九百九十九羽と三千四百十円

 てくてくてくてく、と歩くと、目片君がまたてくてくと二三歩後ろからついて来た。


 目片君は不安なのだろう。私がいつ死ぬのか、まだ死にたいと思っているのか伺っている。顔色を見て、これからどうなるのか、と幽霊をみているかのようだった。

 そこで、恐る恐る目片君は私に問いかけて来た。


「どこへ行くんだ」

「どこか」


 まだ目片君をあまりよくを思っていないので、平凡そのものな答えを素っ気なした。


「そ……っか」目片君の声はしょげていた。


 目片君は私にしたことを覚えていないのだろうか。私の存在意義を踏みにじった彼に、私が温かく接するとでも思っていたのだろうか。なのに、何でそんなに悲しそうにするのだろうか。目片君がそんな悲しい声をするんじゃ、私がいたたまれなくなる。


 橋から歩きだして、私はあてどなく歩き回っていた。住宅街へと行き、私の家に近づく。でも、家に戻ればどうしようもないやるせなさが生まれて、足が遠ざかった。そこから公園に行き、吉を探してみた。キョロキョロとしたら後ろの目片君に気付かれて、また何か言われるだろうから、目でちらりとブランコを見るだけにした。声に出さず心の中で呼び掛けてみた。しかし、どこにも彼女の姿はなかった。

 

 彼女を捨てて、やっとあの橋の淵に立てたのに、何をいまさら彼女を見つけ出そうとしているのだろうか。私自身呆れるけれど、心の覗き穴から顔を出す彼女の笑顔を渇望せずにはいられなかった。


 移動すると夏夜の闇が私を一層覆った。


 どこにも居場所がない。どこにも行き場所がない。生きていけない。

 そんな虚しさが襲い、首元を締め付ける。やっぱりあの時死んでおけばよかった。何で死ねなかったのだろうか。

 思い返して、目の奥から湧き上がる熱い雫をぐっと堪えた。


 後ろから私を見ている彼は、そんな私なんか露知らず、淡々とついて来た。私の行動を制止するわけでもない。ただそこに居て、そうすることで目片君は安心しているように感じられた。目片君の行動は当たり前なのは分かっている。私がどこで何をするのか分からない彼にとっては、その場が一番不安を抑えられる。知っていて、やっぱり恨めしくなる。


 電車、橋、公園、線路が見える金網、その場を何回か移動し、ついに行き場を失って、私はそれでもついて来る彼が鬱陶しくて振り返った。


「どこまでついて来るの?」


 私の息が荒い。頬が湿っぽい。涙を流した後に夜風に煽られ、冷たい氷を頬にため込んでいるようだった。


「一緒に見つけるまで」


 とぼけているのか、彼は繰り返す。


 鶴の約束は彼にした覚えはない。それは吉との約束だ。死者と約束したからこそ意味があるのに、それでも彼は生者と約束をさせようと告げ続ける。それが一層私の中での目片幸喜めかたこうきと言う少年の存在を苛立たせていた。吉と私の間に入る少年Kが邪魔者にしか見えない。


「私は……」見つけない! と言おうとしたけど言葉が詰まった。


 喉にはらんだ熱がぶり返して来る。今、それを言うと全てがなくなってしまう気がして、言えなかった。全てを捨てたのに、今になって捨てたことに対して夜の冷たさに苛まれる怖さを醸し出しているのに気づき、怯えてしまっている。


「今は死ねない」


 口をついて出た言葉が、今までと反対の事柄を指してしまっていた。この言葉が一種の呪いのようで、私に働きかけていた。


「でも、それは“今”なだけだろ?」


 目片君の声は瞳ぐらい黒く濁っていた。暗く沈んだ色は私と同じ色を抱き込んでいる。目片君にとって、私が死ぬことがそれほどまでに、絶望する事柄なのだろう。その心根は私には理解できなかった。私は目片君に思われるほど価値はないとうっすらと飲み込んでいたから、彼の心の在り方は理解したくなかった。


 私は返答をしない。目片君も凍り付いたように動かなかった。その場で佇んで、時間が止まったのかの如く、私達は見つめあっていた。


 未だに彼のことが許せない。


 冷たくけだるい風が私の髪を撫でていく。黒い髪はするすると紐解くように、流れていく。風はその場に留まる。

 

