第21話

 戸締りは万全だが、こうも無遠慮にガタガタ揺らされるといやでも不安になる。窓ガラスに打ち付ける大粒の雨が、真夜中に直撃した台風の強さを物語る。


【台風の情報です。各交通機関では、運転見合わせや運休などが発生しています。お帰りの際は充分に気を付けて……】


 テレビはどこの局もこればかり言っている。重要なのはわかるが、少しは退屈な雨の日に暇を持て余してる人間の身になってもいいのではないか。


 母は今日は帰ってこないとメールがあった。今時ガラケーだからRINEも使えない。台風で動けないからネカフェに泊まると言って、明日の朝には帰ってくるとは言っていたが大丈夫だろうか。


 さっき淹れたばかりのブラックコーヒーの入ったマグカップを片手に、雨風が打ち付ける真っ暗な窓の外を見つめる。


「……大丈夫だろうか、上杉は。」


 自分がふと、そんな事を呟いたことに驚いた。


(どうして僕が上杉の心配を……。)


 最近は部活動も初めて、接点は増えたはずだ。そのはずなのに彼女と会う機会はめっきり減ってしまった。いや、今までが多すぎただけだ。学生のうちなんてこれぐらいが普通なのであって、突然家に押しかけて来たり、バイト先までついて来たりしていた今までがおかしいのだ。


 それなのに、上杉がいない時間が、空っぽに感じるのは何故だろう。


「……自分の心配をするべきだな、僕は。」


 大丈夫じゃないのは僕の方だ。日課の読書もままならない、課題が終わればぼーっとしている時間が増えた。このまま順調にいけば、弱冠16歳にしてボケ老人の仲間入りをするかもしれない。


 窓に打ち付ける雨の音が、身体の奥に強く響く。


 ピンポーン、……。


「…………ん?」


 玄関チャイムが鳴った。こんな酷い雨の夜に、どこの誰が訪ねてくると言うんだ?


 それとも母さんが帰って来たのか?鍵を忘れたのだろうか。いや、僕が帰ってきた時に玄関の鍵は締まっていた。それなら手が塞がっているのか?


 玄関の様子を写すモニターは、外が暗くてよくわからない。


「とりあえず出るか……。」


 そうして玄関先に出ようとしたその時、スマホの画面が明るい事に気づいた。通知が来ている。


 とりあえず手に取ってみれば、その内容に目を疑った。


「前崎くん!


 澄玲ちゃんが来てない?よくわからないんだけど家出したって!!」


 送り主は立花だった。いや待て、なんであいつは誰にも教えていない僕のメアドを知っているんだ。


 いや、それもそうだがそうじゃない。問題は内容だ。上杉が家出した?こんな無茶苦茶な天気の真夜中に?


「まさか…………ッ!!?」


 僕は急いで玄関に飛びついた。慌ただしく鍵を開けて扉を開く。


「上杉ッ!!」


 名前を叫んで扉を開くと、ふらふらと何かが横切った。壁に弱々しくもたれかかった彼女は、濡れた髪を重たそうにぶら下げながら、力のない様子で後ろを振り返ろうとする。


 乱れた髪、青い唇、そして力のない瞳の輝き。


 それでも彼女は、僕のよく知った上杉澄玲だった。


 彼女は僕を見るや、そのまま事切れたように膝を折ってしまう。


「上杉ッ!!」


 反射的に彼女に駆け寄って、力なく横たわるその体を抱きかかえる。ただでさえ冷え切った体が、雨を吸ったブレザーに容赦なく熱を奪われる。


 彼女は、制服のままだった。


「どうした上杉!?何があった!?」


「まえ……さきくん……?きょうは……じょうねつてきなの……ね……いきなりだきしめるだなんて……。」


「冗談を言ってる場合か!とにかく体を拭け!」


 そう言って、手元に体を拭けそうなものはなかった。僕は急いで脱衣所にストックしてあるバスタオルを持ってくると、それを無理やり上杉の体に当てがった。


 冷たい。雨のせいじゃない、生きた人間を触った心地じゃない。僕はこの冷たさを、悲しみと一緒に憶えている。


 僕はまた、あの日のように見つめているだけなのか。


 いや、上杉はまだ、生きている。


「上杉、悪いが服を脱がすぞ。」


「……びっくり……する。いきなり……脱げだなんて……。」


「それ以上冗談で返すならこのまま外へ投げ捨てるぞ!風呂は沸かしてある。まずは体を温めろ。このままじゃ風邪を引く。」


 ブラウスのボタンを一つずつ取っていき、半分ぐらい取れた所で上杉の肌が露出する。


「……ねぇ、前崎……くん。」


「何だ?」


 上杉の発する言葉は弱々しい。普段の彼女からは想像もできないほど弱っている。メールの事から察するに、もしかして立花に相談もせずにここに来たのか?


