第三章 残り一羽
九百九十九羽目
誰かの手が私の体を引きずり上げてしまった。救いの手なんてものじゃない。きっとこの手は地獄に引き戻す手。あれほど何かを捨てたのにまだこの生は邪魔をする。まだ誰かに見られている。やっとのことで握った蜘蛛の糸を途端に切られたみたいだ。
ひきづり上げられた先の歩道にへたり込んで、たった一人の少年の顔をぼんやりと見つめる。平べったい鼻に中くらいの体。スポーツ体形じゃないのか背に対して体躯は少しだけぽっちゃりしている。一度見たらすぐに忘れてしましそうなほど平凡な見た目だ。それも愛嬌があるうちの一つなのかもしれない。
赤い日が私達の上にいて、照らしている。橙色の最後の灯をともして、体を温めた。
はあと温くなったため息をついた。
安心してついている溜息じゃない。
吐いた途端涙が零れ落ちた。
この涙も救ってもらったのが嬉しくて泣いているわけじゃない。
「逝けなかった」
悔しくてたまらなかった。
さらさらと涙が流れる。ふつふつと次第に怒りがこみ上げてきて、喉元が熱くなって、息を吸う。風が頬を撫でるたび、鬱陶しくて、俯いた。そんな涙も黄色のような日が照って、輝いている。血みたいな赤がこびりついている。
ああ。何で。
「あぁあぁぁぁああああぁぁ」
私は何で。
「あああぁあああぁぁあ」
痛みが、声に乗って伝わる。
「あぁぁ、なんで、えぇ」
しゃくりを上げて苦しい息を吸い込んだ。
「山岡だよな」
どうでもいい少年の声。クラスメイトの一人だったやつだ。私のことを確認している。私は確かに彼の言う人だろう。しかし、今はどうでもよかった。早くこの状況を切り抜けたかった。
少年の声の背景に風に乗せられて、車の通り過ぎる音がした。
まだだ。まだ……
「まだ、間に合う」
涙を手の甲で拭い、唾を飲み込んで、次々に来て走り去る車に焦点を当てた。勢いよく立ち上がる。体を翻し、車道に向き合う。まだ影が私の体に宿っているように存在がぶれていた。体が重く、二三歩ふらつく。そして、車道めがけて、地面を蹴った。
――しかし、そこで少年の手が私の手首を力強く握った。
ぐいっと押し戻され再び態勢を崩し、ぺたんと座ってしまった。もう二度と離れないぐらい、その手は掴んで離してくれない。
「何で」
そこにいる吉を追いかけていくだけなのに、何でここまで邪魔をされなければならないのだろうか。
「どうして」
少年が私と同じ目線にしゃがむ。その目に宿る生気が燃えている。私とは真逆の意志で此処に立ちはだかっている。そんなの意地悪だ。
「吉が居たのに」
私の吐き出されるけだるげな息は、生気をはらんでいない。
「木村吉野は電車に飛び込み、死んだ」
少年の言葉が突き刺さる。
「死んだんだよ」
念押してこなくても分かる。彼女は死んでいる。私が言っているのは、私の中のあの子なんだから。あの黒い吉の影なんだから、どう思おうが、私の勝手だ。
「やめてよ」
私の冷たい声が、震えている。怖いし。怒っている。感情が鮮やかに蘇ってきている。吐き捨てるほどくだらなく、いらないもの。何でこんな時に迫りくるんだろう。思いが弾けるんだろうか。
「何にも分かってないくせして、何で、何で」
神様は意地悪だ。タイミングは悪く、悪魔に気に入られて、異世界に転生するわけでもなく、こうして惨めに生きて、死なせてくれない。これだから神様を愛せない。世界を愛せない。自分を好きになれない。どうして死なせてくれないの。どうして、どうして。
「私は…」
涙が止まらない。さらさらした涙は大粒の涙となってぼたぼたと頬を伝い、地面に落ちて跳ねる。頬が熱い、目が熱い、声が熱い、喉が熱い、生きてるこの感触が心底私に対して冷たい。
落ちていく日が海の底のように冷たい黒を連れてくる。黒い空は顔を覗かせて、私の様子を伺っている。
空に言ってやろう。叫んでやろう。この世界に価値なんてないんだと。私はいらないんだと。宣誓してやりたかったんだと。この世界に復讐してやりたかったんだと。
「何度も、何度も、何度も、考えた。何度も何度も何度も何度も何度も何度何度も何度も何度も何度もも何度も、なんども……考えて、でも、見つけられなかった」
ああと唸るがごとく叫んだ。
