九百九十九羽目

 朝の匂いがした。鼻先へとくすぐってくる澄み切った朝の香り。この香りを何度も何度も生がある限り香っていた。今日まではこの香りが気だるげにまとわりつく鬱陶しいものに感じていたのだけれど、今はそんな気がしない。清々しさすら感じてしまう。


 鶴を毎日毎日数えていた。今日は十羽、今日は三十羽、今日は百羽、そのタイムリミットを数えて、唇を噛み締めた。


 まだ来ない死を。差し迫る生を。

 私は涙を流し、悔しさを滲ませた。


 それが、今日は九百九十九羽にまで達したのだ。この日をいくら待ち望んだろうか。どれだけ私の大切な何かを失わせただろうか。私の覚悟を受け取ってもらえるだなんて思わないけれど、それでも一種の決起のきっかけにはなっただろう。これで心置きなくいける心の準備ができた。この鶴を意味があるものにできた。


 鶴達は存在の意義が出来たことを喜んでいるのか、部屋に散乱する色とりどりの折り鶴が心なしか私に笑いかけているようだった。


 やっと、折れたね。やっと、ここまできたね。よく頑張ったね。


 そう言っているように思えてならなかった。翼もお腹も畳まれたままの鶴達は、私を囲って、未来を顧みる。届けてくれる、と思うと頬袋が熱くなった。


 じめじめした部屋の床に座る。

 傍らには教科書の入った鞄がある。中には今日の教科の教科書とノートだけ。他は部屋の棚にしまっていた。しかし、その棚は、今はすっからかんだ。棚に立てられていた捨てられなかった教科書や本の類は鶴が折れる見立てがついた時点で資源ごみの日に順序立てて捨ててしまった。捨てる前に、その紙類の一部は折り鶴に変えた。今、私の周りにあるのは、その紙で作られた鶴も含まれている。本の文字が刻まれた鶴。一色の染まった鶴。厚紙の鶴。友達の手紙で作った鶴。全ての紙を使った。


 私のお財布の中身は一銭たりとも残っていない。私の物を捧げて、鶴を作り出した。


 部屋の中は埃一つないくらい綺麗になっている。これも私が掃除をしたからだ。家族に悟られないように毎日コツコツと身なりを整えた。服も、娯楽品もここにはない。私にとって、いや、この家にとって必要ないものは片付けた。


 私の心の整理もついた。私には目の前しか見えない。生きる意味も死ぬ意味も、決着がついてしまっている。


 真っ暗闇に敷かれたレールを辿っていく。まっすぐしか私の目には写っていない。この道しかない。閉ざされたくない。そのまま進む。そのまま、目を向ける。


 結局一人ぼっちの私を誰も慰めない。これでいい。

 迷惑はこれ以上かけたくない。この先の迷惑は私の死、一つで充分。


 私の心は満たされていた。これまで以上に。これほど澄み切った色をした事がないほどに。私は幸せだった。


 生きていて良かった。死ぬことができるって幸せなんだ。


 温まる心に尋ねる。


 どこで死にたい?

 どうやって死にたい?


 まだ答えはでない。

 ラスト一羽は答えがでてからにしよう。


 姉が家を出る音がする。家のドアが大きな音を立てて閉まる。私より姉は早くに出かける。この折を見て、私は出発する準備をする。最後の朝の支度だ。軽い鞄を肩にかけて、散らばった鶴を飛び越える。この部屋から出る前に、部屋の床に放り出された鶴にちらりと一瞥する。



 さよなら。



 長い間お世話になった折り鶴達が呟く。


 私の部屋の机の上には、最初の一羽がお腹を膨らませ、翼を広げ、でんと座っていた。まるで、この部屋の鶴の長のように威厳ある風格で顔を向けている。この鶴の懇談用紙は、私の物だ。私に配られた紙だ。彼は私の逃避行動の発端を担っていた。彼を作ったのは私。誰でもない、この私だった。


 それなのに、これを作った人が別にしていた。一体誰を当てはめていたのだろうか。



 あれ。本当に誰だっけ?



