助ける
教室は饐えた匂いがした。酸っぱい匂いと腐った魚の身の匂い。
この匂いを嗅いで良い気はしない。まるであの日を思い出すようで、悲しくなる。あの日の棺の中に遺体はなかったし、めまぐるしく過ぎていった匂いを覚えている人なんて誰一人としていない。
それに、あの日の匂いは人によってそれぞれ違うに決まっている。ただ俺にとってのあの日の匂いは、この饐えた匂いだった。腐り果てるのをそこで待って見てるだけしかできない、えぐい、黒い穴から滲みだしてくるあの気味の悪い匂い。感じるのは嫌悪しかない。
ポケットの中にはあの黄色い鶴。ここにある、と噛みしめる。これで彼女は死なずに済む。大丈夫。大丈夫。俺は連呼する。
今日は彼女を救う日だ。
悔し涙を流し、あの諦念に縋り続けた。
それなのに、今日はこの鶴一つで誰かを助けることをし、幼い頃夢見ていたヒーローになるんだ。ヒーロー、と言う単語にくすぐったくなる。そんなに子供じゃないのに、一体何を言っているのだろうか。
俺は覚悟を決めた。誰にともなく彼女ともなく自身の他人に重心を置く生活すべてに、言わば俺自身を捨てでも、俺は彼女に向き合う。この鶴を見せれば、きっと諦めてくれるだろう。
そうだろうか。確かにこの鶴は彼女の生きるタイムリミットそのものだ。でも、彼女が鶴にあまりこだわらず、その先にまた自死を考えてしまうのではないか。
そもそも、こんなもの彼女の些細なきっかけに過ぎなくなるのかもしれない。
先だ。先にある彼女の未来を考え、俺の行動の結果を考えるとどうしても靄がかかってしまう。覚悟はあるのに、未来の責任が怖い。考えられない。果たして俺は彼女を支えるだけの意味をあげられるだろうか。救うだなんて、そんなに傲慢でいいのだろうか。
俺の思いを告げると彼女が生きるかと言えば、そう簡単にはいかない気がする。告げたところで彼女の重みが増して、そのまま去ってしまうような気がする。黄色い鶴を見せたところで、笑顔で「盗ったの?」と聞き返されて終わりってこともありえる。
今日も彼女は教室の中で笑っている。
珍しく友達と教室に入って来ていた。あいつは最近のいじめの標的になっている奴だった。
このクラスのいじめは陰湿でなく、どこか可愛らしい。誰が行っているかはだいたい見当がつく。女子の一部と男子の一部。
やることと言ったら、机の上に菊を添えたり、水をぶっかけられたり、無視されたり、一番ひどくて掃除を一人に任せるなんてだけだ。裏で何をやっているか分からないが、俺の耳に入って来ないので、そこまで大きなことはしていないのだろう。
そこで今日のいじめは昨日のように菊でもなく、球根が置いてある。茶色い土を携えて、机の上に据えられていた。
お前はこう言うものだ。地味で土から這い出て来た汚い奴だ、とでも告げようとしていたのか、心底くだらない。ご苦労にも、よくここまでその球根を持ってきたものだ。これで今茫然として、いじめられている奴が何にも反応しなかったら、この球根を見てクラス中の誰かは大笑いしたらどうしたのだろうか。
誰も彼女を救わない。俺だって火の粉はあまり被りたくない。しかし、他の誰かを救おうとしている奴がそんなことを言ってていいのか。
どうすればいいのか分からず、隣の池谷に視線を移す。
「面倒くさいなあ」
まるで俺の言いたいことが理解しているように池谷はぼやいた。
こいつはいつも朝が早い。俺が来る前にここにきて、勉強の予習をしているらしかった。こう見えて意外と頭が良い。先日の俺の暴力も笑って許してもらった。何を考えているか分からない。いつもへらへらしている癖に、たまに俺の心を代弁したかのようなことを言ってのける。
「お前は面倒くさい」再び池谷はぼやく。
この面倒くさいはいじめに対してではなかったらしい。
池谷は違う場所をちらりと見て、ケラケラとからかってきた。
「突然何なんだ」
俺は、こいつに一種の気味悪さを覚えた。
「今日、山岡のことを一日見てろよ。俺は知らないからな」
告白しろ、とか言い出すのかと思ったがそうでもないらしい。
「俺は見た途端気が付いた。」
何か含ませて、池谷ははぁと溜息を吐いた。池谷も山岡を見ている。