「もう無理なんだよ。生きられないんだよぉ」
掠れた声に、喉が潰れそうな押し殺した音。
これが私の全てだった。
「生きる意味なんてない」首を振った。
最初から神様もいない。
「死ぬことさえ出来ない」首を振った。
自分じゃない。
「どこにも私はない」首を振った。
友達も、感情も、人間らしさも、いらない。私には感じられないぐらい冷たい水底の冷気だけ感じられればいい。
「そんな私を救わないでよ」
この生から私を助けて。
「俺は……」
私の言葉に怖気づいたのか、少年の目はしどろもどろに動いた。そして、何を思ったのか、次にはしっかりと光を灯し、私を見つめる。それから、少年の握られた手が離された。大きな手が途端に離されて、反射的に少年の手の行方を追ってしまっていた。手はズボンのポケットの中に入れられ、何かを握り、出す。
私の目の前に翳されたその黄色い鶴はほんのりと光って見えた。
「鶴はまだ九百九十九羽だ」
少年の断固とした声が響く。
その声は否定していた。私の全てをかけたものを。この鶴を。
嘘だ。
「これはお前の鞄から抜いて来た」
嘘だ。嘘だ。
「返せ」
ぐっと唇を噛んだ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
「返せよ」
それは私の物だった。私の唯一執念した生きる事実。生きる意味。そんな物をこんな奴に握られているなんて、目を抉られるぐらい辛かった。
「返せよぉぉ」
喉を振り絞る。もう喉は潰れていて、声がひしゃげていた。
「返さない。絶対に」
少年の瞳が本気だと告げていた。
「まだ足りないの?」
弱気が私の心に訪れた。声も細々としている。
「全部捨ててきたのに。友達も、家族も、過去も、未来も、このために、何日もかけて悩んで考えた挙句、全部捧げたのに、まだ無理なの?」
「山岡」
少年の呼びかけは鬱陶しい。
「うるさいいぃぃ。うるさい、黙れええ。もうやめてよ。返してよ。限界なんだよ。私の絶望も、私のことも何も知らない奴が、何で今更ここででしゃばってくんだよ」
両耳を塞いだ。どこにもない場所に行けないのなら、もう、こうするしかない。ぽっかりと空いた空の赤い光が陰って来て、暗闇に包まれる。暗闇にあたり一面覆われた。ここが絶望の終着点だった。この数か月はなんだったんだろうか。私の生はなんだったんだろうか。逃げ場も、戦う場も奪われた。たった一人に、私は自分を殺された。
「山岡!」
その時少年は私の耳を塞ぐ手を取った。鶴は地面にほっぽり出して、塞いでいた手の手首を握る。耳から手がはがされてしまった。
「確かに俺にはお前が分からないよ」
少年の顔は近い。少年の口は歪んでいて、平たい鼻が目と鼻の先にあった。
「俺は山岡千鶴っていうクラスメイトが分からない」
その言葉が告げられているのに、遮られた悲しさで涙は止まらなかった。
「いつも教室の中では笑顔のくせして、ぜんぜん笑っているように見えない。帰りの下駄箱には一人でいつもいるし、どこ眺めてるのか分かんないし、中学の時の木村の葬式なんか、涙一つ見せないし、それなのにこうして昔のことに捕らわれてる。俺が知ってる女子の中で一番表情が読めない。登下校でいつも後ろに俺が居るのに、気づいていないのか、振り向きもせず前を突き進むし、何悩んでいるのかも分からない。今日なんかすっきりした顔で登校してたのに、結局は死のうとしてる。生きる意味とか俺、分かんねぇし。でも、こうして、此処で泣いてる。悲しんでる」
「確かに苦しんでる」
少年の言葉に意味なんてなかった。涙ながらにちょっとだけ笑ってしまった。嘲笑ってしまった。
「私のこと、否定するの? 『死ぬんじゃない』とか安っぽい言葉で取り繕って、未来に希望を抱かせて、『この先の将来良いことあるから、絶対今、死ぬんじゃない』とか、言うの?」
「違う」少年の重苦しい声。
「生きても死んでも、いずれ人は死ぬのに、私に死ぬ時を選ばせてくれないの? 人の存在なんていずれか風化するのに、それでもまだ長生きしろって言うの? ヒーローみたいに救ってハッピーエンドに終われるように、綺麗事吐いて、本当の絶望も知らず、無責任に救って、それが、良いことだからって納得させるの? そんなの、私は許さない」
