助けたい

 電車に向かっている彼女を見ていた。

 今の彼女と昔死んだ彼女が重なっている。


 俺はホームの向かい側で山岡がそこから飛び降りないことを祈っていた。じっと見つめって、目の前で繰り広げられるかもしれない惨状に備えていた。


 赤い日差しが俺の瞼を閉じさせる。眩しいあの子の姿が、あの日と違わずあるのに閉じてしまった。目を逸らしてしまった。電車の音が聞こえてくる。誰かが轢かれたかのような軋むブレーキ音が耳を掠める。恐ろしい音に目を開け、山岡の姿を追った。

 そこにまだ立っていた。


 黄色い点字版の上に山岡は立っていた。向かいのホームの電車が前を通り過ぎていく。


 安心した。彼女は此処では死なないようだ。



 ■■□■



 放課後居残った彼女を見てからと言うもの、俺は彼女を追っていた。


 放課後の登下校はもちろんのこと、彼女が怪しげな場所に行くときも、そこで死にはしないか、ずっと見張っていた。見張るだけで、何もしない。何もできないのは分かっている。俺はそこまで人の生き死にを左右できるようなやつじゃない。左右できたとしても、命の重さに耐えきれない。失う怖さ半分、重心が居なくなる嫌悪半分でずっと追っていた。


 電車。その近くにある傍のあみ。ホーム。放課後。あとは橋。

 ずっと見ていて安心もせず、ハラハラしていた。


 もういつ死んでもおかしくないと思わせるほどのやつれ具合だった。白い肌に黒い隈を作っている。どこかぼんやりと眺めている。大抵眺めているのが虚空だった。何もない虚無感を実感し、そこにある空気に身を任せているみたいだった。


 そこにいない人を形作って、立体的になる空想に俺も捕らわれ始めていた。

 彼女がうすぼんやりと見えていた。俺の中の彼女の姿だ。低くも高くもない鼻頭。くすんだ顔色。かさついた空気を纏い立っている。


「助けないの?」

 

 俺の中の彼女が問いかけ続ける。


 教室の中、池谷と夏休みまであとちょっとだな、なんてくだらないことを話している横で、彼女が唐突に現れて、こっそりと耳打ちする。


「今度も私の時と同じように助けないの?」

「夏なんてさ、することないよなぁ」と池谷が言ったのと重なり合う。



「ああ、そうだな」



 それに答えると心底悲しくなった。


「俺は助けないんじゃない」


 心の中で呟く言葉が砂となって消えていく。


「俺は助けられないんだ」


 否定した言葉全て投げ出したいほどに自身に嫌悪が降り注いだ。



 ■■□■



 目の前に山岡が歩いている。


 山岡の表情が見えない。それなのに背中は寂し気で、小さく委縮していた。ここには私の居場所はないと言ったように。


 その場で立ち止まればいいのに、山岡は前をずっと歩いている。歩き続けている。俺のことなんて見えていないんだろう。それがどこかしんみりとした。


 山岡の中に俺は居るかと言えば、居ない方が自然だろう。今の山岡の中には、あの子しかいない。周りが見えていない。俺に言えたことじゃないが、山岡は全てに諦めていた。彼女が生きていること、彼女が居ないこと。自身の心。本能。その全てに。


 分かる。俺には分かる。俺だって、全部放り投げた。放り投げて、今帰って来た。償いをしろと叫んでいた。彼女を助けることで俺の満足を得るのは間違っている。正しさなんてないのに、手をこまねいた。正しさがないからこそ、ずっと恐れていた。


 そっと手を伸ばすと、俺の手は透けていて、山岡には届かなかった。掴もうと必死に手を向けるのに、山岡の体をすり抜ける。俺の体、俺の意思、俺の存在、それらは全てないものに等しかった。俺はこの場所において、存在しない。山岡が俺の存在だった。だから、彼女が居なくなると困る。悲しむ。


 それだけではない。


 彼女が居ないと悲しむのは俺自身。しかし、存在が悲しむんじゃない。心が悲しいんだ。心が困るんだ。深く傷を負うのが分かっているからこそ、俺は彼女を見ているのかもしれない。俺自身がそこにあるから。


