五十羽
吉と話をしていた。
「首を吊るとね、下からいろんなものが漏れだすんだ。例えば、小とか大とか」
そこまで聞いて、私は耳を塞ぐ。私が首を吊った姿を頭に思い浮かべて、汚い死に様が思い起こされたのだ。
首を吊るのは簡単だ。首に縄を引っ掻けたらいい。そうすれば、呼吸を無理やり止められ、一思いに意識を飛ばせる。飛んだ後は自然と体は息絶える。そして下から排泄物が垂れる。腐敗が始まり出して、それからは遺体として扱われる。その遺体が発見されるまで待つ。発見されると家族は愕然とする。傍らには遺書が置いてある。
何で死んでしまったんだ。ばか。
遺族の囁きが耳の近くで鳴り響いてきた。
「首吊りは、なし」
綺麗ではないのは明らかだった。
吉は私の言葉に落ち込みもせずに次だ、次と言わんばかりに続けた。
「じゃあ、リスカとか」
いつものように私の前の席に座る吉は右手首を見せ、突き出した。そして左の手の爪を突き立てて、右手首を掻っ切る仕草をする。その仕草はどこか初々しさがあった。そんな角度で切ったとして、果たして手首を切れるのか、疑問だ。
「手首を切って、大量出血を狙うんだ。こう、お風呂の蛇口を捻って……」
お風呂にお湯を溜めて、手首を深く切って、どっぷりと水の中に切った傷口を沈める。赤い鮮血は水中に流れ出しとめどなく漂い続ける。
切った本人は最初こそ痛いけれど、命の線を水に浸した後は、眠るように逝ける。
「でも、リスカで死ぬ確率は低いから、自殺未遂で終わりそう」
私が指摘すると、吉は残念そうにしていた。
まだ五十羽しか折れていないのに、何故か私達は死因を考えている。それはひとえに私の気持ちが死へと傾いてしまったからだと思う。理由を持つとすぐに受け入れてしまう。崖っぷちに立っているだけで未だに死ぬ決心や生きる決心はついていないけれど、それも時間の問題だった。
鶴を折るのに慣れてきた。喋りながらでも手が鶴を折るために動き出す。頭で思い描かなくても平気になっていた。
「他、考えよっか」
吉が私の顔を覗き込んだ。
リスカが一思いに死ねない要因なら、美しい死として成り立ってはいない。他を探すしかない。
「他、かぁ」
他を思いつこうにもない。
生きる意味を探す身としては、死因を思うには早いから、とどこかで歯止めがかかっている。
だが、鶴を折る手は一向に止まらなかった。
こんな日々をなんと形容したものか。青春としてはどこかほの暗い。そもそも青春と呼ばれるものからかけ離れた生活をしていた。今の方がよっぽど青春をしている気がする。なら、ちょっとおかしな青春、私のねじ曲がった、歪んだ青春なんだろう。
ふふ。
心の中で嘲笑ってしまう。
変だった。鶴を折る方が生きていて、輝いているこんな日常が不思議で堪らなかった。
こじれた青春にこんにちは。
私は子供のまま、大人になれず、此処で終わるのかもしれない。
でも、それでいいのだ。私はこれで幸せだった。
(50)
帰り道に橋の上を通る。
下は大きな川がとめどなく流れていて、雨が降った日などは川の氾濫が恐れられていた。それぐらい川幅が広く、橋から川の間が狭かった。
昔は川の傍で遊ぶ子供の姿も見られたが、川で事故があってからか、川には近づかないよう岸にはフェンスが敷かれるようになった。だが、この橋の上には手すりしかなく、それも子供が越えられないようにした小さなもので、飛び降りようと思えばここから飛び降りられるものだった。
今は鶴が折り切れてないから、そんなことはしないけど。
橋をを渡ると、さっと通る風が私の髪を揺らした。生きている限りこの風に触れる。優しく頬を撫でる。この風がいつもいつも私の心に落ち着きをもたらした。暑い残暑の中だからか、風が一層増したよう。
そんな時ふと私が吉と話している内容が突飛な事であるとようやく気付けた。
気づくのが遅すぎたのかもしれない。私はいつの間にか吉同様に死に向かい一直線に思い詰めていた。綺麗に死にたい、鶴が折れていないとさえ思わなかったら、あの場で死を了承して心中していたかもしれない。
なんてことだ。
