第26話
北条さんに車で送られて、家に帰って来たのはなんとなくわかっていた。ただそれから先は、ベッドに寝かされた以外はよく覚えていない。
気付いた時には暁光が窓から差し込んでいて、全身にじっとりとした不快感がまとわりついていた。
「……っしまった!?」
自分が何をやらかしたのかを瞬時に悟って、被さっていた掛け布団を払いのけながら体を起こそうとする。だが気だるさのせいで思うように動かせず、まるで雪を覆いかぶせられたかのように寒い。
それがどういうことなのかは、考えずともわかる。
「風邪を引いたか……。」
いつ拾ってきたのだろうか。そもそも風邪を引いたのなんていつ以来だろうか。
何かをしなくてはいけない気がするが、今は何もする気になれなくなった。
「今日は、日曜か。都合がいいな……とりあえず水を飲むか。」
汗を洗い流したいし、何よりも口の渇きが凄い。気分的には風呂の中沈めて欲しいぐらいに、身体が渇いている。
ベッドに縛り付けられたような体をなんとか起き上がらせ出ようとする。
ふと、何かに引っかかるような違和感があった。
見れば、上杉が自分の腕を枕にして、顔をうつ伏せにしながらベッドの横になって眠っている。普段のように凛とした表情ではなく、口が半開きで寝息もはっきり聞こえるような、なんと気の抜けた寝顔だろうか。
これはかなり貴重映像だ。手元にスマホがあれば写真に収めるのだが。
いや、やめておこう。後でどうなるかわかったものじゃない。
「それで、なぜ上杉がいるんだ……。」
昨日の記憶が、北条さんに殴り掛かった後からほぼ抜け落ちてしまっている。それを思い出そうとすると、軽い頭痛が脳髄の奥を駆け抜ける。
あの人は何を考えている?僕をデートに誘ったり、そのデートで僕を問い詰めたり、上杉の事を狙っているのか、興味が無いのかもよくわからないままだった。あの人は何が狙いで僕をあの場に誘ったのかが、最期までよくわからなかった。
ただ一つ言えるのは、あの人といると、僕が上杉と一緒にいることに、並みならぬ不安を感じてしまう。
上杉の顔を見ることに、少しだけ抵抗してしまう。
「……くそっ。」
情けない。あれで取り乱すなんて負けを認めているようなものじゃないか。そんな顔をこれに向けられるのか。
あの時に込み上げてきた怒りは、北条さんに向けたものなのか、それとも自分に対してなのかもわからないままだ。上杉を好きではないと言われ、なぜあんな気持ちになったのか。
あの時の体中が沸騰したような熱は、憤怒だったのか、嫉妬だったのか。それともそれ以外の何かだったのか。
わからない。これが恋愛感情ではないのなら、何だ?
「……早く水を飲みに行くか。」
どうやらまだ、気持ちに整理がついていないらしい。ふらふらとおぼつかない足元を確かめながら階段を降りる。
冷蔵庫のひんやりとした空気が心地いいと感じながら、水出しした緑茶をガラスのコップに注いだ。
意識はぼーっとしている。それを口元に持っていこうとした時に、異変が起きた。
ぐらりと揺れる視界、膝から崩れ落ちた体が冷蔵庫にもたれかかり、力の抜けた指からはコップが滑り落ち、流れるがまま冷茶が床に散乱する。
風邪にしては症状が重い。ぐったりとした体は持ち上がらず、とにかく視界が揺れるし眩む。
「はぁ……はぁ……。」
ダメだ……こんなところで……寝ては……。
ぐったりともたれかかった体は冷蔵庫にせびりついたまま離れず、僕はそのまま意識を失ってしまった。
………………………。
気付いた時には、ベッドの上にいた。その日は家の中が酷く静かで、少しだけ耳が遠かった。
「お母さん?……。」
読んでも返事はなかった。仕方が無いから、フラフラの足取りで家の中を探し回った。リビング、ダイニング、寝室、父の部屋、トイレ、風呂場、玄関、外、そこら中を探しても居なかった。
熱を出して、寝かされて、仕事に出た母がいない家の静けさが、まだ馴染んでいない子供の頃。テレビをつけても耳が痛くなるだけで、求めているものは手に入らなかった。
食欲もない、眠気もない、気だるさと熱にうなされ、体が鉛のように重い。だがそれよりも辛かったのは、声を出す度に響く静寂の波。
