第二章 ヒーロー

助けてくれ

 彼女が居なくなるその瞬間まで、俺は彼女が亡くなってしまうのを他人事だと思っていた。


 中学でのある日の登校中のことだ。

 電車で席に座る俺の前には俺と同じ中学の制服を着た女の子が居た。顔は中の中ぐらい。胸はそこそこ。大きくも小さくもない。顔色の色素は若干濃いめ。でも目の大きさや、唇のサイズは普通。どこをとっても彼女は平凡と言わざるを得なかった。


 その頃の俺はふとしたきっかけで気づいた自分と言う存在に焦燥感を感じていた。きっかけなんて大きなことではない。ただ自分の周りがいつも同じ顔触れであることに気付いたのだ。同じ電車に乗り、同じ座席に座り、同じ時刻に降りていく。そこにある顔ぶれは変わらなかったのにふと気づいた。そしたら、ただただそこにある不安に駆りたてられた。自分もその中に組み込まれていて、自分の居場所があって、でもそこを離れると、俺の座っていた座席は埋まる。どこかで変わりが効き、どこかで特別でないことを表していた。


 あるのはぼんやりとした不安と、言いしれないぐらいの焦り。


 繰り返しのループの中で俺は俺と言う存在がどこにもない事を悟った。恐ろしかった。単純にそこにある感情に怯えてしまった。何故俺はこんなことをしているのか、どこかでそれが義務だと自分自身に言い聞かせて、俺自身がない事実を覆い被せた。蠢く大きな力に縋ったのに、納得がいかない日が続いた。ループする自分がない日常に、それが続く将来に、その果てに沈んでいく闇の中に、虚しさがひとカケラ転がっていた。


 だから、俺は他人に自身を放り投げた。気づいて数日後に俺の座標となる人を定めた。それが、電車通学中にいつも見る彼女だった。


 肩に掛かる黒髪を彼女は耳に掛けた。それが彼女の一つの癖でもあった。そして車窓に顔をうつし、電車から見える光景を眺めていた。車窓に反射する黒い瞳はどこまでも黒くて、その奥底まで見えなかった。小さな彼女の肩を横目でちらっと見て、ああ今日も俺は此処に居るのだな、と実感した。俺の中心はそうすることで保っていた。不安は払拭され、安心してそこに留まった。


 俺は自身を放棄した。彼女に託したのだ。それがいけないことだなんて思っていない。今もそれは変わっていないのだから。自身の証明する糧を、術がない。だから、そこにいる彼女に自分の中心を与えるしかなかった。


 その日から俺は俺であり続けることが出来た。



 □■■■



 彼女が変わっていったのはそれからだ。雰囲気の一つとっても彼女の何かが壊れてしまっていたのが分かった。車窓に写る彼女の顔色がくすんで見えた。悲しんでいるようにも見えたし、泣きそうなのも分かったのに、何か嫌なことがあったのだろうか、とだけしか思わなかった。その背後にある暗闇に目を当てず、他人行儀に、ああこの子暗いな、ぐらいに止めて、その先にある感情に気付くのを止めた。


 俺自身の座標、中心、重心を彼女としていても、他人なのは変わりがなかったから、それ以上踏み込むのを止めたのだ。怖かったのかもしれない。恐ろしかったのかもしれない。他人と関わるのも俺を置いた子がこうしてそんな感情を抱いているのが、知らない方が良いなと思ったのかもしれない。今となっては思いの全部が今の俺の枷でしかない。重さと、後悔がこびりついたアカ。卑しい感情の一つだ。


 車窓を覗く彼女の顔は見る見るうちに落ちていった。色濃い肌色は色が悪くなり霞んだ。何かを恨んでいるのか、車窓に写る彼女の顔は険しくなっていった。怖い顔だった。明らかに暗い水底に向かって行っているのに、しかしクラスでは明るく振る舞っていた。笑顔も彼女は印象的だった。


