第29話

 バイト先が潰れそうで困っていると、北条さんは言った。


 相変わらず、あの人が何を考えているのかはわからない。だが北条さんにとって、バイト先が潰れてしまうのはよくないらしい。


 それが僕にとって、どれほどの利になるかはわからない。


 ただあの人は、間違いなく僕で遊んでいる。


「……酷い顔ね。」


「元からだ。気にしないでくれ。」


 昼の穏やかな陽気に包まれた中庭で、そんな景色に似合わない表情をしている僕を、上杉は日課のように皮肉って微笑む。


 そんな当たり前の光景が、終わって欲しくないと思い始めた今日この頃だ。こんなどうでもいい事で、少しだけやる気が湧いてくる。


「力になれたのなら幸いよ。」


「当たり前のように心を読むな。」


「明らかに気が緩んだという顔をするあなたが悪いわ。」


 そういう上杉も、以前に比べて余裕ができたような、そんな微笑み方をしている。


「……それで、どうする気なの?」


「どうするもこうするもないさ。やれる事を一つづつやっていく。」


 北条さんが言うには、店舗運営の中にある程度の無駄があるらしい。まずはそれを削減していって、コストカットによる利上げを目論むらしい。


 その後で営業的な方策をやるらしいのだが、それでも1割が限界らしい。


 つまり残り1割は、僕ら従業員総出での努力になる。北条さんが気に病んでいるのはそこらしい。


「随分張り切っているのね。」


「誰のためだと思ってる?他人事じゃないぞ。」


「そうね。だもの、頑張ってもらわないと。」


「……………。」


 わざわざその部分を強調していう所が、いかにも腹に一物抱えていそうで業が深い。


「結局、あの人は何を考えているのかしら?」


「北条さんか?……あぁ、そうだな。あの人は恐らく、僕らと同じだ。」


「……同じ?」


「あぁ。たぶん……気に入らないんだろう。今回の縁談の話も、そしてお店の運営に関しても。あの人は攻めたがってる。保守的な考え方が、気に入らなくて仕方がない。」


「でも、前崎君から聞いた限りだと、あの人の考え方も保守的よ?地域密着型の系列展開。大きな市場に打って出るような考え方ではないわ。」


「逆だ上杉。あの人は自分の足場が脆い事をわかっているんだ。君との縁談の話だって、お互いに利があるから持ち上がっているんだろう?だから確かな地盤を確保して、それから勝負に出たいんだ。勝負に出るほどの力がない事を、あの人はわかっている。」


「……他の人たちは、それがわかっていないの?」


「聞いた限りは。保守的と言うより、保身だな。」


「未来が無いわね。断って正解かしら?」


「だから君じゃなくて僕が人質になってるんだ。」


「……何の話?」


「あっ」


 思わず滑らせた口を塞いだが、既に上杉の眼差しからは暗黒の凄味が溢れ出ていて、誤魔化せそうにない。


「どうして前崎君が人質になっているの?」


「……北条さんの興味は君じゃなく、君を手に入れた僕になっている。」


「……なるほど。それであの人は、あなたに協力したがっていたのね。」


 この説明だけで全部察しがつく辺りが、僕が彼女を好む理由だろう。


 なるほど。死んでも浮気はしない方がよさそうだ。


「ふふっ。大変ね、前崎君。」


「心なしか楽しんでいないか?」


「楽しいわ。だって、好きな人が自分の為に頑張ってくれているんだもの。」


「うっ……。」


 その台詞に、その表情は反則だ。いつもとは違う、甘ったるさがむず痒くなる女の表情。制服に体操座りでスカートを押さえながらと言うのが、心にぐっとくるものがある。


「でも、あんまり抱え込まないで。また死なれては困るわ。」


「……わかってる。もう、しないさ。」


 いつもと変わらないような冗談のはずなのに、上杉がその時だけ寂しそうに見えたのは、きっと僕の杞憂だろう。




………………………。




 あれから2週間が経ち、期末テストの時期も近づいてきた。僕がバイトに裂ける時間も限られてきている。


 だというのに、あれから状況の進展は殆どなかった。


「一割、届きませんでしたね。」


「……あぁ。これはまずいな。」


 コストカット、商品入れ替え、大胆な値引きの実施、アクション自体は起こしているのだが、どれも思ったような結果を上げられないでいた。


「だがもう少し、アクションを起こせば一割は達成できる。だが問題は……。」


「残り二割、ですよね?」


 僕がそう呟くと、北条さんは唇を噛み締めて頷いた。


「このお店は、元々日ごろの努力のおかげもあって無駄な経費は少なかった。そこから更に上積みして頑張ってもらって、それでもこの結果か……思ったより厳しいな。」


 実際、目新しい商品を仕入れたり、いつもより値引きのタイミングを早めたりするのは有効な作戦ではある。購買意欲は間違いなく刺激できているし、客単価自体は上がっている。


