おかえり

 妻と別れて、何日経つだろうか。


 ぼーっと過ごして、それとなく食卓に食費を置く日が続いている。


 元々、子供とはそれほど良い仲ではなかったからか、妻が家に居た時と変わらず、子供と話せてはいない。子供を作って、何年も経つと言うのに、ある日からか、子供と遊ばなくなった。

 いつからだろうか。子供と向き合ってこなかったのは。いつから、いや、最初からかもしれない。生まれたあの日から子供の実感がなく、妻にも辛い思いをさせた。そして、今になって、噴き出してしまったのだ。


 僕が向き合わないでどうするのだ。


 今日もこうして一人で居心地の良い店を見つけては、子供の気も知らないで呑んでいる。


 だめだよな。こんなダメダメな親で、あの子たちはきっと、私を恨んでいるだろう。いっそ私を殺したいだなんて思ってそうだ。


 妻と別れて、親権争いをして、親同士争って、こんな姿、僕が子供だったら嫌に違いない。

 裁判に臨む妻の口から漏れ出た僕の罵詈雑言が耳にこびりついて離れなくなってしまった。きっと、あの家庭にはもう戻れないのだと感じさせてしまうぐらいには妻を陥れてしまった。この気持ちも、実感も、本当の所、誰の責任なのだろうか。


 そんなことを思うと、酔えずに、居酒屋を出てしまった。商店街が広がる大通りに出る。先ほどいた路地の一角にある居酒屋とは違い賑やかな雰囲気が漂っている。

 様々な色で輝く電光掲示板。その下にたむろする若者達。僕では注意することなんてできやしない。

 親は一体どうしたんだい? 

 そう言ったところで内に秘めている罪悪感に蝕まれるだけだ。


 一切の迷いも悲しみも、捨て去れるのなら、今、子供たちに向き合うのに。僕はふがいないぐらい臆病で、家族なんてとっくの昔に見捨ててしまっていた。

 どっちが悪いなんて妻とは言い争っているけれど、僕はどっちも悪い気がしてならない。弁護士には弱気になってはいけないと言われてはいるが、心の内ではずっと自問自答している。


 誰があの家族を壊したのか。決まっている僕達夫婦の臆病だ。


 僕達は言えなかったんだ。子供に愛している、の一言も。自分たちは子供に向き合うべきでない部分を隠し持っていたから。僕は向き合うなんて不可能だった。妻の裏に潜む不穏な影にやられて、食卓に席を付けなかった。見かけでは愛しているなんて思っていた。しかし、妻のそんな影一つにやられてしまって引いてしまった。了承してしまった。見過ごしてしまった。それを臆病で隠してずっと傍観していた。



 ☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ



 まだ千鶴も、恵も小さいころ一回だけ家族で外食をしたことがある。そこは近くのラーメン店でいつもいい香りを店の外まで漂わせていた。その脂っこさに妻は嫌がったが、ファストフードなどの大味が好きな千鶴はどうしても行きたいと言い出し家族全員でついつい赴いたことがあった。


 大味が好きなのは僕と同じだ。

 実は千鶴はよく僕と似ているところがあった。いつも何を考えているのか分からないところ。考えていることを当てるより、何をしようとしているかを当てられるところ。つまりは次に何をするのか、という行動が分かりやすかった。だから、千鶴がラーメン店に行きたがるのはある程度分かっていたことだった。


 ラーメン店に着くと、湯気が僕の視界を覆った。味の濃い湯気はそれだけで千鶴を笑顔にさせて、恵に顔を背けさせた。


 家族で行くようなところではないのは重々承知だ。

 しかし、子供の表情はどこか嬉しそうだった。


 席に着くと、千鶴はすぐにラーメンを選び、恵は悩んだ。


 恵はある程度考えなければ選べない、行動がゆっくりな子だった。そのくせ、男と付き合うことばかり周到でだ。俗に言われる、恋する乙女だ。いつもそのことばかり、家族でご飯を食べている時話していた。そこがかわいくもあり、心配だった。