生きるタイムリミットは怒涛の如く流れ出している。つまり鶴のおかげで生きていると言っても過言ではなかった。
驚きのあまり足を止めると、背後からすたすたと同じ高校の男子が一人で歩いて来て、じろりと私の方を見た。だけど、彼は足は止めずに橋の終わりまで急ぐ。
蚊がぷ~んと耳近くで鳴く。どうやらあの男子がこの蚊を連れて来たらしい。
ぷ~んぷ~ん
私の周で回り飛ぶ。悔しかったら殺してみろ。そう言っている。悔しいので片手で握りつぶそうと、目で音を追うが追いつかない。首を振りかぶる。見つかったが、今度は手が追い付かない。
ぶんぶん
手を蚊が飛んでいるところに振り、握る。こんな蚊一匹に躍起になっている。
数分同じことを繰り返して、握った手の中を見るとたっぷりと血を吸った蚊が潰れていた。潰された蚊から男の子の血か、私の血か分からないが、赤い汁が染み出ている。
蚊は、生きるために血を吸っている。
私は死ぬために鶴を折っている。
下手したら、私はこの蚊よりも私は卑劣なことをしている。
そんな蚊に「何で生きてるの?」とか問いかけても、意味はないのだろう。
生きる参考にしようにも、蚊には意識がない。そもそも彼らは本能によって生かされているだけだ。本能のままに生きたいと感じて、彼らは生き血を吸っている。それを参考にしようものなら、人間も生きることについて放棄すべきことなのだ。本能のままに人間は子供を生み落とし、子孫を繋ぎ、その後朽ち果てればいい。それなのに、私達は何で意識を持ち続けなければならないのだろうか。神様はなんて残酷なことをしたんだろうか。本能のままに生き続けられたら、こんな凄惨な息苦しさもないまま男と交わってそのまま死ねたのに。
考えるだけ無駄なのは分かっている。でも、止まらない。
生きることを考え続けるのが、辛い。
「千鶴」
後ろから背中を押された。
こんな乱暴事するのは一人しか居ない。
そっと振り返ると、髪を金色に染めた姉の姿があった。
後ろからハイタッチ代わりに背中を押すのは私の姉の特徴だった。
「帰り?」
姉が横に並ぶ。そこから歩き出す。私は手に張り付いた蚊を払い落として、姉の歩調に合わせた。うんと返す。
「お姉ちゃんも?」
「そうだよ。大学の授業今日休講だったから、すぐ帰れたのよ」
私の人生の絶望など知らずに姉は揚々としていた。からからに晴れた姉の笑顔に私は睨み返す。
彼女には私の気持ちなんて分かりはしない。姉の首を掻っ切る妄想をする。続いて、首を絞める妄想をする。どうしたら、死ねるか姉を使いデモンストレーションするが、実際にはしない。
「お父さん何かおかしくなかった?」
姉が妄想を打ち消し、姉の問いかけに耳を傾けた。
「おかしい?」
聞き返すと、先ほどの発言なんてなかったかのように「何でもない」と姉は素っ気ないふりをした。
私はそれに気づけないとでも思ったのだろうか。そこまで言ってしまうと気になって仕方がない。自分だけ知らないようで歯がゆくなる。何とかして姉から聞き出そうと、そっと姉の方を向くが、姉はとっくにそっぽを向いていて、歩くたびに起こる風にうだるような熱さと先ほどのセリフをかき消していた。
結局姉のセリフの真意は聞けなかった。
(50)
家に帰ると、母がスーツケースに服や荷物を詰め込んでいた。
母がお気に入りだったアクセサリー用品も化粧台から余すことなく全て放り込んでいる。母は急いでいるようだった。その手の指に結婚指輪は見当たらない。母が指輪をはめていないことは私にはさして珍しくはなかったけれど、それでも母の行動を見ると、どうしても指輪に目を追わせてしまう。
「どうしたの? どこか行くの?」
姉が先に母に問いかけていた。
地雷を臆せず踏み抜くようで、物事をはっきりとさせたい姉の性格が如実に表れていた。
「家事とか、お願いね」
母はそれだけ言い残し、スーツケースを閉めた。大きなバッグを片手に持つ。
姉はどこかで母の言葉の裏を悟っているようだった。『家事をよろしく』と頼まれ、すぐに深く頷いていた。私は何が何か分からずただ母がこの家から去っていくのを見ていた。玄関の戸が閉められ、そうして化粧台を再び見ると、呪いがかかったような錆びれた丸い輪っかが置いてあった。