 嘘だと言えるような完璧な笑顔をしていた。完璧な笑い方をしていた。まるでこんな日が一生続けばいいのにと言った具合に、彼女の笑顔は華やかだった。電車内での彼女を知っていたから、それを見て、いつも息が詰まっていた。傍に居てやり一緒に泣ければ少しは楽だっただろう。


 何で彼女を中心に置いたのか。きっとそれは偶然だったに違いない。ただ偶然目の前の彼女を指名した。ただ偶然俺の中の虚無感がその場で耐えきれなくなった。それなのに、彼女を指名した過去の俺を責めてしまっていた。


「誰か、誰か、彼女を救ってくれ。助けてくれ」


 いつも電車から降りる時そんなことしか言えなかった。呟けなかった。自分はヒーローじゃない。誰も救えない、他人に自分を放棄する者だ。彼女を救えるなんて、思いもしない。そして、この祈りも、ただただ自分のためのものだ。自分の中心を失いたくないためのものだ。


 どうしようもなく、俺は醜かった。



 □■■■



 その日のことはしっかりと覚えている。忘れたくても、今もぽっかりと空く穴が塞がっていないから、思い出してしまう。


 中学生だった自分に彼女が自身を殺したと聞かされた日、俺は電車の音が頭に鳴り響いて仕方なかった。駅員のコールが捉えて離さなかった。人身事故により……と何度も何度も繰り返される声と掲示板に刻々と示される赤い文字とが重なり、ああと悟った。


 彼女の死因については実のところ分かっていない。知らないのだ。それなのに、彼女の死を知らされる数日前の電車の人身事故の表示が彼女の死を知らされた瞬間蘇り、あの日から今日までずっと頭の片隅に残ってしまっている。


 彼女の死を知った日、俺も死んだのだ。自身の置いた中心を失って、自身がどこにあるのか分からず、この世にあり続けた。まるでそれは針が刺さったように痛み、化膿し、ジュクジュクになった果実のような傷口から抉られ続ける。


 問いをたて続けるのだ。彼女と関わりのなかった俺なのに、それでも中心を失った、死んだ穴から放り出される。彼女は何故死んだのか。彼女を何故助けられなかったのか。


 俺は彼女の命を奪ったものを探し続けている。

 空っぽなのに。



 □■■■



 高校生に進学して、彼女の代わりに巡り合ったのは違う女の子だった。


 そいつは中学の頃消えた彼女とは正反対に、透き通った白い肌をしていて、唇は赤く、目はぱっちりとしていた。髪はセミロングで風が通り過ぎると靡いて黒をひきたてさせた。一言で言うと、目が惹きつけられる、「綺麗だな」と気を抜くと言ってしまいそうになる奴だった。


 高校は歩いていける距離だった。歩いて帰っているとき、橋を渡る。そこで奴を見つけたのだ。登下校で前を歩き、同じクラスで、重心を置きやすかった。過去の消えてしまった彼女を思って、近い奴でいいかと投げやりに決めてしまっていたのもあるが、今度の中心は、どこか昔の中心と違っていた。昔の穴は埋まらないのは、埋まらないのだが……



