第8話
体は丈夫な方だ。思春期には、何故だか無意味に体を鍛えたくなる。適当にネットから漁ったウエイトトレーニングで筋肉をつけ、少し盛り上がった箇所を見つけては、それを喜んでまた鍛える。
どちらかというと、つける筋肉よりも使える筋肉を増やす方が能率的なのだが、見た目が格好良くなるというだけで、思春期の単純な健康は保たれるのだ。
特に運動する訳でもないのに、走りこんだりスクワットしたりして人並みに盛り上がった足を引きずりながら帰宅している。
顔にも赤く腫れぼったくなった痕や切り傷など、階段から落ちたなんて言い訳は通用しないレベルの怪我がある。
体を鍛えていてよかった、とは死んでも思わないだろう。暴力なんて、自己防衛のための最終手段でしかない。人は暴力を許さないし、振りかざそうと掲げられた拳は拘束される。
人を殺してもいい世の中なら、また違っていただろうけど。
つまり、多人数相手で仕方がなかったとはいえ、ある程度暴力を暴力で返してしまった僕も同レベルの猿なのだろう。言葉の通じない相手だからとはいえ、一方的なものでないのなら猿同士の喧嘩にしかならない。
……まぁいい。仕込みは終わった。あとはこれを甚六さんに渡すだけ。
「……渡し方を考えておいた方が良いな。」
寄り道は高校生のステータスだ。たまたまコインロッカーのカギを持ち歩いていたというだけで、それを校舎の中に持ち込んで、宛名入りの封筒の中に隠し持っているというだけで、別にどうとでもない。
僕は自宅に帰るフリをして、ある生徒を待っていた。
彼はあの日以来、まるで何かから逃げ隠れるように、みんなとは少し時間をズラして下校しているのを僕は知っている。だから、下駄箱の裏というリスクを背負って歩いたような場所で、待ち伏せしている。
じっと待ち続けていると、彼が来た。おどおどキョロキョロしながら、鞄で自分の顔を隠して通学靴を手に取った。
「そんな事しなくても、もう誰も君に興味なんてないさ。」
僕が彼に声をかけると、彼の小さな背中がビクリと跳ねた。
「ま、前崎か……。」
「やぁ。元気そうだね。」
支倉、あの日トイレの奥に閉じ込められていた哀れな子羊だ。僕が的になってからは、彼の毎日は平和そのものだ。とは言っても、やられていた時の影響は少なからず残っており、こうして周りを警戒しながらひっそりと学校生活を送っている。
「な、なんだよ。お前が悪いんだろ……。あんな奴らに関わるから……。」
「あぁ、君は何も悪くない。体調不良にサルの群れが運悪く関わっただけだ。」
支倉はかなり怯えている。僕が彼らの的になってしまった事に、ある程度の罪悪感はあるのだろう。そして、僕に逆恨みされるのを恐れている。
本当に、どうしようもなく臆病な奴だ。
「お、俺は何も悪くないからな!お前が関わったのがいけないんだ!」
そう言って、支倉は逃げるように走り去ろうとする。
僕は咄嗟に反応して、逃げるために振られた腕を掴んだ。
「待て。君は勘違いをしている。」
「離せよ!僕は知らない!何も知らないんだ!」
支倉は今にも泣きだしそうに表情を歪めて叫んだ。
これは思ったより、被害妄想が深刻化しているな。
「落ちつけ。僕は君をどうこうしようなんて思っちゃいない。ただ協力して欲しいんだ。」
「え……きょう、りょく?」
思いがけない言葉だった、という所だろうか。支倉は鳩が豆鉄砲喰らったようにぼけーっとしている。
「あぁそうだ。君は僕の現状に、後ろめたさを感じている。なら、今度は君が僕を助けて欲しい。」
「べ、別に後ろめたさなんて……嫌だぞ、俺はもう、あいつらとは関わりたくない……。」
そうは言いながらも、瞳があっちこっちをうろうろしている。
