九百九十九羽と四千四百五十円

 昔から食卓の上におこずかいが置いてあった。

 朝起きて、学校に行く準備をする時に必ずそれを受け取る。


 茶色い封筒に入っているその中身は千円ぽっちのおこずかい。


 これで今日の昼と夜はなんとかしなさい。そういうおこずかいだ。このおこずかいで買うものと言えば、だいたい昼ごはんと夜ご飯、そしていくつかのおやつだった。幼い頃はそれで事足りた。内緒で遠くまで出向いてファストフードのお店に行き、そこでちょっと高いセットを頼んだりした。


 家族でちゃんとした食事とか縁遠い生活をおくって来た。いつからそうなったか、覚えてない。でも、そんな生活になる前のことはしっかりと記憶に刻み付けられている。最後の食事の記憶なのかもしれないその記憶での母はあんまり良い顔はしていない。


 作るのが面倒になったのか買って来たお惣菜ばかりのおかずはトレーのまま出されていた。ご飯すらも透明のトレーだった。そんなご飯に味はなく、楽しいはずの食べることは全く楽しさは感じられない。


 目の前の母はそれで満足しているのか、笑顔でどれが食べたい? といろんなお惣菜を出してくる。食欲が満たされない。食べる気すら起きなかった。


 姉はその食卓を早めに見限った。姉がその席に座った光景を随分と見ていない。もうあの席には私と母しか居なかった。


 お弁当、それはどんなものだろうか。他の人の物を見ていると温かくなって目が痛くなった。そんなもの作ってくれる人は自分しかいない。


 冷めきったご飯に、冷めきった記憶はどうしても切っても切れない。

 この茶封筒はきっとその一つ。


 今日もその茶封筒は食卓の上に並べられてあった。姉と私の茶封筒をきちんとそこに。きっとこの習慣は変わらない。父だけになっても、母だけになっても、私は一人で生きて、死んでいくしかない。


 ファストフードに、目片君。

 これだけでも温かくって。


 それだけで温かく感じられてしまう私は末期なんだ。


 公園で幾月も一人でご飯を食べた。冬は寒いからあんまり食べなかったけど、あの家で籠って食べるのはなんだか寂しくてせめて視覚だけでも温かくしたくて、いろんな喧噪物があるところを好んで食べるようにしていた。


 今日も茶封筒がある。

 この中には千円がある。

 いつも通りの千円がある。

 そこに私の命の価値がある。

 こんなもので食いつないでいくぐらいなら、死んだ方がいいとか、笑ってみたりして。


「私は随分前からこんな感じだよ」


 ファストフード店から出て、目片君を真っ直ぐに見つめる。

 目片君の低い鼻。中くらいの背。私より少しだけ高いくらい。男子の中では低いほうだ。平凡な容姿に、暗い影を垂らしたような短い髪の毛。


 なんでこんなことを言おうとしたのか分からない。自分自身の理解が追いついてない。でも、私は私のことを他の人に知ってほしかったのかもしれない。私は此処に居て、千円ぽっちの価値で生きていて、だからこそ、目片君の言葉で揺らいでしまったんだって。


「それなら、俺も、そうだよ」


 目片君は言い詰まっている。


「いいよ。私もちょうど嫌になってたんだ」


 こんな日常が嫌で仕方ない。


 目片君の言いたかった本当の言葉は『変えたい』でしょ?

 誰をと言われると、きっと一緒にだ。それなら、一緒にしたい。

 変えたい。私は変えて、そして決めたい。生きるか否か。そして意味を問いただしたい。生きる意味なんて本当にあるのか。


「私を変えてみてよ。それまで、死なないから」


 目片君のきつく結んだ口はほどけない。


「また、明日、あの家に居てくれるか?」


 目片君が尋ねてくる。

 それに答えられなかった。


 また苦笑いで返してしまう。私があの家が苦手な事なんて、彼は知らない。だからこその目片君の素直な問いかけ。でも、そこからどうするかは私の勝手だ。


「無理、してるよな」


 図星をついて来る。

 そんなことはないと長年の歳月で出来上がった私の体裁で、微笑んだ。そうすることで、重いとか、痛いとか、気づかれない。そんな重い物背負っていると気づかれると、引かれてしまう。


「笑顔」


 目片君が拍子抜けしていた。笑顔を見るのが拒否反応を示しているようにしか見えない。そんなに過剰反応しなくていいのに。いつもそんな笑顔を貼りつけているわけではない。


 この雰囲気がどことなく甘くて苦手だった。目片君は私のことどう思ってそこに居るのか、どうして私に甘いことを言ってしまうのだろうか。私はそれに甘えることなんて出来やしないんだよ。ずっとこうだったから。この笑顔を貼りつけて生きてきたんだ。泣くなんて、今日初めてしたんだから。


「私は千円ぽっちの命なんだからいいじゃん」


 違う。私はそうあっていたくないから、死を何もかも受け入れた。全て削って来た。


「明日も来るよ。学校、山岡が来なくても俺は此処に来る」


 それが変わったことの一つなのだとしたら、嬉しい事なのかもしれない。


 私は目片君の真っ直ぐな目に苦々しく唇を噛むしかなかった。私は彼にそこまで言われていいほどの人じゃない。


 携帯持ってる?