 俺は確かに此処にいる。存在している。彼女が居なくたって、毎日心が動いている。彼女が居ないことを怖がって、心が縮まって、その日一日に手がつかなくなる。彼女を見られないと、こんなにも俺がある。山岡が居てもある。それは……そうなのかもしれない。そうなんだ。きっと。


 前に山岡が歩いている。その後ろ姿を見られることに喜んでいる自分がいる。良かった。今日も彼女を見られる。同じ所に居られる。まるで依存者のように、俺も彼女しか見えていない。


 暑い日差しが和らいだ放課後、俺は彼女の後に居る。そこが変わらない定位置であるから喜ぶんじゃない。昔とは違う。手を伸ばしている。触れたいと思っている。


 橋を渡った。

 この橋がどうか、彼女の死を架けないように、今は祈るしかなかった。



 ■■□■



 放課後は残るようにした。教室に一人残る山岡が心配だったからだ。


 ちらっといつも廊下から教室を覗く。そこにはやはり折り鶴を必死に折る山岡の姿があった。熱心に一つ一つ丁寧に折っていた。だが、その姿が日に日に険しくなっている気がした。鶴の数、鶴への入れ込みよう、狂ったように彼女は折っている。


 千羽鶴は何か祈ることがあって折るものだ。山岡は何かを祈って折っているとしたら、一体何を込めているのだろうか。



「〝死〟かもね」


 ふとよぎった考えが昔死んだ彼女の影で囁く。


 有り得ない。


「千羽鶴は良い事を祈るもんだろ。死だとしても、誰かに助けてほしいから祈っているんじゃないか」


 呟いて、苦虫が身体中に這いずり回った。


 そうだ。彼女は助けを請うている。それを俺は知っていながら世界の端から眺めることしかしていない。こんな事を繰り返して、彼女を無視している。教室のいじめの傍観者みたいに。


 背中がひんやりと冷えた。寒気がして、背中が押されるが、踏み出せなかった。


「私はただのあなたが考えた幻だけどね、あなたが間違っているのは言えるよ」


 すっと入ってくる凛とした昔死んだ彼女の声。俺の心で喋っているから当たり前だ。当たり前なのに、初めて俺の斜め上の発言を放った。まるで本当の幽霊だ。いる訳ないのに。


「あなたはあの鶴の意味を間違っている」


 隣にいる幻が教室の中へ歩いていく。白い肌、赤い唇、死んだような濁った黒い瞳。その姿は山岡の姿と似ていた。多分重ねてしまっているんだろう。俺が向ける彼女達それぞれの心の在り方は違うのだが、彼女達に向けていた俺の在り方は同じだったから。


「そろそろ私は消える。だって、あなた達はもう決めている。思っている。だから、あなたに最大のヒントを上げる」


 今見えている彼女は幻。それなのに……どこか懐かしい。


「私はあなたも彼女も嫌いじゃないから」


 嫌いじゃない。

 俺のそれは好意。


「私の言葉は愛(のろい)」


 死人に口無し。しかし、生者だった彼女の存在は今もそこにある。今も生きている。今も傷を抉り、残した言葉と笑顔は、生者を苦しめる。どこが死人に口無しだ。どこが風化するだ。ずっと胸(こころ)にあるじゃないか。消えないじゃないか。そこにいるじゃないか。


「千鶴の鶴はね、あるタイムリミットなんだ」


 それは…

「ほとんど正解だろ、それ」

 鶴は〝死〟で〝タイムリミット〟なんて、答えに直結する。


「どうだろうね」


 彼女は昔見た彼女とは違った笑い方をした。口角をにっと上げて、俺に、してやったりと笑っていた。教室へ歩みを進める俺の幻は、一回だけ俺に向き帰り、手を振った。笑みを含ませ、ばいばいと口を動かしていた。