 だが、そこで誰も予想していなかった問題が起きていた。


「驚いたよ。まさかここまで人が来ていないとは……。」


 これには唸って黙り込むしかなかった。広告で呼び込めるはずの新規の人が、ほとんど増えていないのだ。


「常連さんがいつもより安いからと多く買ってくれる。だがそれを聞きつけて新しい客が来ない。他店から客層を奪えなければ、この状況は打破できない。」


「……お店としての努力をしても無駄、ですよね。」


 北条さんは、黙って頷いた。


「正確には新規を取り込む工夫をしなければならない。なんだが、ここの地域は元々人がまばらで、それを囲い込むように小規模店舗が点々としている。正直、店が赤字になるほどの大胆な値引きでもしない限り、この層は取り込めない。」


「10円安くてもそこに行くまでのガソリン代で30円かかってしまえば、家計的には赤字になる。それが購買意欲の妨げになっている。」


「そうだね。それに加えて、うちは人手が足りない。移動販売で街はずれまで遠征できれば、多少売り上げは上がるだろうけどね。現状、お店の中でできることしかできない。」


「……打つ手なし、ですか?」


「それを僕と君で考えるんじゃないか。」


「……店長はどうしたんです?」


「彼には業務系での卸し先が無いか探ってもらってるよ。と言っても、それも難しいね。ああいう所は付き合いがある。よほどの事情が無い限り、取り込むのは難しいだろう。」


「……厳しいですね。」


 お店の経営に詳しい二人でも、この状況から更に底上げするのは苦しいらしい。思いつく限りを手当たり次第、見苦しいかもしれないが、今は必至にならなければならない。


「……単純に人数を増やせばいい、って問題でもないですよね?」


「そうだね。ここは知っての通り、お歳暮やなんかの発送サービスもやっていないし、君が思っているように伸びしろもない。」


 考え様にも、できる範囲が狭い。


 今ある場所で、真っ先に結果を出せる、お店の中でできること。


「……すみません。まったく思いつきません。」


「だよね。これだけ手札が少ないことを考慮していなかった、僕のミスだよ。といいつつも、自分一人ではどうしようもないぐらい手詰まりなんだけどね。」


 気丈に振る舞う北条さんの笑いは乾いている。専門的な知識のある北条さんですらこの状態なのに、浅知恵しかない僕に何ができるだろうか。


 社会人は、こんなに分厚い壁と日々戦っているのか。


「……どうかした?前崎君。」


 僕の様子に気づいた北条さんが、察したように尋ねてきた。


「……僕とあなたの差が、少しだけわかった気がします。」


 いろいろな意味を込めてこの言葉を選んだ。経験の差?生まれた環境の差?そんな簡単じゃない。北条さんと僕の間には、その目で見ている物、その頭で理解できているものの差、総じて言うならば、自分の置かれた状況に対する決定的な認識の差がある。


 僕はこの問題を、ただ上杉と僕の未来の話だと考えていた。だが二人にとっては、いや上杉にも北条さんにも、その背中、その足元に抱えている多くの人たちの未来がかかっている。口うるさくも言われるし、自分の意志を曲げなければならない時もあるだろう。僕はそんな二人の間を割って、引き裂き、その未来を自分の物にしようとしているんだ。


 自分が今何と戦っているのかに気付いて、その大きさに気づいて、今頃になって足がすくんだ。


 上杉の隣に居るというのは、こんなプレッシャーと常に戦い続けなければならないということなのだ。


「……そうかい?僕はそう思わない。」


「いえ、そうなんです。僕はまだ、子供のままだ。」


 気休めの否定なんか慰めにもならない。その差が何なのか、それがわかったところで、それを埋める術がまるで見当たらない。


 ある意味、僕と北条さんの勝負は、最初から決着のついているものだ。それを彼の好奇心と僕の悪あがきで、形だけの演出をしているに過ぎない。


 それがようやくわかって、血の気が引いている所まで来ている。


「……何を考え出したのかは知らないけど、これは本心だよ。僕と君にあるのは、年齢と、経験の差だけだ。」


 だが北条さんは、僕の蟠りをはっきりと否定した。そしてパソコンと向き合っていた体がこちらを向き、その目が僕を見つめる。


「いいかい前崎君?確かに君には、僕は天上の人間に見えるかもしれない。でもそれは、僕が少し背伸びをしているからなんだ。」


「背伸び……ですか?」


 僕が繰り返すと、北条さんはゆっくりと頷いた。


「僕がこの婚約を頑なに無にしたいのはね、実のところ、僕も一人の女性を幸せにする自信がないんだ。考えても見てくれ。僕も君も、まだ学生だ。女性関係が無かったわけでもない。でも恋愛と結婚は違う。僕は僕の立場上、半端な気持ちで伴侶を選ぶことは許されない。確かに上杉さんは素晴らしい女性だと思う。でも、お互いの能力だけで人生を共にするのは、いつかお互いを理解できなくなって、次第に人格が壊れてしまう。僕も、彼女も、恐らくそれを本能的に理解しているんだ。」


