七百羽目

 吉なんて実際の所、私の幻想でしかない。言わば彼女は妄想で作られた私のストッパーだ。私の意志のストッパー。だから、彼女が泣けば私の気が晴れたし、「狂っちゃえ」の一言は私が心から欲したものだったから彼女は私に告げたのだ。


 契約したあの日から、いや、とっくの昔に私は死にたくて堪らなくて、おかしくなって、過去に存在したあの子を現実に作って自分に自殺をしようと誘ったのだ。


 それが真実。

 変わらない事実。


 ああ、どうしようもなく無為だ。どこまでいっても私には大事な誰かは存在していない。吉なんて子、私の理想の心中相手なんて、いないのだから。


 虚無感を晒してどうにかなるわけでもない。行動しない事には何にもならない。感じていた絶望はこんなに近くにあるものだなんて、思ってもみなかっただけだ。それが堪らなく自分の無力感を煽っているだけだ。だけなのに、正直心にずしりと重いものが乗っかっている気がしてならなかった。


 いつから昔死んだあの子と私の都合のいい吉と被せていたんだろうか。あの時には既に吉は私だったのに。




 公園のブランコに腰を掛けた。

 辺りは静まり返る夕暮れ。寒さが肌に突き刺さり、帰りを急かす。腰かけた横に置いた鞄の中には大量の折り鶴達。黒い夜の闇がもうすぐ押し寄せてくる。この合間がどことなく吉の存在のようで、安らいだ。


 吉はきっと呼んだら来てくれる。私を励ましてくれたように再びこの公園に笑顔で手を振ってくれる。


 私の理想の姿をした彼女を慕うのは当たり前だった。


 スカートを翻し、美しい動作で彼女は返してくれる。


 それでは、死ぬに死ねない。吉がいる限り、私の選択に重みがある。吉の死の選択の責任放棄は一種の死ねない理由に過ぎない。彼女は私の本能の最後の抵抗だ。根本的には鬱陶しい感情と同じものだ。


 キコキコと隣り合わせになっているブランコが揺れた。風が通り過ぎた。


 過去は過去のまま、思い出は思い出のまま終わるのがいいのだ。この風のように、吉は幻想のまま留めておく方がいい。私の中の彼女の思い出なんて限られているのだから掘り起こすなんて悲しいだけなんだ。



           (700)



 吉は中学の時の同級生だった。彼女は私と同じように笑っていたのだ。

 愛想笑いをして、友達に合わせて、どうしたって強者の立ち位置にはいられなくって。同じ位置の、同じ笑いの同じ友達関係を持った女の子。その当時は彼女のことを見て、自然に不思議と親しみを持っていた。


 彼女となら気が合うのではないだろうか。

 彼女となら本当の友達になれるのではないか。


 それでも、お喋りなんてしなくて、ずっと彼女を見ているだけだった。

 怖かった。その時にはもう既にクラスのグループが出来上がっていて、崩れてしまうのが嫌だった。そうして結局彼女を深く知ることなんて出来なかった。



 無為に過ぎていく日々の中、彼女が亡くなったのは唐突だった。


 このごろ吉が学校に来てないな、なんて思っていたら、突然担任から彼女は亡くなったのだと聞かされた。仲の良かっただろう彼女の友達はさも当然だと言う顔をしていた。


「最近さ声かけづらかったんだ。何か悩んでたって言うのかな」

「てか、明らかに面倒くさそうだったからね。話しかけんなってオーラびんびんにだしてさ、あたしとあんたらは違うって感じでさ。なのにあたしは何にも出来なくて。何かに悩んでたなら聞いてたのに。何で死ぬんだよ。馬鹿」


 葬式会場で彼女の友達は泣きそうな顔をしていた。彼女に罵詈雑言を与えた。

 何でか?それは、彼女が自殺したからだ。


 自殺は最も周囲を悲しませる行為だから、吉の友達は彼女を責めていたのだ。周囲に影響があるこの死は忌むべきものだった。空気がそう差し迫り自殺はいけないものだと肯定していた。彼女はいけないことをしたのだと。彼女は馬鹿なんだと、とう告げていた。