山岡は澄ました表情で、一緒に来ていた奴のことを気にしていない。隣のいじめられた奴に何も話しかけない。山岡の顔はやはり霞んでいて、いつも通りの笑顔が張り付いている。
「分からないお前が悪い。そうなっても俺は責任を持たてない」
少しだけ笑いを含ませて池谷は告げた。
「そういうことは、笑わずに言うものじゃないのか」
俺は池谷を睨む。
こいつの言葉の糸が全く意味が分からない。池谷のこういうはっきりしないところは心底嫌いだった。
「俺はこんな性格なんだよ。軽い事も重い事も軽く言いたいんだ」
「あいつらみたいだな」
皮肉っぽく、いじめをしている奴らを思い浮かべて笑ってやると、それでも池谷はへへっと笑っていた。
「俺はあいつらとは違うけどね」
池谷でも彼らを嫌っていた。俺が考えるに、池谷が彼らのように非情なら、もっといじめは酷くなっていたように思う。笑って誰かに酷いことを平然とやってのけそうなぐらいに、こいつは笑い声の下に何かを隠していたから。そうして生きてきたからなのだろうか。こいつは本当の気持ちを薄ぼんやりとしかいつも教えてくれない。
「まあ。気持ちは分からなくもないよ。誰でも誰かに当たりたいんだ。こんなところから逃げたいんだよ」
そして、薄ぼんやりとした言葉の中にちょっとだけ真実を紛れさせてくる。
変な奴だ。
■■■□
一日中、彼女を見ていた。
何一つおかしいことはない。いつも通りの彼女だ。息苦しい空気と匂いを漂わせて、そこにある息遣いに溺れている。
ただ一つ、今日の山岡はすっきりした表情でいることが気になったが、その表情が見えるのは新鮮で嬉しかったから、注目すべきことでもないことを感じてしまった。
どこがおかしいのだろうか。今日の彼女はおかしいよりも、良い状態だろう。前向きに思えたし、反対に死にそうにもなかった。
そんな感じだから、山岡は死を選ばなかったのだろうと考えて、様子を見ようと今日は声をかけるのを止めたのだ。
放課後の屋上で空を仰ぎ見る。
この後はいつものように教室に戻って山岡が居るか確認をしに行くつもりだ。だが、今日の雰囲気を見ている限り、それも大丈夫な気がしていた。おそらくどこかで立ち直って、自殺を諦めたんだろう。池谷は心配し過ぎているのだ。
ズボンから鶴を取り出して、空にかざす。鶴の顔は折られていない。翼は広げられていない。背景の赤い空は鶴を溶け込めさせていたし、充分一つの絵になっていた。
「おい、こんなところで何してんだ」
池谷が屋上にやって来る。
俺は寝そべった状態で池谷の方を目だけ動かしてみた。池谷はへらへらと笑っていない。目が鋭く光っていた。 らしくない。いつもの笑みもかき消されるほどに彼は怒っている。
「寝てる」俺は当然のごとくそう答えるしかなかった。
「俺は目片が山岡を助けたいもんだとばかり思ってた。そうじゃないんだな」
いつもより、言葉が数倍も重かった。次第に薄気味悪い汗が額に浮かんだ。何故だか分からないが、恐ろしい。何か分からない、それが焦りを生んだ。何が分かっていないのだろうか。俺は分からない。鈍いから、のろまだから。
「池谷?」
半身をすぐさま起こした。
「もう一度、山岡の今日の行動を思い起こしてみろ」
よく分からないまま、頭に浮かんだ山岡の今日の行動を言葉にしてみる。
「今日の山岡はいつもより笑ってた」
池谷はそれでも睨んで来る。それで、と次を促し、強気に喉を震わせている。
「今日の山岡は友達とも喋ってたし、朝なんか、一緒に登校していた」
どこが悪いのか分からない。
「でも、いつもの笑顔だ」
何か欠けている。
右手に握られている鶴が俺の目に映る。
「いつもの霞んだ笑顔に、いつもの授業態度に、ぼんやりと眺める瞳も……」
何も映していない瞳も、彼女の希望も、幸福も、態度も、言い知れぬ陰りも、この時間だって、いつものように鶴を折るか、帰るか、そうしているはずだ。鶴だって、馬鹿らしくなったのか、今日は授業中や休み時間の合間に折っていなかった。
「おかしいだろ」
池谷の重々しい口が開く。
「気づけよ」
眉間にしわが寄り、涙目になっていた。池谷の本当の感情を初めて現れている。あのへらへらした感情はこれを隠すように、今はそれを開けっぴらに曝け出している。
池谷が怒っている?
