四百羽

 朝、今日も一日嘘にまみれた空気に浸るのだろうと、教室に足を引きずりながら入っていった。教室の酸素は少なく、息苦しい。


 自分から誰かと喋るなんて自分の首を絞めるからもうしないが、それでも入った瞬間、この空間の異常には気づいた。


 あの子の机の上に菊が飾られていたのだ。

 白い美しく淡く輝く菊が。


 その瞬間、背中の汗のにじみは嘘のように消え去り、額に冷気を漂わせた汗が伝った。



 あの子は?



 探すけれど、そこには姿がなかった。

 あの黒い制服を揺らした彼女はどこにもいない。あの白い肌が見えない。



 どこ?



 どこにいるの?



 目を見張って教室中を見回す。



 いない。



 いない。


 あの子はどこにもいない。

 教室の空気が肌に刺さる。張り付いた緊張感に、鳥肌が立つ。

 あの子はいない。

 机の上に飾られている菊が目の前を真っ白にする。

 いない。

 鞄の中の千羽鶴の重さで肩が下がる。


「吉?」


 口の端を引きつらせ、笑ってみた。


「そんな子、うちのクラスに居ないよ?」


 吉と仲が良かった二人が嘲笑う。

 吉にいじめの番が回ってきてしまったのだろう。吉の机に飾られたこの菊は吉がこの教室にはいらない存在だと示していた。

 彼女はどこに行ってしまったのだろうか。死んではいないだろうか。



 待っててくれてる自信なんてなかった。



 一緒に逝こうなんて、言ってはいたのに、いざとなれば私は彼女を疑っている。


 鞄が重い。肩がずり下がる。次第に傾く視界に体が追っていく。力が入っていないことに気付いた時には、目の前が真っ暗になっていた。


 あれ? 昨日寝たっけ?


 今になって気づくには遅すぎる。

 千羽鶴、まだ全然折れてないのに。

 まだ、寝るには早すぎる。



          (400)



 心からの笑顔なんて最近はとんとしなくなった。

 愛想愛想で誰に対しても愛想をまき散らしていた。家族も、友達なんて以ての外だ。

 そうしないと死にたい以外思いつかなくなっていて、暗い顔を見せて笑われるから、仕方がなかった。



「生きる意味を下さい」



 泣いているみたいな震える声で弱音を吐いた。

 もうこれで最後かもしれない。生きる意味を探し当てるなんて不可能だったんだ。

 吉は何を思ってあのフェンスに立っていたのか、どうでもいい。


 どうでもいいから。



「誰か、救って下さい」



 早くこの生き地獄から抜け出したかった。


 どこにもない答えがそこにあって、売れ残った感情がそこにあって、私の世界を揺るがす。納得できない全ての事柄が私に生を急かす。


 誰も救ってくれない。誰も救われない。

 私の声は小さな小さな群衆の中の声で、悲鳴なんてかき消されるのだ。死んだって変わらない、変わらせない。分かっていたから、私は彼女の手を取った。分かっていても取ったのだ。


 そんな彼女が教室に居ない。一緒にいこうと言ってくれたのに。彼女はいじめと言う傍観者としていた罰からどこかに隠れているのかもしれない。


 それなら、彼女は生きている。

 生きてなきゃいけない。生きてる、そこに居る。


 彼女を探しに行かなければ。


 見つけなければいけない。



          (400)



 質量のない歩みと共に、教室を渡り歩く。どこか夢のようでふわふわしていて、目がぼやけていた。しかし、足元の冷たい床はしっかりと感じとれた。見れば裸足で廊下を歩いていた。ひたひたと冷たい感覚が足に吸い付き、水で浸されている気がした。


 水に溺れていくなら、息を止められるならどれだけ良かっただろうか。溺れるよりも、自分でない人を演じるよりも、生きることがどれだけ辛いのか、息苦しいのか、分かっていた。


 ここはどこだろうかと辺りを見渡した。

 どこかの廊下だ。どこかで見た廊下が視界に広がっていた。引くタイプの扉が廊下の端に連なっている。ドア、と言っていいかもしれない。ドアには曇りガラスが備え付けられていて、部屋の中が見えなかった。部屋に前後に一つずつ備え付けられてある。


 ここは学校なのだろう。

 遅れて理解した。どこの学校か、少なくとも今通っている高校ではないのは確かだった。でも、見慣れた懐かしい雰囲気を醸し出している。



 ーー私は此処を知っているのかもしれない。



 病院のような白い壁が続いている。まるで隔離病棟みたいで、吐き気がする。息が詰まる。誰一人いないのに、見られている気がした。此処で自分を演じろと、心の中で叫んでいる気がした。