傍目から見て最低だ。自分が被害者じゃなければどうでもいい、辛い事から逃げたい、危ない橋は渡りたくない、そのためなら誰がどうなってもいい。
こんなやつの為に、わざわざそそのかされて動いた自分が馬鹿馬鹿しい。
せめてこれぐらいはしてもらわないと、わりに合わないというものだ。
「別に君に、あいつらに何かしてくれなんていうつもりはないさ。ただこの封筒を、中身を聞かずにポストへ入れてきて欲しい。」
奥歯を噛み締めて怒りを殺し、僕は例の封筒を差し出した。
「な……なんでだよ、自分で出しに行けばいいだろう?」
「それじゃダメなんだ。君と僕には接点がない、しかし共通点がある。だから君にしか頼めないんだ。」
これは万が一に備えてだ。関わり合いのない僕達なら、絶対に面倒はない。
少なくとも、僕には、ね。
「い、嫌だよ。絶対危ないだろそれ……。」
それでも難色を示す支倉。別に何も害はないというのに、何かするという事自体を恐れている。
余りのひ弱さに、思わずため息が出た。
そして、怒りのままに支倉の胸ぐらを掴み上げ、下駄箱に背を叩きつける。
「……なぁ支倉、君は卑怯だな。目の前に苦しんで助けを求めている人がいるのに、君はわざと目を逸らす。かと言って自分が的になれば助けを求め、助けられるのが当然だと思い込み、助けられなければ社会が悪いだのと能弁を垂れる。」
支倉は逃げようともがくが、しっかりと襟を掴まれているため振り解けない。追いつめられた体の震えが、抵抗する手を通して伝わってくる。
「君がどうして救われないか教えてやろうか?どうして誰も見向きもしないか、それは君が目を逸らすからだよ。だから誰とも目が合わない。目が合わない相手の事なんて誰も気づかないんだ。それなのに君は訪れもしない何かに怯えて、襲ってきもしない何かを恐れ、自分の弱さを人のせいにする。君はいつまで経っても変わらない。永遠にみんなを見上げ続け、見下されもしないまま、見下されていることに不満を叫び続ける愚かな人のままだ。」
少しドスの効いた低い声は、支倉の追いつめられた心から脂汗を搾り取るにはいささか強すぎた。彼は永遠に、僕と言う存在から逃げ、怯え続けるだろう。
別に、そんな事はどうでもいいが。
「なぁ支倉、これは君に残された最後のチャンスだ。君はただ、何も知らないままこの封筒をポストへ入れればいい。それで君の役目は終わりだ。君はただ、間違って下駄箱の中に入っていた封筒を、親切にポストへ入れただけ。それが君と彼を救う行動になる。君のお陰で、見ず知らずの誰かが助かったんだ。いい贖罪になったとは思わないかい?」
僕はゆっくり、例の封筒を支倉の手の中に握らせた。
彼に拒否権はない。拒む理由が無い。自分が招いた事だ。ちゃんと
「ほ……本当に、何もないんだな?」
「あぁ。何か聞かれても、「知らない」と言えばいい。」
そう、彼は本当に何も知らないのだ。その封筒の中身が、僕の切り札だなんて。
見えない何かに怯えて丸くなる支倉の背中は、僕にとっても笑い事じゃない。一歩間違えば、僕もああなっていたかもしれない。
(その方が……よかったかもしれないな。)
彼の考えは間違っていない。誰だって、同じような境遇になれば彼と同じことをするだろう。それがどれだけ情けなくても、弱々しくても、人間らしくあろうとすれば、おのずとそこにたどり着く。
人の波に戻っていく丸まった背中を見送りながら、僕は魔物の巣窟へと落ちていくのを実感する。
夕陽に照らされた丸い背中が輝いて見えるのは、僕がもう戻れないことを教えてくれているのだろう。
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