 確かに上杉は、北条さん自体を嫌っているわけではなさそうだった。ただあの見合い話は、お互いの持ち物の未来の話で、お互いの未来の話ではなかった。きっと上杉は、自分の人生を役目と立場でしか考えていない、北条さんのあの態度が気に入らなかったんだろう。


「僕はあの時、上杉さんが自分の母親に刃を向けてくれて、本当に良かったと思っている。だから僕も、このプロジェクトを携えて、父に喧嘩を売る勇気が持てた。そしてその刃を止めて見せた君となら、僕が道を間違えてもきっと正してくれるだろうと思ったんだ。あそこに居合わせた二人のように、親の七光りになりたくなかった僕は、君達のお陰で勇気を持てた。希望を見たんだ。」


 北条さんは、あの醜態をまるで美談のように語った。ただ上杉の暴走を僕が止めただけに過ぎないあの状況が、彼にとって英雄に見えていたとはなんて皮肉だ。


 僕が北条さんの能力に驚かされたように、彼も上杉の胆力と、僕の行動力に驚かされたとでも言うのか。


「だからね前崎君。僕の持っている物は、君が欲しいと思えばこれからいくらでも手に入る代物だ。僕は君を本当にライバルだと思っているし、同時に理解し合える親友だとも思っている。そもそも、こうして僕の隣に立って、僕と同じことを考えていられること自体が凄い事なんだよ?僕の大学には、そんな奴は一人もいないからね。」


 気さくな笑顔、力の抜けたその態度は、いったいどれだけの人間がそれを見たことがあるだろうか。


「前崎君。君は今、自分が何と相対しているのかを認識した。そしてそれに恐怖した。足がすくんで動けないのかもしれない。でも君には、背中を押してくれる人も、隣に寄り添ってくれる人もいるじゃないか。もちろん、僕でよければ力を貸すよ。今は僕が力を貸して欲しいけどね。クビだけは回避しないと……。」


 今、僕は不思議な感覚の中にいる。僕はずっと、この人を恐ろしい力を持った敵だと思っていた。


 だがそうじゃない。この人も、人だ。悩み、苦しみ、それでもくじけず立ち向かう。考え、答えを探して戦っている。できることもあれば、できないこともある。ただできないことをどうやったらできるか、その○×を繰り返し、ひも解いているだけだ。


 誰かの助けを借りる。今までの僕なら考えもしなかったことだろう。彼はただ、それができる人に過ぎない。


 僕は誰より心強い味方を持ちながら、一人で戦っている気分に酔っていたという訳か。


「……そろそろ休憩も終わりですね。」


「ん?もうそんな時間かい?しまったな……またメイドに怒られる。」


 シフトの長い土曜日の昼休憩。考え事ばかりに気を取られていた僕らは、すっかり昼食の事を忘れていた。


「メイドなんているんですか。」


「ん?あぁ。いつも弁当を持たせてくれるんだ。食べる時間も限られているから、いつも簡単でいいと言ってるんだけどね。」


 そう言って北条さんが取り出したのは、いつかみたあの重箱と同じ柄の、中身がぎっしり詰まった豪勢な弁当だった。食べ盛りと言えばそうだが、残り10分程度でこれを食べるのは少々きつい気がする。


「前崎君、悪いけど早速手伝ってもらっていいかい?」


「え?あ、はい。僕もいつもそこの総菜コーナーで……。」


 そこまで言いかけて、ふと思い悩んだ。僕はいつも、時間の長い昼休憩のあるシフトは、総菜コーナーにあるおにぎりを食べている。業者から入荷しているものだが、日によっては売れ残る事も多い。


 ふらっと浮かんだ考えはとりあえず置いといて、僕は北条さんの弁当箱の唐揚げを一つ頂いた。もう冷えているというのに、身がジューシーで衣のサクサク感が残っている。


「手間がかかってますね。」


「美味しいんだけど、時間がね。こんなことしてるとどうしても……。」


 そんな他愛もない感想を言い合って、そこで北条さんの思考も停止した。


 やっぱり、今自分たちの言ったことが、引っかかって仕方がない。


「……店長、業者さん周りから帰ってこないですね。」


「……あぁ、そうだね。少し遅い……かな?」


 僕らは昼休憩、という事は店長も、時間が時間なのでどこかで食べているのかもしれない。


 どこかで……忙しい時に……簡単に……。


「北条さん、浅はかですけど、一つ良いですか?」


「奇遇だね前崎君。僕も一つ、いい案が浮かんだんだ。」


 湿気った土にばら撒いただけの悩みの種が、一つだけ芽吹いた瞬間だった。

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