百羽目
世界はどうなっちゃったんだろう。
世界の裏側にある不幸は私達の不幸とはおよそ釣り合わない。その不幸は確かに起こっているのだと私達は噛みしめ、感謝を捧げなければならない。ひどく我儘な理論に私は唸り、世界をひっくり返した。
そんな価値観潰して、狂っちゃえ。
吉はその手を添えて、私を導いた。
此処まで聞くと、本当に私の見ている世界は変わってしまった。家の中の空気に圧倒されて、その場にいることが出来なかったあの夜なんか嘘のように、笑顔を振りまき、食卓につけた。感情を壊したからなのか、日常のどうでもいい雑談なんか耳に入って来なかった。ノートを借りに来るあの子には「そっ」とだけ言い添えてノートを手渡したし、周りの関心事が流れるように滑っていった。
吉のおかげで、辛いことからは救われた。
でも、まだ鶴は千羽折れてない。まだ生きる意味を探さなければならない。
折るのは疲れた。もうやめたい。早くこの息の根を止めてほしい。もういっそのことこんな鶴なんて失くして、あの橋から飛び降りれたらいいのに。
机の上の鶴はまだ数羽。家にあるのを合わせてざっと九十羽ぐらいだ。夜通し折らなければこの心のひずみは救われない。空いてしまった穴は埋まらない。日常全てをほったらかしてまで、私は折り続けている。鞄の中にはいつしか折り紙だらけになり、それも足りなくなると、すぐに買いに行った。
足りない。足りない。
感情が蘇る前に、折り鶴のことで頭をいっぱいにしたかった。そうすることで生きられたし、死ぬことを見つめ続けられた。
見続けたい。このまま死をずっと。
全く美しくはないのだけれど、むしろ醜くて汚いこの死を覗き込んでいたい。
私の世界は歪んでしまった。ただ純粋に生きたい心は既にそこにはない。死と生が心の中で渦巻いていた。
感情に湧いてくる全ての願いを千羽鶴に込めている。
(100)
帰りに駅の前を通る。ごごごごと猛スピードで駅に止まる電車を見かけて、一歩立ち止まった。
「吉?」
線路が明け透けに見えるフェンスに吉の姿があったからだ。
吉はフェンスに寄りかかって、通り過ぎる電車を眺めていた。灰色の電車は出発時刻と同時に駅に止まる。そこで、かっしゃんと大きな音がして、目を逸らしてしまう。それがフェンス方だと分かると、恐る恐るそこに目を細めつつ、そこを見やった。吉がフェンスにしがみついていた。右手で錆びた四角い形を捻じ曲げる。
何に対して怒っているのか分からない。考えてみようとそっと立ち止まったが、吉の触れてはならないところを触れるのが恐ろしくなり止めた。他人の行動を探ることがどんなにいけない事か、後悔する事か、私は昨日の家庭崩壊から学んだ。
興味を持って誰かに接するのは、愚かしく、恐ろしい事だ。
立ち止まることさえ億劫になり、その場を後にした。話しかけるなんてもってのほかだ。
「ねぇ。何で、無視するの?」
背筋が凍るような声が背後から聞こえた。
「千鶴」
冷たい声。
徐に振り返る。
カンカンカンカン
遠くで踏切の声が甲高く鳴る。駅からは電車が発車するところだった。駅員のコールが立て続けに伝わって来る。線路が軋む音がする。
吉は私のことをじっと見つめていた。
「どうしたの?」
吉の声が聞こえない。だけど、吉の口を見ると何を言っているかが理解できた。吉の後ろにあるフェンスを挟み電車が通る。勢い余って私も聞こえるはずない言葉を口にした。
「吉は、一体何してるの?」
通り過ぎた後は、物静かな風が電車を追って、私達の間をお邪魔しますとばかりに横切った。フェンス下に生え放題の草が揺れる。
「何か言った?」
私の言葉を聞きあてられなかったらしい。
「ううん」被りを振る。「何でもない」
興味を相手に向けたくない。もう一生、誰にも愛されなくていいから、私は傷つきたくない。そのためにあの時笑ったのだから。この言葉さえも余計だった。届かなくてよかったと胸をなでおろした。
「吉こそ、何?」
無表情で告げた。
「いや、千鶴が私のこと見てたのに、話しかけて来なかったから、何だろうって思って。また何かあったの?」
「気づいてたんだ」
吉が聞こえないぐらいの小声で呟く。
「気づいてたよ」
吉は笑った。今度は豪快に。電車が来ても、この声だけはかき消されないだろうぐらいに。
「また」
吉は勘が良いのか、私の気付かれないようにしようとする。思惑通りにはいかせない。
また気づいたの?とおうむ返しに言うのは止め、言いかけた言葉をなかったように私は次の言葉を紡いだ。
「どうでもいい」
あははと吉は笑い返した。
「確かにね」
吉はフェンスから離れ、私に近づいた。一歩一歩近づき、目と鼻の先とまではいかないが、肩幅ぐらいには詰めて来た。近くになるにつれ吉の顔がはっきりしなくなる。
今の吉はどんな表情で、どれだけの辛さを感じているのか。一緒に死ぬ者としては吉の中身まで余すことなく知りたくなるが、それでもぐっと堪えた。
そんな私の耐え忍ぶ意識など露知らず吉が小さく口を動かす。
「此処で世界が変わらないか見てた」
声が鈴のように鳴っていた。
『世界』?
