないから、こうしているのに。生きていられないのに。


 目片君はそんな小さな価値を私に押し付けてこなかった。あれはもっと重くて、大きくて、私の命には大それたもので、それでも、温かくって、懐かしい物だった。今の価値が目片君のそれで成立しているなら、私はこんなもの受け取りたくなかった。これは価値の押し売りだ。


 手で封筒を握りしめて、部屋を出る。勢いよく出たためか、扉が反対の壁に当たり大きな音をがなりたてる。隣の姉の部屋を訪ねようとすると、階段から誰かが上がって来る足音が迫って来た。どんどん近づいて来るその足音になぜか恥ずかしくなって、焦ってくるりと身を翻した。


「千鶴?」


 足音の正体は姉だった。


「そこで何してるの?」


 大人びたその顔はどことなく母に似ていた。


 そっか、もうそんな年齢だもんね。


 小さく頷くのに、なぜか失望してしまった。母に似ていることを姉は、何も悔いていない。私に価値を押し付け、裏で何かすることを何の罪悪感を抱いていない。私はこんなに思い悩んでいるのに、それに気づくのは遅い。


 私は傲慢だ。傲慢な願いでできている。けど、この人に思われるほど、『子供』じゃない。


 続きの言葉を頭ではもう浮かんでいるのに、重い口が開かない。まだためらっているのかもしれない。


「私に用があるの?」


 気品ある姉の言葉が私を突き刺す。


 そこでやっと、手に握りしめられた恥ずかしい封筒を突き出すことが出来た。力強く握りしめたせいでそこそこの厚みがあったのにくしゃくしゃになってしまっている。


「これ」いらない。


 遅れて来る言葉は、言葉足らずで、でも言えたことに少しだけ怒りが収まった。


「それは千鶴のだから」

「でも……」


 姉は私の手を突き返す。


「教科書、それで買ってよ。もうないでしょ?」


 それが嫌なのに。


「お姉ちゃんは……」上手く言葉が出てこない。「何でも知っていたんだね」

「知らないよ」

「知っていたから、あの日男の人と別れたの?」


 感情を押し殺すには、限界がきていた。温かいものに触れすぎた。私の感情が痛い。なければいいのに。でも、生まれた。元からあった物が戻って来て、暴れている。


「知っていたから、私にこんなもの渡すんだ。知っていたから……私に隠し事してるんだ。お父さんと二人で話して、私には何も話さないで、ずっとずっと、私はこんなに……」


 傲慢でごめんなさい。

 こんな感情を言葉にしてごめんなさい。


 痛くて仕方ないんだ。こびりついた痛みが、後悔が、私を急かすんだ。『死ね』って。私が死んだ方が、みんな楽だから。私が死ねば、姉も父も母も私に気を遣わず、千円の価値でお葬式を上げられて、千円の価値が家庭で浮いて、楽になるのかなって。こんなに子供じゃないのにそれを分かってなくて、こうして価値を押し付けて来る姉が心底嫌いだ。


「知っていたから私にこんな価値を付けるんだろうけど、私こんなにいらない。まだ残っているだけだから」


 この世に残っているだけだから。


「千鶴は……」


 姉の口だって動いてない。大事なところで姉の瞳から涙が溢れ出ていた。それで私にまた価値を付与する。姉の涙は何円だろうか。


「ずっとずっと思い悩んでいたのを、私は気づいてあげられなかった」

「そんなことじゃない」


 姉に求めている言葉が違うのに、それでも痛くて目が熱くなる。私は一言だけ『いらない』とさえ言ってくれれば、それだけで十分なのだ。十分重みはなくなるのだ。その一言で、こんな怒りの感情も傲慢さも全部面倒くさくなって全部捨てさせてほしい。


「ごめんね」


 封筒は受け取ってくれない。


「そんなことじゃないんだよ、お姉ちゃん」

「千鶴、よく聞いて」


 それでも、姉は話すのをやめてくれない。


「やめて」

「お父さんと隠し事してたのは、千鶴のことを思って」

「思ってない」


 頭をふった。


「……そうだよね」


 こんなものいらないって、手に持つのも鬱陶しくなった封筒を床にたたきつけた。中身が零れて、札束がさらさらと流れ出る。


 姉が私のことを苦々しい目で見て来る。それが苦手だった。あの日から何か隠している。それが気に食わなかった。私にはっきり言わないその姉の強情さも、時折見せる気まぐれな優しさも全部嫌いだった。嘘にしか思えなかった。


「私のこと、いらないんだったら言ってよ」


 そしたら、消えてあげれるのに。


「私のこと邪魔だからそんな風に思っているからあの時何も教えてくれなかったんだ。私、気づいていたのに。気づいてなかったこと、気づいていたのに。私だけ置いてけぼりにして、そうやって私には理解できないみたいなこと思ってる。私、いらないよね」


 大好きだって思った自分が許せない。今も母を愛してしまっている私が嫌い。もっと早くに気付いていれば、姉のように、父のように、母を憎めたのかもしれない。

 私は、私が嫌い。私には価値がないなら、ないっていってくれればいいのに。それなのに、目片君はそうしてくれなかった。逆に価値を与えてくれた。痛いだけなのに。姉もそうなの?


「そんなことない」


 大切なものだと言わないで。


「千鶴、あんたは私の大事な妹だよ?」


 苦いだけなんだよ。


「苦しめていたのなら、私話すから」


 しんどいだけなんだよ。



「だから、お願い……死なないでよ」



 何でそんなこと言うの?

 何でそんな顔してそんな普通に言うの?

 憂鬱に浸される日々の中、何も知らずに生きている、こんな私を何でそんなに姉は大切にするの?


 普通の私。平凡で、何もかも知らなくて、特別な何かにはなれていない。なれない。これから先何者にもなれない。ガンで死んだり、老衰で死んだり、幸せになってもこの感情が付きまとうのに、それなのに、それでも、姉は生きてほしいのだろうか。


「生きて」


 小さく吐き出される姉の言葉。それは、呪いみたいだった。


「私でも?」


 姉は頷く。


「いいよ」


 きっとこの後姉から隠し事を明かされても、後悔は続くだろうし、私の思いも消えないだろう。でも、しっかりと重しが乗せられたことは変わらないだろう。

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