自分の声が壁に跳ね返ったり吸い込まれていくのが、まるで自分が世界からいなくなったような錯覚をして、それがたまらなく恐怖心を煽った。
布団にくるまっても寒い。氷のように冷え固まった体の奥が、じんわりと熱を奪っていく。それは風で上がった体温ではなく、生きようとする意志の灯。消してはいけない、小さな灯り。
あぁそうか、あの時か。早く死にたいと思ったのは。こんなに苦しいなら、いっそ殺してくれればいいのにと思ったのは。
僕は、一人になるのが怖かったんじゃないか。
そんな自分を文字通り殺して、最初から一人のフリをしていたのは、そうしようと決めたのは、そうするしか一人でいる恐怖を乗り越えられなかったから。
死にたいと思う暗くて冷たいものが、常に体を這いずり回っていたから。
孤独が、少しづつ心を、バリバリと食べていく音が耳から離れなかったから。
それは次第に、誰かの手を取る事への恐怖に変わっていった。気づいた時にはもう遅かった。僕の手は、誰にも触れられるようなものではなくなっていた。手首の傷は、いわば呪いだ。誰もこの手に触れないようにと、強く、強く呪われた証だ。
それなのに彼女は、そんな僕の手に着いたものを掬い上げるように舐めとりながら、この傷を癒したいと言った。それが自分を癒していたからと。
初めて感じた温もりだった。僕はあの時、ついに孤独から解放された。それからは少しづつ、本当に少しづつだが自分を赦すことができるようになった。もう怯えなくていいのだと。
あぁそうか、僕は上杉に愛される事よりも、上杉に嫌われてしまうことよりも怖かったんだ。
上杉が、いつか自分の知っている世界からいなくなってしまうのが、怖かったんだ。
「答えなんて決まっていたじゃないか……。」
たとえ君に愛されていなくてもいいから、君を愛せなくてもいいから。君が二度と、僕に微笑みかけてくれなくなってしまってもいいから。
僕を必要とする、君のままでいて欲しかった。
「う……え……すぎ……。」
唇が、その名前を呟いた気がした。
「おはよう、前崎君。」
声に反応して、うっすら力のない瞼を開くと、彼女は微笑みながら僕を見つめていた。頭の後ろの柔らかな、わずかに沈み込んでいる感触と、それに比べると無機質な反発に支えられていた体は、熱を帯びたまま気だるさを増している。
「冷蔵庫に貼りつくのが好きなの?」
いつもみたいな冗談を言われた。だが適当な返事が思いつかず、引き攣った頬だけが薄ら笑いを浮かべていた。
「……そんな体で歩くのは危ないわ。要らない心配をさせないでもらえるかしら?」
上杉の微笑みは、まるで笑っていなかった。言いたいことを山ほど抑え込んで、取り繕った笑顔で怒りを抑え込んでいる。
だが、嫌じゃない。その怒りが優しさだと思えるのは、彼女が僕にそういう思いを抱いてくれているからだろうか。
それとも、僕がそういう思いを抱いているからだろうか。
【君は上杉澄玲が好きなんじゃない。ただ使命に溺れているだけだ。】
脳裏に浮かんだあの言葉が突き刺さる。好きじゃないなら、愛してもいないなら、僕が上杉に抱いているこの感情は何だ?
僕にとって、上杉とは何だ?
「……どうしたの?そんな不安気な瞳で見つめなくても、いなくなったりなんてしないわ。」
その言葉には安心できない。それはこれからの僕次第であって、君がどうこうできる話じゃない。
例え君がどれだけ探しても、僕は君には見つけられない場所に行ってしまう。僕自身がそれを選んで、君の下を去ってしまう。
「君は……僕の……何だ?」
熱にうなされて出たうわ事だった。それに気づいたのは、上杉の表情に驚愕と動揺がはっきりと浮かんだ時だった。
「……それはあなたに決めて欲しいわ。」
表情は動かない。しかしその問いには、詰め寄ってくるような迫力があった。
どうして僕にそれを委ねるのか。
「君は君だ。それ以上でも、それ以外でもない。」
答えはそれしかないはずだ。僕らはお互いに、そうだったはずだ。だからそれ以外の答えなんてない。
ないはずなのに、なぜこんなに不安にさせられる?