私がひっくり返したこの見える世界のことか、それとも大きな世界つまりは地球のことか、どっちだろうか。
「人身事故、此処であったらさ、駅の中とか、明日この駅の世界観は変わるかなって」
「変わらないでしょ」
当然のごとく世界なんてもの変わらない。
「でもさ、少なくとも私達はそれを知ってるから、人身事故で無くなった子のことに対して、手を宛がうことは出来るよね」
「誰もしないよ。そんなこと」
否定してばかりしていたら、吉が悲し気に眉先を上げた。眉間にしわがちょこんと寄っている。
「千鶴は、しないの?」
「しない」
生きる意味になんて到底できない代物を提示してきたって、私の心は揺るがなかった。
しないんじゃない。出来ないんだ。したって見世物として見られておしまい。誰だって他人と違う意見だと押し黙ることしか出来ない。他人と違うと落ち着かない。同調してしまうんだ。
私も、いや、吉だってそうでしょ?
「そっか」
あっさりと吉は告げた。
おかしなことに吉は何か惜しそうにしていた。何かの機会を失ったのだろうか。
私の中の何かがまた落っこちる。いらない何かなはずなのにどうしてか落ちてしまうと物寂しくなった。
「さっきの、嘘だから」
吉は言い切ると、私の手を無理やり取り、握った。今日の彼女の手は私の手には何の感触もなかった。一方で私の手は暑さが増し、汗が滲む、人に触れられたくない手だ。
吉はこんな手を握って、何がいいのだろうか。どこが好きになったのだろうか。
母に似ているこの手を、温もりを私は好きになれない。
「私、あの電車で死ねたらなって思ってただけ」
その言葉はどことなく後付けみたいに思えてならなかった。彼女は嘘をつける程に、優しくはない。どちらかと言えば本音をさらけ出す方だ。そこには嘘も本音もない。混じり気のない曖昧な言葉を紡ぐ。
「嘘でしょ」
凍てつくような声が私の口から零れた。
吉はただ笑っている。口角を上げて、意地悪な笑みを浮かべ、私の言葉に応えず、そこに立っていた。
(100)
姉が誰だか分からない男と一緒に帰っているのを見かけた。
私の家は住宅街の一軒家で、なんの変哲もない見た目をしている。駐車場は備え付けられてあるけれど、車の姿はない。がらんとした空間が広がっていた。前まではあった車の存在は、今は消えていた。懐かしいあの日と共に、家族の黒い車は走り出してしまった。
その私の家が見えるか見えないかの角で姉は見慣れない男と口論になっていた。私が家の玄関に入ろうかとした時に、姉の影が見え隠れしていたので、もしやと思って、覗き見たのだ。
姉の悲壮に満ちた顔色に、私は血の気を引いてしまう。
もしかしたら、私もあんな顔になっていたのかもしれない。感情を引きずるのは辛いことだ。ややもすれば、自分自身を殺してしまうほどに。私は感情に封をしたから、まだ顔色を保っていられるが、姉ならば肩にかかった重さで心が潰れてしまうかもしれない。
わざと壊れるのと、自然に壊れるのは後者の方が重度の病気だ。。病気にかかっている姉を、息を飲み見つめていた。姉が切り出し、男が憤って姉の腕を握る。姉はあらん限りの力で男の手を振りほどいた。互いに嫌な顔が滲む。男は縋って悲しみ、姉はやるせなさを目に灯す。
そこで姉は男を見限り、こちらに歩み出してきた。
「あら、千鶴じゃん、そこで何してるの?」
知らず知らずのうちに体が固まっていたらしい。姉が家の玄関に来るまで自分がぼーっと見ていたことを忘れていた。
姉と男のいざこざを見ていたなんて、姉のプライベートを覗いているみたいで不謹慎だ。そんな不謹慎なことをしていることを知ってしまったら姉はもっと傷つく。私が生きている間で、他人が傷つくことはしたくない。私は誰かに当たるほど悪い人でもないし、誰かを助けるほど良い人でもないのだから。