 彼女の身に、一体何が起こっている?


「私を……めちゃくちゃにして欲しいの。」


 上杉は、力のない瞳で僕を見つめて、そう言った。


「……冗談を言ったら投げ捨てると言ったはずだが?」


「冗談じゃ……ないわ。捨てるにしても……それからにして欲しい。」


 冷たい指先が、頬に当たって線をなぞる。


「前崎君は……温かいのね……。ねぇ前崎君……?……死にたい時に死ねないって、こんなに苦しいものだったのね。」


「……君は何を言ってるんだ?」


「死にたい……殺してほしいの……こんな人生なんて、生きてる意味がないから……。」


 深い深い闇の底から聞こえてくるようなその声は、どこか他人事ではないようにも聞こえる。


 彼女に何があったかはわからない。それでも、今の彼女がどういう状態なのかははっきりと言える。


 自分一人ではどうしようもない、全てを否定されたような絶望。そこに光など無い。ただゆっくりと、飲み込まれていくだけの苦痛の中に、彼女は居る。


「……何があった?」


「もう嫌なの……こんな、こんな世界なんて……消えてなくなってしまえばいいのに……。」


 答えのない返事を、上杉は虚ろな眼差しで彷徨い続けたまま、僕の頬を撫でた手を宙に泳がせてたわ言を呟いた。


 似ている。父を失って、人間に絶望したあの時の僕と。死ぬのも怖くて、生きるのも辛いだけだったあの毎日を過ごしていた僕と、今の上杉は酷似していた。


 あの時の僕を救えるとしたら、それは何だっただろうか。


 その答えを、僕は一つしか知らない。


 僕は上杉を抱きしめた。力のない体を、冷え切った体を押し当てるように、強く。


「……君が死ぬなら、僕も付き合おう。」


 それが一番いい回答だとは思わない。だがもし、僕が素直な気持ちを彼女に吐き出すべきだとしたら、嘘をつくことはできないと思った。


 上杉の肌を手繰り寄せる。それが僕にできる、上杉を繋ぎとめる唯一だった。


「……酷い人。そんな事を言われたら、私、一生死ねないわ。」


 その一瞬だけ、上杉の言葉に生気を感じる事ができた。



………………………。



 しばらくして、立花が家までやってきた。案の定、こちらもずぶ濡れで。


 ちょうどいいから二人で風呂に入ってもらった。上杉がまた残り湯がどうとかほざくから、叱り飛ばしてさっさと連れて行ってもらった。ようやく調子を取り戻してきたらしい。


 二人分のコーヒーを淹れて、リビングで待つ。その時間が、異様なほど長く感じた。


「お待たせ、前崎くん。」


「あぁ。……すまない、母さんの服がないかと思ったんだけどな。新品だから、それで勘弁してほしい。」


「ううん、押し駆けてきたのはこっちだから。それにしても……」


 風呂上がりの二人が、タオルを首にかけて髪を拭いながら現れた。女物の服なんてそうあるはずもなく、立花には悪いが僕がまだ着ていない最近買った半袖シャツと、部屋着用のハーフパンツを身に着けてもらっている。