 まあ、どうでもいっか。


 生きる意味を私に授けてくれた鶴にぺこりと頭を下げた。


「ばいばい」


 今生の別れを惜しみはしない。

 私は羽ばたける嬉々を感じていた。



          (999)



 最後の紙束をゴミステーションに置く。夏の日に捨てるのは珍しいようで、私だけの紙束しか置かれていなかった。それも珍しい教科書の数々。姉が先に行ってくれたことを幸運に思う。こんな状況見られたら絶対に私のしようとしていることを止められる。どれだけそれが理不尽な方法でも、姉にとっては私を止められればいいのだから。私の感情がそれで止められるのならたまったものじゃない。それで止められるはずもない。止められてたまらるか。


 ちらっと辺りを見るが、朝早いのか誰も居ない。


 私の日常のヒトカケラさえこのゴミの前にはないのに、それなのに、これもまた一日の一環のように感じられてしまう。今日逝くのに。そこには狂った拍子も状況も感じない。無味無臭の香りが漂っている。



 さあ、これも最後だ。



 そう思えば少しはこの日常が和らぐ。心が澄み切る。

 そうして私は歩き出した。鞄を背負いなおす。鶴は鞄に入っていないせいか軽かった。よく歩みが進んだ。



          (999)



 白い巨頭のように佇む高校に突き進むと、見慣れた生徒が前に居た。下駄箱の前でずっと何かを待っているのか、そこから一歩も動かない。恨めしいのか私に気付いたら、涙を含ませた表情で私を見つめてきた。私に助けを請うているのは分かっていたけれど、私に何かができるわけではない。どうしてほしいのかも分からない。だから、じっと睨み返しただけで無視して私の靴箱に手を掛けた。


 グレーの開閉式下駄箱は中が分からない。上履きはとっくの昔に卒業してスリッパが入っている。これが私の高校の指定された上履きだ。

 靴を脱ぎ、上履きに履き替える。


「一緒に逝っていい?」

 突然誰かの声が、聞こえた気がした。


 履き替えに俯いていたので、そっと声をもっとよく聞こうと顔を見上げる。いつの間にか長くなっていた髪が私の目にかかる。


 そこにはいつもノートを借りていたあの子の姿があった。さっきから靴箱の前でじっとしていただけの子だ。この子と関わるのは鬱陶しいし面倒なだけだ。今日に限って構ってきてほしくはなかった。構いたくないはずだった。



 今日、私は死ぬのだ。逝くのだ。



 彼女は私に気付くと怖々と尋ねて来た。


「一緒に行っていい?」


 そんな言葉で私を惑わせないで。まるで私の妄想だ。どんな姿をしたって変わらない、幻想だ。幻想に力などありはしない。


「えっと……」彼女はどもる。


 彼女一人に力などありはしない。私が居たところで、彼女への薄っすらとした集合体の攻撃が弱まりはしない。その攻撃を彼女と共に受けるのが吉(きち)となるのか、どちらかと言えば彼女と共に受けない方が私にとっては吉(きち)となるだろう。だが、今日は記念日なのだ。いつも通り過ごすのは着地点を失い、蛇行するようでいただけない。オチが意外なほど今がはっきりとする。


「仕方ない。今日だけだよ。」と心の中で私を納得させた。


 私の存在が彼女の中の穴になるのを楽しみにしている私がいるとした。ぽっかりと空いた今の私の存在が、私が居なくなった後、彼女の中で具体的な形を成すことを思うのがどれほど、奇妙にも心地よいものだろうか。考えるだけで吐き気がする。


「いいよ。それにしても、どうしたの?」

 彼女のいじめが起きていることを知っていながら私は意地悪く尋ねた。

 

 どうでもいいことを彼女の口から、出したかった。どうでもいい日常を此処で如実に表してくれればもっと生きていることに黒い闇を落としてくれる。私の虚無感を煽ってくれたらいい。



「優しいね」



 たった一言だった。彼女はそう私に笑いかけた。

 思いもよらない言葉に狼狽えて、目を伏せた。彼女のことを散々心の中で罵って来たのに、彼女は一言告げた。


 そんな訳ない。私はこれから彼女にも、世界にも私にも全てに対して復讐するのだから、それらに賞賛なんていらない。この行動に良い意味なんてないのだから。私は優しくなんてない。


 黙る私に、彼女は何も答えない。

 その仮面の裏にはきっと笑みが含まれているに違いないのだ。私を馬鹿だと蔑む彼女の笑みが。きっとあるのだ。



          (999)