そんな冷たい僕の手を、上杉は優しく両手で包み込んだ。
「……そうね。でも、それだけでは寂しいわ。」
両手で包み込んだ僕の手を、自分の頬に寄せ当てる。仄かな温もりはじんわりと、汗で氷のように冷え固まった手をほぐしていく。
あの時とは真逆だ。冷たくなってしまった父の手を握っていたあの時と。
「一人では冷たいかもしれないけれど、こうしていれば温かい。一人ではいつか冷めてしまうけれど、これならずっと、温め合える。」
それはわかっていたはずだ。それでも上杉が言うのでは、全く違う意味に聞こえた。
「わたしはあなたと、そうしていたい。」
女性にしては少し低めな、いつも堂々としている声が少し、震えていた。
僕は馬鹿だ。北条さんに差を見せつけられて、不安になっているのが僕だけなはずがない。それを見守る事しかできない上杉もまた、不安なんだ。
僕たちはいつまでこうしていられるだろうか。そんな事ばかり考えていた。少しでも長く続けばいいと思っていた。だがそうじゃない。上杉は、ずっとこのままがいいのだろう。
掌から伝わる熱が心臓の鼓動を加速させる。湧き上る衝動を、今すぐに行動に表したい。
ずっと、冷めた体を熱くするこの時間が、ずっと続いて欲しい。
「……前崎君?」
自然と、上杉の首筋を目がけて腕が伸びる。
風邪で体が弱って、魔が差したのかもしれない。今まで胸の内に溜め込んでいた物が、爆発してしまったからかもしれない。
どんな理由でもいい。今はこの熱に、溺れたい。
「前崎君?ちょっと……あっ……。」
腕を肩にかけ、体重をかけ寄りかかりながら、肌の感触を確かめるように指の一本一本を這わせていく。
しっかり質のある個所もあれば、まるで綿のようにやわらかい場所に指が沈み込んでいく時もあり、その全部が上杉なのだと思うと、たまらなく胸がざわつく。
「んぅ……はぅ……ひゃぁん!!」
脇腹と肋骨の間に指が沈んだ時、上杉の甘い嬌声が響いた。鼓膜をくすぐるような感覚が心地よくて、何度でも聞きたい欲が抑えられない。
「はぁうっ!んあっ、あっ、あっ……くぅぅん!!」
声が漏れるのが恥ずかしいのか、手を口に当てながら抑えようとする。その姿が、普段は見せない上杉の女の子らしい一面を、一人占めしているようで背徳感がある。
勢いに任せて、僕は上杉に抱き着いて、無防備に晒された首筋を舌先で舐め上げた。
「ふああああっ!!」
途端に甘い声が大きくなる。それがたまらなく嬉しくて、そのまま唇を当てて優しく吸い上げながら舌先で上下に撫でるのを繰り返す。
「あっ、あっ……あぅっ……ふああっ!!」
風邪でうなだれる熱と、上杉の紅潮した熱が混ざり合って、それがずっと抱きしめていたくなる程に愛おしい。体にまとわりついた熱が去っていくのが名残惜しくて、それをまたねだるように求めてしまう。
恥ずかし気に声を我慢しようとする上杉も、僕の肩に腕を回して、離れないように強く抱きしめる。
これが僕たちでなければ、そういう行為になるのかもしれない。だが僕らにとってこれは、愛情表現でなければ好意でもない。
そんな程度で説明がつくほど、僕らの関係は簡単じゃない。
熱が頭に回ってきたころに、僕は上杉の胸の中にうずくまるようにして抱かれていた。病身のくせにはしゃぎ過ぎてしまった。
「……なぁ、上杉。」
まだ息の荒い上杉の吐息を肌で感じながら、すぐに事切れてしまいそうな眠気眼をほそばめる。
「君は、僕の物だ。」
「……はい。」
「誰にも渡さない。君の事を。」
「……はい。」
「だから君に、傍に居て欲しい。君を感じさせて欲しい。」
真っ直ぐ、しなやかで光沢のある美しい黒髪を指で梳きながら、紅潮した瑞々しい頬を撫でる。
「僕の人生の傍には、君以外考えられないよ。」
「ッ!!……はいっ。」
その言葉の後で、僕は強く、強く上杉に抱きしめられた。耳元が温かな滴で濡れていく心地よさを感じながら、僕は幸福に抱かれながら眠りに落ちた。
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