 ■■□■



 彼女の歩みが止まった。いつもずっと前を行く山岡の足は自然と止まった。蚊が彼女の周りをつきまとい、山岡の道を遮った。


 俺は歩幅を合わせず、止まらず、彼女の横を通り過ぎた。


 日常が崩れた。


 小さな音をたてて、彼女が止まったことによって歪みが生じた。たった一匹の蚊によって、彼女は止まった。


 助けは、そうやって入るのだろう。鬱陶しく女々しく、喚きながら、小さな生物は惨めにやってのけた。




 俺は……



 ■■□■



 千羽鶴を折っている山岡の目の下にはどす黒い隈ができていた。この間は倒れて、保健室に運ばれた。動くのが億劫なほど体育の時間はのそのそとけだるくしていた。一番気がかりなのは、ここ数日で鶴を折るスピードが桁違いに早くなっていることだった。


 放課後、暑苦しい教室の中、彼女は物思いにふけるなんてこともせず、ただただ折っていた。何かに追われるように、早く終われるようにと急いでいた。死んだ彼女の影は既にそこにはない。彼女は一人で進んでいた。


「『あなた達』はもう決めている。」


 口の中で最後に見た幻影の言葉を反芻する。


 あなた達、とするときっと山岡も含まれているに違いない。何を決心したか、なんて彼女を見ればわかるだろう。


 俺だって何度も考えた。何度も目の前を覆った。隠した。それでも、何度だって前に写す。

 誰も気づいているふりして痛みを避け、近づかない。なら、それは見ていないのと同じだ。どこが違うんだ。俺と一緒に、彼女の行く先を止めず眺めている。もしかしたら、こんな空気が嫌いで彼女は死を選んだのかもしれない。中学生の時死んだあの子もそうだったのかもしれない。


 本当は、もっと何かあるはずなんだ。彼女を助ける方法を、俺は知っているはずなんだ。彼女達のことを知っているのは俺だけなんだから。


「一、二、三、四…」


 山岡がいつものように鶴を数え始める声が聞こえた。いつも、彼女は最後に何羽か数えて全て鞄にいれる。その鶴達は頭が折られたり、翼が広げられていたり、折られたままだったり、それぞれの程度は異なっていた。そうなっているのは山岡の個性の一つなんだとは思う。しかし、それだと糸で鶴を結べない。そもそも結ぶつもりはないのかもしれない。


 ふと、鶴を乱暴に部屋に投げ捨てる山岡の姿が思い浮かんだ。

 目の前でも、山岡は乱暴に鞄に数え終わった鶴を放り込んでいる。


 そうしてあと何羽か、今何羽かを鞄に入れた後にまた口ずさんだ。いつもすることなのに、今はちょっとだけ違和感を覚えた。いつも、いつも、まるで今日一日で鶴を何羽折るか決めているみたいだった。しかも、鶴に然程思い入れはなく、折った後、乱暴に扱っている。折った事実がほしいだけなのかもしれない。


 山岡は鞄に全ての鶴を入れ終わると、唐突に教室の外に向け歩き出した。鞄は置いたままだ。廊下の隅にいる俺はなんとかして身を隠そうと、傍にある掃除ロッカーの陰に隠れた。身を縮めて、山岡が急いで出ていくのを目で追った。


 廊下を駆けていった後、俺は起き上がり、教室の中の彼女の鞄に向き合った。鶴に埋め尽くされた鞄。鶴の種類は多種多様。今日渡された夏休みのしおりまで鶴になっていた。一番多いのは普通の折り紙だった。


 山岡はきっとトイレに駆けたのだろう。


 なら、今しかない。

 俺が出来ること。救えること。


 こんなの、賭けでしかない。危険な賭け。下手したら、彼女を説得できずに、終わるかもしれない。彼女はそれでも死を選ぶかもしれない。しかし、今の俺が出来る最後の術はこんなことしかない。


 心臓がバクバク鳴っている。息が重い。額に汗が浮かぶ。人生で初めていけない事をするのは、こんな感じなのだろうか。


 鞄の中の黄色い鶴に手を伸ばす。しっかりと掴み、ズボンのポケット中に突っ込む。途端に怖くなり教室から飛び出した。影が伸びていて、追って来るようだった。




 走って、走って、走って


 助けたくて、助けたくて、助けたくて


 走って、走って、走って


 助けたくて、助けたくて、助けたくて


 走って、走って、走って


 助けたくて、助けたくて、助けたくて


 走って、走って、走った。









「助けよう」


 もう昔の幻は見えない。

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