 此処まで来てしまったら、戻れない。それなのに、戻ることすらできない。立ち往生して、どこへ向かうべきかも分からない。


 溜息をつき、重たい瞼を閉じた。


 目片君がいることで何も出来ない。


 溜息が不安と共に口からはじけ飛んだ。どうにもならず、ちょっと笑ってしまった。どうにもならないなら、それなら、帰るしかない。私のどうしようもない日常へと。


 くるっと来た道を振り返った。目片君から視線を外す。私は迷わず家へと歩みを進めた。



(0)



 住宅街の中にある家に着くと、後ろを振り返った。まだついてきている。しつこくて、少し笑えた。まるで忠犬みたいに律儀についてきている。何も文句を言わず、目片君は私に全てゆだねている。それでいいのか、問いかけてみたいところだけど、今はそんなことに捕らわれていることにさえ、苛立ちが募ってくる。


「帰らないの?」


 目片君に意地悪く尋ねると、目片君はまた眉根を寄せて気まずそうな顔を見せた。私が自宅で死ぬんじゃないか、とか思ってそうだ。


「大丈夫。私、家では死にたくないから」


 いつものように微笑みかける。私の嘘っぽい表情にさらに目片君は、不機嫌になって口を歪めた。信じてもらえないから、笑顔をやめてみた。すると目片君は、反対にくすっと笑う。安心したのか、くしゃっと不安げな表情が壊れた。


「俺は山岡の作り笑顔くらいは分かるよ」

「なにそれ、えすぱー?」

「なんとなくだ」


 目片君はうんうんと頷き、ようやく私の後ろから離れてくれた。これで去ってくれさえすれば、私は明日にでもこの世にバイバイと手を振れる。そのまま彼は私に背を向ける。しかし、そこで背を向けるのを途中で止め、私の方を再び向く。


「明日、また学校で」


 もう行くことはないし、行く気が起こらない場所にこだわっているのだろう。

 馬鹿らしい。

 私は目片君に笑いかけて手を振った。

 永遠に会いたくないのに。


「またね」


 最大限の皮肉を込めた。



(0)



 時間を確かめると、昼になっていた。

 部屋にある鶴を何回数えてもやはり九百九十九羽しかなく、どこを探してもたった一羽を見つけられなかった。どこにもないし、おそらく目片君が持っていた鶴が千羽目なのだと確かめられる結果になってしまった。


 あの鶴は目片君が作った鶴で、あれがただの嘘だとしたら、どれほど良かっただろうか。

 私はいつも数えずにここに鶴を放り投げていた。学校で作った鶴の数はその場で数えていたから、間違えるはずはないと思い込んでいた。自分の注意力がもっとありさえすれば、あの時逝けたのに。


 ふう、と一息つく。


 それでも死を渇望する心は変わらなかった。あの日はただ死ねなかっただけだ。


「千羽折れたらいいだけ」

 千羽折れたら、死ねる。


 吉との約束を再確認するが、鶴自体に意味なんて実際の所ない。折れたらいい。それだけの約束だったはずだ。


「一緒に見つけよう……か」

 生きる意味を見つけよう。


 目片君が提案した約束も再確認した。目片君は鶴を返すつもりはない。それどころか、死ぬことさえ最後の一羽を所有していることで出来なくさせている。


 どっちが酷いとかそういう比較をすれば、絶対後者だと述べる。簡単に生きることを約束するのは、私のことを知りさえしないのに軽口で言うなんて詐欺に近い。


 約束なんてしてない。


 私は決心して、外に出た。今日こそ邪魔されないために、学校がある時間を推し量って外出する。今は学校がある時間だ。目片君が来るはずない時間だ。これで今日こそはいけるはずだ。


 しかし直後、私の目論見は瓦解する。


「待ってた」


 家から出て、すぐに目に入ってきた。目片君の姿。平平凡凡な背に、顔に、いつもは制服姿で子供じみていたけれど、今日は私服姿でいつもより大人びた雰囲気を纏っていた。まるで今日学校に行かないことが分かっていたみたいに、彼は私の家の前で待機していた。


「すとーかー?」


 私の不器用な口が動く。



(710)



 今日は目片君が先行して、私を連れ出した。連れた先は、最近開店したファストフード店だった。最近駅前はどんどん店が開店してきている。その中の一つがこのファストフード店。誰かに連れられて来たのは二回目だ。