 それはそれだが、上杉に関しては流石としか言いようがない。


「まさか、澄玲ちゃんが前崎くんの部屋に、自分の着替えを隠してたなんてね。」


「ベッドの下なんて、よくそんなところに隠してたものだ。母に見つかったら殺されていたぞ。」


「何かあった時のためよ。」


「……君は僕の家を秘密基地かなにかだと勘違いしていないか?」


 上杉から聞いた時には半信半疑だったが、聞いたとおりの紙袋が聞いたとおりの場所から出てきたのだから信じるしかない。


 こいつ、最初から僕の家に逃げてくるつもりだったな……。


「……まぁいい。コーヒーでも大丈夫か?もう淹れてしまったが。」


「私は大丈夫、だけど……」


「あ……ごめん前崎くん、可愛い事言っていい?」


「ブラックは飲めないんだな。カフェオレは?」


「ごめん……コーヒー系がダメなんだ。香りがどうしても……。」


「そうか。それなら……あぁ、あったあった。」


 戸棚を探して、袋から適量の粉を取り出してお湯を注ぐ。


「ココアなら大丈夫か?」


「あ、うん。ありがとう。……前崎くんって、甘い物好きなの?」


「ストレスが溜まった時の非常用だ。僕の趣味はお茶だからな。。」


 くだらない与太話の後に、それぞれの飲み物を一口飲んで、テーブルの上に置く。


「……さて、それで何があった?上杉。」


「…………………。」


 この時は珍しく、上杉は言葉を詰まらせていた。こんな夜に家出してくるほどなのだ。よほどの事情には違いない。


「……澄玲ちゃんが言いづらいなら、私が言おうか?」


 立花の問いに、上杉は黙ったまま反応しない。


「……わかった。あのね前崎くん、澄玲ちゃんはもしかしたら、結婚させられるかもしれないの。」


「……あぁ。」


 思わず言葉を失ったが、大して驚きもしなかった。


 僕は上杉の家柄を知っているし、どういう立場なのかもよく理解している。だからこそ、驚きはしても動揺はしなかった。


「……意外と、びっくりしないんだね。」


「かもしれない、なんだろう?つまりまだ、決まった話じゃないってことか。」


「うん。それでね、そのためのお見合いが急に決まったの。次の土曜日に。」


「……それは随分と急な話だな。」


 それは驚かざるを得ない。今日は火曜日、今日が終わってあと四日しかない。


「澄玲ちゃんのお母さんが、もう縁談を進めてるんだって。候補は3人、だけど実質は一人だよ。その人を、澄玲ちゃんのお母さんが酷く気に入ってる。」


「……話を端折ってすまないが、君はどこからその情報を仕入れてくるんだ?」


「お見合いの話は澄玲ちゃんから。相手の事は、ちょっと調べればすぐにわかるよ。」


「……君は名探偵になれるな。」


 灰色の脳細胞は、彼女の方がお似合いらしい。


「……つまりは、君達はお見合いから逃げるため、ここを隠れ蓑にさせて欲しいと言う訳か。」


 立花と上杉は、互いに黙ったままだ。僕がこの提案を受け入れると思っているのだろう。事実僕も、できればそうしてやりたい。最も簡単で有効な考えだ。


 だが、しかしだ。


「……ダメだ。見合いは受けろ上杉。相手にも迷惑になる。」


「前崎くん!!」


 立花が、机に平手を叩きつけて、怒りを露わにしながら立ち上がる。


「このまま操り人形の澄玲ちゃんでいいの!?澄玲ちゃんは、あなたの事を追いかけてあの学校まで来たんだよ!?それなのに……あんまりだよ!!そんなこと言うなんて最低だよ!!」


「落ち着け立花!!……よく考えろ。将来を考えるなら、保険はいくらあっても足りないものだ。それに……」


「……それに?」


 強い風が吹きつけ、窓枠をガタガタと揺らすのがまるで、僕の中にある怒りをそのまま映しているかのように思える。


「……仮に君がお見合いを回避したとして、その先が無いとは限らない。その場しのぎにもいつか限界が来る。それこそ、死ぬしか選択肢がなくなるぞ。」


「それは……そうかもだけど……。」


今この状況をどうにかしないとどうにもならない、立花がそう言いたいのはわかる。


だがその場凌ぎの下策で事態を悪化させては元も子もない。これは慎重な判断が必要だ。


「わかってる……僕が上杉にノーと言えばそれで終わる話だ。でもダメだ。僕の中に、上杉と一緒に居たい気持ちがあるのはもう否定しない。だがそれ以上に、僕は自分の過去を引きずったままでいる。こんな状態で、上杉の気持ちに応えるのはあまりにも愚かだ。」


「前崎君……。」


もしこの件に首を突っ込むなら、僕も覚悟を決めなくちゃいけない。生半可な答えは許されない。


僕も、自分と向き合わなければいけない。


なによりも、こんな僕を好きでいてくれた君のために。


「……金曜に、君の家に行く。」



 

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