 私と彼女は一緒に教室に入った。しかし空気は張り付きもしなかったし、突き刺さるような視線もなかった。息苦しい空気を体現し、広がっていた。いつものことだ。


 私はすぐに自分の席に座る。ぽつりと傍らにあるのはあの子の席だった。あの子、つまりはいつもノートを借りに来る彼女の机の上には今日はチューリップの球根が二個供えられていた。土がついたまま、彼女の席を占領している。


 菊があるように一瞬見えた。


 誰の席だと思い込んでいたのか、ちょっとだけ思い出して、でも途中でやめた。傍に居る彼女は思い出せない彼女ではない。自殺した彼女はいない。自分で決めたことを後は遂行するだけ。他の誰でもない私自身で、彼女は、あの子は血塗られた棺の中で待っている。


 何故か何かがぐっと込み上げてきた。喉の痛みに唾を飲み込み抑えた。


 彼女の机の上には球根。白い根が髭のように球根から伸びていた。


 彼女は立ち尽くす。ただそこに球根があっただけだ。それをどければいいだけなのに、それをしない。そこにある現象を飲み込めず、ずっと立ち続けている。目の前の状況を頭の中で否定している。このクラスの空気に馴染んだ時、そうしているしかなくなる。ぬるま湯につかっていたある日そこに現れる攻撃の矢に対応できない。


 空気が重い。私の嫌いな空気だ。これを肯定してしまう、しなければならない空気だ。私を殺すことになるだろう空気だ。嘘も本当もどこにもない。事実だけが転がっている。


 仕方ない。私達はこういう世の中で生まれて来たのだから。これに順応して大人になっていくのだから。そして順応できなかった子供は自分で首を吊る。

 仕方ない。私はこの空気になりたくない。


 鞄からノートを抜き取る。綺麗に板書を取っているページをわざと選び、ちぎった。それを四角形の形にする。四角は三角形に折れる。


「……ねぇ」

 そこに微かな声が遮った。


 傍らの机に茫然と立つ彼女の声だと分かってはいたが無視した。今だけはこの空気を肯定した。この空気から逃れられることなんて出来ない。私にはそんな力はない。世界の理。道徳。正義。大儀にも似た大きな力が肩に掛かって彼女に関わるなんて出来るはずもない。


 私は傍観者。世界の理も道徳も全て見過ごす。見た後に気付く。私が存在する意味はなかったのだと。


 暫くしてチャイムが鳴ると、声をかけて来た彼女をちらりと見る。彼女は平然とその席に座っていた。球根は引き出しに入れて、担任からは隠している。そうして、私と同じようにノートを千切った。そこに何かを書いている。私への恨み辛みだろうか。『どうして助けてくれないの』そう言う手紙だろうか。それとも『助けて』と言う小さなSOSだろうか。


 どうでもいい。


 鶴を折るのに集中した。


 どうして彼女に気を向かせてしまったのだろうか。今は目の前の死にだけ一直線に進めばいいのに。


 三角形の紙を開けて四角形にする。

 どうやって自身を殺そうか。それだけ頭に入れて、最後の一羽を丁寧に折り進んだ。



          (999)



 帰りになると、最後の一羽は折り切れていた。千羽の中で一番の最高傑作だった。翼を広げさそうとしたら、羽根先が鋭く尖っていたので指先を数ミリ切ってしまった。白い指先から一点から血が浮き出る。生きている血潮が、痛みが指を射す。舐めて見ると鉄の味がして、苦い。



 生きることが苦い。



 この血のようにそう感じてしまっていた。


 夏の熱さなんてどこかに飛んでいた。この一日どこか現実の感覚がしていなくて、ふわふわと浮いていた。ざらりと熱風が肌を撫でることもなく、過ごしていた。自然と肌に目が行くが白く透き通っていた。



 ああ。私、死ぬんだ。



 その肌は死人のそれと全く同じだった。知らない彼女のそれと同じだった。むわっとする空気もここにはない。もう私の周囲には生きているものがまとわりついていない。綺麗な空気と、どこにもない空間が辺りに広がっている。放課後なのに、私の耳には野球部の掛け声も届いていない。いつもならある汗の伝いも一滴も滴らない。まるで死人のそれのように私には何も聞こえず、何も感じず、何も口にしなかった。


 立ち上がり、赤く染まる窓に自身の姿をうつすと、白い肌に大きな黒い目がぱっちりと浮いていて、目の下はどす黒い化粧がされていた。唇は色素がなく、赤みが薄い。頬はこけている。がりがりの幽霊のようなその相貌にちょっとだけ笑ってしまった。