 メアド交換しよう。


 目片君は私の返事を待たずに携帯を見せてきた。



(3410)



 目片君と橋で別れて、自分の家に帰る。手に握られているのは小さな箱型の機械。この中には小さな世界ができあがっている。私と誰かを繋ぐ糸を紡ぐ。手繰り寄せるための自身の番号に、その住所を知らせる番地。

 どこに居ても、誰と居ても、違う誰かとつながっている。そんな充足感が詰まった宝箱だった。


 そんな満足感を得られるものがこの小さな箱に詰まっているなんて考えてしまうと、私はこれをいちいち確認するのが、億劫だった。そもそも、これから逝こうとしている人に番号を当てられて、誰かに居場所を知られるなんて考えただけでも嫌だった。


 止められるのなんて、考えた事もなかったことがこの一つで広がる。だから、余り確認せず、その中に入っているものは全て消していた。


 目片君のメールアドレスを確認するために一度、携帯の画面を開けると、姉からのメールが入って来ていた。目片君と一緒にファストフード店に行く時は文面を読み取らず、ただ姉の名前が入っている最後の部分だけを目で追っていて気づかなかったが、改めてそのメールを見てみると、そのメールには気になることが書かれていた。


『今日、ご飯うちで食べるからどこも行っちゃだめだよ。 恵(めぐみ)』


 その文面は、どこか鬼気迫るような内容で、家に帰ることは気が引けた。私の感情なんて姉は理解してはいないが、私がしようとしていたことを姉は理解出来る。


『どこも行っちゃだめだよ』


 その一言が気がかりだった。


 私がどこか行くことを知っている?

 いや、姉は他人のことなど気にかけたことなんてない。関わらないことを信条にしているかの如く全く何も言ってこなかったのに、今更何故私の行動に口出ししているのだろうか。


 足元がぐらぐらとぐらつき始めたので、ゆっくりとした歩みで家に帰った。どちらにせよ私に帰るところは、死に浸された場所か私の苦手とする家くらいだった。

 財布の中には、お金はない。どこかに行ける余裕なんてものはとっくに絶っていた。



(3410)



 家に着くと、温かい黄色の電飾が玄関にまで伝わっていた。その電飾はこの家では、あまり見かけないキッチンからのもので、久しぶりの感覚に頬は電気が灯ったように熱を帯び始めた。


 思い出すのは、まだあそこを使っていた母の姿だった。楽しそうに夕ご飯を作るその姿は、お腹をすかせた私の目には幸福の姿そのものに映し出されていた。温かい彼女の家庭に居る私は幸せなのだと心底感じられた。


 キッチンから香る揚げ物を母が持ってきて、そこから姉が帰って来て、姉がどうでもいい男性の交友関係を暴露して、「また、あんたも懲りないね」って母が言うこの一連の日常が思い起こされる。姉はその時小学校高学年で、私は小学校低学年だった。姉が中学に入った時には既にこの生活はなかったけれど、あの時の食事は紛れもなく温かいものだったのだと、外に一人で外食するようになって思うようになった。


 母はどこにいってしまったのだろうか。元気にしているだろうか。今もまだ不倫した男と一緒に居て、私達のことなんて露知らずあの幸せそうな顔を相手の男性に向けているのだろうか。


 私の葛藤や、悩みなんて、離縁した家族ごと捨て去り、新しい生活に心馳せ温かい生活の元ぬくぬくと生きている。

 それでも、どうしても、私は母のことを憎めない。憎みたくても、この幸せな記憶が邪魔をしている。


 少なくとも生活に関わりない父よりも母の方が私は当時好きだった。だから、今どうやったら父を好きになれるのか分からないのだ。母に会いたくないのに、記憶が言うことを聞かずに母を好きでいたくて仕方ない、と泣き叫ぶ。憎めない、と枯れはてた喉で諦める。


 リビングのドアを開けると、揚げ物の並べられた皿が食卓に並んでいた。どれも歪で、ところどころ焦げている。ふんわりと香る香ばしい油のにおいは先ほど食べたあのポテトの匂いとは違ってハンドメイドな家庭的味が漂っていた。