それが結婚指輪だと分かるのに数分かかった。
姉の様子は平然としていた。
「お腹空いてない? お父さん帰って来るの遅そうだから、ご飯外で食べない?」
姉はテキパキと母の言ったことを守っていた。普段は私の食など気にしていない。一家団欒で食べるなど、ほとんどない。姉はいつもと様子が違っていた。私に優しく、何も知らない私をこの家の弱者として認識していた。
嫌な予感がした。
姉がちらりとみた携帯の画面には父の文字。
父のメール。
私は世界から取り残されていた。
「駅前のファストフード店とか、どう? この前開店したばっかだから行きたかったの」
その明るい姉の言葉でさえ、今の私には痛みにしかならない。
どうしてそんなに明るく振る舞えるのか、実際のところは分かっていた。
姉は知っていたのだ。日常に入る亀裂を見逃さず、心に留め置き、瓦解するのを眺めていた。何もせず、誰にも言わずじっとその日が来るのを、そうして固唾を飲んで目の前をすぎるのを待ち望んでいたのだ。
私にはそんなことは出来なかった。目の前に起こりうることを一瞬の崩壊としてしか受け取れなかった。
その夜、遅くに帰って来た父の言葉はきっと死ぬまでわたしの脳裏を離れないだろう。
「母さんと離婚したんだ」
「母さんは、違う男の人と浮気していたんだよ」
わざわざ父は憎らしく私達に告げた。
この家には一生帰って来ない母。
それを見過ごしていた父。
前々から母のことを知っていただろう姉。
気づけば、この家は脆いものになっていた。
「母さんはな、お前らを捨てたんだよ」
父の言葉は暗にそう告げているようだった。
(50)
夜遅くに缶ジュースを買いに行くと言って、逃げるように外に出た。
私の心を考慮したのか、姉も父も何も言わずに私を送り出した。
それもそれで、人一人ぐらい私に付き添うぐらいしたらいいのに、彼らはしない。娘一人に夜は危険だなんだと呼び止めておけばいいのに、二人とも私の心には無関心だった。
私なんかいらないのだろうか。ちょっと考えてみて、違うのだと理解した。とっくの昔に家族に向けての関心が薄い家庭だったのだ。気づいていたはずなのに、いざ突きつけられないと分からないなんて、滑稽だった。こうして見ると、悲しくなるくらい私の日常は壊れていた。
小銭を数銭ポケットに入れて、出歩く。ちゃりちゃりと軽快に小銭たちは揺れ動き、私の足取りを妨げる。
重い鎖を引きずりながら歩いているように感じた。
何かを背負っている。こんな小銭ではない、何かを肩に背負い私は歩き続けている。何だろうか、歩いて歩いて、その中で考えてみて、頭の糸を手繰り寄せては、意図は捕まえられない。
そうして、近くの自動販売機に辿り着いた。
自動販売機の横には小さな公園が寄り添っていた。暗い夜空の下ぽつんと遊具はそこにあった。二つ並び立つブランコはキコキコと風であおられほんの少し上がったり、下がったりを繰り返す。その奥の鉄棒は錆びれていて誰の影もない。遊具はたったそれだけ。その公園は砂の上の小さなお城のように建てられていた。
自動販売機の冷たい光が私を照らす。
何を買おうか、決めていなかった。
これからどうすればいいかも分からなかった。
自動販売機にはいくつものボタンが点灯していて、早く押してくれとせかす。確かに早くしないと生き遅れてしまう。その点で言えばこの自動販売機は正しい判断を下してくれた。
どうすればいいか分からないなら、誰かに聞けばいい。
ジュースのボタンを押す前に、私は吉を呼びつけることにした。
携帯片手に丁度いい待ち場所を探す。
ふらふらと揺れ動くブランコが目に入る。そこに歩み寄り、疲れていたのかどしんと体をブランコに預けた。
暫くすると吉が公園にやって来た。
彼女は制服姿のままだった。ひらりとスカートを翻し、自動販売機の前を通る。販売機の人口の青白い光よりも吉の肌は青白かった。人工の灯りよりなによりも、彼女の肌の色は神々しく思えた。私は無宗教だけれど、神様みたいだなってちょっと思ったりもした。