「綺麗」



 萎れた花みたいに、散る前の桜のように、そこに写る私が私らしくて、嬉しくなった。良かった。これで、棺桶に空っぽのまんま、醜い私のまんま入らずに済む。迷惑が少なからず小さくなくなる。


 飛び跳ねながら、鶴を鞄に投げ入れ、鞄を肩に掛けた。



          (999)



 嬉しく明るい気分からか、鼻歌まじりに靴箱を開けた。すると、ひらりと一枚の小さな手紙が落ちる。手紙はノート横線が一目で見て取れた。ちらりと見ると、私の名前と、今日球根を机の上に置かれていた彼女の名前が書かれていた。それを取らずに、靴箱から出した自分の靴を手紙の上に置く。


 こんなもの今更いらない。いるのは彼女の中の私の姿。それが私の遺言になる。


 上履きから履き替えた際にもう一度踏んづけた。他人の意志を踏みにじっているようで滑稽だった。これが私なのだとしたら、少しだけ胸が痛んだ。でも一方で知れた喜びが胸いっぱいに込み上げて来た。


 このまま、このまま行こう。



 前進していく。



 学校を出ると野球部の姿。離れると、公道と住宅街。車が幾台か通り過ぎ、ブレーキを掛けた。


 車で轢かれ死ぬことも考えた。電車で人身事故を起こして消えることも、首を吊ることも考えた。リスカは死の確率が少なく、飛び降りは巻き込みや、誰かに見られる可能性が高かった。



 綺麗に死にたい。



 ないのだ。そんな方法。ちょっと考えれば判断できる。死ぬのにみっともなくあがいて死ぬか、そのまま死が訪れるのを眺めて死ぬか、自ら死を望むか、そういう死しか選ぶ方法がない。死の前の状況しか人間にはない。


 どれも同じ。

 なら、私は……


 高校から大分離れた駅近くの橋に辿り着いた。

 ここの橋は川幅が広く、しかし浅い。雨が降ると氾濫して周囲の人を恐怖に陥れるが、夏の今はそんな雰囲気を一切醸し出していない。川から私がいる橋の上までは距離がある。川岸は草が生え放題。その背後には川岸に近づけないようにフェンスが敷かれている。以前に子供が川遊びをして事故があったからフェンスをひいたのだと噂で聞いた。なら、ここから落ちる危険性も考えるべきだ。伝えるべきだ。


 私なら、出来る。


「本当に、そうだったらなあ」


 以前誰かが言っていた。

『そのうち綺麗に死にたいなんて言えなくなるよ』と。

 まさにその通りだ。どういう死に方だって変わらない。今死ぬか、後で死ぬか、の違いだ。だったら、私は無力感に浸され、死を選ぶ。子供のまま逝く。それが最残の一手。たった一つの私の生きる意味。死ぬ悲しみ。


 鞄を置く。最後に折った鶴は鞄にしまい込んでいた。橋の手すりと向き合った。手を滑り込ませる。ひたりと当てた鉄の手すりに冷たい手は温度を感じ取れなかった。ふっと息を吐き、手すりへと歩みを進める。距離が詰められたら、手すりに両手をしっかりと握らせ、体重を上に持っていく。足を橋にある小さな手すりに掛ける。その距離感のまま足を浮かせた。後は橋の向こうに頭を向け、そのまま……そのまま……



 ずる……




 ずる……





 ずる……


 前転するがごとく前へ。



 風が吹き、視界が開け、橋の下の浅い赤色にきらめく川面が目に入った。

 下へ、頭を向ける。





 さよなら私。























「千鶴」


「私は、此処だよ」



 そこへ向けて落ちていく……























 ――嫌だ。

 誰かの叫びが耳を掠めた。




























 ――嫌だああああ。

















「ごめん」

 橋の下で待つ彼女が苦笑いをし、甘い声で呟いた。

「千鶴」











































「生きて」



 えっ


 何で?

 二人で、一緒に逝こうって言ったのに。




 嫌。

 嫌だ。




 生きたくない。




 何で、そんなこと言うの?

 ねぇ。


 ねえ。

 ねえぇえてば。


「吉ぃ」



 彼女が、あの子が、吉が、橋の下から去っていく。


 待って。


 私を待ってよ。


「吉、吉。よしいぃ」


 手を伸ばすのに、彼女が掴めない。

「よしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

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