「あいつは変わってない。いつも通り、確かにそうだ。だけど、変わってないのに、あんなに笑ってる。今日だったんだ。今日に山岡は決めてたんだよ。なんでそこでやめんだよ。お前は、俺と違うだろ」
何を決めてた?
一度に言われた事柄が、頭の中で紐解かれる。
山岡は自殺を諦めてない。決心したんだ。鶴を折ってないのは、折り終わったから。今日、山岡らしくなく笑ってたのは今日で最後だから。それ以外の行動が変わってないのは、山岡の中身が何一つ変わっていないから。そして、目の前の池谷がこんなに山岡のことを知っているのは?
「池谷、お前、山岡のこと?」
「俺は違う。あいつとは、ただの小学校が一緒だっただけだ」
そっぽを向き、吐き捨てられた。
行かなければならない。
立ち上がる。
「俺、行くわ」
□□□□
屋上から教室へといつも通り帰り、山岡が居るか確認する。そこに姿はない。既に帰った後だったようだ。
「ここには居ない」
行く場所なんて山岡にあるのだろうか。あったとしたら、それはきっと死に場所だ。そこへ行くまでに、俺は先回りしなければならない。
どこで死ぬのだろうか。電車から飛び降りるなんてことは……前にそれをしようとして止めていた。でも、あり得ないわけではない。家に帰ってリスカ、首吊り、この学校の屋上から飛び降り。でも、山岡は屋上に来ていない。
「どこにいるんだ」
これで家に帰っていて、そこで既に死んでいたら……そんなことは考えないように、今ある最善を考えよう。でも、それは最善なだけで、最悪の場合俺の助けなんて、届かないことだってあり得る。
ちくしょう。
遅かった。もっと疑問を持っていたら良かった。
ズボンのポケットの中の鶴が重い。どんどん重くなっていく。山岡が今死んでしまったら、この鶴は山岡の遺品になる。それだけは避けたい。あの棺の映像だけで、たくさん苦しんだんだ。この上これが重なるなんて、重すぎて自分の首を吊りたくなる。
嫌だ。
「今ある俺が出来ることを」
俺しか山岡のことを救えない。傲慢だなんだろうと、今はそうなんだ。それを信じて、先のことなんて考えずに、やるしかない。
行かなければならない。どこでもいい。『死』がある場所を回ろう。
□□□□
下駄箱に手紙が落ちていた。
刻まれているのは山岡の名前といじめられている奴の名前。何でこんなところにあるのか判断する暇がない。今はとりあえず拾っておいた。
□□□□
橋が一番に思いついた近場だった。あそこなら飛び降りられる。そこに居なければ、次は電車。その駅のホームだ。それがだめなら、もう家だろう。最悪は家に乗り込もう、いや、俺は山岡の家を知らない。
……最悪だ。
とにかく走った。橋へ向けて。
赤い夕日が道路に行き来する車の車窓を照らす。
ここにもあった。車の前に出て轢かれるやり方。
足を止めた。
「じゃあ、どこを探せばいいんだ」
早くも諦めが俺の脳内に漂っている。
もう思いつかない。車で轢かれて死ねるなら、町全域に死が蔓延っている。どこを探すとかできない。場所が広すぎる。どうしたらいい。どうしたら、俺はこの鶴を、この命を山岡に返せるんだ。
とぼとぼとそれでも歩みは止めなかった。橋に向かい、確実に向かっている。隣には車。目の前の橋に向かい走っている。その横には歩道が寄り添う。大きな橋だが、長くはない。車が橋を通り過ぎるのは一瞬だろう。それを目で追いかける。どうしたらいいか、半ば諦め気味に目がついていく。
もうすぐ沈むであろう赤い日差しが目に刺さる。瞼を薄く閉じ、次にゆっくりと目の前の光景を、しっかりと眺めた。
あっ……
そこには橋から前のめりに身を乗りだす同じ学校の制服の女の子。前傾姿勢になりながら、川へとゆっくりと落ちていこうとしている。頭から落ちる気だ。
「ねぇ、助けないの? 嫌じゃないの? そっか、そう言えば私を助けなかったもんね」
何でこんなところで昔の死んだ彼女の幻聴が聞こえるのだろうか。ずっと聞いていた言葉だ。あの日、俺が救えなかった、見ているだけだった、俺のどうしようもない行動を悔いた幻聴だ。
ぐっと唇を噛んだ。
あの女子を見て、この心に問いかけて、思わないはずないだろ?
「……嫌だよ」
胸の奥のもやもやが取り払われる。
「嫌に決まってんだろおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
再び走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます