助けろよ
夏の暑さで忘れそうになる。
気が滅入るような不安も、俺が消えてしまうような感覚も、俺を必要とされない悲しい現実の焦燥感も、その先の将来も。
今は大丈夫だと思い込んでいて、だからこうして生きて居られているのだけれど。
日常だなんてただの拷問で、ただのいたずらで、正解とか世界とかどうでもいい。それなのに、彼女が登下校中前に居ることで、救われている自分がいる。自分の生きる意味はこれなのかなあと少しだけ考えてみたりもした。
生きる理由があんまりにも気恥ずかしくて、すぐにやめた。
「あたし、変なもの見たんだ」
中学の時の中心である彼女が教室の中で、楽しそうに話していた。その顔色は霞んでいて、友達と話しているのも息が詰まりそうだった。
無理して笑っている。それは俺にも言えることだろうけど、彼女の笑顔はすぐに感じ取れるようなものだった。
「凄い」
「なになに?」
「怖い話?」
彼女の教室の中の友達と話していた。楽しそうに、きっと、いや多分、話していた。
誰も彼女の上っ面の笑顔を気づいていないようだった。
きっとこの会話も随分と脚色されている。なにしろ数年前の話だ。女子のどうでもいい話なんて、鮮明に覚えているはずはない。とにかく死んだ彼女は、そうして笑う女の子だってことは目に焼き付いていたのだ。友達に合わせて、えへへと笑っている。
平凡な鼻の高さに、肌の色は少しだけ濁っていて、目は大きくも小さくもない、そんな子だった……気がする。
事態が大きく変わったのは、そんな日常の中でのことだった。
突然、彼女は朝の電車に、教室に姿を現さなくなった。
いつもの彼女の席は三十台前後のサラリーマンが座り、車窓には、少女の小さな額ではなく、男の頭を押し付けられていた。
その日の前の日は人身事故で遅れていた。俺の乗った電車の次の電車が人身事故を起こしたらしい、そのことが彼女が居なくなった時に、ふと頭に浮かんでしまった。電車での事故が一番身近な死だったから。死を感じ取れたから。俺はその時そっと悟ってしまっていたのだ。
担任が、彼女は亡くなったという旨を話したのは数日後。
どうやって亡くなったか、知っている生徒もいたと思う。そういう生徒も配慮しての数日だったのだろう。
俺はその実、具体的には知らなかった。薄っすらそうでないかとは思っていた。それは想定の範囲内で曖昧な推測だ。ただ、葬式の日のことはしっかりと覚えているし、その時の曖昧な推測も嘘ではなく、事実であることは認識していた。
黒い制服に身を包んだあの日、彼女の友達が泣きわめいていた。彼女の棺の前で彼女の友達は泣き崩れているのに、山岡千鶴は顔を歪めているだけだった。友をぼんやりと眺めているのではなさそうだった。棺の方をじっと悔しそうに目を見つめているとも、悲しんでないているとも違って、死んだ彼女を多分どこか恨めしそうにしていた気がする。
彼女の友達は、泣いた。
山岡千鶴は、悔しそうにしていた。
俺の友達は、平然と棺を眺めていた。
では俺は? 俺はどういう表情をすればいいのか、その場の自分をどう演じればいいのだろうか。分からなくなった。
どこかやるせなかった。そこに自分の顔がなくて心が宙ぶらりんで、支えがなくて、心もとない。俺はこの場に居ない。足元がない。
まるでここには俺が居ないみたいだった。
嘘だ。
唐突に、棺の中は空っぽのような気がした。
この葬儀は嘘だ、と否定し続けた。怖さもあった。自分でない恐怖が。どこか全部がまやかしのようにくすんでいた。掠れていた。
山岡の表情も、俺の友達の平気そうな面も、死んだ彼女の棺も、どこもかしこも嘘で溢れている。だって、どこも彼女がいないのだ。彼女を誰も思っていないのだ。俺すらも、どうやって彼女が亡くなったのか知っているのに、彼女の死体を、死に様を見ていない。理由を知らない。遺書もない、彼女はそこにはいない。
俺はどこにいるのか分からない。彼女の居ない世界で、周囲は、甘んじて彼女のいない世界を受け入れている。
何で、こんな葬式で泣けるんだ。何で人が死んでいるのに誰も傷ついていないんだ。俺の心は彼女を中心にしない俺に元に戻っているだけだ。俺は何も変わっちゃいない。ただの不安がぽっかりと空いただけだ。
みんな彼女が居なくなった時の自分を演じてるだけじゃないか。
嘘だ。こんなの嘘だ。嘘で見繕っている。嘘。嘘。嘘ばっかりだ。
棺は空っぽだった。ここは空っぽの空間だ。どこにもいない彼女をずっと待ち続けている空間だ。穴が空いていた空間だった。何の穴かは分からない。それは一生埋まらない穴だった。その穴が淵から痛み出して、ずきずきと抉って来る。
こんな痛みがあるのなら、もう二度と受け入れたくはない。
■□■■
「自殺だったんだ」池谷がへーと頷いた。
夏の光が降り注いでいる屋上は、まぶしい。
屋上で池谷と俺は、二人で駄弁っていた。熱さをしのぐにはこの場が一番良かった。風がビュービューと吹き、背中を冷やす。この日差しも遮れたら、ここは特等席になるが、この日差しのせいで誰も来ない。だから俺達二人だけの独壇場になっていた。
「そうだ、自殺だった。んで、多分あれは……」
どういう話の流れか分からないが、親しい人が亡くなったことはあるかと言う話題で、俺は今、昔の話をしている。
「もしかして、さ」池谷が遮る。「目方は山岡も、自殺するとか思ってんの?」
いちいち的をついてくる。池谷は勘が良いのかそういうところ、聡い。俺の好きなやつもすぐに分かったし、どういう感情で、とかは分からないが、でも、こうして突いてくるのは、時々恐ろしくなる。
「やっぱりなぁ」
俺が何にも言えないでいると、池谷がにやにや笑って、青い暑い空を仰ぐ。
「あいつ、このごろ怖いからそうだと思った」池谷が笑いを含ませて告げた。
「怖いか?」
「あー、こえぇよ。ずっとどこか眺めて、物思いに耽ってるんだぜ。しかも、放課後たった一人で時計見ている。あいつ病んでる。何するか分かんねぇよ」
「池谷、山岡が放課後教室にいること知ってたんだな」
「なんだ、目片も知ってんなら、言うんじゃなかった」
どこか池谷は重い物を笑いのネタにしている。俺は、そんなやつにいろんな思いを抱いているのに、こいつは何にも気にしていない。こいつは何も思っていない。あの放課後の山岡はおかしかった。それなのに、こんな月並みな感情しか表してくれない。不愉快だ。
「何だよそれ」俺はどこか呆れ声で呟いた。
「おっ。どうした? いつものお前らしくないな」池谷は軽く返す。
いつもの俺とは何なのだろうか。いつもの俺はこんなことで激昂しない。少なくとも、池谷の中の俺はそうなのだろう。俺はそうなのだろう。
「何なんだ」なのに、何で俺の中の声は荒くなるのだろう。
確かに、いつも俺は温厚だ。争い事も極力避けて来た。どんなことも無関心を装った。自分はそこにはなくても、俺自身はあの電車内で完結していたから、無関心でもいれる。俺はあそこに居たから安心して関わらなくて良かった。
「お前は何でそんなにへらへら笑ってんだよ」
池谷は何でお気楽にいれるのだろうか。
思い出すんだ。
墓の前。
赤い文字がある電光掲示板。
棺の前。
白い肌の彼女。
あの異質な教室。
死を求めている彼女。
鳴り響くアナウンス。
嘘だらけの葬式。
その全て池谷が知っているわけではない。そんなのは知っている。知らないから、こんなに笑うのだし、軽く物事を言うんだ。分かっているのに、池谷がずっと深いところで山岡を嘲笑っている気がしてならない。彼女を忌み嫌っているような気がしてならない。
「何で」俺の声が震えている。
昔のことを思い出して涙が出そうになる。
病んでるだとか、そんな笑って言えることなんだろう。普通のことなんだろう。死を目の前にしている彼女を池谷は笑える。嬉々として笑って、そしてまた明日を送る。それが出来る。
池谷を避けたくなって、立ち上がって、屋上を後にしようとした。
「おい、突然どうした」池谷が追いかけて来る。
振り向きざまに、一発殴ろうか。胸倉をつかんで、殴ってやろうか。それだけ憤っていた。怒っていた、のかもしれない。
だから、勢いよく振り向いた。拳を握りしめ、きつく睨んだ。
「お前は山岡をなんだと思ってんだ」
言葉から先に紡がれた。殴る三秒前、池谷が好戦的に腕を組む。
「他人」
はっと池谷が口から息を吐き捨てる。当然だろ、それ以外なんだと言うのだ、馬鹿にしているのか、そう告げている気がした。
ぐっと堪えきれず拳を池谷の腹めがけて下から振り上げた。池谷は前につんのめり、げほげほとせき込んだ。その顔にあるのはやっぱり不敵な笑みだ。こいつはこんな時でさえ笑っているのだ。
「あほらしい」
俺の口が勝手に動く。今日は口がよく回る。
日差しが差し込む。残酷なほどに熱く、眩しく。俺の視界を遮る。
「『何なんだ』はお前だろ、目片」池谷はげほっとまた一回せき込んだ。「突然殴って来て、当たり前な事聞くなよ」
ははと語尾の最後に笑っていやがる。まだ笑えるのだ。笑い自体が池谷のアイデンティティみたいに。
「山岡が友達だとでも答えてほしかったのか? 生憎関わったこともない奴に興味なんて抱かない。宿敵だとでも、嫌いだとでも言っといたら良かったか? ああ嫌いさ。好きでも嫌いでもない方の嫌いだ。関わりたくない嫌いだ」
ははと池谷が滑稽ににやける。俺のことを真剣に見ると、その手に力を込める。握られた手をじっと眺めた。
「当たり前だ、当然だ。誰だって死にゆくような奴に関わりたくない。自殺するような奴なら特にそうだ」
関わりたくない。なんでだ。
「目方には分かんないのかもしれない。そういうところ、鈍いから。誰だって気づきたくないし、誰かに合わせたい。俺達はさ、怖いんだよ。死んでいく人と関わって、死んだ後になって気づく痛みが。人と関わりたくないってのは、そういうことだろう?」
「誰だってこの人は死なない。俺に痛みを与えない、そう信頼して関わるんだ」
だから、自ら命をたつ者は、嫌い。彼は代弁している。その皮肉な笑みで、鈍い俺に分かりやすいように。俺はそんなことにも気づいていなかったってのだろうか。
俯くと同時に、池谷の拳が腹を叩く。弱い力だ。元々彼は細身で、飄々とした身のこなしをするため、暴力には適さない。俺の腹もさして傷まなかったはずだった。なのに、ずきっと腹に痛みが被さった。小さく悲鳴を上げた。
「お返しだ」痛みがそう告げていた。
俺はその行動に呆然としていた。池谷はケラケラといつものように微笑み屋上から俺を残して先に去っていった。
「俺に救い求めんなよ」
池谷の去り際の言葉が重くのしかかる。
ぽつんと残された俺は日差しに目を当てる。暖かすぎるこの日光に身を任せて、汗を滲ませ、空を睨んだ。漂う空気は淀んでいて、嫌悪感を隠しきれず、舌打ちをした。
■□■■
このごろ、放課後は遅くまで屋上に居るようにしている。それは、あの教室に誰かいるのを見るためであり、一種の自分の慰めであった。見たって、何にも変わらない。ただ、今日も大丈夫とうなづくだけ。山岡が居て安心出来るだけ。登下校、山岡が前に居るのを確かめているのと同じだった。
ちらっと教室を覗く。
必死で何かを山岡は折っていた。
赤い灯が窓から差し込むのに、何も気にせず、ただ折り紙を取り出し、折る。しかし、そのスピードは遅い。ゆっくり何かを思い、手を止め、目の前をぼんやり何処かを眺め、また折る。それを繰り返している。
やはり、その光景は異常だった。まるで目の前に誰か座っているみたいに思えてならなかった。くっきりとしない具体的でない黒い何かがそこに居る。
「吉(よし)」と、そこで、山岡が小さく言葉を奏でた。
誰の名前か、それはどんな子なのか、はっきりと目の前に映し出された。山岡の前に座る、黒いものが形を表す。
彼女だ。中学の頃の姿のまま、そこにいる。
俺だって、何度も彼女を描いたさ。幻だと分かっていて、電車の中で、死んだ後でさへ彼女をそこに置いていた。山岡もそうだった。同じだったんだ。
廊下から教室を覗くのはそのぐらいにして、くるっと誰も居ない屋上に戻った。誰も居ないからこそ、喉の奥の熱い何かが込み上げてきた。
「救いを求めんな、とか」
池谷の言葉は心に刻まれているはずだった。
「助けを求めんな、とか」
山岡の気持ちも少しは分かる。彼女が居なくなった世界で、どうすればいいのか分からなくなった過去の俺と同じような気がしたから。そこにあるのは彼女を思っての行動とか、そんな事ではなく、ため息を漏らすような虚無感が漂っているからなんだ。悲しいとか、泣くとか、出来ない。
俺はそこまで彼女を思ってた訳じゃない。あるのは、自分の在り方。住処。宙ぶらりんを繋ぎ止める糸。
気付いたらしんどい。耐えられない。だから糸を巻き付けただけだった。
「だったら、俺が助けろよってことだろ?」
赤い血の滴る夕日が橋の方に向かって落ちていくのを目に反射させた。橋は、山岡を発見した場所だ。あそこで、前を歩くのは彼女と重なった彼女。
俺にとっての彼女と山岡は違う。
無関心とか、関わりがないとか、それ以前に。
「嫌いじゃないんだ」
白い肌に赤を浸らせたら綺麗だった。振り向きざまの山岡の顔は、愛おしくてたまらなかった。
「助けられるなら、お前が助けろよ」
誰かに放り投げた言葉。
俺じゃあ、彼女に近づくなんて、無理だ。
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