「お父さんは?」


 千鶴が妻にメニューを渡した後、何にするか尋ねてきた。

 隣では恵と妻がメニューとにらめっこしている。


「じゃあ、千鶴と同じにしようかな」


 千鶴はまだ小さかったから、千鶴が食べきれなかったものを食べようかと思っていた。


「この子供ビールってなに?」と恵。


「子供のビールよ」と妻。


 それでは説明になってない。

 ふーんと恵は分かったように頷いた。


「お父さんはビール頼まないの?」


 ビールと言う単語で反応したのか、僕にビールを飲んでもらいたいのか、千鶴が尋ねてくる。

 彼女は時に突飛な事を聞く。そんなに呑んでなかったのにな。


「今日はやめとくよ」


 笑ってごまかすと、むすっと千鶴は口をへの字に結んだ。そしてあろうことか、「私、子供ビール頼む」と勢いよく言い放った。


「ビールはこどもはいけないんだよ」


 恵が拙い日本語で千鶴に言うと「子供だから」とメニューを指ししめす。確かにそのビールはアルコール成分が入っていないから、子供でも飲めるようになっている。それに、その子供『ビール』と銘打っているものの実のところただのジュースだ。子供が気になっている大人のビールを味わいたくなる衝動をよくいかせている商品であるだけだ。


「いいわよ、千鶴。それ、頼みなさい。今日はお父さんが奮発してくれるから」


 にやっと笑う妻の顔に、とほほと僕は内心微笑んで、顔では笑みを引きつらせた。


 こんな機会に楽しんでいる子供の姿が美しくて仕方がなかった。


「ね、お父さん」妻が目を嫌味に向ける。


「いいだろう、今日は何でも頼みなさい」


 財布に悪いメニューではない。たかがラーメンだ。それに家族の内、三人は女勢でそこまで食べられない。普通のことなのに、千鶴も恵も嬉しがった。ラーメン店の中で一番楽しんでいたと思わせるほどに。


 それでもある疑念がこの子供にあり、僕は自分の子供と言う実感がなかった。


 ひとしきり選び終わり、暫くしてラーメン二杯とチャーハン一杯が運ばれてきた。

 

 背油が浮き、露がきらきらと揺らぐ。その中にはつるつるな麺が畳まれていた。メンマが添えられ、ネギが彩を加える。

 それを前にした、千鶴は目を輝かせてつるんと麺を吸う。


「おいしい」


 嬉しい声を聞けてほんわかと妻と見合わせた。


「千鶴、こっちの方がおいしいよ」


 あれだけ拗ねていた恵が千鶴を遮りチャーハンを勧める。


 恵のこういったところは妻に似ている。はっきり喋り、他人に押し付けるところ、それは妻の弱点でもあり、僕のような臆病者にとって、その弱点は長所に変わった。その長所に溺れて、大切な事実は隠していた。



 ビールが運ばれてきたのは千鶴がお腹いっぱいになって、机に突っ伏しているころだった。恵は飽きて、また妻とおしゃべりしていた。僕はと言えば千鶴と恵の食べ残しを妻と分けゆっくりと食べている時だった。


 そのビールが来た途端、千鶴は目の光を復活させた。


「ねえ、どうやったら遠藤くんに好きになってもらえるの?」


 恵は同じクラスの気になっている子に御執心だ。


「そうねえ、胃袋を掴めばいいんじゃないかしら」


 料理の上手い妻の答えそうなことだ。


 千鶴は大人のビール瓶の数段小さい瓶の蓋を取り、コップに注いだ。その流れるような所作は手慣れたもので、まるでその動作をどこかで見たことがあるかのようだった。もしかしたら、僕が時折隠れて呑むところを見られていたのかもしれない。


「あら、お父さんそっくりね」妻が驚いて手で口を覆った。



 楽しいこともつかの間、僕の不安は帰り際には噴き出しそうになっていた。あの「そっくりね」と言う言葉に違和感を覚え、妻によく似た二人の女の子へと一瞬だけぎこちない笑顔を返してしまったかもしれない。


 実際、帰り際に、恵はそんな僕に呆れて、千鶴を連れて、追いかけっこと称し僕の隣より、先へと走って行ってしまった。千鶴は何も知らずにその姉の後ろを追いかける。

 恵は気づいているから、気づかないふりをしているのかもしれない。案外聡い子だ。どれだけのことを知れば、傷つかず生きていられるか、を知っていた。気づかずにいれば、まだ楽しい家族で居られる。


