廃墟巡り 第2話

ある廃病院を訪れた時のことだ。私は郊外のとある田舎町に来ていた。太陽が高く昇っていて、道までせり出して両端に茂った樹々や草の緑が光に映えてまぶしい。まだ目的地からは幾分か離れているものの、適当な場所でバスを降り、そこから坂道を歩き始める。全体的に勾配の多い地域で、登ってゆくのは大変なのだが、仕方がない。歩いてゆくと、数歩ごとに家はさらにまばらになり、代わりに、荒廃した自然が人の気配を吞み込んでいった。


森の中に小径があり、ぽつりぽつりと開けた空間と共に家が点在する。どれも荒れ果てた外見をしていて、もうずっと人による手入れがされていない事がうかがえる。廃屋の何件かはドアも開け放たれたまま放置されていて、中へも入って写真を撮った。これら民家の廃墟の奥に、目的の廃病院がある。都会から外れた場所にあるため交通の不便さからあまり探索されていないようで、この辺りの廃屋も、見た限り外観とは対照的に、比較的内部の状態が良いまま保存されていた。


曲がりくねった道をさらに進むと、目的の場所へ着く。鬱蒼とした森の中に呑まれた病院。患者も、医者も、誰もいない。存在した記憶だけの、がらんどうの場所。緑に看取られた廃病院。


入り口は、鍵がかかっておらず半開きになっている。とりあえずそれを確認し、周囲を見て回る。辺りに人の気配は無い。歩くと、足元に割れたガラスの破片が散らばっていて、砂利とこすれて音を鳴らした。通用口が裏手にあり、こちらも鍵はかかっていないようで、手をかけるとややぎこちないが開くようだ。奥には通路が広がっているようだが、中は暗く、奥まで見通すことは出来ない。この場所は樹々の影に太陽の光は遮られていて、光は差し込むものの、薄暗い。本来ならば涼しいはずなのだが、不思議なことに風ひとつなく、汗に濡れた服が肌に張り付く感触が不快だ。


表へ戻り、入り口の扉を開く。照明は点いておらず、森の木漏れ日だけがこのエントランスの光源である。中へ足を踏み入れると、自分の足音だけがこの空間に響く。立ち止まって目を閉じ、耳を澄ませると、静寂の中に自分も溶け込んでゆくような感覚がする。目を開けると、そこにあるのは誰もいない受付、誰もいない待合室。誰もいないこの場所で、自分こそが異物である。森に眠るこの廃病院にずかずかと踏み込む闖入者、それが私である。ソファも、電灯も、何も言わない。この敷地に土足で踏み込む私が来ても、こんこんと眠ったままである。入り口に絵が掛かっていた。この病院の外観を描いた油絵だった。作者の部分は黒く塗りつぶされている。私はカメラを取り出して写真を撮る。やや暗いが、この程度であれば逆に味わいになるので、フラッシュをたく必要はなさそうだ。


一通りエントランスの写真を撮り別の場所へ移る。通路を進んで右手には診察室がある。この部屋には窓がないので、全体的に薄暗い。ほこりの積もった椅子が二脚。机の上には細々した事務用品や聴診器が無造作に置かれている。壁には標語の書かれた古ぼけたポスターが貼ってあり、剝がれかかった様子から、ずいぶんと長い時間そこに貼ってあることが伺える。誰もいない診察室で私は写真を撮る。部屋を出て向かいには数台の簡易的なベッドがあり、患者がいればここで点滴などを受けるのだろう。入院用の個室は別に存在した。エントランスへ戻って二階へ上がると、手術室があった。