「お前、好きな奴いるだろ」



 いきなり話題を振られて、俺はポテトを取る手を止めた。

 駅近くの開店したてのファストフード店でいつもの奴、つまりはイツメンと寄り道をして駄弁っていた。イツメンと言っても俺とこいつ、池谷たった二人だけなんだが。


「何でそうなんだよ」


 俺はポテトを頬張りながら、へらへらしている池谷に笑いながら返す。塩味のさっぱりした味が口に広がる。


「教室で女子の話をする時、お前さ、いつも同じ奴の顔をちらちら見てんだ」


「そ、そんなことしてたか?」


「当ててやろうか?」


 なんだか危うい雰囲気が漂ってきて、ポテトへと手を伸ばす回数が増えた。むしゃむしゃと嚙み砕き、飲み込んだ。続きの言葉は聞きたくなくて、またポテトへと手が伸びる。



「山岡千鶴だろ」



 手が止まる。


「お前分かりやすすぎんだろ」


 自身の重心が恋とかいうものに昇華されているのがひどく不潔に思えた。中学の頃の彼女は決してそんなことはなかったのに、山岡は違う。訳が分からない。


「あいつのどこがいいんだか」池谷が山岡を貶す。


「おい」


 心の中がざわついた。なんでこんな奴に見透かされているんだか分からない。自分のことも訳が分からない。山岡に引き付けられている俺に怒りすら覚える。


「あー、悪かったって。良い奴だよ、あいつ」


 へらへらとまた、こいつは女子を品定めする。同じテンポで、同じキャラでいるのに、今はそれが鬱陶しい。何でこんなに、苛つくんだろうか。


「俺だって知りたいよ」池谷に合わせて無理やりに笑ってみる。


「何を」


 池谷は笑みを含ませていた。こいつはいつもこうだ。だから真剣に会話していくなんて止めた方が身のためだ。


「山岡のこと。俺、何にも知らないし。何で良いやつなんだ?」


 俺がぼやくとぷっと池谷は噴き出した。


「お前やっぱ、おかしい」はははと笑う。


 俺はずずっとジュースを吸った。


「目片さあ、何で何も知らない山岡のことを好きになったんだよ」


 俺の名前を言い、笑いながら、池谷はばんばんと机を叩く。

 いたたまれない、と言うか周りがこっちを見てくる気がして恥ずかしいからその馬鹿笑いやめてほしい。なんてことも全部ごっくんと飲み込んだ。


「俺も知りたいよ」


 中学の時自分が此処にないってことを気づいてから、誰かに自分を放棄してしまったのに、自分に今更何でこんな感情が生まれているのか、俺だって知りたかった。どうにもできない虚しさも全て放り出しったっていいほどに、この感情はかき乱す。どうすれば収まるのだろうか。自分を持ちたくないのに、持てないのに、いつだって感情に急かされる。行動に出てしまう。


「そいつのことどうでもいいって思えないのは、きっとそう言うことなのか」


 俺は尋ねると、池谷は「ぜってーそーだって」と押してきた。


「そうなんだな」


 納得はいかないが薄ぼんやりと頷いてしまった。



 □■■■



 中学の時の空いた穴はまだ埋まらない。俺にとって死んだ彼女がさして特別だったわけではない。山岡が中心足り得なかったわけではない。事実、此処に居ることに安心して毎日を送っている俺がいるわけだ。埋まるわけでも、虚しさが蔓延るわけでもない。埋まらない。虚しいだけだ。山岡に向ける感情が違うだけだ。


 はあ、とため息をつく毎日。まだ答えは見つかっていない。


 彼女は何で死んだのだろうか。


 調べれば死因の一つぐらいはっきりするのだろうけど、そこに彼女はないとはどこかで分かっていた。多分、彼女の死で大事なのはそこじゃない。分からないことがこんなに怖い事だとは思わなかった。


 答えが分かるのなら、きっと彼女と近い人だろう。


 そんな奴がいるのだろうか。


 池谷がいない放課後の屋上で俺は一人昔のことを思い浮かべた。

 彼女は自殺した。どんなことを思ってか知らない。

 俺は彼女とクラスメイトだった。

 彼女に自分の中心を置いていた、それだけでいいじゃないか。



 それだけで十分だろ。



 屋上に居るのもほどほどにして、帰ろうと、思い、下駄箱に向かうが、心が落ち着かなくて、忘れ物をしていないか、最後に教室に戻ることにした。こういう時は忘れ物をしていることが多かった。どこか抜けていると、いつも言われていたから、俺はどこか疎いんだろう。


 けだるげな暑さの中、放課後の冷めた風が吹きすさぶ。

 教室を覗くと、一人で教室にいる山岡を見つけた。

 その顔色がいつか見た霞みがかったあの子の顔色と重なった。


 ああ、彼女もそうなのだと、悲しくなって、心の中で呟いた。


「誰か彼女を助けてくれ」

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