 目片君は手際よく七百十円のエビフィレオのセットを二つ頼む。


 女の子を連れてくるのなら、もっと良い店に連れてくるものだけれど、目片君は鈍感なのか、それともこういうことに疎いのか、私をここに連れて来たのかもしれない。だから、どう反応すればいいのか困った。

 しかし、私も私で、良い店なんて母と父と姉で行ったラーメン店しか知らないし、こんなことであれこれ言うのはどうかしている気がした。


 頼んだものは目片君が運び、私は身動き一つせず席に座っていた。


 赤と黄の店内があの日を思い起こさせる。

 姉とここを訪れた。あの日は、ぜんぜん味をじっくり楽しむなんて気分じゃなかった。口内に広がったあの刺激の多い食事の味は血の味がした。どんなに待っても帰って来ない母に絶望し、しかしそれでも嫌いになれない私の傷だらけの心に重くポテトの塩味は圧し掛かった。


 食べる気分じゃない。ここで何かを食べられる気がしない。食べてもきっと、それはただの栄養の接種で、心は満たされない。


 運び終わった目片君が私の目の前の席につく。おまたせ、といった様子で、おずおずと私の表情を伺い見る。そんなことをしても私は食べない。


「今日はどうして?」


 言葉足らずに私は尋ねる。目片君は、真剣な表情で、ポテトを一本取った。そして口に運ぶ。私の問いも聞かずに食べた。


「ね、どうして?」


 何で、私につきまとうのだろうか。いや、そんな疑問は無粋だ。彼は彼のために私につきまとっているだけだ。彼が嫌だから、私をずっとあの家の前で待っていたはずだ。彼は私が死ぬのが怖いだけ。嫌なだけ。言ってたはずだ。

 地獄の底から私を引きずりあげた時、言っていたじゃん。


「……寝てないだろ?」


 目片君はポテトを何本か食べた後、率直に聞いて来た。

 図星だったせいで黙ってしまう。確かに、昨日は鶴を何回も数えていて寝ていない。


「今日は、なんだか奢りたくなったんだ」


 次に説明がなされるけれど、ぜんぜん納得できなかった。

 奢ってどうなるわけでもない。


「俺さ山岡のこと……」と彼は何かを言おうとするが、止めてしまった。


 何か大事な告白をしようとして、止めてしまった印象がした。


「いい加減にしてよ」


 私の声は濁っていた。


 あの日の姉が目の前に浮かぶ。あの日の姉は明るかった。私を不安させないように、私を励ますように、何かをひた隠しにするように、毅然に痛々しく振る舞っていた。何かを隠されて、気づかないのはうんざりだった。あの時気づいておけば、もっと早く、私は大人になっていれば、気づけたのに。繰り返される後悔の元、此処にどんな気持ちで居たのか、目片君は知らない。何も知らないのに。


「私につきまとうのやめて」


 その答えがノーであるのを分かっていて、言い放った。

 目片君のポテトを取る手が止まる。


「何も知らないじゃない。何で? 何で、そんな分かったように此処を選ぶの?」


 苦い記憶が蘇って来る。

 あの日此処に来たのが夕方だったんだって。

 嫌な細部までもが映し出される。私にとって、外食も栄養まるでない不摂生な食事も当たり前だったのに、あの日だけは、あの日の味だけは記憶とともに何回も反芻される。こんな味だったっけ、あんな味だったよねって。全く恨み言を忘れられない。繰り返すと痛いのに、繰り返さずにはいられない。



 私は母のようにも、父のようにも、姉のようにもなりたくないから。



 たった一言心に置くだけで苦い思い出は風化せずにあり続ける。


「俺は何も知らないよ」


 重い言葉だけど、どこか音楽を奏でるかのような発音で、目片君は喋った。他人事だというふうにあっけらかんとしていた。


「俺は知らないけど、山岡が今泣いているのだけは知っているよ」


 ぽんっと投げられた、音楽は驚くほど柔らかくて、瞬きをする。その度にぽとぽとと流れている何かが、頬から顎にかけてしたたり落ちていた。その何かを撫でて見ると、ねっとりした透明の雫が指を触れた。


「あ……れ…?」


 泣いていない。


「嘘?」


 泣いてないはずだった。


 あの日も泣かなかったのに、何で今更。こんな涙いらない。必要ないのに。


「俺はさ、中学の頃バスケしてたんだ。大きな体格な奴が多い中、俺だけ小さくてさ、筋力もなくて、それでも頑張ってやってた。自慢だけど、部活の中で俺だけ唯一の皆勤だった。でも、結果とそんな努力は繋がらないもんでさ。ずっとベンチだった。ずっとコートの端から見てた。悔しくてたまらなかったよ。バスケがこんなに好きなのにって。そんな時、木村吉野きむらよしのが死んだんだ」