重々しい扉を開くと、暗がりの中にベッドが一つ。そばにある移動式の台に、鉗子などの器具が置かれていた。天井には手術用の大きな無影灯がある。他には錆び付いた機械たち。血の跡のようなスプラッタなものはなく、ただ人が横たわるためのベッドや手術器具が無造作に置かれているだけである。しばらく写真を撮って、私はその部屋を後にした。他には、また別の部屋に薬剤の保管場所があり、棚の中にはよくわからない液体がガラス瓶の中に入って陳列されている。私にはどれが高価なものなのか、どれが劇物なのかは分からない。棚を開けて何枚か写真を撮った後は元に戻しておいた。


この廃病院は、思っていたより荒らされていない。風雨による風化や損傷は見られるものの、外壁や中にもグラフィティアート(という名の下手糞な落書き)も見られなかった。それにしてはドアが壊れて空いていたりして、少々ちぐはぐな気もするが、あまりアクセスしやすい場所でもないことを考慮すれば、別におかしなことではないかもしれない。そんなことを思いながら、魅力的な写真が取れたことに満足して帰路に就いたのだった。


これが一度目の探索の時。しばらく後にこの近くの廃墟を訪れる機会があり、この廃病院の事を思い出して私はこの場所を再び訪れたのだ。この場所は相変わらず、静かな世界を作り出していのだが、入った瞬間、何か妙だという気持ちが浮かび上がってきた。具体的に何が妙なのかといわれると口には出来ないのだが、とにかく妙なのである。何かが違うというか、ボタンを掛け違えてしまったというか、そんな感覚を抱いていた。前回と同じく、探索して中の写真を撮って回った。エントランス、診察室……そして手術室の扉を開けた時、私は息をのんだ。辺り一面、赤黒く変色しているのだ。それは何かの液体、まるで……そう、血でも撒き散らしたように。


手術室の入り口に立ったまま、私は震える手でカメラのシャッターを切る。無遠慮に焚かれたフラッシュが部屋を照らした。一番汚れているのがベッドである。以前の白いシーツは、ほぼ真っ黒で、白い部分の方が少ない。そして、ベッドを中心に床も赤黒く変色してしまっている。金属に付着した汚れをおそるおそるこすってみると、風化した塗料のように、ボロボロと剥がれた。棚に並べられた手術器具も、同じように赤黒い汚れが付着している。周囲に気を配りながら、この部屋を調べる。幸い、誰かの死体を見つけるというようなことはなかったが、やはり不気味なことには変わりない。別の廃墟巡りが写真の演出の為に血糊でも持ち込んだのだろうか?誰かがノスタルジックな雰囲気を演出するために椅子やぬいぐるみを持ち込んだ物件を見たことがある。廃病院という場所は、そういう印象にぴったりではあるが……。手術室の撮影を切り上げて、残りの部屋を手短に見て回る。いくつかの部屋で、以前とはなにか変わっているという違和感を覚えた。それが何かは、相変わらず分からない。とにかく写真だけ撮影して、この廃病院を後にすることにしたのだった。


帰宅してから写真を見直して、違和感の正体を突き止めた。物の配置が替わっている。そして、戸棚にあった薬瓶のいくつかが無くなっていた。やはり、誰か別の人間があの廃病院を訪れたのは間違いないようだった。


それからしばらく経ったある日、私のもとに一枚の封筒が届いた。差出人は、書かれていないので分からない。切手も貼られていない封筒である。中を開くと、一枚だけ写真が入っていた。真っ赤な写真。私は最初、この写真に何が写っているのか分からなかった。数秒経って理解し、戦慄した。そこに映っていたのは、生々しい、まさに解剖されている最中の人間の内臓だった。血まみれの床。血まみれのベッド。そして背景にある戸棚と器具を見つけた時、私はある思いにうたれてこの写真から目を離すことができなかった。見覚えがある。これはあの廃病院だ。配置がそうだ。間違いない。そうだ、いや、覚えている。自分の写真があるから間違いない。気分が悪い。吐きそうだ。本物?いや、まさか。そんなはずは……。だけれど、とてもじゃないが確認する気にはなれなかった。送られてきた写真は破り捨てた。そして、それ以来あの病院には行っていない。

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