 誰も彼女を良いようには言ってくれない。自殺とはこんなものだとふと悟ったのもこの時だった気がする。吉は生への抵抗をしたのに誰一人として彼女自身を見なかった。彼女を深く見つめなかった。私もその一人だ。


 しかし、今なら分かるかもしれない。彼女が羨ましく思える。吉を使って自殺をしようとしていたからか、その心がふんわりと感じ取れる。触れられる。


 自殺することで、彼女は自分の存在を叫んでいたのだ。絶望して、道を閉ざして、どこにも居場所はなくて、代わりは沢山いて、絶望して、もうどうしようもなかった。自分の存在価値を見出せなかった。死んで人の心に残ることしかなかった。死んで与えられた彼女の迷惑行為に対しての賠償金を自分の価値にするしかなかった。


 お金で換算される生を私はもう否定できない。間違っているかもしれない。でも自分の価値をそれでもそうしてつけられる価値が羨ましいとさえ思える。


 これは私の勝手な吉の死のただの推測だ。彼女が死んだことへの、嫉妬に近しい、いや……ただの嫉妬だ。


 結局、何で死んだとか、遺書とか全くなかったから、彼女の死の真相は判明しなかったけれど、彼女が自殺したのは確かだった。彼女が自殺したことについてだけは学校中に広まったから。

 反対に、何で自殺したか、どうやって自殺したかは噂は流れて来なかった。込み入った事柄は噂には好まれなかったからだ。


 私が彼女にあったのは、数度いや、出会ってすらいないのかもしれない。彼女が教室の中の空間で空気に押し潰されそうになっているのだけを眺めていただけだったから。そう、私はいつも彼女を恨めしそうに眺めていただけなのだ。


 葬式の日、彼女の棺桶の中を覗くことは出来なかった。

 あるいはその中身はなかったのかもしれないとさえ思える。彼女の遺体はもうそこにはなく、私の頭の中に入り込んでしまったのかもしれない。入り込んでいたから、時を隔てて、高校生の現在に私の死の欲望に触れて彼女は私の目の前に訪れたのだろう。


 彼女が私と彼女を重ねたただの妄想だとしても、それでも私は彼女が見えて良かったと思う。自殺した彼女の魂は誰かの心に住み着いていたのだと確信が持てた。これで私と言う人物は彼女の魂に手を宛がうことが出来た。


 それで十分だ。


 きっと自殺した彼女の友達の中に彼女はもう住み着いていない。

 あの葬式の日、何故彼女が死んでしまったのかを知って、そして涙と一緒に彼女を洗い流してしまったのだろう。



 それが、死だ。


 それが、彼女だ。


 それが、自殺で、それが私の悲しみで、それが私の嘆きの根源だ。



 結局は、虚無に帰るのだ。


 どうして、どうやって彼女は死んだのだろうか。首をつって惨めたらしい死に様を見せて死んでしまったのだろうか。それとも、手首を切り裂き、眠るように逝ったのだろうか。それとも、水の中に身を投げ出し、瞼を塞ぎ、息を殺したのだろうか。それとも、線路に立ち一瞬のうちにその生涯を終えたのだろうか。結局は分からないのだ。なのに、感じるのはどうしても分からない虚無感と、今生きていることへの焦り。彼女と私を重ねてしまう安心感に溺れてしまう。


 私は彼女を知らない。彼女がどうやって謝るかも、どうやって笑うかも、どうやって喜ぶかも、どうやって悲しむかも、暗闇に閉ざされてしまっていている。この暗闇をどこへやったらいいのか。どこへ向かわせればいいのだろうか。誰も教えてはくれないし、彼女のことを話せば忘れろと一括されてしまう。


 どうして過去に捕らわれてはいけないのだろうか。過去に捕らわれれば捕らわれるほど、現在を生きる彼らには彼女はいらぬ長物でしかないからか。


 なら、私は彼女に手を宛がう。死を捧げる。彼女と一緒に死んであげられる。



           (700)



 座っているブランコを揺らした。

 耳の奥で微かに彼女の声がする。



『一緒に自殺しよう』



「うん」しよう。


「うん」するよ。




「私もいきたいの」




 ほのかに彼女の笑顔を創造して、微笑んだ。心から笑ってなくても、笑えた。悲しめた。もう散々苦しんだ。


 頷いた。


 最終通達は送った。後は鶴を折るだけ。後は、五百羽折るだけ。そして、一思いに逝こう。彼女と共に。彼女のように。あと腐れなく、自然に、私もいける。



           (700)



 久しぶりに電車に乗ってみた。駅のホームに立つと、電車が迫って来る。此処に飛び込まない理由をここで考えてみた。黄色い点字版の上に立ち、目の前のホームに目を移すと、疎らに人が立っているのが見て取れた。人列に三四人。その中の男の子がこっちを見ていた。見ているように見えただけかもしれない。


 その男の子に見せるように、このまま飛び込もうか。そしたら、彼の心に私の吉への一種の宛がいになるかもしれない。


 ここは、腐ってる。


 この国の若者の死因の一位は自殺だ。私達子供は無力に苛まれてこうして逝くのだ。大人達は決して分からない。理解しない。どうしても人の心を動かせないこの痛みを、悲しみを。彼らは考えない。一票の重みもない若者の意見を。感じられない。


 私はその中の一人。死んで何も変わらないのなら……



 死んだっていいじゃない?



 目を閉じて、一歩踏み出す。この姿を永遠にこの場に刻み込むために、息を止め、唾を飲み込み、鶴の数を数える。


 ……一羽。


 ………三羽。


 …………五十羽。


 ……………百羽。


 ………………四百羽。


 まだ、足りない。


 堪えきれない感情を抑える。


 まだ、ダメ。まだ、鶴は折れていない。

 もう時間がない。


 笑みが引きつる。少年をもう一度見るが、もはやこちらを向いていなかった。やっぱり最初から見ていなかったのだ。


 堪えきれない後悔がある。堪えきれない痛みもある。息苦しい虚無感がある。見られてもいないし、見ていない自分がいる。最悪なシナリオは頭の中で準備が整っている。けれど、鶴が頭に残って仕方ない。あと五百羽。この重みがある。



「折るよ」



 どれだけかかるのかなんてもう気にしていない。全てを捧げる。時間なんていらない。寝ない。そのために、生きたい。



 これが生きる意味。

 私の生きる理由。



 線路下に居る吉の姿を見下げて、答えた。


「これじゃ、ダメかな。私の生きる理由」


 私はまだそっちに行けない。飛び降りれない。降りられない。まだ此処に立っている。ホームでのうのうと息をしている。



 それじゃあ、ダメかな?



「千鶴の好きな理由でいいよ。私は千鶴が生きるなら、一緒に生きるって言ったじゃん。それが、理由なら、答えなら、それでいいんだよ」


 うん。うん。と、何度も頭を下げる。髪が揺れる。吉よりも輝きが放っている、自分の髪は生き生きと靡いている。


「私は、変わらないよ」吉は告げた。


 嘘つき。死にたいって言ったり、生きたいって言ったり、私の心を見透かしたり、何にも本当のこと言ってない。それでも、吉は正しいことを言っていたんだろう。どうしようもない私の心が生んだ死人の幻影に、答えも何もないけど、それでも、私、吉は正しいって思える。

 だって、私なんだから。私は正しくはないけれど、私の心には正しいことを吉は言ってくれていたんだから。



「「ありがとう」」



 吉と私の声が重なる。当たり前だ。彼女と私は同じ人だから。掠れていて、甘くて、厳しくて、大好きじゃなくて、何にも知らない私の中の吉は、本当の吉らしくなく口角を上げて、微笑んだ。


「先、逝くね」


 うん。





 迫りくる電車に線路下に佇む彼女の姿はかき消された。私の前を過ぎていき、電車はだんだんとスピードを遅くする。茫然と目の前に消えていった彼女をおぼろげに思い出す。


 彼女はどんな人だった?

 どんな姿をしていた?


 もうそこには何もなかった。透明の誰かが過って、消えていった。


 夏の冷めた風が背中を冷やす。頬は熱を帯びずに、瞳はぼやけていた。疲れた体は身を屈めて、瞼を数度閉じようとしたが、視界は自然と開け放たれていた。光が舞い込んでくる。温かい太陽の日光が瞳に突き刺す。眩し過ぎて目を細めて、蝉の悲鳴が合唱する空気に耳を澄ました。

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