 帰り道、僕は妻の隣で一緒に歩く。


 暗い夜道に、通過する歩道の隣の車を気にもかけず、先を行く子供をずっと眺めていた。歩道は点々とある街頭で照らされていた。子供らは照らされたそこをまたぎ、どんどん先へと進む。


「恵はお前に似てきたな」


 少し笑い交じりに隣の妻へと話してしまう。この不安からくるどうしようもなく襲い来る恐怖を笑わずにはいられなかった。


「千鶴はあなた似ね」


 妻はこう返すが僕は似ているとは思えなかった。どうしても、似ているという実感がなかった。


 妻は昔、よく男と遊んでいた。それが突然結婚することで治るとは思えなかった。そんな妻が結婚に至る最後の男として好意を寄せて来たのが僕だとは到底思えない。恵はよく妻に似ていた。よく男の話をし、愛情を向け、恋愛に生きる。そういう類の人だ。

 そう言った者達を何人も見てきた。みな、一様に信頼させておいて、最後に裏切ってきた。悪い癖は治ることなく、裏で続け関係を崩壊させていた。


 悪い癖だ。治るわけがない。


 ふと口を動かす。




 本当に、あの子供たちは僕の子供かい




 だが、声には出なかった。出せなかった。臆病者はやはり踏み込むことは出来ないのだろう。それより妻と歩んだ道のりを、妻が僕を選んでくれたこの人生を信じる方が容易かった。どんな不安も月日を重ねば意味のないものになる。風化し消滅する。それなら、この不安も時間と共に握りつぶしてしえる。そんな未来の方に賭けよう。


「そうか」


 僕が呟くと妻がぶすっとしたように「そうよ?」と返してきた。


「どうしたの?」

「何もないよ」


 今思えばここで言ってしまえば良かったのかもしれない。妻はきっとこの時の僕の不安をひしひしと感じ取ってしまったのだろう。不安が晴れず、なんとなく感じてしまう僕の秘密から仕事を言い訳にして帰らなくなる僕を見限って他の男の元へ逃げた。


 妻だって弱気になる。

 僕の不安をあの時、昇華すればきっと違う結果になっていただろうに。


「本当に僕の子供だろうな」と冗談半分に聞き「そうに決まっているじゃない」と馬鹿にされる方がまだ晴れた。


 どうしようもなく馬鹿な親だ。僕は。



 ☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ



「千鶴には言わないで」


 妻が出ていった夜、千鶴に話す前に僕は恵に妻と離婚することを食卓に着き話した。


 離婚届には前の晩に妻とサインした。もうどうしようもなくなっていた。修復不可能なところまで来てしまった。それを話すと、恵は涙した。晴れ晴れとした表情を向け、しっかりとした口調で僕に言葉を紡ぐ。


「お母さん、私と一緒で恋愛性だもんね。しょうがないよ。離婚なんて最近じゃ、珍しくもないしね」


 僕が話していないことも、恵は理解していた。認識していた。それを今まで話さなかったのは、きっと恵だって怖かったんだろう。


「でも、千鶴には言わないでね」


 何を?と聞くまでもない。


「恵は知っていたんだね」


 実はこの子はしっかり見ていてそれでも、黙っていてくれたのだろう。あのラーメン店に行ったあの日もそうだった。この子はよく黙る。それを隠すようにはっきりと違う事柄を述べていた。


「随分前から、お母さんが男の人と会っているの知ってた」


 恵は涙を拭うと、それまでしてこなかった黙ることをやめて小さく呟いた。


「私達のことも知ってた」


 その一言で僕の不安の正体を恵は知っていることを悟ってしまった。


 だから、この子はこうして晴れ晴れとしているのだろう。きっとこの不安を話してくれる日を待ち望んで、ずっと我慢をして、何も知らない千鶴と向き合ってきた。それは辛く悲しく、誰にも言えなくて重い物だったはずだ。