 キッチンから、姉が遅かったね、と笑いかけた。

 その光景がまるで母のようで、ぼやけて見えた。


「今日は、みんなで食べようと思って奮発したの」


 キッチンから食卓に揚げ物を並べ終えると、姉は満足そうな表情で私に三つのお椀を差し出してきた。


「鞄置いて、ご飯ついでもらえる?」


 姉らしくない。


「う、ん」


 つい動揺して、頷いてしまった。


 今日はどうしたのだろうか。

 鞄をリビングの隅に置き、青色のお椀を重ねて三つ受け取って、キッチンの方へ赴く。もわっとした熱気が漂うキッチンには油と、苦労したらしい揚げ物の失敗作が軒を連ねていた。


「大丈夫?」


 姉が私にかける声が心に重しをのせてくる。


「……うん」

 喉元にしこりが刺さる。違和感にどうしても行動が渋ってしまう。


 お椀を置き、炊飯器を開けると、初めて炊いたとは思えないほどきめ細やかなご飯の粒が並んでいた。傍らに置いてある、使っていなかったしゃもじを手に取り、ご飯をすくう。


「大丈夫」と呟いた。


 ご飯の熱気を顔面に被り、瞳が熱くなる。


 二つついで、一先ず食卓に運んだ。

 食卓には三人分の揚げ物の皿と、お味噌汁。味噌は白味噌、中身はわかめと豆腐と言う簡素な汁物。


 喉元のつっかえがどんどん増していく。ごくんと唾を吞み込んでもそれは取れない。流されずにお邪魔虫のように居座り意地悪をする。


 前は何を食べてたっけ?


 自然と目の前の食事と比べてしまう。


「ありがとう」


 私の持っているご飯を受け取り、姉は並べる。


 箸と共にお味噌汁の近く、つやがあるご飯がその位置にある。姉は並べていて手が離せないらしく私はもう一つの茶碗を取りにキッチンへ戻り取って帰ると、姉は食卓をもう既に並べ終わっていた。最後に並べられていない私の席のご飯を添えて、食卓はあの日に戻る。


「お父さん遅いね」


 姉がリビングに飾られている埃を被った時計を、仰ぎ見る。


「お姉ちゃん」


 力なく漏れた声に姉の反応ない。無視して姉は席に座った。 そこは、母の席だったはずなのに、姉は何の気の迷いなく座った。


 忘れろ、と言うことなのだろうか。姉は何を感じたのか、私には何の断りもなくすぐにこういうことをする。それは毎回のことで、いつもその度にかき乱されるのだ。調子が狂い、姉のペースに付き合わされる。


「ねぇ、お姉ちゃん」


 私は自身の席に座る。


「何?」

「今日はどうしちゃったの?」


 何かあったからしているとしか思えない。先日姉がどこかの男と別れてしまったから、私に八つ当たりをしようとしている、としか考えられるところとしてはない。


「どうもしないよ」


 鋭く言い放たれた冷たい言葉に、温かい食事の熱気が包まれている。

 こんなの、お母さんを捨てたって言葉を定義しているようで、あんまりだった。


「お姉ちゃんの席、そっちだよ?」


 指さすと、姉は顔を顰める。


「今度からは、私がご飯作るから」

「でも……」


「だから、千鶴は……どこにもいかなくていいよ」


 何か言葉を含ませて姉が言葉をこぼす。ぽろりと落ちて言った言葉で私は弓で仕留められたかのように感じた。痛みが口内を濁す。


「私が、作るよ。私が…」


 気負って、ご飯作って、私を大事にするより、私にどこか懐かしい気持ちを感じさせて、姉は、私より男を引っ掻ける方が上手だったのに。


「私が、ちゃんとするから。そしたらさ……」






「千鶴は死なないでしょ?」






 その時、姉の瞳からぽろっと涙が零れ落ちた。

 どこにもない私への涙を彼女だけは、流した。


 辛かったね、もう大丈夫だよ。

 その涙はそう私に問いかけると同時に、姉自身の悔しさがあったのかもしれない。

 姉も悔しかったのだ。食卓が嘘だらけになっていくのが。


 最初は温かいご飯だった。


 次は、お惣菜。


 その次は冷蔵庫の中のものを適当に食べた。


 そしたら、いつの日か封筒が食卓に並べられていた。


 あの日のファストフードはおいしかったな。


 どんなにひどい食事でもおいしいのは変わりなくて、むしろ、家の味より慣れてしまっていた。そんな大雑把な味が、私の肌にはあっていた。ない物をねだるより、慣れる方が楽だった。こんな温かいご飯よりも、なによりもあの時は私の買ったファーストフードの方が口に含ませると腹が膨れていった。心は満たされないのに、傷だけが増えていった。


 顔を覆って、喉を鳴らして、目の前の食事に、あの日を重ねた。


 戻って来た。

 あの日に帰って来た。



 ただいま。



 背後から父の声。

 初めて父からの帰って来たよ、と挨拶が鼓膜を揺らした。

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