 ダムが決壊したのかのように、涙が零れ落ちていく。止められなかった。


「あの時は何かが壊れたみたいだった」

「何で、今、目片君の話をするの?」


 意味が分からない。行動が分からない。どうしたいのか分からない。


「俺だって、山岡のことが知りたいから。だったら、俺のこと教えてるだろ」

「教えないよ」


 ばーか

 口が動く。


 なんだか目片君の反応が遅い。何もかも、少しだけ遅れている。


「そんこと話したって薄幸自慢にしかならないじゃない」


 姉は隠したのに、悪口しか言わなかったのに、この人は、口をついて出てくる言葉は全く棘がない。上っ面にしては出来過ぎていて、重みがあって、そう思わない。深く安心する。


「俺はそれでもいいよ。そのために奢るんだから」


 そんな言葉一つ一つが初めてで、いいのかなって思い始めてきた。


「いけないよ」


 私は震える声で、言葉を噛みしめた。


「そんな優しいこと言っちゃうなんて、辛い事とか、嫌な事とか、もっと出てくるじゃん。ずるいよ。私のためにこんなこと言うなんて。そんなの、傲慢だ」


「それでいいよ」

「傲慢でも? 死んでも? 私を殺しても?」

「殺しちゃだめだけど、俺は、傲慢でも、なんだっていい。ただ」


「ただ?」と首を傾げた。


「ただ、その…」


 肝心なところで目片君は詰まった。


「普通に『泣いてほしい』とか」

 目片君の声が萎れる。

「思……ったり」

 ちらりと瞳を私の方へと動かした。


 その様子に、涙が途切れる。


 大きいものが圧し掛かり過ぎて、持てない。捨てられない。


「いいよ」


 私は心の底から呻いた。


 もういい。

 大きすぎる。私にはいらないし、重い。持てない。


「もう十分だよ」

 

 痛すぎて、辛すぎて、うめき声を上げた。



 がたっ



 その時、私の言葉を遮るように目片君はその場を立ちあがった。


「少ないよな」


 そう言い残して、カウンターにまた注文をしに行った。これでもまだ重いのに、目片君はまだ注文をする。何を注文しに行ったか、想像する。きっとデザートだ。私の言葉にまだ足りないのか、まだ追加する。

 その後ろ姿に、あの約束をまた口ずさんだ。


「一緒に見つけよう……か」


 目片君は、私に泣いてもらおうと、目片君自身について話した。それなのに私は最初に泣いてしまった。間が悪いというか、何というか。それでも内心澄み切っていて、後悔が薄れている。


 私はあの時泣きたかったんだろうか。

 泣いたら、あの後悔も少しはなくなっていたのかもしれない。それももう後悔に変わってしまっている。どうしようもなかったのだ。私はあの時、どうにも出来なかった。


 あのファストフードも、痛みも、子供なら通過するものだったのだ。無気力で、何ものでもなくて、私も目片君のようにコートの端からただ茫然とそこにある事柄を眺めているしかなかった。子供だから、痛みに供えられる小さな生物だから。こんな物であり続けるなんて、まっぴらごめんだった。こんな痛みを忘れる存在になるのも、悲しくてしかたなかった。


 それでも、今はそうだったのだと思うのだ。今は、もうあれは“後悔”だったと感じられるのだ。痛みに供えたあの頃とはもう違う痛みを感じてしまっている。過去の遺産となった後悔の海も静まり返っている。

 目の前で思いものを見せつけられたせいで。


 誰にともなく呟いた。


「まだ死にたいよ」

 でもね……


 そこで目片君は帰って来た。その手にはこんもりと盛られたポテトをのせたボード。ボードの底が見えなくなるぐらいに、山盛りに積まれていた。目の前にゆっくりと置かれて、凝視せざる得なかった。私は息を飲み、机に置かれる、その山盛りのポテトに恐る恐る手を伸ばした。一口食べると、甘辛い感情が滲み出てきて、再び、瞳が潤んだ。



 約束しよう。



「こんなにもらったら、死ぬに死ねないじゃない」


 生きる意味を見つけようって。

 この重みに誓って。

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