「千鶴はね、何にも知らないよ。今話すと、訳わかんなくなって、ストレスたまるし、そんなことなら知らない方がいい、でもね……」


 がたっと席から立ち上がり、恵はまた小さく呟くがごとく小声で言葉をポロリと落とした。


「私はお父さんの子供だって信じているから」


 千鶴を呼びに恵はリビングから出ていく。


 いきなりの一言に僕は心底悔いた。これまで不安と感じていた心に、重く圧し掛かった心配を取り払うぐらいの言葉に、感謝し後悔した。どうしたって戻らない。

 僕はこの娘の言葉を大切に抱いた。



 ☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ



 あれから何日も経つと言うのに、未だに居酒屋に通い続けている。まだ逃げ続けている。臆病で、何をしても裏目になり、感情が逃げる。


 怖かった。恐ろしかった。壊れるのも、違った感情を持つのも。


 胸元の携帯がバイブレーションによって震える。無視をしようと思っていた。

 まだ躊躇いがあった。向き合うのも、恵にもいろいろと迷惑が掛かっていたから。あれ以上の向き合いを、踏み込みを決心できずにいた。


「お父さんの子供だって」信じている…そんなあの一言が胸を痛める。


 その一言はDNA鑑定なんかしなくていい、自分は父親だと認めている。

 そんな一言だ。そんな一言を果たして僕は無視していいのだろうか。


 震えた携帯がそれでいいのか? と問いかけて来る。


 僕は確かにあの子たちの父親だ。しかし、あの夜より前はずっと妻を疑ってきた。怖がってきた。事実より、目の前に居る子供に注意を向ければ済む話だ。


 なのに、そうしてこなかった。

 それでも、娘達はこんな父でも父と呼んでくれるだろうか。





 ……見るだけ。

 今は娘から来たメールを見るだけにしよう。


 一通目は今朝がた届いて来たメールだ。



『今日は私がご飯作るから、早く帰って来てね。 恵』



 そして二通目は今届いたメールだ。


『千鶴と待っているよ。早くしないと私が作ったご飯冷めちゃうよ?』




 妻も恵もきっといつも僕を待っていたのだろう。僕が帰るのをずっと。それまでずっとその場で、黙って我慢して、温かいご飯を作り、僕のために作った食卓を、その場でただじっと。


 温かいって温度が僕にはどういったものなのか、忘れかけていた。


 ラーメン店で料理の話をしていた。子供ビールを千鶴が開けて、アルコールなんてないのに、酔ったみたいに伏せて。帰り路は妻と二人、デートしているみたいに並んで歩いて「あの子達、私達に似て来たわね」と妻が笑いかける。



 僕は信じてこなかった。それらすべてを。そこに温かいものがあったのに。




 待っていたのに。




 僕の後悔などどうでもよかった。


 すぐに僕は近くのコンビニまで早足で寄り道し、ビールを数缶買った。そして疲れて歩くのがけだるくなったその足を引きずるように走り帰途についた。


 家に着くと、温かい光がほんのりと照らされていて、恵が帰りを待ち望んでいたのか、僕に駆け寄って来た。


 恵は大きくなった。あれから妻に似て、手足が長くなり、白い肌が目立つようになっている。そこにぱっちりとした瞳があるが、僕と同じく、ふっくらとした頬があった。

 僕と似ている部分なんてたくさんある。恵は臆病だ。僕と同じく黙っていた。隠していた。


 怖かったんだろ?


 同じ気持ちだった。千鶴だって、似ている。僕に似たあの子は、何をするにも遅く、考えてしまい、行動に移せない。迷った挙句、こうして向き合う。



 僕の子だ。そんなの、ずっと昔から変わらなかったはずなんだ。



「恵」


 僕は駆け寄った恵にレジ袋に入ったビールを見せる。

 恵はそれを待たず、目を細めて



「おかえり、お父さん」笑いかけた。



 いつもと変わらない笑顔に、温かさがある。冷たい物なんてそこにはない。


「恵、また、千鶴と父さんとお前でラーメン食べに行こう」


 そしたら、また、いや今度は不安も振り払って、あのラーメンの湯気に身を任せて、麺をすすれる。


「それで、また千鶴に子供ビール、父さんはビールをつぐんだ」


 恵に早口で言ってしまう。恵はけらけらと声に出して笑い、「もうそんな年齢じゃないよ」と、僕の持つビールを持った。



「ただいま」



 瞳が海に溺れそうになり、歯を食いしばった。


「うん、おかえり」小さくまた恵が返す。


 当たり前のことを言っただけなのに、喉がからからに乾いていた。

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