吉は私を見かけると手を振った。大きくも小さくもなく、厳かそのものに振っていた。私が振り返すと、吉は笑った。私も、笑ってみた。
ポケットの小銭が軽くなった気がする。
「どうしたの? こんな時間に」
私が座るブランコの前に吉は立ちはばかる。座っている私は吉を見上げる姿勢になった。
彼女の眼もとには微かに赤く腫れていた。陶器のように滑らかな肌なのに、目の下だけぽっかりと窪みが出来ているみたいだ。
吉も吉で何かあったのかもしれない。そして、私と同じように家を飛び出してきて、どこにも行けずそんな時に私の呼び出し。それなら、吉と私は似た者同士だ。同じ弱者で、同じ傍観者で、同じ子供で、同じく大人になんかなりたくなくて、家族は壊れて、死にたくて、虚無しかなくて、誰にも分からない痛みを抱えて生きてて、教えてもらえない救いを待ってる。
嘘だ、救いなんて生きてる限り、存在している限りないのに。
私達はまだ裕福なのだろう。
家族が居て、ほんのささいなことで悩めるのだ。世界の裏側に居る貧しい難民や、貧困に苦しむ人達、飢えて、このほんの一秒間の間に死んでいく人たちがいる。近くにも虐待を受けている小さな子供や、必死に生きたいと願う病人がいるかもしれない。そんな人達にとって私の不幸など些細なことだ。私達は幸福だ。だって、家族がバラバラになっただけなのだから。身近に母と言う気持ちの悪い人物が成りを潜めていただけなのだから。
私達は喜ばなければならない。
今、こうして生きていることを。
何故?
それなのに、何故辛いの?
胸がぽっかりと空いているの?
何で痛いの?
「辛いの?」
吉が掠れ声で尋ねた。それはもう酷い声だった。ガラガラに潰れた喉を無理やりに使って、捻り出している、そんな声だった。
悲しみが溢れた声。
分からない。
何で裕福なのに、吉はこんなにも悲しい声を出しているのか、意味を理解できない。
生きることは素晴らしい事なの?
この命は、たった一つで、どうして生きていたいと思う人に渡せないのだろうか。分けられないのだろうか。分け与えることが出来ないのだろうか。
生きるって、何?
「辛い時はね、笑えばいいんだよ」
今日の吉はおかしい。声が掠れたり、元に戻ったり、まるで機械の声みたいに故障してる。そんな吉の表情も嘘くさい。いつもの笑みは目に浮かんでない。
「狂ってしまえば楽になるよ」
吉の瞳が近い。黒く暗いどこまでも底がない深い深い水底の色をしている。吸い込まれそうになって、瞬きをした。そして、私は俯きつつ頬を緩ませ、笑った。ほんの少しだけ肩の重みが消えた。
「千鶴らしいよ。いつもの愛想笑いより、どんな笑顔より今の千鶴の笑顔が千鶴らしいよ」
吉の声が降り注ぐ。
「そう、かな」
なんだか心が此処にない気がした。
重いもの全て放り投げて、今はただ此処に空っぽの私が居るだけ。
重みは、私の感情だったのかもしれない。
それはこれから先、大事なものなのだろうけれど、もういらない。踏ん切りがついた。幸福を感じるのも、生きることに希望を持つのも、もう疲れた。
「行こう」
吉の手が差し出される。私は彼女の手を受け取った。
「どこへ行くの?」
聞き返しながら、立ち上がるとブランコが大きく揺れ動いた。
「どこにも行かない」
どちらともとれる、そしてとれない答えだった。それが吉らしくてほんのり温かくなった。
「私、千鶴の温かい手が好きだよ」
手を力強く握られた。
こんな生気が灯った私の手は苦手だった。
「そう? 私は吉の冷たい手が好きだけどなあ」
二人で手を取り合いそれから、公園を抜け出した。暗い夜道を歩きだし、帰路に着くこともなくただ歩いた。
隣には吉、暗くとも彼女の顔は見えた。
「ねぇ、吉」
吉は何も返してこなかった。
「私、前より鶴を折ることが好きになったよ」
住宅街はチカチカと灯りが途絶える。
コンクリートの床を照らすものは街灯だけになった。
そこに二人して影を伸ばし、暗闇を広げた。
「うん、そうだと思った」
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