「虫が家の中にいて、出てきてただけ」
咄嗟に出てくる嘘が思いつかなかった。見苦しい言い訳がましくなる。
姉は気づくだろうか、そしたら私を軽蔑するだろうか。
「ふーん」姉が鼻を鳴らした。
そうだった。姉はこういう人だった。
他人に自分以上に関心を持てない。私があれを見てようが、見まいがきっと同じく鼻を鳴らしていた。無関心でないと、一家が分裂するあの時に潔くファストフードに誘いやしない。姉だって傍観者で、『醜く蔑まれる傍観者』の一人なのだ。
本当は気づいていたはずだ。母の不倫も、父が家にいない理由も。姉は、知っていた。無関心ではあるが、察しが良い姉なら。私はいつもそんな姉に取り残されてきた。それとも、そんな姉だから、だろうか。同じ傍観者なのに、察しが良く、他人を思いやれないぐらい芯が強い姉はいつも一歩先に進んでいるようで敵わないのだ。
母が出ていった日のファストフード店で、ポテトをかじりながら姉はこう呟いていた。
「ずっと前から壊れてたんだよ」
その言葉が私の心に引っかかってならなかった。私の無知は家族への無関心から来たのではなく、ただの鈍感から来たもので、それがどれほど屈辱的なことか、思い出しただけで頭が沸騰してくらくらする。
壊れるのは一瞬だ。
私が感じた崩壊は一瞬だった。私の崩壊は瞬きするほど速かった。
しかし、姉は随分前から壊れてると感じていた。私はその壊れかけた部分は亀裂に思えてならなかった。誰が亀裂から壊れると予想するだろうか。万人はまた治ると思うに違いない。ドラマだって崩壊した家族は再び蘇る。絆は永遠だって、暗に示している。
終わりはハッピーエンドでなければならないのだ。
ふーん
姉のどうでも良さそうな声。
「お子ちゃまだね」
私の心の主張を聞き姉がそう言っているように見えた。
唇を噛み締める。屈辱的なのは、まだ私の中に感情が残ってること。あるから、悲しむ。辛いのも、興味を持つのも、今すぐに消し去りたい。
「死にたい」
小さく唸る。そうすると、姉は姉らしく、大人しめに笑った。気品あるその態度が、年上なのだと改めて感じられた。
「また、始まった」
また姉の小馬鹿にした言葉が返ってきた。
「私が虫退治するから、退治できたら呼ぶし、此処で待ってて」
そうして姉はドアを開けて、勢いよく閉めた。
どうやら、嘘は突き通せたらしい。退治するにも、小さな虫か大きな虫か尋ねられていない。どうせ、居なかったよ? と帰ってくる。こんな不確かな小さな嘘をついててもついてなくても、姉は怒らない。今は『大丈夫だったから、入んな』と姉が元気よくこの玄関が開けられるのを待とう。虫一つに粘るほど姉も凝り性な訳ではない。きっとすぐだ。
(100)
と、数分立ちっぱなしで待つ。
携帯の画面を開き、閉じを繰り返して、蚊がぷんぷん周りで回っているのを鬱陶しく感じ始めて、それを手で握り潰す。蚊からは朱色の淡い赤が染みでる。そして、また携帯のトップ画を開き、時間を見る。携帯画面から照らされる光が私の顔を突き刺した。顔を上げ、空を仰ぎ見ると、赤い色をした雲は灰色に塗りつぶされ、空のパレットは青と赤の絵の具でかきまぜられ変わっていた。
あきらかに遅かった。もう三十分は待っている。
はっきりとした性格の姉がそんなに一つのことに集中するなんてらしくない。と言うかあり得なかった。この家の中で虫に奮闘する姉の姿など頭に思い浮かばない。絶対にありえない事だ。
このまま入るべきか、入らないべきか、入れば嘘だと分かられてしまうかもしれない。入らなければ、じっと堪えて待つだけだ。本当のことを言えば待つ方が楽だ。じっと焦れて待つのは堪えられるけれど、それでも気になっている。気になっているのは知りたいこと。知りたいのは知らないってことだ。
知らないこと?