 高校で似た感覚であるのは確かだ。


 人は一人もいない。私一人だけだった。静まりかえる空間の中に放り出されている。人の気配さえない。


 暫く歩くと、足が止まった。ある教室の前で、当たり前のように止まっていた。慣れ親しんだことのように体がその教室の前で固まった。体が赴くままに、手がその教室のドアに掛かる。すーっと引く。


 途端に目には赤みがかった影が映し出された。教室の窓から夕日が差しかけていた。窓は開け放たれていた。薄く細い白の透けたカーテンが、スカートが翻るがごとく靡いている。風が突き抜ける。置いてある机は、整然と並べられていた。一個、二個、三個、寸分の狂いもない机の位置に、既視感を覚えた。



 ーーあの日に戻っている。



 あの日とはどの日かは分からない。覚えてはいないが、『あの日』と言う単語が頭の中で定まっていた。忘れているのだろうか。もしかすると忘れさせていたのかもしれない。思い出したくなかった。けれど、自然と漏れ出してきていた。あの日なんだと。


 ふとここで彼女を呼ぶと、此処に来るような気がした。お母さんがいなくなった日、現れたみたいにとことこと現れて、深い隈を携えて「千鶴っ!」と気軽に挨拶しに来る、そんな気がした。

 どこにもそんな確証はない。何故かも分からない。でも口が動く。


「吉?」


 でも、いない。呼び出してもやって来ない。

 あの自販機での彼女の白い肌はもう見れない気がした。

 どこにも吉はいなかった。



「千鶴」



 呼ばれて気がして、振り向くが、夕日が背中を押しているだけで、冷たい空気が漂う廊下だけが広がっていて、すっからかんな日常を写しだしていた。


 足が冷たい。もじもじと足の指を上下に動かす。すると、一線の透明な線が足先に当たった。その線は広がり、温かく足を包んでいった。水が足を包んでいく。周囲を見渡せば、床に薄く水が張られていた。足を上げ、下げると、ひたっと水が跳ねた。不思議と居心地が悪い気はしない。気持ち良いとさえ思えている。この感触をもっと感じ取ろうと教室の中に入る。一歩一歩踏みしめた。


 何故だか分からないが、頬が濡れていた。熱を帯びた塊が頬袋に溜まっていく。目がぼやけてくる。最初のぼやけた視界などではなく、目が掠れて仕方がない。


 そこにはいない誰かを思うと、真実に近づこうとすれば、目が痛んで仕方がない。心が丸まってしまって、一層死にたくなる。ただ純粋に、死にたい。


 今思えば、彼女は私の半身だった。彼女が笑えば私は泣くし、彼女が泣けば私は笑う。そして、彼女が死を望めば私は生きることを望んだ。



 今は違う。



 彼女が提示した生きる意味を私ははね除けた。彼女が生きてもいいよと言ったのに千羽鶴を折り続けた。止まらなかった。


 生きる意味なんて最初から求めていなかった。

 生き続けている意味を求めていた。

 死んだように生きる意味を探していた。


 鶴に願ったのは生きたい意志そのもの。あの鶴を折るたびに私は心を失っていった。


 全てが憎い。世界も。自分も周りも。記憶も遺伝子も。感情も。無くなってしまえばいいのに。見えているもの全てに絶望したんだ。


 千羽鶴が教室に流れて来た。温かい水の上にお腹をでっぷりと太らせた鶴達が私の足をつつく。傾げた鶴の顔は私の曖昧な折り方で疑問符を浮かべているみたいだった。翼は顔とは真逆にぴんと立ち、今にも飛び立ちそうだった。


 流れて来た鶴を踏まないようにまた踏み出した。瞬きすると、菊が机の上に添えられていた。彼女が好きな白い菊だった。


 ーー違う。


 私が好きな白色だ。真っ白い、淡い色のあの日の菊だ。


 さっき吉の机の上に飾られていたあの菊だ。黒い喪服を着れば、見ることが出来る何一つ、おかしなものでもない白い菊。


 瞬きを繰り返す。ぼろぼろと涙の雨が瞼の裏から降り注いだ。大粒の雨が何故降っているのか分かりはしない。分かりたくない。知りたくない。耳を塞ぎたい。



『一緒に自殺しよう』



 吉が目の前の机に座っている気がした。

 そこにいる気がしてならなかった。

 居なきゃいけないと思った。


 今現在の高校の席に私の姿が映し出された。目に浮かぶその光景は千羽鶴の契約をした時と全く同じだった。


 その前の席には誰も居ない。


 私の机の上には、懇談会のプリントで折った一番初めの鶴があった。


 吉はもういないのだ。この世にいないのだ。



「違う」



 私の口から、唸るように言葉が漏れだした。



「そうじゃないでしょ」



 吉の声だと一瞬思ったが、私の声だった。掠れていた。涙が口の中を満たしていく。塩辛い味がした。塩辛い海が口内をかぐわした。機械が故障したように声が変わる。


 そうだ最初からそうだった。彼女はもうこの世にはいないのだ。いじめにかこつけてうやむやにしようとしている脳がある。動いている。邪魔なノイズが遮っている。でも、それを取り払わなければ、次にいけない。


 彼女はストッパーだった。私の最後の要だった。だから、彼女は私に鶴の話を持ち掛けた。死にたくなかったから。まだ生きていたかったから。

 だからかもしれない。だから、信じてしまったのだろう。いや、信じていたのだ。そこにいるのだと。まだ生きているのだと。




 此処には最初から少女が一人だけしか居なかったのに。




 少女一人。

 鶴で約束した。

 居もしない少女と二人で一緒に契約を交わした。


 その教室には少女は一人。


 すとんと教室の真ん中に白い棺桶が置かれた。瞬きする間にその棺桶は落ちて来た。置かれた机二つを長い棺桶で橋渡しする。赤い日が教室全体を照らし出す。


 思い出して、彼女はどういう人だったか。

 問いかけるとすんなりと胸に吉が語り掛けて来た。


「あなたなんか知らない」


 本当の吉ならそう告げるだろう。


「私も知らない。だって、あなたが死んだ時は突然だったから」


 あの日だ。突然彼女の死は告げられた。その死因は知っている。あの日は、中学二年の時だ。私の今着ている服は中学生だった頃の黒いセーラー服だった。この夢の中では、この教室の中は、中学の頃のままだ。


「仲良くもなかった。友達なんかじゃなかった」


 棺桶の中を覗き見ようと近寄る。足元の水嵩が増していく。足首までに上がっていた。水を押しのけ、歩み寄る。ゆっくりと、その真実を確かめようと、息を飲み、胸の中の火をくゆらせる。


「私はあなたなんか知らない」


 吉と言う名前だけしか知らない。教室の中の彼女の笑顔しか知らない。


 赤い赤い、血のような赤が私の目を突き刺す。光が射る。水にも赤が乱反射する。揺蕩うだけの身じゃない。もう、立ち止まれない。進むしかない。眩し過ぎて、目を閉じたくなり、目を細める。


 折り鶴が足を敷き詰めんばかりに大量に流れてきた。水を埋め尽くさんばかりの鶴を踏まないようにするのは出来なかった。鶴を踏み、水の中に追いやる。


「私が知っているのは、一つだけ」


 知るしかない。知らなければならない。吉は、どんな人だなんて、興味じゃなく、一人の人としての最後のたがを外すために。今はこの記憶は不要だった。


 吉なんていらなかった。


 棺までやっとのことで辿り着き、四角い箱の中を覗き込んだ。



「吉は中学の時に自殺したってこと」



 白い棺桶の中は空っぽだった。



          (400)



 熱い瞳を徐に開けた。薄く開けた瞼の間から眩しい光が入り込む。天井が見えた。白い天井。隣には仕切りの淡いピンクのカーテンが引かれている。


 体がふわふわしていた。まるで宇宙に居るみたいに浮かんでいる。汗ばんだ背中だけが感じ取れていた。上半身を重力に反して上げてみる。


 傍に折り鶴と折り紙が押し込まれて膨れ上がったスクールバッグが置いてあった。その横に上履き。


 知らないうちに倒れてしまっていたらしい。頭が重く、動かすたびに絞めつけられているようにじんじんと痛んだ。


 ああ、生きてる。

 痛みがあり、此処に居る。そして、ここに命が残っている。


 上履きを引き寄せ、足を通す。グラつきながらも立ち上がり、鞄を肩に下げた。鶴の重みがいつもより重く感じられた。

 カーテンを開け、保健室の先生に「大丈夫?」と聞かれたので「大丈夫です」と返した。


「寝不足かしら? 十分に睡眠とってる?」先生が尋ねてくる。


 私に休みをとる暇なんてない。生きていてはいけない。そのためには折り続けなければならない。生きる意味を探し続けるのを逃げるのに必死なのだから、寝るなんて時間なんかなかった。


「最近、夜更かししてしまって、でも大丈夫です。今日はたっぷり寝るんで」


 嘘を一つつく。空気に押され、嘘が口から滑るようにつけた。


「そう、なら良かった。少し熱があるみたいだから、今日は大事をとって帰りなさい」

「いえ、親に迷惑をかけたくないんで、本当に大丈夫です。このまま居ます」


 私の目はしっかりと先生を見つめていた。此処に居させてと、訴えた。すると先生も許してくれたみたいで、「なら、なるべく今日は安静にね」とだけ言った。


 保健室から自分の教室に帰る道、靴箱に未だに貼られている自分のクラスの名簿表に目を通した。やはりそこには『吉』の一文字すらなかった。

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