良いこと、悪いことなんて世界(ここ)にはないのに。
「穴だ」
一言ぽんっと少年は言葉を紡いだ。
「木村が死んだ時、確かに穴が開いた」
ゆっくりと少年が手を放す。私の手もつられて落ちる。肩が下がる。
「決して埋まらない穴だ。変わらなくて、辛くて、痛くて、今この時も、そこから湧いて来る感覚に気がめいりそうになる。風化なんてしやしない。この穴を増やしたくない。これまで通り、傍観者でいることなんてしたくない。この穴はそうさせてくれない。無責任に放り投げられなかったから、ここに居るんだ。あの時確かに救えなかった俺が此処に居て、今回山岡を助けるのは、ひどく傲慢で、ぜんぜん良くないかもしれない。でもさ、それだけで十分だろ」
コツコツと頭の中の誰かが去っていく。何かが晴れていく。バラバラになって消えない痛みと共にこびりついていく。なくならないのに、透明になっていく。透き通って、夜の闇に紛れて、一体化して、目の前の彼と重なる。
「俺にはお前を死なせない理由が、これ以上にないんだ」
彼が私に向ける言葉は、たったそれだけなのかもしれない。
「生きられないよ?」
再び私の小さな呻きが、宙に浮く。
「生きるのを助けるんじゃない、俺は山岡を今死なせない」
「もう無理だよ?」
頭を傾げて、彼に問うた。
「無理じゃない」
「返して?」
「返さない」
地面に置いてある鶴を私は動いて取れなかった。そこに置いてあるのに、腕が重くて動かない。
「ねぇ」
うるうるした雫が彼の目に浮かんでいた。一方で、私の大粒の涙が最後の大雫となって、つーっと流れて、顎から滴り落ちた。透明な雫は音もなく、弾けて消える。乾燥した私の目は潤すために瞬きを一回する。ゆっくりと彼を見つめて、柔らかく微笑んだ。
「私を殺して?」
真っ直ぐに彼は告白する。
「俺は君を殺せない」
全ての刃が欠けた落ちた気がした。
どこにも私の意志はもう叫んでいなかった。動けない。吉も居ない。彼が居ては、私は、死ねない。消えるはずだった私の記憶は、きっと彼に刻まれる。そして風化されるはずだったのに、それももうできなくて、ここに留まっている。虚無感も、どこかすっきりしていて、ねっとりと違う感情が張り付いていた。
「
彼の名前を答えた。
すると彼はどこか嬉しそうに笑みを見せ、頷いて答えてくれた。
「目片君、私、死ねなくなっちゃったみたい」
もう死ねない。今は無理だ。意志も、鶴の誓いも、切れてしまった。心の底ではまだ自殺を促しているのに、それなのにもう動けない。
世界の音が聞こえた。いつも聞こえない音が通過する。夜の暗さの中に、隣で車が通って、タイヤが道路を擦る音。自分の鼓動音。息遣い。熱い日差しがなくなって、暗い夜風が過ぎ去る。橋の下を通る川の小さなさざ波がたつ。黒い世界は橋に点々としてある街灯で彩られていた。
私は此処に居てしまった。数の中に含まれてしまった。虚無感を受け入れてしまった。
何気ない登下校中に後ろに目片君がいたことを知っていた。クラスの中に居た目方君を見ていた。同じ中学校で、同じ体験を共にしていた。あの葬式の時、少し目が合った。私はすぐに表情を取り繕ったけれど、やっぱりおかしかったのだろう。私はあの時、ただ悲しいとか、そんなことを感じていたんじゃない。虚無と羨望に近い感情が渦を巻いていた。悔しかった。もう居なくなってしまった吉に話しかけられなくて。ただただ悲しかった。私も逝きたかったから。
私の感情が表情にはうつし出されていない。私は、ずっと隠してきたんだから。
「どうしてくれるの?」
諦めて、泣きそうな目片君に問いかけた。死ねない。何をしてもどんなに捧げても、そこで私は諦めてしまった。ヒーローのまがい物に言いくるめられてしまった。
「どこにも私の居場所ないよ? 生きる意味も、見つけられてない」
ヒーローさんはちょっと微笑み、傍らにある鶴を握りしめ、提示した。それに込められた意味も知らないで、はっきりと言ってのけた。
「一緒に見つけよう。この鶴が千羽になるまでに」
――残り一羽。
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