キスの味とか、友達の作り方とか?
離婚……とか。結婚とか。不倫とか。
二三分考えて、それでも私は玄関のドアノブに手をかけた。
知らないことの方がどれほど悔しかったか、少しだけ思い出してしまった。私の中の少しだけ残っている感情に押されて、秘密の扉を開ける。
家の中は真っ暗闇に覆われていた。冷たい床は電気で照らされていない。ほのかにすすり泣く声が届く。音をたてないように後ろ手にドアを閉め、靴を脱ぎ、そろりと床に足を浸けた。踏みしめる足が先に進むことを拒絶している。いつもなら鬱陶しい蚊が耳元で悲鳴を上げるのに、一切聞こえてこない。泣き声が全ての声を打ち消している。
誰の泣き声か?
そんなの一人しか居ない。父は遅くまで仕事で帰って来ない。母の姿はあの日から私たちの前から消え失せた。だから、姉だ。
立ち止まり、リビングの方から聞こえてくる姉の泣き声にちくりと胸を痛めた。これは私の捨てられない感情の切れ端がそうさせているのだ。言いしれない感情が叫んでる。どこかで後悔しているのかもしれない。それがどんな後悔か分からないし、見つけられなかった。
これからどうしようか模索して、答えが出なかった。
立ち止まってしまった。
姉は何故泣いてるのだろうか。嫌な塊を舌の上に転がさせ、私はその場から再び動いた。この場に居てはいけない気がした。死にたい、生きたくない私には姉の声は余りにも温かみがあり過ぎて、近づいちゃいけないと深く思った。
後ずさり、次の瞬間音をたてるのもいとわず、走り出してしまった。ドアを叩きつけるように外に飛び出す。
姉は少しでも感じたことがあるそれに準じた。私はああはなれない。あんな生き方は出来ない。
(100)
フェンスに感情を叩きつけた。フェンスの向こうは目を光らせ突き進む電車達。群れを作るがごとく揺れる乗客。疲れた顔をしてまで生にしがみつく彼ら。姉と同じ香りが漂ってくる。
感情を引きずってまでどうして生きたいの。
教えてほしい。
教えて、私の生きる意味足りえるかは分からないが、それでも何も知らないことが辛くて仕方がなかった。
いらない。こんな痛みも、笑みも、悲しみの涙も、嗚咽も、全て殺して、放り投げて、あの電車の前へ。
ああ。
電車が通り過ぎる。
砂利道の上に敷かれ錆色の線路は軋む。そこに放り投げられた私の感情全てを轢き殺して、過ぎ去れ、過ぎ去ってしまえ。死んでしまえ。
ああ。
何でこんなに虚しいのだろうか。
「愛なんてあるからお姉ちゃんは辛いんだ。辛いから泣くんだ。だったら、何でこんな感情持ってるの? 捨てちゃえよ。いらないでしょ」
姉はなんでそうまでして泣くのだろうか。感情なんて放棄して、他人の心に無関心でいるように、自分の感情も捨てればいいのに。何で、何で。そうまでして、生きていたいの? 私なんていらないの? 家族なんて知らないなんて、言ってる私がいけなかったの? 感情を放棄する方が悪いの?
ごごごごごごごと目の前に大きな塊が通る。私のスカートが揺れる。伸びっぱなしの髪が散っていく。黒く靡く髪に母の髪色を思い浮かべてしまった。
いらない容姿に、いらない残りかすみたいな感情。こんなもの全て失くしてしまえたらいいのに。
きっと此処で吉はこう思ってたに違いない。
「終わっちゃえ、世界」
私と言う一つの世界は滅亡して、母と言う遺伝子は消滅して、この虚無感も、感情も、何もかも投げ捨てて、願った。何に願うだろうか。無宗教の私にはもっといい神様が居たらいいのだけれど、今は全然思いつかない。神なんていない。吉より美しい姿態をしている者も居ない。
なら、私は鶴に願おう。
「壊してよ、こんな私なんて」
指をフェンスに引っ掛け、その場に崩れ落ちた。
掠れた声の間から漏れ出るは、小さく嘲笑う声だった。
私は呪いにかかっている。生きる意味を見つける呪いに。それは鶴を折らなければ、解けない呪いだ。
「折らなきゃ」
折ったら、私の願い《呪い》はかかってくれるだろうか。
考えるだけ無駄だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます